霜の羽根 − 12年後のきみへ −


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     1

 まだ慣れていないチャットの操作に、その夜も真理佳は集中していた。
 一つ一つ文字を目で拾いながら、たどたどしくキーボードを打ってゆく。
 真理佳のそんな様子をじれったく思ったのか、飼いネコのマユが、いきなりひざの上から机の上へ飛び乗った。
 「あっ、マユ、だめっ!」
 あわてて伸ばした真理佳の手に、かえってじゃれつくようにして、マユはキーボードの上を跳ね回る。
 パソコンの画面上には、でたらめな文字が表示されてゆく。真理佳はますますあせりながら、ようやくマユを抱き上げた。
 しかしパソコン画面は、そこでいきなり真っ暗になってしまった。
 「ああ、パソコンこわれちゃったかも。どうしよう……。もう、マユったら……」
 マユは真理佳の腕をするりと抜けて、どこかへ行ってしまった。きっと、真理佳の声に非難めいた響きを感じ取ったのだろう。
 真理佳は空いた両腕を力なく落として、ため息をついた。
 そしてあきらめ半分に、ただ画面をのぞき込む。
 消えたままのパソコン画面は、まるで暗い水面のように、真理佳自身の顔を映している。
 真理佳は見慣れているはずの自分の顔を、あらためてじっとみつめた。
 (まゆと目もとはパパそっくりで、口もとはママにそっくり。二人とも好きだから、似てるのはうれしいけど……、うれしいんだけど……)
 ただ、あまりに両親に似すぎているせいで、自分が大人になった時の顔だちが、そこから容易に想像できてしまう。
 自分の未来がその点で一つ限定されてしまったようで、それが今の真理佳には物足りなく思えるのだった。少しづつ未来を考え始めている、今の真理佳には。
 真理佳はもう一度、ただしさっきとは別の意味合いの、深いため息をついた。
 すると、その息の触れたあたりから、パソコンの画面が白くくもった。
 真理佳が手でぬぐっても、白いくもりはとれない。よく見ると、くもりはまるで霜の結晶のような形の集まりで、それが広がりながら、やがて鳥の羽根のような模様を描き始めた。
 その羽根模様は、驚いた真理佳が息を止めても、さらに広がり続けている。そして広がるにつれ、時間がたつにつれ、羽根模様は徐々に大きくなる。
 まるで羽根の形をした木の葉が、広がり成長してゆくように。
 無意識のうちに顔を寄せていた真理佳は、そのまま自分が羽根の中に包まれてしまうような錯覚にとらわれた。
 思わず強く目を閉ざし、そしておそるおそる目を開けると……、
 真理佳は巨大な窓を前にして、見知らぬ部屋の中にたたずんでいた。


