緑の空 − 少年のまなざし −
二月のある日曜日、隆史はその日も河原へやって来た。
この日は強い北風が吹き続けていた。雲が空を低く走り、時おり陽射しがさえぎられるたび、辺りはすうっと薄暗くなる。
北風の吹き抜けるそんな河原に、独りきりで立ちつくしている事が次第にやりきれなく思えてきて、隆史は河原を後にした。
(もう待つのはつかれた。とくにこんな日は、いくら待ってもむだな気がする。今日は河原の外までさがしに行こう。この近くをくまなくさがし回ろう)
隆史は自転車を走らせた。だが捜すといっても、家の表札を一つ一つ見てゆくというような捜し方だけは、隆史は絶対にしたくなかった。ただこうしてこの辺りを走っていれば、どこからか不意にみどりが現れるかもしれない。そんな気がして、隆史は周囲に視線を泳がせながら、ただやみくもに自転車を走らせた。
隆史はひたすら走った。いくら走っても満たされない思いに、前のめりになるようにして次第に速度を上げていった。
やがて息切れのした隆史は、小さな公園の入り口で自転車を止めた。
すっかり葉を落とし細い枝だけを張っている木のこずえで、数羽のヒヨドリがかん高い声で鳴き交わしている。その声はまるで冬の冷気そのもののように、大気を真っすぐつらぬいて鋭く響き渡る。いつしか風は静まっていた。
隆史は自転車から降り、公園へ入って行った。ヒヨドリ達はいっせいにこずえを飛び立ち、見えない北風をなぞるように波を描いて飛び去った。
公園には誰もいない。冷たい鉄の遊具が凍り付いたように見える。隅の植え込みのハボタンも、地下から噴出した何かが凍ってしまったかのように、その形を保ったまま静止している。土の上には霜も白く残っている。
コンクリートの水飲み場もやはり凍り付いている。くぼみの中央にはくすんだ氷が張り、その上に乾いた枯れ葉がのっている。隆史は水飲み場に手をついて、足もとに視線を落とした。
(やっぱりみどりはどこにもいなかった。いなくて当然かもしれない。こんな冷たい季節、みどりには似つかわしくないから……。なら春になればもう一度、……いいや、それも望みうすだな)
隆史は白いため息をついた。ふと、いつかみどりから聞いた霧の鳥の話が頭をかすめたが、白い息は鳥の形をとる事なく薄れていった。
木のこずえにはヒヨドリ達が戻って来た。そして再び鋭い鳴き声が響き渡る。
周囲の静止した風景やヒヨドリの声の響きから、隆史はひどく寒々としたものを感じ、小さく身震いすると逃げるように日陰の公園を離れた。
自転車を走らせ始めると、風は再び強まった。前を留めないジャンパーが風をはらみ、背中がふくらむ。ペダルが重くなったが、かまわず隆史は風に逆らってがむしゃらに走り続けた。
「雪? 雪か!」
うつむいてひたすら自転車をこいでいた隆史は、目の前を白い物が流れるのに気付いて顔を上げた。周囲は降りしきる雪で、うっすら白くかすんでいる。
(なんだか、風景にうすいガーゼをかぶせたみたいだ)
隆史は自転車を止めた。降りしきる細かい雪はまるで息づくように、強まったり弱まったりをゆっくり繰り返している。
やがて、風に吹き払われた雲の間から、太陽が顔をのぞかせた。陽光を浴びながらも、粉雪はなおも降り続いている。
(うわ、明るい。どっちを向いてもまぶしいや。天気雪か。こんなのめずらしいな。天気雨がきつねのよめ入りだったら、天気雪はいったいなんだろう。……銀ぎつねのよめ入りかな?)
