櫻さくら − 花のもとにめぐる時 −
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櫻
中学入学を目前にひかえた春休みのある日、恵利香は両親と一緒に公園にやって来た。
満開の桜の花の下、花見客達は昼間から酔いしれて、歌ったり踊ったりの大騒動を繰り広げている。
(みんなどうしてあんなに騒げるのかな。わたしだったら騒いだりなんて出来ない。なんだか騒いだりしちゃいけない気がする。一面の桜の花って、あまりにきれいすぎて、どこか怖いような気もして……)
恵利香は花見客の喧噪や覆いかぶさる桜の花を避け、両親とも離れて独り公園のはずれへ歩いて行った。
恵利香は公園の奥の、もう一つの広場までやって来た。
ここの桜の木々は割合小さく、花が空を覆いつくすような事もない。こじんまりした広場でも、人が少ないためによほど解放感がある。恵利香はようやく春の日ざかりを楽しめる気分になり、のんびり芝生の上を歩き回った。
親子連ればかりが目に付く中で、一本の桜の木の下に、小さな男の子が独りっきりでいる。五才くらいに見えるその男の子は、独りっきりを気にする様子もなく、片手を木の幹についてじっと花を見上げている。
恵利香はハッとした。以前にも満開の桜の花の下で、あんな男の子に何度か出会っているような気がしたからだ。
(いつだろう……。どこでだろう……)
恵利香は男の子の見上げる桜の花をみつめながら、どこからかかすかにただよう香りのみなもとをさぐるように、おぼろな記憶をたぐっていった。
三年前の春のある日、四年生になったばかりの恵利香は、学校帰りにちょっと寄り道をした。
ふだんは通らない静かな道で、舞い落ちるいくつもの花びらに誘われ視線を上へ向けた恵利香は、息をのんでその場に立ちつくした。
「すごい! 花がみんないっぺんにふってくる。さくらがこんなににぎやかだって、わたし知らなかった」
桜は積もるほどに花びらを降らせるのに、花はいっこうに減ってゆく様子がない。その事が、いっそう恵利香を不思議がらせた。
「きっと、数えきれないくらいいっぱい花はあるんだね。サクランボ、楽しみだなあ」
よその家の木という事も忘れ、恵利香は嬉しそうにつぶやいた。
その時、
「サクランボなんてるわけないだろ」
さも馬鹿にしたような声がして、恵利香はふり返った。すぐ後ろに、五才くらいの小さな男の子が立っている。
「なによ」
「このきにサクランボができるわけないじゃん」
男の子は、年上の恵利香に対してまったくものおじする様子がなく、平気で生意気な口をきく。
「どうしてよ。サクランボはさくらの実なのよ。花が散ったらそのあとに実ができるのはあたりまえじゃない」
「でもこのはなはちがうんだ。ただはながさくだけで、みなんてできないんだぞ」
「それじゃさくらの花って、なんのためにさくの? きみも小学校に入ったら理科で習うけど、花は実を作るためにさくのよ。なのにさいただけでおしまいなんて、それじゃ意味がないじゃない。答えなさいよ、さくらの花ってなんのためにさくのよ」
恵利香にそう言われると、男の子は口をつぐんで目を伏せた。答えに詰まったらしく、それっきり黙り込んでしまった。
年下の相手に生意気な口をきかれ頭にきていた恵利香も、男の子のそんな様子を見ると、急にかわいそうに思えてきた。
「ゴメンね。わかんないよね、そんなの。さくらの花にでも聞いてみないと」
恵利香は男の子に気をつかいながら、優しい口調で話しかけた。
「でもちゃんとなにか意味はあるんだと思うよ。こんなにおもいっきりさいてるんだもん。きっとそうよ」
「みんなをよろこばすためだよ」
男の子は、ぽつりとつぶやいた。
「え?」
「さくらがさいたら、みんなうれしいもん」
「あ、そっか。みんなをおもいっきりよろこばせるために、さくらは実をつけるのもあきらめて、せいいっぱいさくんだね。そうなんだ」
感心して何度もうなずく恵利香に、男の子も安心したような笑顔を見せた。
六年前にもやはり、小学校入学前の恵利香は、両親に連れられて桜が盛りの公園に出かけていた。
