0番ホームから − 黒い帽子 赤いリボン 5 −
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0番ホームから
始発駅
人気のないホームのベンチに座って、いったい何十分待たされただろう。遠い警笛の音に顔を上げると、小さく二つの前照燈が見えた。やっと来たか。列車の到着を待ちかねていた俺はそれだけで気持ちがうき立って、はね上がるようにベンチから立ち上がった。
入線した列車は、たった二両の古いディーゼルカー。全体がくすんだ紅ショウガ色のやつだ。へえ、まだこんなクラシックな奴が残ってたのか。懐かしいなあ、小学生の頃以来じゃないか。
この列車はここが終着。そのまま折り返し下りの始発列車になる。俺は降りる人達が消えてしまうのをしばらく待った。うかれ気分のまま調子に乗って、窓から列車に乗り込んでやろうと考えたからだ。
この列車にはクーラーもないらしく、目の前の窓は全開になっている。俺はそこからまずリュックを投げ入れた。続いて片手を窓枠に掛けて大きくジャンプ。それっ!
ゴキン! 大きな音と共に頭のてっぺんに衝撃が刺さり、それがあごまで突き抜けた。上の窓枠にはじき返されホームにしりもちをついてしまった俺は、みじめな思いでベンチまで後ずさりし、頭を押さえながらうなだれた。
……まったく、いったい俺は何をやってるんだ。十八才にもなって大人げない。いつまでも十二才のつもりでいるなんて……。
近頃の俺はずっとこんな調子だ。まるで十二のようにふるまってみては、十八の大きな体をもてあます。くだらない失敗につながると分かっていながら、子どもじみた無意味な事を繰り返す。そもそもこの旅にすら、なんの意味もないんだ。ただ、今の日常から離れたいといった事のほかには。
頭から手を離して見ると、指先に少し血が付いていた。たいした事はないが傷になっているようだ。帽子でもかぶってりゃよかったな。
そういえば、あの頃はいつも野球帽をかぶってたっけ。いつから俺は、あの黒い野球帽をかぶらなくなったんだろう。俺は指先の血をズボンでぬぐった。いつから俺は、夏にも半ズボンをはかなくなったんだろう……。
座席
気を取り直し、俺は列車に乗り込んだ。今度はごく当たり前に、開いたドアから。
さっきリュックを投げ入れた席へ行くと、リュックの横では小さな女の子が一人、窓から外を見ていた。その後ろ姿が、不思議と見憶えあるような気がする。俺がつい小さく声を上げると、赤いリボンの小さな頭がふり向いた。
「きっぷおとしたでしょ。ひろっておいてあげたよ。はい」
見知らぬその女の子は薄緑の切符を差し出した。さっき窓に頭をぶつけた時、胸ポケットの切符が車内に飛んだらしい。俺は返してもらった切符をポケットに戻しながら、妙にてれくさくなって頭をかいた。イツツッ、……そうだ、傷の事を忘れていた。
「いたいの?」
「ちょっとな」
「だからあんなふうにふざけたりしないで、おとなしくしてないとダメでしょ。けがをしていたい思いをするのは自分なんだからね」
やっぱり見られてたか。小さな女の子にこんなふうにたしなめられて、俺は痛みに顔をしかめながらも笑ってしまった。さっきも思ったがこの子、妹の萠の小さい頃にそっくりだ。
「それはママの口まねかい? いっつもそんなふうに怒られてるわけだ」
「ううん、そんなことないよ。かおるはいつもはいい子だもん」
ベルが鳴り響いて、会話がとぎれた。俺は女の子の前の席に座ると外を見た。かおるという名前らしい女の子もまた、さっきまでのように窓枠に両腕をのせ外を見る。ベルが鳴り止み、ドアが閉まった。いよいよ発車だ。
ディーゼルのエンジン音が高まると、ホームがゆっくり流れ出す。俺は列車の走り出すこの時がたまらなく好きだ。この瞬間、俺は地面から切り離され、宙に浮いた存在になる。決まった場所を持たない、中途半端で自由な存在に。俺は旅のさなかにいる事を、今あらためて実感していた。
速度を増してエンジンがひと息ついた頃、俺はさっきから気になっていた事を女の子にたずねた。
「誰と一緒? 一人ってわけじゃないんだろ?」
「ううん、さっきまではおばあちゃんがいっしょだったけど、あとはかおる一人で帰るんだよ」
