川の街・坂の街・空の街 − モンゴルに見た輝き 3 −


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     8 夏の終わり

     8月18日 Rくんへ
 この夏は楽しく過ごせたかな? ぼくは夏じゅうほとんど町にいたけど、少しはいなかにも行けたよ。
 そこはテレルジという保養所で、軽井沢や上高地といった感じの所だけど、首都から車で1時間、横浜や千葉へ行くような感覚で行けるんだ。町を一歩出ればもう自然のただ中、なんといってもこれがモンゴルのすばらしいところだな。
 広い草原の道が、いきなり谷間をぬう細い山道に変わった。岩がちの荒い山をおおう木々は、直線的な針葉樹の林。木々のまっすぐの幹と細い枝、そしてモスグリーンの葉はいかにも北国らしくてすずしげだ。それに対してふもとに広がる草原には、ありとあらゆる色の花が散りばめられ、もうまばゆいばかり。でもこの明るい花ざかりだって、今だけのほんのひと時のものなんだ。モンゴルはもう秋にさしかかって、初雪の降る日も遠くないよ。
 山のあちこちに岩があり、それがみな不思議に丸みをおびて、おもしろい形に見えるんだ。中でもカメの形をした岩には、もう声も出なかった。形の不思議さはもちろん、とにかくその巨大さに圧倒されて。雨の日でもその岩の上は青空なんじゃないだろうか、と言うとおおげさすぎるけど、そう思えてしまうほど巨大だったよ。
 帰り道ではついうたた寝してしまい、目がさめたらもう町だった。あんなすばらしい所が、それほど近いんだなあ。

     8月20日 両親へ
 おととい珍しいコンサートに行ったよ。終戦50年を記念しての、中国軍のコンサート。軍楽隊のブラスバンドかと思っていたら、いきなり赤い星を舞台に掲げ、軍服姿で歌ったり踊ったり。中国人民解放軍があんなにもカルイとは意外だった。中国とモンゴルがこんなに仲良くなってるのもまた意外。
 そして終戦50年といえば、それについて僕の書いた文が、今週のモンゴルタイムスに掲載された。嬉しいけど、書き続けるとなると大変だ。次はモンゴルと日本の子ども達について書くよう言われているんだ。支局の方には会報向けに絵本について書かなきゃならないし。忙しいのでこのへんで。