     2

 その空間を「部屋」と表現してはみたものの、壁や天井によって囲われているわけではなかった。
 ただ、降りしきる白い羽根に包まれて、四方の見通しがまったくきかず、またどちらへ進もうにも、うまく身動きがとれない。
 羽根は揺らぐ事なく上から真っすぐ降りそそぎ 、そして床にあたる場所でとどまる事もなく、はるか下まで真っすぐ落ちて消えてゆく。
 そして真理佳の正面には、一枚の巨大な窓が立ちふさがっている。
 この窓にも、とくに窓枠のようなものは見られない。見通せる範囲いっぱいに、水面のようにただ暗く平坦に広がるだけだ。
 真理佳はためらいながらも、目の前の暗い窓に触れてみた。するとそれは、予想に反してほのかに温かみを帯びている。その事だけで、なんとなく真理佳の不安はやわらいだ。
 (この大きな窓が、さっきのパソコンの画面と同じように変わるとしたら……)
 ためしに息を吹きかけてみると、思った通り、すぐにそこから白いくもりが広がった。先ほどとまったく同じ、鳥の羽根模様のくもりが。
 真理佳はさらに息を吹きかけた。羽根の模様はさらに大きく鮮やかに広がる。
 自分の行動によって変化を起こせる事がわかって、真理佳は安心した。
 どういった経緯でこのような場所に来てしまったのかはわからないが、きっと最後には自分の力で、自分の家へと戻れるだろう。
 (とにかくこの窓は大きいから、もっと強く吹かないと)
 さらなる変化を期待して、真理佳は力いっぱい息を吹いた。
 そして、その後に現われた変化は、真理佳が初めて目にするものだった。
 いくつもの羽根が重なり合って、すっかり白くなった目の前の窓に、ぼんやり光るようにして映像が浮かび始めたのだ。
 真理佳は今は息を詰め、その様子をじっとみつめている。
 やがて映像は鮮明さを増し、普通のガラス窓を通して見る風景ほどに、はっきり見えるまでになった。
 そこは病室だった。ベッドにいるのは子ども達ばかりで、小児病棟を窓の外から眺めているらしいとわかる。
 真理佳は、以前に入院していた頃の事を思い出し、無意識にベッドに自分の姿を探した。
 (でもあの時の病室とは、ちょっと違うみたいだけど……)
 たしかにいくら見回してみても、病室にいる子ども達の中に、真理佳自身の姿は無い。
 (やっぱり、ぜんぜん知らない場所だ……)
 真理佳は落胆しかけたが、ちょうどその時入って来た一人の看護師を見て、思わず息をのんだ。
 その若い女性看護師の、顔や手など肌の見えるところには、何か意味ありげに鳥の羽根模様が白く浮かび、いやでも視線を引き寄せられる。
 だが真理佳が驚かされたのは、その事によってではなかった。
 見慣れた目もと……、そして見慣れた口もと……。
 それは真理佳がずっと思い描いていた、大人になった自分自身の姿だった。


     3

 窓越しの真理佳は、もどかしい思いを抱いていた。
 すぐ目の前に未来の自分がいるのに、声をかける事もできない。
 もっとも、その若い看護師が、本当に未来の真理佳だという確証は無いのだが。
 だから早く確かめたい。なのになかなか確かめられない。それがもどかしさの原因だった。
 若い看護師は、たびたび病室に現れた。そしてかいがいしく子ども達の世話をした。
 だが窓辺に近付く事はなく、真理佳には彼女の名札すら確かめられない。
