風のゆくえ − この手を離れる時 −


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     7

 貯水池のほとりは静まりかえっている。風が吹き抜け、時おり木や草がざわめくほかは、なんの物音もしない。ただ単調なセミの声が、遠くから響くだけだ。ここまで絶えず水音を聞き続けていた耳には、それがひどく不自然に感じられた。
 同じように、これまでずっと綾香と距離をおいていた涼は、今になって並んで歩きながら言葉を交わしている事に、軽い違和感を覚えていた。
 「さっき、たきのところでさ、ハチのすなんか見てただろ? だからアブがハチに見えたりしたんだよ」
 「そうじゃなくても、もともとにてるじゃない」
 「それはこわいこわいって思ってるからさ。ハチ、そんなにこわい?」
 「そりゃあね」
 「なんにもしないでさされる事なんてめったにないし、それにさされたってちょっといたいだけじゃないか」
 とりとめのないおしゃべりの合い間にも、涼は綾香に対するかすかな緊張感を未だぬぐいきれずにいた。そんなぎこちない気分から、かえって涼の口数は多くなった。
 「ぼくなんか、アシナガバチにもクマバチにもさされた事あるよ。スズメバチはまだないけど」
 「まだ?」
 「うん。なんか、そのうちさされるんじゃないかって気がする」
 きれいな花が咲いていると知らせる綾香の母の声に、二人の会話は中断された。
 「えっ、どこに?」
 「ほらこの下の方に」
 「あ、きれい……」
 「変わってるわねえ、なんだかレース編みみたい」
 「ええ、作り物みたいね」
 綾香の母と涼の母はそんな事を言いながらも、さして興味のない様子で通り過ぎて行く。綾香一人が、魅入られたようにその場に残った。
 「ほんときれい……」
 涼も綾香の横に並んで花を見た。さくの向こうの草やぶの中に、カラスウリの花がたった一輪白く咲いている。
 涼には、その花をきれいと言う綾香の気持ちが分からなかった。涼にしてみれば、けば立つようなその花はひどく気味悪く見えた。何やら呪いでもかかっていそうにさえ思える。それでもさくの間から手を伸ばす綾香の事を、涼はほうっておく気になれなかった。
 「そんなとこからじゃとどかないって。ぼくが取ってやるよ」
 涼は綾香の返事も待たずに、さくに足を掛けて身を乗り出した。そうしていっぱいに手を伸ばせば、なんとか花に届きそうだ。
 ところが、指先がほんの少し触れただけで、花はポロリと落ちてしまった。不自然なほどにあっけなく。
 花は元の形を保ったまま、クモの巣に引っ掛かって宙に揺れている。もう手は届かない。綾香はしきりに残念がり、涼もよけいな事をしたように感じて気落ちした。
 「逃がした魚は大きいなんて悔やんだりせず、手の届かないブドウはすっぱいとあきらめたらどうだ?」
 いつの間にか後ろに来ていた綾香の伯父が、そんなふうに綾香に言い聞かせた。
 (手がとどかなくなったらすぐにあきらめるなんて、そんな事できるわけないよ)
 涼には、綾香の今の気持ちがよく分かった。さっきまでは確かに身近にあったから、なおのことあきらめきれないのだと。涼はどことなく冗談めいた伯父の言葉に反感を覚え、そして綾香に心から同情した。