「へえー、一人で。すごいなあ。いくつ?」
「六さい」
「どこまで行くの?」
「しゅうてんまで。えきにはお母さんがむかえに来てるはずなんだ」
それにしたってたいしたもんだ。けれどもやっぱり一人が心細くて、それで俺を道連れに選んだってわけだな。
「おじちゃんはどこ行くの?」
おじちゃん呼ばわりされて、俺はまたもや苦笑した。
「まだおじちゃんって年じゃないぜ。いったいいくつに見える?」
「うーんと……、二十さい?」
小さな子にすりゃ二十才でもおじさんか……。
「もっと前、十八だ。俺はまだおじちゃんじゃないよ」
「それじゃあおにいちゃん」
かおるちゃんははにかむように笑いながら言い直した。見知らぬ子にこんなふうに呼ばれると、やっぱりてれくさいもんだなあ。それはこの子にしても同じ事だったんだろう。知らない人を呼ぶのには、いきなりおにいちゃんよりおじちゃんの方が抵抗ないからな。
「おにいちゃんはどこまで行くの?」
かおるちゃんは赤いリボンの頭をちょっとかしげた。……本当に、萠によく似ている。
「同じだ。やっぱり終点まで」
「よかったあ」
俺としても、こんな旅の道連れが得られたのはとても嬉しい事だった。
途中下車
「反対列車行き違いのため、九分ほど止まります」
途中止まった小さな駅で、そんな車内放送があった。
「九分か……。ちょっと降りてみるか。ジュースかなんか飲みに行こう」
「えー、おりるのー? のりおくれたらたいへんだよ」
「平気だよ、九分もありゃ」
「やだよう」
「時計だってあるし、どうせ上り列車が来てからでなきゃ発車出来ないんだから。ほら行こう。絶対遅れやしないよ」
「ぜったいだね。うそだったらハリのますよ」
「わ、分かったよ」
針千本飲ーます、ならまだかわいげがあるが、ただ針飲ますって言うと何やらすごみがあるなあ。
俺とかおるちゃんは列車を降り、線路を渡って無人の改札を抜けた。やけに薄暗い待合室をのぞくと、自動販売機だけが浮き出すように真新しく光っている。
俺がなかば強引にかおるちゃんを連れ出したのも、ひさしぶりの兄貴の役割が嬉しくてならなかったからだ。俺は財布から硬貨を取り出しながら、かおるちゃんにたずねた。
「どれが飲みたい? 言えば押してやるよ」
「一人でへいきだったら。かおるだってもうボタンにとどくんだからね」
「そうか、悪い悪い」
俺は販売機に硬貨だけ入れると、あとはかおるちゃん自身にまかせた。
そういえば、萠もこんなだったな。必要以上に子ども扱いされたりすると、やっぱりふくれてたっけ。ふだんはひどい甘ったれだったくせに。
俺と萠の誕生日は十二日しか違わないが、意気がってばかりいた俺と甘ったれなくせに負けん気の強い萠とは、毎年その頃になるとこんな言い合いを繰り返したっけな。
『おれは強いからたんじょうびにはいつもこんな北風がふくけど、萠はあまったれの弱虫だからたんじょうびはいつも小春日なんだ』
『ちがうもん。萠ははるみたいにあったかーいひにうまれたからやさしいけど、おにいちゃんはふゆみたいにさむーいひにうまれたからつめたいんだよー』
俺が冷たいだって? 甘ったれでわがままな妹の言う事を、なんでも聞いてやってた俺が? まあ口じゃ冗談半分にずいぶんキツイ事も言ったけどな。
俺は缶コーヒーのプルタブを引きちぎるようにむしり取ると、中身を一気に飲みほした。かおるちゃんの方は、ヨーグルト飲料のアルミのフタを一人できれいに開けて、ゆっくりゆっくり飲んでいる。
「なんだ、また赤ん坊みたいなもん飲んじゃってよ」
「なあに? おにいちゃんだってそんなあまーいののんでるんじゃない」
「そりゃ違うぜ。ブラックがないから、仕方なく甘ったるいのをがまんして飲んでんだ」
「わざとカッコつけて言ってるでしょ。わかるよ」
「そっちこそ幼なぶってかわいこぶっちゃって」
「おにいちゃんもおとなぶっちゃって」
「バカ、ほんとに大人ぶってりゃビールでも飲んでるさ」
「でもコーヒーだってようんだよ。かおるよったことあるもん」
「うそだろ? コーヒー飲んで酔ったのか?」
「ううん、ゆうえんちのコーヒーカップでよっちゃったの」
「そりゃ乗り物酔いだろ」