おかしな思い付きに隆史は口もとをほころばせたが、すぐにまた物憂げな表情になった。
(みどりがいたら、銀ぎつねのよめ入りなんて言ったら、楽しそうに笑ってくれただろう。でもほかのだれかにこんな事を言えば、あからさまにあきれ顔をするか、うわべだけおもしろがって内心ぼくをばかにする。ほんとうにわかってくれるのは、ぼくと同じ世界を共有できるのは、やっぱりみどり一人だけだ)
隆史は自転車から降りると、軽く目をつぶって陽の射す方へ顔を向けた。だがじきに陽光は雲にさえぎられたらしく、赤い視界はすうっと暗くなった。
隆史はあきらめて目を開いた。走る雲が水底から見上げるように揺らいで見えて、顔を上に向けたまま隆史は何度もまばたきを繰り返した。
その日の夜、隆史は明かりを消して入浴した。静かに考え事をしたい時、一人でゆっくり物思いにふけりたい時の、隆史の昔からの習慣だ。
闇の中でセーターを脱ぐと、静電気の青い火花がパチパチといくつもはじける。隆史は暗闇の中でさらに目をつぶった。
(やっぱりみどりはいなかった。たぶんもうこれで、みどりとは二度と会えないのだろう)
闇の中で、浴槽に沈み込むように口もとまで湯にひたりながら物思いにふける隆史は、昼間よりもさらに悲観的になっていた。
(春になれば再会できるかもしれないなんて、そんな希望はどうやったって持てない。春か……。春になればぼくはもう中学生だ。もう十二才だ。たとえニンフや精霊を信じ続ける事はできるとしても、もう見る事はかなわないのかもしれない……)
そう考えて、隆史は自嘲的な笑みを浮かべた。
(ぼくはいまだに、みどりの事をそんなふうに思っているのか。あの子はほんとうはニンフなんだって。……でも、それはきっと事実だ。不意にあらわれて、そしてまた不意にいなくなってしまった。ニンフというのは、たぶんそういうもの……)
隆史は露の流れる窓に目をやった。街灯の光が射して窓はほんの少し明るく、無数のしずくの一つ一つが小さな光を宿している。隆史はみどりから聞いた、寝息から生まれるという鳥の話を再び思い出していた。
(……それならこのしずくは、ぼくのため息だ。白いため息の鳥が悲しみに散って、こうして露になったんだ)
悲しい気分に浸りながら、隆史は自分の悲しみの深さを推し量るように、窓をつたい流れる露にいつまでも見入っていた。
そしてそれきり、隆史は二度と河原へ行く事はなかった。とはいえみどりの事が心から離れたはずはなく、隆史はあの緑の石をいつも持ち歩いては、誰もいない所でそっと眺めるようになっていた。そして家に帰ればたびたび階段の途中に座って夏の川原の絵をみつめ、夜には闇の中の浴槽で思い出に浸った。
(みどりとの水遊び、楽しかったな。あんな事は、もう二度とできない。あんな夏は、もう二度とめぐってこない)
夜の暗闇の中で物思いにふければますます悲しみが深くなる事に、隆史だって気付いていないわけではなかった。そうと分かっていながら、あえて隆史は感情を昂ぶらせていた。寂しさに胸を痛めながら、その寂しさにみずから深く浸っていた。今の隆史は、すすんで悲しみに心をゆだねているようだ。
(悲しいものは例外なしに美しい、か……。そう、そして過ぎ去ってしまったものは、例外なしにどこか悲しい……)
そんな隆史にはおかまいなしに、徐々に陽射しは高くなり、次第に風はやわらかくなる。周囲が日ごとに春めく中で、隆史一人が冬をまとったまま日々を過ごしていた。
(なんだか後ろを向いたまま、雑踏に無理やり押し流されるような春だったな)
後に隆史は、この頃の事をこんなふうに思い返した。
学校では卒業式が近付き、そろそろその準備に追われ始めた。隆史も参加しないわけにはいかないので、仲間に加わりいろいろな事に取り組んだが、真剣なクラスメイト達の中にあってやはりどこか一人で冷めていた。
クラスではめいめいがサイン帳を用意して、休み時間になるといくつものサイン帳がクラスメイト達の間を行き交った。そんな様子を、隆史は独り距離をおいて眺めていた。