その日恵利香は、来る途中で買ってもらったシャボン玉で遊びながら、一人ではしゃいでいた。
そして、そんな恵利香に声をかけてきたのが、やはり五才くらいの男の子だった。
「こんなかぜのときに、シャボンだまなんかやめろよな」
この男の子もまた、六才の恵利香に対し、まるで自分が年上であるかのような口をきいた。
「すぐこわれちゃうじゃないか。よくかんがえろよ」
見知らぬ子にいきなり怒られて、恵利香はどうしたらいいのかわからず、とにかくその子を無視した。
クルリと背を向けてなおもシャボン玉を吹く恵利香に、男の子はますますむきになったようだ。
「やめろっていってるだろ。かせよ、それ」
ストローを奪われかけて、さすがに恵利香も腹を立てた。
「なによ。わたしがあそんでるのよ。かんけいないでしょ」
「シャボンだまとばしてんのか? ただこわしてるだけじゃないか」
「いいの。こわれたってすぐ新しいのが作れるんだから。もう、あっちいってよ」
「あたらしいのがいくらつくれたって、こわれたシャボンだまはもうそれっきりなんだぞ」
男の子はそれだけ言うと、あとは無言のまま恵利香をにらみつけた。
ささいな事にこれほどむきになるその子の事が、さすがに恵利香も少し怖くなった。恵利香はシャボン玉液のビンにふたをすると、ストローと一緒にポケットにしまった。
ふと顔を上げると、男の子はもう笑っている。その笑顔は、まるでむきになった事を恥ずかしがっているような、きまり悪そうな笑顔だった。
木の幹に手をついたまま、いつまでも桜の花を見上げている男の子の事を、恵利香は意識の隅で古い記憶をたどりながらも、少し離れた所からじっと見守っていた。
やがて、二羽の鳥が飛んで来て、桜の枝に止まった。すると男の子は、両手で幹を抱えるようにして、桜の木をゆさぶった。二羽の鳥はかん高く鳴きながら、慌てて飛び去って行く。そして男の子はまた元のように、片手を木の幹に当てて花を見上げた。
男の子はさっきからずっと、そうやって繰り返し鳥を追っている。
(あの子、またおかしな事にむきになっちゃって)
恵利香は小さく笑った。
もちろん、その男の子が、以前出会った男の子達と同一人物のはずはないだろう。けれども恵利香は、理屈抜きでその子に懐かしさを覚え、親近感から気軽に声をかけた。
「ねえ、どうしてそんなふうに鳥を追い払うの?」
「あのとり、きらいなんだ」
「でもきらいだからって追い払ったりしたら、かわいそうよ」
「ちがう、ぼくがあのとりをきらいなんじゃなくて、さくらがあのとりをきらいなんだよ」
恵利香が首をかしげると、男の子は地面を指差した。
「ほら、はながいっぱいおちてるだろ? あのとりがはなをむしりとっちゃうんだ」
かがみ込んでよく見ると、散った花びらに混ざって、形をとどめたままの花がいくつも辺りに落ちている。
「さっきのあの鳥がこんな事するの? どうして?」
男の子は何も答えず、ただ馬鹿にするように鼻を鳴らした。
(どうしてわたしっていくつになっても、こんな小さな男の子に繰り返し年下扱いされるんだろう)
恵利香は小さく肩をすくめた。
「でもかわいそう。じきに散るっていっても、その前に無理やりつみ取られちゃうなんて。この花なんてほら、まだ咲ききってもいないのに……」
恵利香は落ちている桜の花を拾い集めた。すると男の子もかがみ込んで、花をいくつも恵利香の手のひらにのせた。
「ありがとう」
そう言って男の子にほほ笑みかけた時、恵利香は忘れていた古い記憶と不意に対面した。
九年前の春、桜の花の下で、三才の恵利香もやはり男の子に出会っていた。
その時恵利香は、辺り一面に散っていた花びらを夢中になって拾い集めていた。ところがようやくスカートいっぱいに花びらを集めた頃、つまづいたひょうしにそれをみんなこぼしてしまった。
べそをかいてる恵利香の前に、男の子は現れた。
少し年上らしいその男の子は、落とした花びらも新しい花びらも拾い集めてくれて、恵利香に優しく声をかけた。
「でもきれいなのはいまだけで、あしたになったらみんなしおれちゃうんだぞ」
「うん、いいの。いまきれいだったら」
