陽光の虹 月光の虹 − アポロンとアルテミス −
昼休み、まだ給食を食べ終えていない秀樹の席へ、知子が記録用紙を持って来た。
「はい、持って来てあげたよ。ほんとにカッチは食べるのおそいんだからあ」
「ああ、サンキュー」
今日は気象観測クラブの、秀樹の記録当番の日だった。
「じゃあわたし、先に白い家に行ってるからね」
最近知子は百葉箱の事を、芝生の庭の白い家などと呼んでいる。クラスメイトが笑ってもおかまいなしだ。
そんな知子のはしゃぎぶりは、秀樹にとっては楽しくもあり、またてれくさくもあった。そして知子の方は、とまどいながらも話を合わせてくれる秀樹の態度を、いつも嬉しく思っていた。
「ねえ、今日は冬至なんでしょ?」
「そうだよ」
「もうじきクリスマスね」
「なんだ、冬至そのものにはなんにも思わないのか」
「だって……。クリスマスのほうが楽しみじゃない。カッチだってそうでしょ?」
「でも冬至だって特別だよ。今ごろには、昼間ににじが出る事だってあるんだから」
「えっ、そうなの?」
「にじは太陽の反対側に出るだろ。だからいつもは朝や夕方にしか見れないけど、今ごろは太陽が低いから、真昼ににじがかかる事だってありうるんだ」
「へえそうなんだあ。そんなにじも見てみたいなあ。でもカッチ、最近にじを見ないと思わない? むかしはもっとよく見たような気もするけど」
「小さいころは、空を見上げればいつでもにじが見えたとか? そんなはずないって。意識しすぎるからそんな気がするだけで、もともとそんなもんだよ。いつかモコも言ったじゃないか。かすかな光は、じっとみつめるとかえって見えなくなるとか。それとおんなじ事さ」
「そうかもしれないけど、でも、いつか二人でいる時ににじを見てみたいね」
秀樹は黙ってうなずいたが、知子はさらに返事を期待するようなまなざしを向ける。秀樹はやはり黙ったまま、胸ポケットのボールペンを知子に差し出した。
ボールペンを受け取った知子は、その中に虹を見付けようと軸のプリズムをじっとのぞき込んだ。秀樹は知子の髪のヘアバンドの、その白い半円にぼんやりとした視線を据えた。
「……でも、やっぱりこんなのはちがうな。はい、ありがと」
知子は秀樹の胸ポケットにボールペンを素早く戻した。
「それじゃあね、カッチはにじがよく出るのはどこか知ってる?」
「さあ。どこ?」
「あのね、ハワイなんだって」
「へえ、初めて聞いた。でもハワイなら、なんだかアルテミスのにじも見られそうな気がするな」
「カッチもそう思う? そう。これはもう行き先はハワイに決まりだね」
「なにが?」
「……ハネムーン」
「…………」
「……それとも、またありきたりだなんて言う?」
秀樹には、そんな知子の言葉や、笑顔の合い間に見せた一瞬の真顔の真意が、分からなかった。
(あんな目をしてみせたのもふくめて、みんなじょうだんに決まってるよな。そう気にする事ないよ)
そう解釈して自分自身に言い聞かせると、秀樹は軽い口調で返した。
「ぼくとしては、ギリシャなんかもいいと思うけどな」
「それもいいね。うん、行き先はカッチにまかせちゃう」
「オーケー」
秀樹は、自分にとって知子は空想の物語の中での相手に過ぎないと考え、またそれでいいのだとも思った。
「来年の春にはもう六年生ね。カッチはクラブはやっぱり気象観測にするでしょ? わたしもそのつもりだけど」
「そりゃあもちろん。六年になったって七年になったって」
「フフッ。あ、それでわたし前から気になってたんだけど、カッチの名ふだはどうしてみんなのと少しちがうの? わたしたちの学年はほら、こういう濃い赤なのに、カッチのは朱色って感じだよね」
「ああこれ? これは太陽のしるしさ。なんて事はなくて、じつは学校に入る前に、べつの店で買っちゃってたんだ。サイズもちょっと大きいけど、でも似てるからそのまま使ってもいいやと思って。先生もなにも言わなかったしさあ」
「なあんだ、それだけの事だったの? なにか意味でもあるのかと思って、わたしずっと気にしてたのに」
「そうか、しまったなあ」
「え、なにが?」
「くだらない理由を言うんじゃなかったよ。知らなかったらモコはずっと気にしてくれてただろ? モコにはぼくの事、ずっと気にしててほしいからなあ」
冗談めいた秀樹の言葉も、知子はまじめに受け止めた。
(ふざけるように言ったのはてれくさかったせいで、今のはきっと本音よね。そうに決まってる)
知子は自分の願望そのままを、自分自身に信じ込ませた。
「心配しないで。わたしなにもカッチの名ふだの事だけを、気にしてたわけじゃないんだから」
「へえ、あとほかになにがあるかなあ」
「カッチだってわたしの事、……でしょ?」
知子は、いつか秀樹が自分に対する気持ちを、もっとはっきり言葉にするのを期待した。
「そうだ、アポロンとアルテミスの物語、第八話が書けたよ。モコにも読んでもらおうと思って、持って来てたんだった」
「そうなの? じつはわたしもね、カッチにわたす物があるの。ほら、クリスマスカード。それも放課後にね」
二人はそれぞれ百葉箱の左右の扉をゆっくり閉めると、芝生を踏みしめ校舎に戻った。
パビリオン入り口へ