(あんな事をしてなんの意味があるんだろう。たしかに六年三組はこれでおしまいだけど、どうせみんな同じ中学に行くんじゃないか。おおげさに考えすぎなんじゃないのか? まったく)
卒業を必要以上に騒ぎ立て、別れを美化して感傷的になっているクラスメイト達を、隆史は窓にもたれながら冷淡に見渡していた。
(でもぼくだって、夜には女の子みたいにめそめそしてるんじゃないか)
一方で、自分もまた悲しみを美化して感傷におぼれていると、昼間の隆史は夜の自分自身をも冷笑していた。
「セースイはどうしてサイン帳持って来ないの?」
そう声をかけてきたのは寺内だ。隆史は窓の外に目をやりながら、そっけなく答えた。
「どうしてって、みんなに書いてもらいたい事なんてべつにないからさ。ぼくにはアルバムと文集だけでじゅうぶんだ」
「あ、文集で思い出したけど、こないだ先生がセースイの作文をほめてたよ」
「えっ?」
「先週の水曜日だったっけ、作文を提出した日に先生が言ってた。春をむかえる楽しさにひそむさびしい気持ちが、よくあらわれているって」
「ほんとに?」
寺内の方へ顔を向けながら、少し疑わしそうな口調で隆史は聞き返した。それが冗談なのか本気なのか、寺内が相手の場合はどうも判断がつかない。
「先生が寺内にそう言ったわけ?」
「そうじゃなくって、職員室で先生同士が話してるのが聞こえたの」
「ああそう」
隆史はそっけなく返事をすると、また窓の外に顔を向けた。そう言われればやはり嬉しいが、その気持ちを寺内に見透かされるのがなんとなく嫌だった。
だがきつく口を結んで表情を抑えている隆史に向かって、寺内はなおも言った。
「たいしたもんね。やっぱり本をたくさん読むだけの事はあるんだ」
「関係ないよ、そんな事」
「そうかなあ」
「そうさ。それよりも、寺内こそどうしてサイン帳書いてもらわないんだ? 西尾だって佐倉だってサイン帳を回してるのに」
「わたしもあんまり興味ないんだ。どうせほとんどの人はおんなじ中学に行くんだし、永遠の別れみたいなおおげさな事やってたら、四月にまた会った時きっとしらけちゃうと思うよ」
隆史はハッとして寺内の顔を見た。寺内のその少し冷めた面が、自分とどこか似通っているという気がした。このクラスの中で自分にもっとも近いのは、今までもっとも疎ましく思えたこの寺内にほかならなかったのかもしれない。
「卒業式のあの別れの言葉、おおげさすぎてなんかはずかしいと思わない?」
寺内はくせっ毛の頭をかきながら、珍しく笑顔を見せた。隆史はとまどいながらも笑みを返し、初めて素直に共感の思いを示した。
ところが、途端に寺内の口調はいつもの硬い調子に戻っていた。
「それから学級文庫の事だけど、借りてる本はない? あったら早く返してよ。今週でもうおしまいなんだから」
「ないよ。みんなとっくに返したよ」
「そう、それならいいけど」
隆史に背を向け窓辺から離れながら、寺内はふり返りもしないでそう言った。
その日の放課後は卒業記念文集の仕上げ作業を手伝っていて、帰りが遅くなってしまった。
三月に入ってすっかり春らしくなったとはいえ、日の暮れる頃はまだまだ寒い。隆史はカバンを肩に掛けて冷たくなった両手をポケットに突っ込み、長い影を引きずりながらうつむき加減に歩いていた。
帰る道すがら、隆史が考えていたのは寺内の事だった。
(今までずっと、何を考えてるのかわからないやつだと思ってたけど、今日初めてわかったよ。寺内がどこか冷たいように思えたのは、たぶん別のところで熱くなってるせいなんだ。そう、何かほかの事に熱意を向けているから、クラスの中ではあんなふうに、冷めているというか、無関心な感じに見えるんだ。ぼくにはよくわかる。クラスメイトとは共有できない自分の世界を、あいつも持っていたんだな)