     9月5日 両親へ
 最後のツアーも帰国し、僕もやっと一人になれてのんびりしてるよ。ツアー最終日はもう大変だったからね。
 その日はヒツジに会いに行くのに僕も同行したけど、スタッフの身分ではのんびりするわけにもいかなくて、もう一人タイムススタッフのサラントヤという子と、荷物番を受け持つ事になったんだ。
 しばらくして、サラントヤがとなりで泣き出してとまどわされた。どうやら朝遅れた事をひどく怒られて、それをずっと気にしてたらしいんだ。でも彼女には当日まで同行する事を知らされず、遅れたのも無理なかったのに。
 そういった理不尽な非難を受ける例は僕にもあるけど、この時ばかりは肩をすくめて気持ちを切り替えるのは難しかった。外ではみんながはしゃいでいたけど、こっちはもうナーダムの真似事もヒツジの追っかけもひどくくだらなく思えて。草原でこんな気分になるなんて、ほんとつまらない日だったよ。
 そして町に戻ってからも問題が。また納得のいかない非難を受け、いつもの事なのに僕はついカッとなり、ちょっと声を荒げてしまったんだ。何しろサラを泣かされてひどく頭にきていたから。後になってから、どうかしてたなと後悔したよ。反発した事をじゃなくて、すっかりサラの兄貴気取りでいた事を。
 その夜はツアーメンバーの若手グループが町へ繰り出す計画を立てていたんだけど、気晴らしのつもりで僕も仲間に加わったんだ。でもそれは気晴らしどころか、最悪の昼を補って余りある最高の夜になった。
 メンバーは女性2人に男性4人、僕を含むタイムスの男性スタッフ4人に、そして通訳のサラさんの計11人。
 まずみんながモンゴル名で呼び合う事になった。女性2人はヤガーンツツク(薄紫の花)にバイガル(大自然)、男性4人はアルタンゲレル(黄金の輝き)にガンゾリグ(鋼の意志)、そしてボルドバータル(鉄の英雄)とスフボルド(鉄の斧)。
 男性8人に女性3人となると、なかなか面白い光景が見られるねえ。サラさんはいつでも大人気だけど、この夜もボルドバータルとスフボルド、二人の(鉄)が火花を散らしていた。
 サラさんの留学先が東京と知り、都内のボルドバータルは余裕の笑み。それに対して名古屋のスフボルドは、こっちにはオユンナがいると強がりを言っていた。そのくせ帰国間際になって、サラさんへのプレゼントをこっそり僕に託すんだから。まあどちらにしてもがんばってもらいたいもんだ。
 続いてディスコへ。ディスコなんて初めてだけど、こんな楽しい所をどうして今まで知らずにいたんだろう。自分が踊れる事にも初めて気付いた。こういう時こそ、目立ちたがりの性格が有利に働くらしいや。
 ただし、うまくいったのは始めのうちだけ。スローな音楽のチークダンスでは、女性と踊るのなんて初めてだと見破られてしまった。腰に手を当てるべきところを、僕はいきなり両肩に手を置いたものだから。サラさんの事も妹みたいなつもりでいたせいだな。
 23時には戻るようにと言われてたのに、ホテルに引き返したのは0時過ぎ。僕一人怒られればすむと開き直りの覚悟を決めて、その後もロビーでおしゃべりを楽しんだ。で、アパートに帰ったのは1時。でもこの時はなぜだかまったくとがめられなくて、拍子抜けだったよ。なお、普段はちゃんとした生活を送っているのでご心配なく。毎日早く帰っているし遅く出掛けているし……。

     9月10日 Aさんへ
 ウランバートルでは昨日初雪が降ったよ。つい数日前まで半袖を着ていたのに、夏はいきなり遠ざかってしまった。そして、手紙をしばらく書いていない事も不意に気付いたりして。
 夏の終盤にもいろいろあったよ。最後のツアーでは気球乗りのオプションがあって、僕は離着陸の手助けに草原を駆け回った。たかだか標高1500メートル程度でも、全力で走ると手足がしびれて気が遠くなってくるんだ。やはり大変な所に住んでるんだなあ。
 そして夏が過ぎると、子ども達はいよいよ新学期だ。田舎へ行っていてしばらく会えなかった子と、再会するのが待ち遠しくてたまらなかったよ。マーガとの再会では、お互い先を競って相手のほっぺたにキスしようとして大笑い。それからスレンには、6週間ぶりの嬉しさに名前を叫んで駆け寄ったんだ。するとタイムスのみんなに大笑いされた。モンゴル映画の有名な一場面に、そういうのがあるんだとか。それ以来たびたびスレーン! とからかわれるありさまだよ。
 とにかく、学校が無事始まってひと安心だ。春から続いた教師のストライキのため、学校はもう4か月近くも休みになっていたからね。さらに始業が数日遅れた所もあるし。先週に偶然スレンとバスに乗り合わせた時、聞けば学校はまだ始まらないとか。図書館まで一緒に歩けたのは嬉しいけど、やっぱり心配になったよ。だから数日後に制服姿を見かけた時にはほっとした。
 町でも制服姿の子ども達が見られるようになって、見慣れた風景があらためて新鮮に映る。モンゴルでの初めての秋なんだなあ。
 学校や幼稚園を見学してみたいという以前からの念願が、こないだついにかなったよ。整理のついた絵本は今、学校や幼稚園やそのほかの施設へと引き取られつつある。その受け入れ先の一つである第103幼稚園を、記者達と一緒に訪問したんだ。
 まず靴の上からスリッパをはき、そして白いうわっぱりというかマントのようなものを着せられて……。訪問者の決まりなら仕方ないけど、いったい何の意味があるんだか。
 5才児の部屋では紙人形を使って「大きなかぶ」の語り聞かせをしていた。7才児の部屋ではダンスをしたり歌を歌ったり、また別の部屋では紙工作をしていた。そんな様子は日本とあまり変わらなくて、懐かしかったよ。
 ただ5才7才といっても、日本の同い年の子よりも幼く見えた。どうやらそれは数え年のためらしいんだ。モンゴルでは生まれた時点で1才と数え、そして誕生日にではなく旧正月に年を加えるらしいんだよね。こないだマーガのノートを見せてもらった時、13才だというこの子の誕生日が、83年11月になっているからなるほどと思ったよ。
 続いてとてもかわいらしいおゆうぎを見せてもらった後、いかにもモンゴルらしい部屋を見せてもらった。そこはゲルの内部を模した部屋で、実物そっくりの天窓や屋根棒や家具のほか、楽器やお菓子もオモチャで再現されていて、真ん中のかまどには電球の火も灯っている。子ども達はそこで頭を寄せて、シャガイを振って遊んでいたよ。日本でも、障子やいろりの部屋を再現して、そこでけん玉やお手玉で遊ぶような幼稚園があるといいのにね。
 さて、これで絵本の仕事は片付き、続いて新たな仕事に取りかかっているよ。ウランバートル市内のガイドマップを作成する仕事。今は市販のマップをもとにひな型を準備している段階だけど、それがすめばいよいよ調査に出るつもりだ。こう寒いと出歩くのもおっくうになるけど、いずれは大勢の観光客が頼りにしてくれると思うと、これもまたやりがいのある仕事だよ。きみもその地図を手にまたモンゴルに来ない?