 やがて病室には夕陽が射し込み、それが薄れる頃には明かりが灯り、そして窓にはブラインドが降ろされてしまった。
 それでも真理佳は、しんぼう強くじっと待ち続けた。

 そして再びブラインドが上げられた時、どういうわけか場面は転換していた。
 今、真理佳は、人気のない深夜のナースステーションを窓越しに見ている。奥のドアから一人の看護師が、ちょうど出て行く後ろ姿が見えた。
 そしてたった一人部屋に残った看護師が、例の若い看護師だった。窓辺に寄ってブラインドを上げ、真理佳と間近に向き合う形で、驚いたようにそのまま動きを止めている。
 きっと、窓を透かしてこっちを見てる。真理佳は思った。おずおずと窓に手を伸ばす彼女の動きに合わせ、真理佳も窓に手を伸ばしてみた。
 そして二人は鏡像のように、窓をはさんで触れ合った。
 「ああ、驚いた。窓に映る自分の顔が、いきなり幼く見えたから」
 先に口を開いたのは、看護師の方だった。
 「でもすぐわかったよ。昔の私が会いに来てくれたんだって。こんばんは」
 しかし真理佳は気付いた。彼女の名札には「まりあ」と書かれているのを。
 「でもその名札……」
 「名札がどうしたの? ああ、小児病室のナースはね、みんなひらがな表記にしてるのよ」
 「そうじゃなくて、名前が真理佳と違う……」
 相手は少し考え、それから言った。
 「それはたぶん、時間の流れに幅があるせいじゃないかな。人はその中で波に揺られて、だからいつも同じ位置に流れ着くとはかぎらない」
 「……よくわかんない」
 「そうね、私もほんとはよくわかってないの」
 そう言ってまりあは笑った。そのやわらかな笑顔に、真理佳の気持ちはすっかりなごんだ。
 「じゃあ、もっと簡単な話を聞かせてよ」
 「いいよ、なんでも質問して」
 「結婚はまだ? 恋人はいるの?」
 「いきなりそこからくるか……。あのね、この仕事をしてるとね、こうして夜勤もあったりで、なかなか忙しくってねえ……。ガッカリした?」
 「うん、ちょっとね。じゃあ、どうして看護師の仕事についたの?」
 「それが、子どもの頃からのあこがれだったの」
 まりあは真理佳を通り過ごして遠くに目をやった。
 「私ね、小さい頃は体が弱くて、よく入院してたのよ。それで優しい看護師さんが素敵に見えたし、」
 あ、同じだ。真理佳は思った。
 「それに私はもともとすごい甘えんぼうで、ほかの大人の人達にも頼ってばかりだったのね。だから自分が大人になった今、次は私が子ども達に頼られる立場でがんばらなきゃ、って思うのよ」
 真理佳がうなずくと、まりあはまた優しい笑顔を見せた。それは真理佳が望んでいた通りの、未来の自分の姿といえた。
 その時、見回りを終えたらしいもう一人の看護師が戻って来た。
 真理佳はあわてて、まりあについてどうしても気になっていた質問を最後に切り出した。
 「まりあさん、さっきから気になっていたんだけど、顔や手のその羽根の模様はなあに?」
 すると、初めてまりあの表情がくもった。
 「……そっか、真理佳ちゃんには見えちゃうのか。そうね、自分自身には隠せないよね。たしかに今日はちょっと重いし」
 そしてまりあは、初めて真理佳に対して質問を返した。
 「もしかしたらあなたはまだ、あの羽ばたきを聞いてはいないの?」