自分でも意外な事に、寺内に対する反発的な感情は今日一日ですっかり消えてしまっていた。それどころか、隆史の心の中には仲間意識のような感情すら生じていた。
(卒業まであと二十日もないけど、そのあいだくらい、せめてくだらない理由でけぎらいするのだけはやめよう。……それにしてもなんだろうな、寺内が熱意を向けている物って)
隆史は沈みゆく夕日も見ずに、足もとをみつめながらいっしんに考えを巡らせていた。だが隆史の洞察力をもってしても、寺内の秘めた熱意の対象がなんであるかなど分かるはずはなかった。
(けどその寺内だって、西尾や佐倉とは楽しそうにおしゃべりしてるんだよなあ。三人いつもいっしょにいるし。きっとそれは、あの三人に共通した思いがあるからだろう)
ふと隆史は足を止めた。深く考え込んでいる今の隆史は、夕日が薄い雲の中に溶け込んだ事にも、背後の影が伸びきって見えなくなった事にも、まったく気付かないでいた。
(共通の物か……。あの三人はきっと、同じ世界を共有しているんだ)
隆史は重い足取りで再び歩き出した。
(あの連中に限った事じゃない。だれでもそんな仲間を持っているんだ。それなのに、なぜぼくだけが一人きりなんだろう。
……しかたがないさ。ぼくと同じ思いを重ねられるのは、みどりだけなのだから。ぼくと同じ世界を共有できるのは、みどりをおいてほかにはいない……)
夕闇が深まるにしたがって、隆史の気持ちも次第に沈んでいった。
19 トワイライト
なんの感慨もないまま卒業式は終わり、忙しいながらも充実感のない虚ろな春休みも過ぎた。中学校への入学も隆史の生活は変えたものの、心の内にまで変化を及ぼす事はなかった。
そうして四月は隆史の心の表面だけを薄く流れ去り、心を波立たせる五月が再び巡ってきた。
春霞の西空いっぱいに淡い茜色が広がる頃、中学校の屋上で隆史は独り手すりに寄りかかり、夕日を見ながら考え事をしていた。
(ここへ来るのはいつも同じ時間なのに、日没は少しずつ遅くなってゆく。もうじき春も終わりだな。……今年の春は変な春だった。ただ時間だけが勝手に過ぎてゆくんだ。僕を無理やり引きずりながら。なんだか未だに、後ろ向きのまま押し流されているようだ)
隆史はポケットに手を入れると、緑の石の感触を確かめた。
(みどりの事を偲ばせる物は、この緑の石だけか……)
隆史は後ろをふり返り誰もいないのを確かめてから、石をそっと取り出した。
屋上に、隆史のほかに誰もいるはずがなかった。扉にはいつも鍵が掛けられているのだから。だが階段の踊り場の上にある窓からなんとか屋上に出られる事に、隆史は入学して間もない頃から気付いていた。そして放課後の屋上は、隆史だけの場所となった。
隆史は石をポケットにしまうと、また手すりにもたれ、生徒達が帰ってゆくのを見下ろした。見付かる心配はない。誰が下校途中にふり返って校舎を見上げたりするだろう。
だが、隆史は誰にも決して見られないという事に安心しながらも、同時に軽い失望感も味わっていた。
(みんな首を固定されたみたいに前ばかりを見て……。後ろから見下ろされている事に、なぜ気付かないんだ。誰も立ち止まらないし、ふり向きもしない。ひとが目を向けない物に気を留める、そんなやつはこの学校には一人もいないのか? みんな心を固定されたみたいに前ばかりを……)
足音すら聞こえるほどの所にいるのに誰も自分に気付かない事が、隆史には次第にもどかしく思えてきた。
(もし朝にここに立ってみたら、みんなこちらを向いているから……。いや、それでもやっぱり屋上を見上げるやつなんていないだろうな。毎日同じ事を繰り返すばかりだから、視線をちょっと上に向ける事すら思い付かない)
冷淡に他人を見下ろしながらも、隆史は自分自身にも失望の目を向けていた。日常の生活からほんの少しはみ出すだけで、いろいろなものが見えてくると分かっていながら、それでもやはり単調な生活を送っている、自分に対する失望を。