     9月 新聞寄稿
 9月1日、子ども達は長い夏休みを過ごした充足感を表情に浮かべ、軽やかな足どりで学校へと向かう。その同じ日には、日本でも同じような光景が見られたはずだ。そんな事を考えながら、モンゴルと日本それぞれの子ども達について思いを巡らせてみた。
 モンゴルを訪れるに先立って、この国の事をいろいろと調べたが、ある本の中にこのような記述を見付け、とてもうらやましく思った。当国では、14才以下の子どもの全人口に占める割合は、41.8パーセントにも及ぶという。一方日本では、14才以下の子どもは全人口のわずか16.3パーセントにすぎず、しかもそれはさらに減少する傾向にある。子ども達の持つ活気と可能性は、そのままその国の未来を示すとはいえないだろうか。そんな事を考えながら、モンゴルへのあこがれと来訪への期待をさらにつのらせたものだった。
 そしてこの国へ来て早くも2か月が過ぎ去り、その間にいろいろな子ども達の姿を目にする事が出来た。荷物運びをすすんで手伝ってくれる子、ナーダムの競馬で見事に速馬を乗りこなす子、外国語である日本語をよどみなく話す子、まるで小さな母親のように弟や妹の面倒をみる子、当然の事のようにお菓子を周りのみんなにも分けてあげる子、田舎で乳しぼりを手伝う子、町でジュースを売る子、等々。どれも近年の日本の子ども達には見られない姿で、そんな情景を目にするたびに新鮮な驚きとささやかな感動を味わった。
 現在、日本では新生児の出生数が年々減少している。また一方では医療技術の進歩により平均寿命が延長し、その二つの要因から、全人口に占める子どもの割合が減少し高齢者の割合が増加してゆく、いわゆる高齢化が深刻な問題となっている。そんな国から来た者からすれば、夜遅くまで大勢の子ども達のはしゃぎ声が響くこの国は、いつまでも暮れない夏の空のように輝いて見えた。
 じつは日本でも、夜遅くに子ども達の姿を見かける事はある。だがその情景はとうていほほえましいものとは言えない。それは時間を忘れて楽しげに遊ぶ姿ではなく、疲れ果てて学習塾から帰る姿なのだから。
 現在の日本では、子どもは家の手伝いをするよりも何よりも、もちろん遊ぶ事よりも、まず勉強にうち込む事が望ましいとされる傾向がある。そういった状況下で、多くの子ども達は放課後すぐに学習塾へ直行する事を強いられ、遊ぶ時間も家族と過ごす時間も犠牲にして、ただひたすら勉強に専念する。親達は、高学歴を得て将来重要な職に就く事こそが、子どもにとって最も幸福と信じている。また兄弟姉妹が減った事で親の期待が一人の子に集中し、子どもに対する過度の管理に拍車をかけている。
 子どもに学力をつけさせ将来の生活を保証してやりたいという親心は、理解できない事もない。だがそれにしても、成人してからの生活のために子ども時代の生活を、未来のために現在を、犠牲にしてしまってもいいものだろうか。また、子ども時代は決められた道を追い立てられて過ごすべきではなく、みずから求めるものをとことん追いかけ、そこから将来につながる道を見い出す事こそが望ましいとも思う。
 モンゴルの子ども達にもやはり、現在置かれた状況によって可能性をせばめられるという問題は存在している。ただし日本とはまったく違った形で。
 7月に日本から届いた絵本を受け取りにコンテナターミナルへ行った際、入り口近くでジュースを売る少年に会った。ビデオカメラに関心を示す好奇心の強いその子に、こちらも興味を持って学校の事などをたずねてみた。ところが、彼は3年生で学校をやめてしまったという。おそらく将来のために学問を積むよりも、現在家計を助けるために働く方が重要なのだろう。
 勉強を途中で放棄する事により、将来の職種が限られてしまうという不安はぬぐえない。だが子ども達の持つ好奇心という力は、これからの彼らの行動に多分に影響を及ぼし、学歴とはまた違った形で、未来への可能性を拓いてゆくはずだと僕は信じている。