     4

 「そうなのね? だからこの羽根模様の意味する事もわからなくて、これから迎える変化がこわいのね」
 まりあは窓に顔を寄せ、ささやくようにそう言った。
 戻って来たもう一人の看護師を気にしての事だとわかっていたが、真理佳は思わず身を引いた。
 それがきっかけになったらしい。窓は突然不透明になり、まりあの姿もかき消えた。
 あわてた真理佳がもう一度窓に触れてみても、息を吹きかけてみても、窓は光を失ってゆく一方で、再びまりあの世界につながる事は無かった。

 すっかり光を失い、窓はまた暗い水面のように静まっている。
 真理佳は、突然の別れを悔やみながら、まりあとの短いやりとりを思い返していた。
 (看護士が小さい時からのあこがれだって、それは真理佳と同じだけど、でもそれだけであの人を、未来の真理佳と信じてもいいのかな……)
 真理佳には、どう判断すればいいのかわからなかった。
 わからないといえば、時間の流れの中で波に揺られるという話や、それに肌に浮かぶあの羽根模様の意味など、真理佳には理解できない事ばかりだ。
 (羽ばたきっていうのは何の事だろう……。いつかそれが真理佳にも聞こえた時、羽根模様の意味もわかるのかな……)
 もっともっと、まりあさんにはいろんな事を聞いておきたかった。真理佳は落胆の大きなため息をついた。
 するとまた、そのため息をきっかけにして、先ほどと同じように白く羽根模様が広がり始めた。
 たった一度のため息だけで、羽根模様は見る間に窓一面に広がりつくす。そしてまたぼんやりと光り始めた。
 (よかった。まりあさんとは、もっと話をしたかったから)
 しかし窓に映ったのは、さっきまでのナースステーションとは違う、暗い無人の部屋だった。
 (まりあさんの家かな。これからまりあさん帰って来るのかな)
 だがあらためて見回してみれば、そこが若い女性の部屋には違いないとしても、まりあにはとても似つかわしくない事は、真理佳にもわかった。
 閉まりきらないクローゼットからは、原色の服がはみ出している。鏡台前の棚の上には、化粧品のビンがあふれそうに並んでいる。
 テーブルの上にいくつか置かれた小箱は、誰かからのプレゼントだろうか。リボンも解かれないまま、雑誌の下でつぶれかけている。
 箱の一つに付いているカードが、真理佳の位置からも見えた。カードにはこう書かれている。
 『マリスへ、かわいい小悪魔へ』
 (マリスというんだ、ここに住んでる人は。ふーん……)
 好奇心から早く会いたいような、しかし不安もあって会いたくないような、真理佳の思いは複雑だった。
 その時、片隅のソファで何かが動いた。よく見ると、クッションのすき間で丸くなっているのは、飼いネコのマユだった。
 「マユ! ほんとにマユなの? どうしてこんな所にいるの?」
 真理佳は窓にひたいを押し当てて叫んだが、声は向こう側には届かないようだ。ただ部屋の静けさだけが、こちらに伝わってくる。
 マユは、その名の通りまゆ玉のように丸まって、再び寝入ってしまった。真理佳は呼ぶのをあきらめた。
 まりあと同様、この部屋に住むマリスという女性もまた、真理佳の未来の姿の一つなのだろう。年老いたマユを目の当たりにした今、真理佳もそれを認めるしかなかった。
 やがて、ドアの開く音に顔を上げると、帰宅したマリスが薄暗い玄関に立っていた。
 マリスは表情が読めないほど強い化粧をしている。さらにそこへ、羽根の模様が白く重なる。
 手にしていたバッグを叩きつけるように床に投げたかと思えば、マユをそっと抱き上げ優しくなでている。行動からも、感情がまったくつかめない。
 マリスはマユを抱いたまま、そして明かりもつけないままでしばらくたたずんでいたが、やがてうつ向いたまま窓辺に近付いてくると、そっとガラスにひたいを付けた。
 いきなりの会話のチャンスに、かえって真理佳は何を言えばいいのかわからなくなり、なんとかこれだけ言った。
 「あの、マリスさんですか?」
 マリスは弾けるように身を引いた。
 「あっ、驚かないで。12才の真理佳です」
 この声がマリスに届いたかどうかは分からない。ただ、彼女の顔には、化粧や羽根模様を通してさえはっきりとわかる、嫌悪の表情が浮かんでいた。