(僕がこうして屋上にしのび込むのも、最初は自分の居場所を見付けたつもりでいたけど、結局は人目を避けて閉じ込もっているだけじゃないか)
隆史は西の空に視線を戻した。夕日は熟す果実のように、次第に赤みを強めてゆく。
(でももう何をやったって、去年ほど素晴らしい日々を送る事は出来そうにない。一日中足首からのど元まで黒づくめでいると、気持ちまで暗くなる。去年の事があまりに明るく輝いているから、僕の意識はいつまでも後ろを向いたままなんだ)
いつの間にかグラウンドの勢いある掛け声も聞こえなくなり、音楽室の眠たげなチューバの音も絶えていた。人の気配が急速に希薄になる中で、隆史はもう何も考えず、身じろぎ一つせずに、沈む夕日と水平に向かい合っていた。
太陽はやがて低い雲の稜線に触れ、朱色の輝きは徐々に弱く細くなり、そして消えた。隆史の目の中には、緑色の残像が残った。
隆史は何度もまばたきをしながら、視線を振り回した。だが残像はいつまでも視野の中央で光っている。
(残像か……。これが悩みの種なんだ。これが僕の思いを、長年のあこがれを揺るがしているんだ)
隆史は残像から目をそらそうという無駄な努力をやめ、残照の西空に目を戻した。
(知識が増えれば不思議が減ってゆく。現実世界が分かるにつれて、幻想世界が削られてゆく。たとえば虹。なんにも知らなかった幼い頃と、水滴による屈折で見える太陽光スペクトルだと知ってしまった今とでは、やっぱり見え方が違うようだ。それにサンタクロースも、いつの頃からかやって来なくなってしまったし……)
知識と引き換えに失ったものを一つ一つ数えあげながら、隆史は目をつぶった。暗い視野の中央には、残像が緑のような赤いような妙な色あいになりながらも、未だにかすかに光っている。
『ね、見えるでしょ、緑の光が。どう?』
いつかのみどりの言葉が、突然頭の中に響いた。隆史は無意識のうちに、みどりの問いかけに対して返事をしていた。
「そりゃ見えるけどさ、当たり前だよ、赤い夕日をみつめていたら」
『それはそうだけど……』
「これはただの残像さ、もう分かってるんだ」
『ねえ、こんなふうに考えてみる事はできない?』
「どんなふうに? 目に届く光が強すぎたせいで、まだ目の表面ではじけているとでも?」
『ピンポーン。さすがあ』
「……そんなはずないだろ。もう知ってるんだ。これはただの残像……。本当の理由を知らないうちはよかったけど、知ってしまえばそんなふうに考えるのは難しいよ」
『……そう』
「それに、今までの僕のそういう部分って、現実逃避だったような気がするんだ。現実を無視してただ幻想に浸るといった……」
『そうだね』
「それはやっぱり良くないだろ。でも、だからといって現実だけに囲まれてしまうのもちょっとね……。まあ現実がすべて無味乾燥だとは思わないけど、それでも現実しか見えなくなってしまうのは嫌だ」
『うん、わかる』
「今までの僕が、幻想の中に浸り過ぎていたのも悪いんだろう。たとえばずっと緑色の中にいたものだから、そのせいで今は無色のものさえなんだか赤っぽく見えてしまうんだ、きっと」
『そうかもね』
「今まで他の色を見ようとしなかった、つまり本当の事から目をそらしていた僕が悪かったんだよ。仕方ないね」
『さあ、よくわからないけど、それはべつにいいんじゃないかな。そこが隆くんの隆くんらしいところだし。でも一番いいのは、ほんとの事をちゃんと知りながら、自分の考えを持つ事だろうけどね』
「…………」
隆史は口をつぐむと目を開いた。残像はすでに消えている。茜色の消え残る西空から視線を落とすと、その瞬間校門近くの水銀灯が点灯した。ふるえるようなその淡い紫の光にぼんやりと目をやりながら、隆史はみどりの言葉の意味をかみしめていた。
「……ミドリンの言う事はよく分かるよ。でもなかなかそうもいかないんだ。たとえばこの石。蛇紋岩だと知ってしまうと、空を映しながら消えたという幻の湖は、その陰に隠れて見えなくなってしまう……」