     9月21日 Jへ
 手紙と同人誌、無事に届いたからご安心を。せっかく返事を書くんだから、なにか楽しい話を書きたいけど、今はどうもそんな気分ではなくて。
 おとといまではとても楽しくやっていたんだ。ところが、昨日の帰りにバス内でスリに遭ってしまった。財布ばかりか大切な手帳まで盗まれてしまい、昨夜は怒りにうちふるえてどうしようもなかった。物書きのまね事を始めて以来、手帳ほど大切な物はないわけだからな。まさかこんな形でこの国に裏切られるとは思ってもみなかった。まあこっちも、夏の間浮かれ過ぎていたかもしれない。自分が人間嫌いだという事も忘れて。どこへ行っても結局は歓迎されないのなら、周囲への警戒心をゆるめるべきではなかった。夏もこれで終わりだ。
 怒りはいまだおさまらないけど、今日はどちらかというと落ち込んでいる。パスポートもなくした事で、自分一人の問題ではなくなってしまったから。大使館へも行ったが、悪くすると日本へ送り返されるかもしれない。その後また戻って来られるならまだいいが、それも難しい気がする。
 長期滞在者はパスポートは携行すべきでないと、今回初めて学んだ。去年のツアーではトランクにしまい込んでいたところ両替時に困り、携行すべきと学んだものだったが。そういった事を前もって教えてくれる助言者もなく、いつも自分の失敗体験から学んでいくしかないわけだが、それにしても今回の失敗はあまりに大きすぎる痛手だ。これまでたいていのトラブルは、エピソードの一つとして楽しんできたというのに。
 とにかく、今回はあまりに問題が多すぎる。まずビザが明日には切れてしまいはからずも不法滞在となってしまう事、長期滞在の場合に必要な登録を知らずにいた事、免許証など公的に通用する身分証明書がほかにないという事、パスポート取得時から姓や本籍地が変わったため再発行には手間がかかる事、など。モンゴルを知りつくすためには、こういった試練をくぐる必要もあるのだろうか。
 怒るにしても落ち込むにしても、あとはとにかく待つしかない。警察へ盗難届けは出したし、各メディアに懸賞金付きの呼びかけも頼んだ。どちらも結果が出るまで数日かかるから、あとの事はそれからだ。落ち着いたらまた手紙で知らせよう。もっとも、それより先に帰国している可能性もあるが。