かおるを相手に言い合いを楽しむうちに、俺はなんだか本当に十二才の頃に戻ったような気がした。それはたぶん、萠がこの子くらいの時に、俺は十二才だったからだろう。……今ではその萠が、十二才になっている。
中学生になって、萠は変わった。部活のせいで帰りは毎日遅くなり、その帰り道に友達と買い食いでもしているらしく、夕食にはほとんど手をつけない。家族と共にテーブルにつこうともしないで、立ったまま好きな物だけつまんでいく。それで何をしているかといえば、クラスメイトとの長電話だ。家では両親はもちろんの事、俺にさえ大人に対する嫌悪の目を向け、ほとんど口をきかないというのに。
女の子ってのはシュガーとスパイスから出来ていると昔っから言うが、近頃の萠はスパイスばかりが効きすぎた辛い性格になったように思える。小さな頃の甘みなんて、ほんの少しも残していない。
それには俺も残念に思うが、両親はもっと気落ちしている。家族に背を向ける萠にうろたえるばかりで、そういう年頃だと割り切る事など、とても出来そうにない。無理もないだろう。父も母も、今まで萠のためだけに生きてきたようなものだから。
俺は幼い頃からそんな両親の態度に疑問を抱いていたが、今になってそれはやはり間違いだったと分かった。いつかは離れていく子どもを自分のすべてだと考えていれば、いずれは何もかも失って呆然とするのは目に見えてるじゃないか。だから父も母も、萠の親である以前に、まず自分でいなけりゃならなかったんだ。もし両親が始めから自分をしっかり持っていたなら、萠一人が変わったくらいで家族みんなが変わってしまう事もなかっただろうに……。
でも、それを言うなら俺だって似たようなものさ。勇太でいるよりも、萠の兄貴でいる方がやはりはるかに大きくて、結局こうして自分のほとんどを失ってしまっている。俺は自分自身に対するいらだちに、缶を片手で握りつぶした。
「あ、すごーい」
それを見て、かおるが感心したような声をあげた。
「そうか? これくらいかるいよ」
「じゃあこれもペチャンコにしてみてよ」
かおるは笑いながら、ヨーグルト飲料の空きビンを差し出してきた。俺は途端に気持ちが明るくなって、おどけてビンを握りつぶそうとした。歯をむき出す俺を見て、かおるはいつまでも笑い続ける。
「このっ、手ごわいなこいつは。ウーン」
「フフフフ。でももうやめて、手までけがしたらたいへんよ」
……こんな甘い優しさを、この子はいつまで持ち続けていられるだろう。
検札
終着駅ももうじきという頃になって、車掌が検札に来た。切符を飛ばさないように、俺は慌てて窓を閉めた。
かおるはほこらしげな表情で、切符を車掌に手渡した。その気持ち分かるなあ。小学生になって、自分の切符を手にするようになって、もうすっかり一人前気分なんだ。それに一人旅っていうのもこれが初めてだろう。ああ、俺がいるから二人旅か。
かおるは茶色い小さな切符を大事そうにスカートのポケットにしまうと、俺の薄緑の大きな切符に興味を示した。
「おにいちゃんのきっぷまた見せて」
「ん? ああ」
「どうしてかおるのきっぷとぜんぜんちがうの? おんなじしゅうてんまで行くのに」
「ああ、その切符は特別でな、本当はどこへだって行けるんだ」
「えっ? どこにでも?」
「そう、好きな所へ思い通りに。こんな幻想四次の中途半端な空間を飛び出して、本当の天上にさえ行ける切符さ」
こんな冗談をかおるは真に受けたらしく、びっくりしたように目を見開いた。俺は慌てて訂正した。
「うそうそ、冗談だよ。全線どこへでも行けるってのは本当だけどな、乗れるのは鈍行に限られてるし、有効も一日限りだ」
かおるは切符をうやうやしく俺に返した。こりゃまだ本気にしてるな。まあそれもいいか。俺もしばらくそんなつもりでいるとしよう。
そして俺は、以前読んだ本との面白い一致にふと気付いた。あの銀河鉄道に乗り込んできた少女の名前も、確かかおるだった。それからほかにも、伊豆を旅する「私」が出会った踊り子も、やはり薫といったっけ。でも十二の少年のつもりで列車に揺られる今の俺は、やっぱり旅の学生じゃなくてジョバンニだろうな。
「そのきっぷでおにいちゃんはどこ行くの? ……テンジョウに?」
「いやいや、また別の列車に乗り換えて、あとはもう帰り道だ。ぐるっと回って、もと来た所へ戻るだけさ」