そんなふうに言葉を交わしていた事を、恵利香は今になって突然思い出した。そして、その男の子を兄のように頼もしく思っていたという事も。
『あなたには、本当はお兄さんがいたのよ』
恵利香は一人っ子だが、以前から母に何度かそう聞かされていた。
『生まれてきて、すぐにいってしまったから、今ここにはいないけれど。でもあなたにお兄さんがいたという事だけは、心のどこかにとどめておいてね』
三才の頃の恵利香が、すでにこんな話を聞かされていたかどうかは分からない。けれどもやはり、あの時の恵利香は心のどこかで兄の存在を求めていて、あの男の子はその呼びかけに応えて現れたのだと、今にして思うとそんな気がする。
「ねえ、名前なんていうの?」
恵利香がたずねると、男の子はちょっと困ったような表情を見せて、小さな声で言った。
「キエタ」
「キエタ? ほんとに?」
「ちがう、ケイタだよ」
「あ、ごめんね。どんな字書くの?」
男の子は黙ったまま、木の根元のわずかに土の出た所に、とがった石で書いてみせた。恵太、と。
「それよりさ、おまえさくらってかんじでかける?」
「書けるわよ、それくらい。えーと、こうだっけ、こうよね、確か」
恵利香も石を手に取ると、木の根元に桜、と書いた。すると男の子は、またあきれたように鼻を鳴らした。
「おしえてやるよ。ほんとはな、こういうじをかくんだぞ」
櫻。小さな子どもとは思えない確かさで、その子はやすやすと難しい漢字を書いてみせた。
その古びた字体から恵利香は、ひどく懐かしいような、そしてどこかもの悲しいような印象を受けた。胸の中にくすんだような淡い色が広がるようで、恵利香は木の幹にもたれながらふっとつぶやいた。
「桜って寂しいね。おもいっきり明るくて楽しいのに、なんだか悲しいね」
男の子も立ち上がると顔を上げ、じっと恵利香の顔をみつめていたが、ふとまた視線を恵利香の手元に落とすと、ぶっきらぼうに言った。
「そのひろったはな、どうするつもりだ?」
「さあ……、どうしようか」
すると、男の子は黙って両手を出した。恵利香は持っていた花を、全部男の子に手渡した。
ややあって、男の子がぽつりと言った。
「さくらがさびしいって、どうして?」
「すぐに散ってしまうじゃない。それにいくらいっぱい咲いたって、どの花も決して実を結ばないのよ」
「たのしいっていうのは?」
「やっぱりほかのどんな花よりも華やかで、見ているだけで気持ちが明るくなるじゃない。でも……」
「かなしい?」
「うん。毎年繰り返し、春には必ず咲くけれど、今年の花は今年限りで、散ってしまえばもう二度と帰って来ないのよ。そんなふうに思うとね」
男の子は、ただ黙って恵利香の顔をみつめている。そのまなざしが、じっと何かを求めているように恵利香には思えた。
「……そうだね、はかなく散ってしまうからって、実を結ばないからって、だからまったくなんの意味もないという事はないんだよね。桜がせいいっぱい咲いてくれるから、みんなこんなに明るい気持ちで、春を迎える事が出来るんだもん」
「ありがとう」
男の子は満面の笑みを浮かべた。
「すぐにいってしまったとしても、ほんの少しの間一緒にいてくれただけでも、わたしとっても嬉しかったよ。こっちこそありがとう」
恵利香がそう言い終わるか終わらないかのうちに、男の子は両手いっぱいの花を空へ向けて投げ上げた。降りしきる花の中で、恵利香も両手を広げて空を仰いだ。
気が付くと、恵利香は舞い散る花びらの中に、一人きりで立っていた。
帰宅すると、恵利香はすぐに辞書を引いてみた。あの男の子が書いてみせた「櫻」の文字が、どういうわけか恵利香にはひどく気にかかったからだ。
「櫻」の字を調べたついでに、気まぐれに恵利香は「嬰」の字も調べてみた。そしてふと目に付いた「嬰児」という単語に、恵利香の意識はたちまち吸い寄せられた。
(生まれたばかりの赤ちゃんの木……。それが櫻……)
恵利香は知った。桜の花の浮き立つような楽しさや、悲しいほどのはかなさに、どんな秘密があるのかを。
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