     9 その後

     9月30日 Jへ
 その後の経過を報告するよ。まずパスポートは不思議な経緯で戻ってきた。だがそれですべて解決とはいかず、ビザ更新の問題は今も継続中。今や不法滞在者というわけだ。
 今もやはり、先がまったく見えない。それに僕としても、一度日本へ戻ってもいいという気持ちが生じているし。不注意を責められる事はまだしも、今までの仕事ぶりをまるで認めないような発言まで受ければ、気持ちも動く。これほどの侮辱を受けてまで、ここにとどまる価値があるだろうか。ただ、今は不安定な時期でもあるし早急な判断は出来ないので、もうしばらく様子をみるよ。
 詳細を書くのはひかえるけど、パスポートが戻ったいきさつくらいは書いても問題ないな。
 日曜日に市場へ行った時、そのすさまじい人込みの中から、見知らぬ年配の女性に呼び止められた。あなたのパスポートを預かっていると。聞けばその人の子どもが、捨てられていたウエストポーチを見付けて持ち帰ったとか。だが紙幣とナイフ、そして手帳は消えていた。これらはもう戻って来ないと考えるほかなさそうだ。
 手帳には書きかけの物語が、例のシリーズ3作目が入っていたのに……。神戸滞在中にふと書き始め、ここへ来てからは忙しくてずっと手をつけられずにいて、そのまま永遠に失われてしまった。もちろん、また新たに書き始めるよ。もう後回しになどせず、仕事よりも優先して。

     10月12日 Jへ
 前の手紙はもう届いたかな。本当に僕は戻って来てしまったよ。ただ、来年にはどんな事をしてでも再びあの地へ行くつもりだ。別れ際に約束したから。春には必ず帰るからと。
 パスポートの問題は片付きつつあったものの、僕はその間ずっと去るか残るか迷っていた。そして結局こう決めたよ。数日間迷っていた分、そうと決めたらすぐ行動に移した。依然衝突中だった編集長にはアパートの鍵さえ返してしまい、行くあてもないまま荷物を抱えてオフィスを飛び出した。
 その時、吹雪の中をコートも着ずに追いかけて来たのがサラントヤだった。追いすがり、泣きじゃくり、キスを求める相手に対して、いったいどんな言葉でなぐさめればいい? また戻って来ると言うほかないだろう。もちろんその場しのぎだけで言ったわけではなく、僕にもそう望む同じ思いがあったわけだけれど。
 僕ももちろんサラントヤの事は大好きだ。ただ、それが恋かどうかは自分でも分からない。サラは確かに大人の女性ではあるけれど、それでも僕より7つも年下なわけだし、スレンやソーコやマーガと同様、これまで妹のようにいとおしく思っていただけだった。だからこうして突然に恋心を突き付けられると、やはりとまどうよ。
 とにかく、春には戻るという約束だけは、なんとか果たすつもりでいる。少し楽観的になって、ハッピーエンドを思い浮かべる事にしよう。

     10月14日 サラへ
 サラ、あの日は空港まで来てくれてほんとにありがとう。きみからのプレゼント、今僕の部屋にあるよ。
 今度は僕から写真を送るよ。早くみんなに会いたい。でも春はまだ先だし、だから僕に手紙をくれるね。(ブロック体で書いて。筆記体は僕には難しいから)それじゃ、楽しい手紙を待っているよ。

     10月14日 スレンとソーコへ
 スレン、ソーコ、元気にしてる? 小さなカードとスフバートル広場での写真、どうもありがとう。今度は僕から写真を送るよ。
 日本には子どもの友達がいないんだ。今の僕にあるのはこの写真だけ。だから僕に手紙をくれないかな。(筆記体は僕には難しい。ブロック体ならやさしいけど)それじゃ、楽しい手紙を待ってるよ。

     10月18日 Aさんへ
 国内からの手紙に、きっとびっくりしてるだろうね。僕もまた、事のなりゆきにとまどってるところだ。またたく間に過ぎるモンゴルの秋、あまりにいろいろな事がありすぎたよ。
 とにかくいろいろな問題があった。というか、僕が起こしてしまった問題もあるけれど。それより編集長の言うには、僕のたずさわる地図作成の仕事は、社にとって必要ないのだそうだ。アパートにも置いておけなくなったそうだし、そういう事なら絵本が片付き次第にさっさと離れるべきだった。
 でも、あの国そのものには今も強い愛着があるし、いずれまた訪れるつもりでいるよ。僕にとっては日本よりモンゴルにいる方がふさわしいとも思えるし。ただ、向こうでの仕事や住居が問題だけど。まああまり深刻に考えず、しばらくは両親の家に置いてもらって、バイトでもしながら次のモンゴル行きに備えるとしよう。