     5

 「よりによって、誰にも会いたくない夜にかぎって現れる、思いがけない訪問者、か。皮肉なもんね」
 マリスは独り言のようにつぶやいた。真理佳に聞こえていようがいまいが、どうでもかまわない様子だ。
 「なんか感じの悪い人」
 真理佳もまた、向こうに聞こえない事を知りながら、内心をあえて口にした。
 マリスの独白はなおも続く。
 「もっとも、他人をみんな遠ざけたい時だって、自分自身まで追い払う事なんて、できないのはわかっているけど。自分自身が相手じゃね……」
 「自分が自分に見られたって、こまる事なんてないじゃない」
 ふだんなら、大人に口ごたえするなど考えられない真理佳だが、今はひどく気持ちがささくれ立っていた。
 それはマリスを未来の自分と、認めたくないせいだろう。
 しかし真理佳は考えてしまう。こうしてマリスを嫌う事は、自分自身を嫌う事にもなるのだろうかと。
 「まったく、過去のあたしが今のあたしを見に来て、今さら何の意味があるっていうの。もともと今のあたしの状況すべてが、過去のあたしのせいだというのに」
 「ひとのせいにしないでよ。自分のせいでしょ」
 言い返してやったつもりだが、マリスに聞こえないのでは意味がない。それどころか、マリスに向けた言葉はすべて、真理佳自身にも返ってくるような気さえした。
 もしもマユの存在を知らずにいれば、マリスも自分の未来の一つと、認めなくてもすんだのだろうが……。
 「そうね、子どもの頃には、あたしも満たされてた。まわりはみんな頼りになる人で、だからあたしはいつも甘えさせてもらってた」
 真理佳はもう口には出さず、ただうなずいた。その点ではマリスもまた、真理佳や昔のまりあと変わりはないらしい。
 「だから今度は、こっちの番よ。そう、あたしの方から甘えてあげる。あたしの方から満たしてあげるの。それで間違いないはずでしょう?」
 「甘えてあげる、って、なんで上から目線になっちゃうの?」
 真理佳は思わずまた声を上げていた。やはりマリスの言う事は、そのまま納得する事ができない。
 「間違いないはず。間違いなかったはずなのに……。でもそれならどうしてあたしを頼ってくれるのは、マユだけなんだろう……」
 マリスは腕に抱えたマユの背中に顔をうずめた。
 今までのマリスの語りは、ただの独り言ではなく、もちろん真理佳に聞かせるためでもなく、マユに対して話しかけていたのだと、今になって真理佳は気付いた。
 「マユだけが、本当にあたしを慕い、頼ってくれる。だからあたしが頼りにするのも、マユだけだよ……」
 マユを抱えたまましばらく立ちつくしていたマリスだったが、不意に部屋の明かりをつけると、窓辺に近付いてきた。
 そして窓越しにじっとこちらをみつめる。帰って来た時と同じ、表情の読めない顔をして。
 真理佳も思いきってマリスに向き合ったが、そこでふと思った。マリスは窓のこちら側を見ているのでなく、ただガラスに映るマリス自身を見ているだけかもしれないと。
 その瞬間、窓はいきなり光を失い、暗い水面のように沈んだ。マリスの世界との接続は、突然にして切れてしまった。
 「今度は窓から離れなかったのに……。きっとあの人の方から切ったんだ……」
 あまり関わりたくないタイプの相手だったが、向こうから一方的に切られたとなれば、それはそれで腹立たしい。
 (ほんと感じの悪い人だったな。きっと、自分に自信が持てないタイプね。だからいいわけばっかりで)
 きっとマリスは、過去に何かの負い目があり、そこからくる不満をぶつけたかったのだろう。真理佳はそう考え、これきりマリスの事は忘れようと思った。
 (イヤな事はこれでおしまい。さあ、今度こそまりあさんに会いに行こう)
 真理佳は窓に触れたままの自分の手の先を、なにげなくみつめた。そして驚きのあまり、顔をこわばらせた。
 (なんで? なんで真理佳の体にまで?)
 真理佳の指先の爪それぞれに、あの白い羽根模様が広がっていた。


