鮮やかに 涼やかに − モンゴルにて −


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     8 再び月曜日

 「おい、いいかげん起きろよな。マジで寝起きの悪りい奴だなあ。倉林さんの苦労が分かったぜ」
 「……な事言われたって、僕、超低血圧だから」
 「ああ、おまえって低血圧なのか。俺とは対称的だな」
 「高血圧なわけ?」
 「いや血圧は知らねえけど、俺って体温が高えんだ。平熱でも三十七度以上あってよ」
 「それを対称的と言うのかね」
 十数分後。僕がようやくベッドからはい出すと、塚田はまた塩で歯を磨いている。
 「確かに対称的かもね。僕は甘党なんだ」

 昨日取りやめになったテレルジ観光に、今日は形だけ出かける事になった。日帰りの予定で、向こうで昼食を食べてからちょっと遊んで戻るらしい。
 「蒙古での旅程もこれで最後だ。私の分まで楽しんできなさい」
 そんなふうにじいちゃんに送られて、僕はニガ笑いでバスに乗り込んだ。じいちゃんはもう一日ホテルでゆっくり休むとか。でも昨日の疲れが残っているというより、墓参りをすませてもう役目を終えたつもりなんだろう。まったく気楽でいいよ、自分の旅をすでに完結させた人は。
 「それでは塚田くん、優の事よろしくたのみます」
 だからもうそれを言うのはやめてくれって。
 バスは市街地を抜け、単調な草原のただ中へさまよい出た。そして僕もまた、いつしか眠りの中にすべり込んでいた。