     10月23日 サラへ
 サラ、最近どうしてる? 僕はこないだの木曜日から三日間、旅に出ていた。福岡、長崎、熊本県へと、列車に乗って。長崎県は、もっとも西にある県。きれいな海を見たよ。変わった列車を見たよ。たくさんの日本人も見たよ。そしてみんな日本語で話してた。僕にとっては楽だけど、面白くはないな。日本って狭いよね。

     11月1日 サラへ
 きみの手紙は昨日の夕方届いたよ。僕は今朝タイムスに電話をかけた。きみはいなかったけど、きみのお母さんについては聞いたよ。……僕もつらい。
 おとといいろんな物を買ってきた。近いうち、きみに送るよ。電話もまた、来週再びかけるから。
 サラ、マーガ、泣かないで。

     11月1日 Jへ
 僕は今またサラの事でつらい思いをしているよ。彼女の母さんが亡くなったという知らせを受けたんだ。
 昨日の夕方、サラから手紙が届いた。その文面はひどくつらそうで、毎日沈んで過ごしているようなんだ。そんな思いつめた様子が気になり、今朝になって新聞社に電話を入れた。するとサラは出社しておらず、ほかのスタッフに事情を聞いたところ、先に書いた訃報を知らされたんだ。
 こんな事をきみに話したところで、どうなるものでもないのは分かってる。でも誰かに聞いてもらいたかったんだ。なんでも話せる相手はきみしかいないし。でも、このところ沈んだ話ばかりでほんとにごめん。おとといは街まで出かけて、サラに何を贈ったら喜んでもらえるだろうと考えながら、楽しく頭を悩ませていたというのに。

     11月6日 Aさんへ
 手紙ありがとう。落ち込んでる時だったし、こんな時の友達からの手紙は、ほんとうに嬉しいよ。
 日本でもまたいろいろとあってねえ。まず例の同人誌に目を通してみると、僕の作品中には原稿用紙26枚分もの欠落が。もちろん再掲載という事になったけど、校正を頼んでいた親を始め、誰も僕の物語を読んでなかったという事がよく分かった。
 まあ、いろいろやればいろいろあるよな。ちょっとばかり疲れたけど、何事もなくて退屈するよりは、これでいいんだろうとも思う。明日からは新しいバイトを始めるよ。それについてはまた次の手紙で。

     11月6日 Jへ
 今日、ようやくサラと連絡がついたよ。話が出来た事で、僕も少し気が静まった。こないだ買ったいろいろな物も、今日送ったよ。今の彼女に対して、せめて何か助けになるなら。
 僕は明日からバイトに行くよ。これで確かに日本に帰った。さあ、これからいよいよ、再び出かける準備にかかるか。


     10 冬の果ての春

     11月11日 スレンとソーコへ
 スレン、ソーコ、元気にしてる? 手紙どうもありがとう。絵もほんとうにありがとう。きみたちは日本語もじょうずだね。
 日本は今、黄金色の秋だよ。街路樹の葉はみんな黄色く、とてもきれいだ。モンゴルも冬がきれいなんだって? きみたちは冬は好き? 僕は冬が一番好きだよ。僕の誕生日は冬なんだ。
 冬のモンゴルに行きたいな。でも僕には今お金がないから、仕事をして、それからモンゴルへ行くよ。ぜったいに行くよ(その頃冬は終わってる?)。

     11月12日 マーガへ
 マーガ、元気かい? 誕生日おめでとう! カード受け取ってね。
 昨夜、僕は夢を見たよ。きみとサラが夢に出てきて、きみは僕をおにいちゃんって呼ぶんだ。うれしかったな。
 きみたちに早く会いたい。とても会いたい。だけど今の僕にはお金がないし。たくさん仕事をして、そしてモンゴルへ行くよ。今やっている仕事は、土を掘る仕事。重い土がちょっとつらいけど、僕は平気だ。春は遠くないよ。