通りをはさんだ向かいの家にも明かりが灯った。濃い緑色をした生け垣のかいずかも、整然と並んだままシルエットになった。陽だまりの中では静かに燃える緑の炎のようなかいずかも、薄闇の中ではまるで墨を含んだ筆の穂先のようだ。
やわらかく吹き抜けていた風もかすかに冷気を含み、硬質な肌触りを帯びてきた。青草の匂いが薄れ、夜風の匂いが満ちてゆく。
木々のみずみずしい若葉さえも、薄闇に浸って黒ずんでいる。枝ごと揺らぐように風にそよぎ、葉ずれの音がざわめくようにわき起こる。
輝きを増した水銀灯から目をそらし、隆史は空を見上げた。西の空にはまだ夕焼けが燃え残っているが、東の空はすっかり宵闇に沈み、星が一つかすかに光っている。その細くかすかな輝きは、大気のさざ波によってビブラートするようにまたたいている。
「そうか! うん」
水銀灯に照らされた隆史の表情が輝いた。
『どうしたの?』
「ようやく気が付いたよ」
『ねえ、なんなの? 隆くん』
「分かったんだ、見方は一つだけでなくてもいいって事が」
『え?』
「ええとさ、たとえば脳は左と右とで役割が違うっていうだろ? 論理と感性というように」
『ふうん』
「それで思ったんだ。一つの物を見るのでも、左右二つの脳をもってするなら、見方は一つでなくてもいいって。どんな物でも、現実と幻想二つの面を持っているんだ。だからそれを左右それぞれの目で見て、左右それぞれの手で触れればいい」
『そう、そうだよね。そんなふうに考えてみた事なかった……』
「知識が増えても、不思議は減りはしない。ふくらんでゆく現実世界の陰で、幻想世界がやせたりはしない。もちろんその逆だって。知識が増えるという事は、視点が増えるという事。対象物の面が一つでないと分かれば、不思議の視点だって残す事は出来るはずだよ」
『……そうね』
「現実と幻想、二つの世界はせめぎ合っているのではなくて、同一の場所に重なっているんだ。だから、それをめいめいが自分の選んだ視点からみつめればいいのさ」
『こんな事に自分から気が付くなんて、隆史くんもすごいね』
「でもそう気付かせてくれたのはきみだよ。ありがとう、みどり」
見えないみどりに向かって、隆史は片目をつぶってみせた。
『フフ、どういたしまして』
あふれるばかりに満ち足りた思いに、隆史は空を仰ぐと大きく息をついた。そしてもう一度石をポケットから取り出すと、右手でしっかりと握った。その握りこぶしをみつめながら、隆史は静かに考えた。
(この石はサーペンタイン、蛇紋岩。理科室の岩石標本の中にも同じ物があった。だけど……)
隆史は石を左手に持ち換えると同じように握りしめ、そしてそっと目をつぶった。
(……同時にこの石は、空を映しながら消えた幻の湖の名残り。みどりとの思い出の石。僕とみどりの二人だけが持つ、かけがえのない石)
隆史はゆっくり目を開き、握っていた左手をそっと開いた。
(こんな小さな石でさえ、二つの世界を持ち合わせているんだ。……その二つの世界のうちでも、こうして左手で触れる世界はなんて大きく、なんて素晴らしいんだろう。もちろん右手の先にある現実世界をなおざりにするつもりはないけれど、この左手でつかむ世界はいつまでも絶対に忘れない。そしてこれからも、この手で新しい世界を見付け出し、大きく広げていこう。現実にとらわれる事なく、そして幻想におぼれる事なく……。
立ちはだかる現実の向こうに幻想を透かし見る事だって、僕にならきっと出来る。それに、同じ世界を共有出来る誰かも、きっとどこかに……)
隆史は喜びに満ちたまなざしで、暮れゆく空を見渡した。昼と夜とが混在する薄暮の空を。
「僕は両方の目で、二つの世界を見渡す事が出来る。両方の手を伸ばす事で、自分の世界をさらに広げてゆけるんだ」
西の空には未だ夕焼けが燃え残り、東の空には宵闇の中で麦色の星が輝いていた。
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