     6

 両手を胸の前で押さえ込むように握りながら、真理佳は気を落ち着かせようとけんめいになっていた。
 (こわがったらだめ。不安がったらだめ。こんな気持ちで窓に向かっても、まりあさんには会えない。こんな気持ちじゃ、またあのマリスの部屋につながるだけ)
 真理佳はこの窓の法則に気付き始めていた。深く強い息の先にまりあが現れ、ため息の向こうにはマリスが現れた事で。
 この窓は、上向きの明るい気持ちで向かえば、明るい未来を示してくれる。だが反対に、下向きの気持ちは良くない未来につながるのだろう。
 (だからまず、気持ちを明るく持たないと)
 真理佳はつとめて明るい表情を窓に映そうと考え、口もとで笑顔を作った。そして深く息を吸い込み、強く息を吹きかけた。
 これまでと同じように、羽根模様が息の中から窓の面へと広がり、光を帯びる。
 だがその光は映像を映し出すより先に、不規則にゆらゆらと揺らぎ始めた。見慣れぬ変化に、真理佳は思わず息を詰めて光に見入った。
 やがて、揺らぎの向こうには、間近に顔が見えてきた。不自然に、下から見上げるような構図で。そしてその奥にあるのは、壁ではなく天井だった。
 窓は、浴槽の湯の面に、上向きにつながってしまったらしい。
 ゆらゆらと揺らいで見上げる顔は、たとえ間近であっても人相をつかみきれない。
 だが、表情をかみ殺したようなほほやあごの線から、何より明かりを消した暗いままの浴室から、それが誰だか真理佳にはすぐわかってしまった。
 「どうして? どうしてマリスの未来につながるの? ちゃんと笑顔で窓に向かったのに」
 その声はマリスにも届いていた。
 「過去のあたしが来てるのね。まったく、今のあたしを見たくないなら、わざわざ来なくていいじゃない」
 「べつに来たくて来たわけじゃないもん」
 まりあに会えなかった落胆の反動から、真理佳はあからさまにマリスに反発した。
 「ほんとはもっと良い未来に行くはずだったのに。ちゃんと笑顔を作って窓に向かったから、今度こそちゃんと……」
 「そのせいよ」
 マリスがさえぎった。
 「無理に笑顔を作ったんでしょ。作り笑いの結果が今のあたしにつながるなんて、いかにもふさわしいじゃない。そうでしょう?」
 「…………」
 「でも、来てほしくなかったあたしと、来たくなかったあんたと、ある意味お似合いなのかもね」
 そう言ってマリスは口もとだけで笑った。
 口もとだけの、薄っぺらな作り笑い。自分もさっきは同じ表情を浮かべ、それがもとでマリスの未来につながったのだと、真理佳は思い知った。
 気付けばもうマリスは笑っていない。
 その無表情と無言とが、なんだか自分に向けられた非難のように感じられ、真理佳はとりつくろうように声をかけた。
 「あの、マリスさん? 今日はお仕事は?」
 「今日は休んだわ。鳥の羽ばたきが、あんまりうるさかったから」
 「……そう、おだいじに」
 前回と違って声が届くとしても、やはりマリスの相手はむずかしい。
 「べつに心配してもらわなくたって、あんたがいなくなってくれて、あとはマユさえいてくれたら、あたしは平気よ。ねえマユ」
 マリスは浴槽の外に声をかけた。
 「マユ? マユはそこにいるの?」
 「もちろんよ。一緒にいられる時は、いつも一緒にいるんだから」
 「マユかあ。きっとマユも、もうおばあちゃんネコなんだろうね」
 「おばあちゃんですって? あのね、マユは手術受けてるから、いつまでも女の子のままよ」
 「ええっ、未来には年をとらない手術があるの?」
 「もう、ふざけた事ばかり言わないで。マユは不妊手術を受けたから、子どものままだと言ってるの」
 「…………」
 「どうやらあんたもまだ子どものようね」
 「…………」
 真理佳はマリスとの会話をあきらめた。不愉快な気分にさせられるだけだし、ほっておいてもまたマユを相手に話すだろう。
 「ああ、でもこんな日は、マユがうらやましくなるわ。鳥の羽ばたきが、もううるさすぎて……」
 化粧をしていないマリスの顔には、羽根の模様がいっそう白く浮かび、それがどこか痛々しい。
 「羽根の冷たさがジンジンしみるように響いて、湯につかっていてもなんだか寒いの」
 そう言いながらも、マリスは蛇口から浴槽へ水を注いだ。湯に波が広がり、窓の映像も乱れる。
 その時、突然マユが浴槽の縁に飛び上がった。そしてそのまま勢いあまり、湯の中へ落ちてきた。
 『マユ!』
 真理佳とマリスの声が重なった。とっさに受け止めようと伸ばす、二人の両手も重なった。
 そして……、
 マユは窓のこちら側で、真理佳の腕の中にいた。


     7

 未来のマユも、真理佳の時代のマユとそれほど変わりないように見える。
 頭を振って鼻先のしずくを飛ばしてしまうと、そのまま真理佳の腕の中で心地良さそうに丸くなった。
 「ほんとうに、マユは今も子どものままなんだね。さっき飛び上がってきたのも、水が流れるのを近くで見たかったんでしょ」
 真理佳は笑った。マユはもう眠そうに目を細めている。
 「ねえマユ、今でもまだ、洗たく機やトイレに落ちそうになったりしてるの?」
 しばらく揺らめきを残していた窓も、しだいに静まっていった。

 マユを抱いた充足感の中で、真理佳はもうマリスの世界を忘れていた。
 今の気持ちのまま窓に向かえば、今度こそ間違いなく、まりあの世界につながるだろう。
 腕の中のやわらかな丸みと重みを感じながら、真理佳は優しい気持ちで、目もとからの笑みを顔いっぱいに広げた。軽やかに息を吹きかけると、白い羽根模様も踊るように散り広がった。
 やがて窓の向こうに見えてきたのは、保育園の室内だった。
 幼い子ども達に囲まれて、オルガンを弾きながら歌っているのは……
 「あっ、まりあさん! ああ、やっとまた会えた」
 真理佳は思わず声を上げていた。それはたしかにまりあだった。
 この世界のまりあは、保育士をしているらしい。それもまりあにはふさわしいと、真理佳は思った。
 そして、自分の未来としてもふさわしいと。
 (最初に見た看護師もいいけど、やっぱり保育士もいいなあ。そういえば、これで四つ目の世界になるんだっけ。四つの未来か……)
 真理佳はこれまでに見てきた窓越しの世界を、一つ一つ思い返した。
 息づかい一つ、表情一つを違えるだけで、その先にはまったく違う未来が広がった。
 今の自分の小さな動き一つで、大きく変わってゆく未来……。
 (……なんだかすごくこわい。でも、なんだかすごく楽しみ)
 真理佳は、今の自分の行動がどれほど重要かを実感したが、それでも重圧よりも期待を大きく抱いていた。