「ほんとに?」
「ああ。駅弁でも買ってな。かおるちゃんは知ってるかな、あの駅にはな、駅弁大会でも人気の駅弁があるんだぞ」
「うん?」
「駅弁大会なんて知らないか。デパートなんかの催しなんだけどな、毎回ひどいもんなんだ」
「なにが?」
「大人達、人間達がさ。ふだんは駅弁なんか見向きもしないくせに、そんな時だけ先を争って買いあさるんだ。自分を失ってるからちょっとあおられるだけで熱狂して、ほんとばかげた奴らだよ」
俺は何も、駅弁大会の事だけでそんなに憤っているわけじゃない。俺が今現在抱えている大人に対する不満、それを誰かに聞いてもらいたかったんだ。そんな事を話したところでかおるには何も分からないだろうが、それを承知で俺はいっそう熱弁をふるった。
「だいたい考え方がセコイよな。旅に出ようともしないで地方の名物だけ買いたがるなんて。どいつもこいつも楽する事ばかり考えてやがる」
テレビに酒にパチンコと、大人達は居ながらにして手の届くような娯楽ばかりに興味を示す。それだけで満足しきってしまい、みずから赴かなくては得られないものの存在を忘れている。俺は絶対に、いくつになってもそんなふうにはなりたくない。
「わざわざ遠くまで行かなくても近所で手に入るからって、それで間に合わせて満足してるんだ。そんなの後から考えてみりゃつまんないもんだぜ。そう思わないか?」
そんな大人達の姿を、俺はずっと嫌悪し軽蔑してきた。小さい頃から俺のそばにいて、いつも俺の視線を追っていた萠にしても、それは同じなのだろう。
「満足を求めるのに少しでも楽をしたいなんて、俺達には絶対考えられないだろ? なあかおるちゃん。むしろ成し遂げるのが難しいような事こそが、結果にかかわらず大きな喜びにつながるはずだ」
俺は再び窓を大きく開け放ち、列車が進みながらも流れない遠い景色に目をやった。
こんなふうに、いつまでも少年でいたいというような考え方は、他人には堕落ととられるかもしれない。でもおれにとってみれば、ああいった大人になる事こそが堕落なんだ。確かに、大人からの逃避という形で子どもに立ち返るのは卑怯かもしれない。だが大人の世界に居ながらには得られないものを求めて、子どもの世界へ赴こうというのなら……。
遠慮がちに肩を叩くかおるの手にハッとわれに返ると、終着駅への到着を告げる車内放送が流れていた。
「……0番線に到着、お出口は左側です。どなたさまもお忘れ物などなさいませんようご注意ください。これより先、乗り換え列車のご案内を……」
終着駅
ドアがため息をつきながらゆっくり開く。ドアのエアーのため息は、旅の終わりの落胆そのもののようだ。
ホームに降りた俺とかおるは、そのまま並んでゆっくり歩いた。次の列車までにはかなり時間があるし、それに何より、かおるとこのまま別れてしまう気にはどうしてもなれなかったから。
「のど乾いてないか? また何か飲もうか」
「いいよ。おうち帰ってからのむから」
「じゃあお菓子でも……」
おれは立ち止まると、売店を探して辺りを見回した。弁当屋はすぐそこにあるが、お菓子や雑誌の売店はホームのずっと向こうだ。
「改札出た方が早いかな。なあかおるちゃん……」
……今の今までとなりにいたはずのかおるは、もういなかった。たぶん改札の向こうに母親の姿を見付け、走って行ってしまったんだろう。その瞬間、俺の事などすっかり忘れて。
おれは気をまぎらわすようなつもりで駅弁を一つ買うと、さっきの駅でのようにまたベンチに座り込んだ。
せめて、最後にバイバイと手ぐらい振ってもらいたかったな。でもまあ、旅を続けていれば、これからだってそんな出会いはきっとあるさ。
別の線路を走り始めた妹を、いつまでも旅の道連れに出来るはずはなかったんだよな。萠は萠で、そして俺は俺で、これからはそれぞれ同じ線路を進む誰かを、旅の道連れに選べばいい。その誰かが見付かるまでは、しばらく一人旅を続けていくのもいいだろうし。
今いる場所から逃れるような旅でなく、居ながらには得られないものを求めての旅ならば、たとえ一人きりでもどこまでも行けるに違いないさ。
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