     11月16日 Jへ
 今月始め、コスモス受賞の公式発表がようやく報道機関に回って、先週新聞記者が取材に来てくれたよ。同封したのはその記事のコピーだ。神戸市版の欄だったのはちょっと残念だけど、いつか全国版掲載を目指してまたがんばるさ。
 それにしても、引っ越しを繰り返した事からモンゴルに関する事まで、いろいろ書いてくれたもんだなあ。今のバイトの事まで書いてあるね。そう、僕は今、遺跡発掘の手伝いをしてるんだ。大学時代史学科に在籍した経験を生かし……、なんて事はまったくなく、排水溝を掘ったり土を運んだりの、きつい肉体労働だよ。でも体を動かすのはストレス解消にもなるし、渡航費稼ぎに春までがんばるよ。

     11月16日 Aさんへ
 受賞の話をずい分前にしたと思うけど、それがようやく新聞で紹介されたよ。残念ながら地方版での掲載だから、コピーを送るよ。
 モンゴルに関する事も取り上げられてるだろう。こういう話題は、紙上で見栄えのするものだから。ここまで書かれると、いつか本当にモンゴルの子ども達の物語を書かなければという気になるよ。
 先週には、スレンとソーコから手紙が届いた。日本に戻ったのも、悪い事ばかりじゃないよな。遠く離れているからこそ、こうして手紙のやりとりも出来るんだから。そしてもう一つ、再会を心待ちにする楽しみもあると気付いたよ。

     11月17日 サラへ
 サラ、元気かい? 新聞記者が来た事は先週電話で話したね。そして昨日、僕についての記事が新聞に載ったんだ。その新聞を見てよ。日本語は分からない? なら写真だけでも。
 今日僕は本屋に行って、面白い本を見付けたよ。その本はアジアの国々についての本で、モンゴル関係の記述も多かった。現在モンゴルに長期滞在中の日本人は83人、しかしモンゴルに永住中の日本人は、なんと0人! 知らなかった。……僕はいつか、モンゴルに永住するたった一人の日本人になりたい。

     11月28日 Jへ
 少しばかり早いけど、誕生日おめでとう。カードのモンゴル語は読めるかな? こないだマーガにもバースデーカードを送ったんだけど、ひょっとしたらモンゴルの子にも僕の字は読めなかったりして。
 プレゼントには、書き上げたばかりの物語、例のシリーズ3作目を贈るよ。というよりも、まず目を通してもらい意見を聞かせてもらおうと思って。気に入らない箇所でもあれば、修正するなり削除するなりの心積もりでいるんだ。いつまでも、自分一人で楽しんでいればいいってものではないからね。

     12月2日 Mちゃんへ
 知らせるのがおくれてゴメン。じつは、ぼくは日本にもどってきているんだ。秋にモンゴルのほうでいろいろとあってね。今は神戸の親の家にいて、新しいバイトをしている。
 ところで、北海道はもうすっかり冬のようだね。神戸はまだまだあたたかくて、ぼくはうでまくりをしているよ。雪のない冬をむかえるのは、ほんとにひさしぶりだなあ。今でもぼくは、テレビで全国の天気予報が始まると、つい北海道に目が行くよ。

     12月2日 Rくんへ
 じつは、ぼくは今日本にいるんだ。いろいろとめんどうなので説明ははぶかせてもらうけど、秋に帰国して、今は神戸の親の家にいる。十年も一人ぐらしを続けたあとだと、いろいろな事で調子がくるう感じだなあ。でも、半年くらいはこの家に置いてもらう事になると思う。そしてその間にバイトでお金をためて、春ごろにはまたモンゴルへ行くつもりでいるよ。