 「おい白井白井、起きて外見ろよ。画家を目指す奴がこの景色を見ないでどうする」
 いきなりの塚田の大声に起こされた。こいつも一言多いんだよな、いつだって。
 「大きな声出すなよ。絵の事は秘密だって言ったろ」
 「ああ、悪りい。それより外見ろ、これもモンゴルなんだぜ、驚きだよな」
 車窓の風景は、さっきまでの広い草原の中の道から、いきなり谷間をぬう山道にチャンネルチェンジしていた。眠りをくぐったほんの一瞬の間に。
 岩がちの荒い山肌が、影を刻んでそびえている。細い幹の針葉樹が、真っすぐ伸びて並んでいる。夏の日に灼かれた岩の白い照り返し。そして高原の風に揺れる葉のモスグリーン……。
 「驚きだよなあ。木で出来たボロい橋を渡ったと思ったら、そこからいきなり景色が変わっちまった。これってまるで軽井沢か上高地だ。いや、カナダか北欧だな」
 塚田は大声でまくし立てる。
 「いや、これもモンゴルだよ。今まで知らなかっただけなんだ」
 静かに風景へ視線を流しながら、僕も内心はやはり興奮していた。けれどもまさか、自分がそこまで塚田に同調して、彼と同じ行動をとるなんて……。
 突然視界が開けて遠くに巨大な岩が姿を現した時、僕は思わず立ち上がり、そして塚田はひときわ大きな声を上げた。
 「なんだよあの岩! ナツオ、ちょっとバス停めてくれ、ゆっくり見せてくれよ」
 「落ち着いて。ここは帰りに寄りますから」
 「じゃあそん時に拾ってくれりゃいい。俺ここで降りるぜ」
 バスが停まってドアが開き、塚田が外へとび出した。そして気付くと僕までが、外に立ってバスを見送っていた。本当に、自分がまさかここまで塚田に同調するなんて……。
 「じゃあ午後には戻って来るけれど、二人とも気を付けて」
 「ナツオさんこそ、やつあたりに気を付けてね」
 バスはそっけなく遠ざかっていった。
 「で、なんでおまえまで降りたんだ?」
 「いいじゃんべつに。じいちゃんもいないし、添乗員も何も言わなかったし」
 「馬乳酒の時といい、俺達ってほんと迷惑コンビかもな」
 塚田もそれだけしか言わなかった。
 目の前に立ちはだかる巨大な岩は、自然の造形とは思えない巧みさで、カメの姿をかたどっている。小山ほどもある巨大なカメ、まるで小さい頃に見たファンタジー映画の世界だ。
 「ほら足元気い付けろよ。エーデルワイスふんづけるぞ」
 岩を見上げながら歩いていて、塚田に肩をつかまれた。見下ろすと、灰白色の小さな花がいくつも咲いている。僕は自分の無神経さにちょっときまりが悪くなった。
 「エーデルワイスじゃない、ウスユキソウだ」
 「何むきになってんだ。どっちだって同じだろ」
 「でも、やっぱりそれにふさわしい名前で呼んでやりたいじゃないか」
 「こだわる奴だなあ。それじゃ白井、おまえ、自分の名前をどう思う? 優って名前、気に入ってるか?」
 「まあね。優秀の優、いい名前だと思ってるよ」
 「そうか。……俺は自分の名前が嫌いだ。優しくもねえのに優なんてよ」
 僕らは花に注意しながら草の上に座った。草の香りが体を染めそうなほどに濃い。
 「けどまあ、しょせん名前なんて記号なんだよな。気にする事ねえか」
 「うーん、僕は、ふさわしい名前にはこだわりたいけど」
 「おまえがウスユキソウよりこだわってるもの、知ってるぜ。永遠の花、ムンフツツクだろ」
 突然心の底を言い当てられて、僕は顔を熱くした。
 「図星か? でもまあ確かにかわいい子だったもんな」
 「べつに、ただ描くための対象として気になってただけで……」
 「けどそれだけじゃないだろ」
 「…………」
 僕は黙り込む事で、塚田の指摘を認めた。塚田は気付かぬそぶりで両手を振り上げ、あお向けに寝転がる。僕もわざと荒っぽく草の上に倒れ込んだ。
 「塚田さん、口のかたい塚田さんにだから話すけど、僕が小さい頃、ちょうど健人くらいの頃に、となりの席に女の子がいたんだ。僕と同じ名前の、ゆうっていう女の子が。でも僕はその子が嫌いだった。右利きが左どなりにいるだけでもジャマなのに、相手が自分と同じ名前と思うとうっとおしくて」
 「へえ。でもそういうたぐいの嫌いってのはな、だいたいが逆の意味なんだぜ」
 「かもしれない。でもその時の僕は、あの子が転校していく時さえ何も言ってあげなかった」
 「で、その子にムンフツツクが似てたってわけか」
 「そんなの、今じゃ顔なんて憶えてないよ。ただ後悔しているだけなんだ。僕を変えてくれるかもしれなかった子を、一番の理解者になったかもしれない子を、どうしてあの時自分から遠ざけてしまったんだろうって」
 「一番の理解者か」
 塚田は身を起こした。顔を見下ろされるのが分かったけど、かまわず僕は横になったまま目をつぶっていた。
 「なあ白井、おまえちょっと矛盾してるぜ。他人をバカにしときながら理解を求めるなんてよ」
 「分かってる」
 「だったら、理解されようなんて考えんのはやめちまえよ。自分を外から変えてほしいってのも、弱気すぎるぞ。もっと自信を持って、たとえば絵を描いてる事も隠したりすんなよ。俺思うんだけど、おまえは独りでもやってけるはずだぜ。他人の事など気にせずに、自分の思うままにな」
 「そんな、僕はそんなに強気になれないよ。塚田さんとは違うんだ」
 塚田の大きなため息が聞こえた。僕に対する失望だろうと僕は思った。
 「悪かったな、エラそうな事言っちまって。言えた立場じゃねえのによ。ほんとは俺の方こそ弱気なくせに」
 「え?」
 「だってそうだろ。俺が他人に攻撃的になるのも、自分に自信がないせいだ。あの添乗員とおんなじよ。ほら、倉林さんの事をいつか白井は言ってたろ。自信を持って生きてりゃ、あんなふうに謙虚になるのがほんとなんだ」
 塚田はまた大きなため息をついた。……そうだったのか。
 「それに俺、白井なんかと違って、目指すもんがいまだに見付かんねえんだよ。世の中やりたくない事ばっかで、やりたい事なんて一コもねえ。そんな否定的な生き方、……つまんねえ」
 僕は身を起こし、塚田に向き合った。
 「やりたい事が見付からないなんて、ウソだろ。塚田さん、いつも面白い事ばかり見付けてきたじゃないか。帽子でハリネズミつかまえたり、ストーブに馬糞放り込んだり」
 「ハハッ、そうだったな」
 「発想はユニークだし、おまけにカンは鋭いし、塚田さんこそよっぽど芸術的センスあるかもよ」
 「おだてんな」
 「でも、激しい気持ちのありのままに行動出来るのは、ほんとにうらやましいと思ってるんだ。その感情の鮮やかさは」
 「ありがとよ。けど俺にとっても、おまえのシビアな視線がうらやましいんだぜ。涼しげっていうか涼やかっていうか。その鋭さや厳しさは、絶対なくすなよな」
 「う、うん」
 「まあ皮肉っぽいとこはちょっとアタマくるけどな。確かさっき言ったよな、口のかたい塚田さんとかなんとか」
 「あ、ごめん。気付いてたんだ」
 塚田が笑っているので、僕もニガ笑いまじりにあやまった。
 「けど俺もあやまんねえとな。思い付きの行動でおまえに迷惑かけてばっかだし。なあ、よく考えたら俺達昼メシ食いそびれるぞ」
 「あ、ほんとだよ、忘れてた」
 「昨日のハンバーガー、今日こそ必要だったのによお」
 言いながら塚田は、右手の腕時計をさりげなく左手に直している。おどけた口調ではしゃいでみせる塚田だけど、今の彼の思い、意気込みは、僕にもはっきり伝わってきた。
 「ああ、そう考えるとますますハラへってきた。なあ白井、せめて気いまぎらわすような事でもねえかなあ」
 
「だったらあのカメの岩でも登ってみる? ガイドブックによると、裏側から登れるらしいけど」
 「なんでそれを早く言わねえんだ」
 塚田ははじかれたように立ち上がった。
 「ほら白井、行くぞ」
 言いながら塚田は駆け出す。もちろん僕も駆け出していた。
 「勝手ができんのもこれが最後か。短けえ旅だったな」
 「けど、長い旅だった」
 「俺達、無理に自分を変えてく必要なんてねえよな」
 「そう、自然に変わっていけるはず」
 そうだ、塚田の絵を描かなきゃならないな。腕時計をはずした塚田を。自分を覆い隠さず、ありのままをかえりみる力を取り戻した塚田を。
 「今度塚田さんの絵を描かせてもらうよ」
 「ヘェ、楽しみだな。どんな絵だ?」
 「言ったろ、時間をおいてみて、定まった印象から描くんだって。どんな絵になるかなんて、まだ分かんないよ」
 それでも僕にはもう見え始めていた。岩の上に立ち、傷のある右手のこぶしを振り上げる塚田の姿が。


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