 やがて、おひるねの時間になった。
 子ども達を寝かしつけたまりあが、カーテンを閉めるため窓辺に近付いてくる。
 ようやくまりあと話をするチャンスが訪れた。真理佳は腕の中のマユを起こさないよう気づかいながら、片手を窓に当てた。
 そしてまりあの手がガラスに触れた一瞬をとらえて、すばやく声をかけた。
 「まりあさん。びっくりしないで。12才の真理佳が会いに来ました」
 さすがに四度目ともなれば、慣れたものだ。
 まりあは驚いた顔をしたものの、窓からは離れずにそのまま背後でカーテンを閉めた。そして両手を顔の上にかざすようにして窓に触れると、寝付いた子ども達を気づかいながら小声で話した。
 「昔の、私なの? でも、まりかちゃんって?」
 「それは、時間の流れがいくつかあるみたいで……」
 真理佳は自分でもよくわからないまま説明したが、まりあはすぐに納得してくれた。
 「なるほどね。つまりまりかちゃんにとっては、未来はいくつもあるって事ね」
 つたない言葉でもまりあは理解してくれる。真理佳は、マリスではなくまりあこそが、未来の自分と確信した。
 「まりかちゃんの顔を見たいんだけど、外が明るすぎて無理みたい。でもどんな顔かは想像できるよ。って当然よね、子どもの頃の自分なんだから」
 まりあの言葉に、真理佳もつられて笑った。
 「真理佳もね、まりあさんの事がわかるよ。子どもの頃は甘えんぼうで、だから大人になって逆に頼られる存在になりたくて、今の仕事を選んだんでしょ?」
 「ええ、まったくその通りよ」
 「だって、自分の事だからね」
 二人は笑った。それはおたがいまったく意識しないままの、まったく同じ笑顔だった。
 「まりあさん、ここへ来る前にね、別のまりあさんにも会ったよ。看護師さんのまりあさん」
 「看護師か……。そうね、そういう道もあったのね……」
 まりあは不意に遠い目をした。と思うと、すぐまた真理佳の姿を追うように間近に視線を戻した。
 「24の私にとっては、それはもう別の世界でしかないけれど、12のあなたにとっては、そのどれもが未来の可能性なのね」
 「……うん」
 「可能性の大きさではね、子どもは誰にも負けないのよ」
 真理佳は、なぜか今になってマリスの事を思い出していた。
 マリスは本当に、過去の自分に負い目を抱き、その反感を真理佳にぶつけていたのだろうか。
 あるいはむしろ、未来に可能性を持つ真理佳の事をうらやましく思い、また愛おしくさえ思い、しかしそれを素直に表現できずにいただけなのかもしれない。