     12月7日 マーガへ
 元気かい? マーガ。手紙ありがとう。きのうとどいたよ。モンゴルを出たあの日から、2か月が過ぎたね。あともう5か月過ぎたら、そっちへ行くよ。待っててね。
 ぼくは毎日仕事をしてるよ。外の仕事は寒いなあ。おとといきのうと雪が降ったんだ。ぼくも春が待ちどおしいよ。

     12月11日 スレンとソーコへ
 スレン、ソーコ、元気にしてる? クリスマスおめでとう! ぼくからのプレゼント、日本の絵本を受け取ってね。
 それから新聞のほうも見てよ。ぼくは以前から、子どもの物語を書き続けているんだ。そして今回、ぼくは小さな賞を取った。スレンにソーコ、日本語をおぼえて、ぼくの本を読んでみてよ。いつかそのうちに。ぼくもいつかそのうちに、モンゴルの子どもの物語を書くよ。

     12月16日 Mちゃんへ
 ちょっと早いけど、メリークリスマス。モンゴルの妹たちにプレゼントを送って、これで終わりと安心したその日にきみから手紙がとどいて、北海道にも妹がいた事を思い出したよ。それで今日また買い物に行ってきた。ぼくからのプレゼント、よろこんでもらえるかな?
 かわいい手紙と写真をありがとう。ひさしぶりにとどいた日本語の手紙で、読みやすくてうれしかったよ。日本語で返事が書けるのも、らくでいいなあ。モンゴル語で手紙を書くのって、ほんとタイヘンなんだから。
 そうそう、切手の事はごめん。来年はかならず送ってあげるよ。5月ごろにはまたモンゴルへ行くつもりだから、それまで待っててくれる?

     12月20日 サラへ
 サラ、クリスマスおめでとう! そして新年おめでとう! ……これはまだちょっと早いね。
 月曜日に、テレビでモンゴル映画を見たよ。駿馬の映画で、今年のナーダムが出てきたんだ。僕達一緒に行ったっけね。来年もまた、一緒に行きたいな。
 この前、僕はホーショールを作って食べたよ。……でも、おいしくない。日本にはヒツジの肉がないからね。早く本物のホーショールが食べたいなあ。
 今の僕にとって、モンゴルは遠い。その事がとてもつらいよ。きみは僕を待ってくれてるの? 僕もきみの手紙を待ってるよ。手紙、書いてくれるね。そして一緒に春を待とう。

     12月20日 Jへ
 メリークリスマス。こないだは電話をありがとう。あの物語を気に入ってもらえたようで、嬉しいよ。理解者の存在というのは、本当にはげみになるからね。たった一人でも愛読者がいてくれれば、書き続ける力もわいてくる。でもあのシリーズがお気に入りというのは、きみ一人だけではないよ。まず僕自身がとても楽しんでいるからね。
 それはそうと、しばらくサラから手紙が来ないなあ。いつまでも待ってるからなんて言われながら、結局は僕の方が待つ立場になってしまったりして。でも、それでおたがいさまかもね。
 最近思ったんだけど、男は誰にでも「ペール・ギュント願望」とでもいうようなものがあるようだ。旅立ちたい、冒険したいといった願望、そしてソルヴェイグにはずっと待っててもらいたいという、ムシのいい願望が。

     12月23日 サラへ
 サラ、さっききみからの手紙が届いたよ。三日前、僕はもっとも近い友達ともっとも遠い友達(つまりきみ)に手紙を送った。そして今日、そのもっとも近い友達ともっとも遠い友達から、同時に手紙が届いたんだ。おもしろいよね。
 ねえサラ、生きていく事を、もっと明るく考えてよ。僕は必ず春には帰るから。新しい年には、たくさんいい事があるといいね。

     12月28日 サラへ
 昨日、再びきみからの手紙が届いたよ。バーサンフーの誕生日おめでとう。ちっとも知らなかったなあ。
 サラ、もう一度書くよ。僕は必ず春には帰る。だからそこで、ほんのしばらく待っていてよ。春なんてもうすぐさ。

     12月31日 サラへ
 昨日、またまたきみからの手紙が届いたよ。
 サラ、もう一度書くよ。生きていく事を、もっと明るく考えていこうよ。サラ、輝きを失わないで。


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