     8

 「ねえまりあさん、今日は体のぐあいはだいじょうぶ?」
 「へえそんな事もわかるんだ。まりかちゃんまるで看護師みたいね」
 「フフッ」
 「朝はちょっとつらかったけど、今はだいじょうぶよ。ありがとう」
 「そう、よかった」
 「子ども達の相手をしている方が、かえって元気になれるみたい」
 「まりあさんって、ほんとに保育士なんだね」
 まりあは笑ったが、少ししてから思いきったように言った。
 「そろそろ仕事に戻らなきゃ。まだまだ話をしていたいんだけど、ごめんなさいね」
 「みんなまだ寝てるのに?」
 「この時間のうちに、日誌を書いたり連絡ノートを書いたり、仕事はいつでもいっぱいあるの」
 「ふうん、大変なんだ」
 「そうよ大変なのよ。でもね、だからがんばってみる価値があるし、やりとげた時には満たされるのよ」
 「うん、わかった」
 これ以上仕事の邪魔をしてはいけないとは思ったが、真理佳にはもう一つだけ、聞いておきたい事があった。
 「まりあさん、最後に一つだけ。マユは元気にしてる?」
 「マユ? マユって?」
 「ネコのマユよ。まさか、……もう、いないの?」
 「ううん、もとからネコは飼っていないよ。ミミってウサギなら、子どもの頃に飼ってたけどね」
 「…………」
 真理佳は言葉を失った。
 まりあの世界には、マユは存在していない。では現在マユを飼っている真理佳の未来は、そのままマリスの世界へつながる可能性しかないのだろうか。
 「まりかちゃん? どうしたの?」
 可能性、可能性……。真理佳は考えた。自分の未来が、まりあの世界につながる可能性を広げるには……
 「まりあさん、おねがいがあるの」
 「え?」
 「今ここにね、その、別の世界から迷い込んだ、ネコのマユがいるの。この子を、まりあさんの世界で引き取ってほしいんだけど」
 「いいけど、どうすれば?」
 「受け止める準備をして。真理佳の方で送り出すから」
 「わかった。おねがいね」
 マユを抱いた真理佳の両手は、先ほどマリスの世界でマユを受け止めた時のように、窓をあっさり通り抜けた。そして何の抵抗もなくまりあの両手と重なり……、
 マユは窓の向こう側で、まりあの腕の中にいた。
 「ああ、マユってあなただったの!」
 まりあが大きな声で言った。だがマユが通り抜けた頃から窓は激しく波打ち始め、その姿はもう見えない。
 「おぼえてる。そう、ずっとおぼえてた。あの時あなたを助けられなかった負い目を、今までずっと引きずっていたの」
 窓は波立って何も見えないが、まりあの声だけは響いてくる。
 「でも、もう後悔しなくていいのね。あの時あなたを引き取っていたらという、もう一つの可能性が、今現実になったから。まりかちゃん、ありがとう」
 それきり、まりあの声も聞こえなくなった。だが最後に一瞬だけ、大きく揺れる窓の中に映像が浮かんだ。
 それは丸くなってくつろぐマユの背を、優しくなでている手だった。
 (あれはきっと、まりあさんの手)
 爪を赤く塗っていないから、マリスの手ではないはずと、真理佳は思った。
 (これで、マユの未来と一緒に真理佳の未来も、まりあさんの世界につながったのかな)
 その時、窓はひときわ大きく波打ち、真理佳は体ごとその波の中にのみ込まれていた。

 揺れるカーテンにほほをなでられてふと気付くと、真理佳は自宅の部屋の中で、外を向いて窓辺に立っていた。
 ふり向くと、マユがパソコンの上を歩き回っている。
 「あーもうマユ、ダメでしょ、パソコンこわれちゃう」
 真理佳は走り寄ってマユを抱き上げた。そして叱るつもりが、なぜかつい背中を優しくなでていた。
 (あれ、この光景、ついさっきも見たような……)
 真理佳はふと手を止めて、自分の爪をじっと見た。爪には何も変わったところはない。
 (…………。あ、そうだ思い出した、チャットの途中だったんだ)
 真理佳はマユを床に降ろすとパソコンに向かった。
 パソコンの画面上には、マユが歩き回ったせいで打ち込まれたでたらめな文字が、まるで何かの模様のように一面に散っている。
 なんとなく疲れをおぼえた真理佳は、チャットの相手にあやまってから、パソコンの電源を落とした。
 暗くなった画面上に、見慣れた自分の顔が映る。目もとは父親にそっくりで、口もとは母親にそっくりな顔が。
 (でも、大人になってどんな顔になるかなんて、まだわかんないよね。表情少し変えるだけでも、未来は大きく変わるんだから)
 真理佳は目もとから笑った。画面に映る笑顔はまるで、優しい未来の自分が窓越しにほほえみかけてくれるようだった。


パビリオン入り口へ