     8

 綾香は、再び伯父の手につかまりながら歩き出した。涼はそんな二人をあえて無視して、ちょうど木々の間から目の前に舞い出たアオスジアゲハを追いながら、早足で先に進んだ。
 曲がり角の手前では、綾香の弟と涼の弟達が三人で、競ってまつぼっくりを貯水池めがけ投げていた。
 なんとなく涼もそのまつぼっくり投げに加わったが、追い付いてきた綾香の伯父に、やんわりとたしなめられた。
 「市民の飲み水に物を投げ込むのはよした方がいいなあ。それよりも、向こうの山めがけて大きな声を投げかけてみないか。こだまが返るかもしれないぞ」
 そう言うと、伯父は両手を口にかざして大声でさけんだ。
 「ヤッ、ホ−ッ!」
 声の末尾を鋭く切ると、その後には短い余韻が残った。涼の考えていた、同じ言葉が時間をおいて繰り返されるといったこだまにはほど遠いが、それでもその余韻は、対岸から返った声とはっきり実感出来る遠い響きを持っていた。
 「ヤッ、ホーッ!」
 涼も思いきり大声でさけんだ。そして自分の声に続く余韻を、確かに聞いた。涼は幼い頃から何度となく山歩きをしているが、自分の声のこだまを聞くのは、これが初めての事だった。涼は身ぶるいした。
 弟達も、面白半分にまねしだした。
 「アッホー!」
 「タッコー!」
 「カッコー!」
 涼はそんな弟達の声をかき消すようなつもりで、気も遠くなるほどの大声でさけんだ。
 「ヤーッ、ホーウッ!」
 「なかなかいい声をしてるな。うん、よく通るいい声だ」
 綾香の伯父にそうほめられて、涼は複雑な気分でうなずいた。
 この人はとても気さくで優しい人で、好感が持てる。しかし一方では、綾香の気を引くうえでじゃまになる相手でもある。だがそんな反発感情をいつまでも抱いていると、伯父の好意的な態度に接するたびに自己嫌悪が芽生えるし、また綾香が自分よりも伯父の方により親しむのも当然と思えてくる。
 「ヤッホーッ! ヤッホーッ!」
 涼はどうしようもなく複雑にからみ合う感情に耐えかねるように、対岸の山に向かって繰り返しさけび続けた。

     9

 静まる貯水池を過ぎ、涼達は再び瀬音をたどりながら歩いた。そしてひときわ水音が高まり、人達の声がそれに混じるようになると、そこはもう目的地の川原だ。
 木陰の山道から、陽を照り返す白い石の川原へと降りて行くと、涼は目のくらむような思いがした。それはまぶしさのためばかりでなく、あまりの人の多さに圧倒されたためでもある。
 人達のざわめきにかき消されるように、カジカの声は遠くか細い。茶色い羽根のカワトンボが一匹、流れの上を滑るように飛んでいたが、そのまま防砂ダムを越えると下流へ飛び去ってしまった。
 涼は面白くなかった。この人込みのあまりのにぎやかさに、涼はますます自分が一人きりになったように思えた。
 ここへ来て、子ども達と大人達は完全に別行動となった。弟達は靴を脱ぎ捨てると大急ぎで流れの中に駆け込む。母達は広げたビニールシートの上に座り込み、昼までの時間おしゃべりでもしながら過ごすのだろう。
 涼はそのどちらの仲間にも加われずにいた。はだしになってとりあえずは川に入ってみたものの、向こうで魚を追っている綾香や弟達の中に自然に加わる事が出来なかった。ほんのひと足遅れただけなのに、なぜかしりごみしてしまう。足もとの赤茶けた砂の上に波と光がゆらめくのを、涼はただぼんやりとみつめていた。
 「涼ちゃん、ちょっと来て」
 上の弟が涼を呼んだ。涼は声をかけられるのを待ちかまえていたように、急いでみんなの所へ駆けて行った。
 「なに?」
 「なんかのたまごがあるんだ。ほらここ。なんのたまご?」
 弟の指差す辺りを涼はのぞき込んだ。石と石の間にからんだ藻の中に、小さな球がいくつか見える。涼はあきれかえって藻をむしり取った。
 「あー、流しちゃった」
 「あわだよ、ただの空気のあわ。なにがたまごだよ」
 ばからしくなって、涼は岸に上がった。
 岸では父が一人で、はんごうや燃料を準備している。
 「なにしてんの?」
 「ああ、コーヒーをいれようと思ってな」
 父は固形燃料の缶を開けて火をつけると、水を入れたはんごうをその上にのせた。
 「こんなところで……」
 涼はあきれたようにつぶやきながらも、今は父も一人きりなのだと突然気付いた。それでも父は涼とは違い、一人を気にかける様子もなく悠然とかまえている。
 涼はそのまま黙って父の横に座ると、固形燃料の炎を静かにみつめた。

     10

 お湯がわくまで、かなり時間がかかるらしい。じきに涼は、しびれをきらして立ち上がった。
 にぎやかな場所に一人でいると、何をしていても間が持たない感じだ。涼は持てあました時間をつぶすつもりで、はだしのまま林の方へ歩いて行った。
 涼はしばらく木々の間をぶらつきながら、意味もなく枝を引っ張ったり草をむしったりしていたが、不意に背後から綾香に声をかけられた。
 「川村くん」
 綾香は、涼を呼ぶ時にも、二人の弟を呼ぶ時にも、同じようにこう呼びかける。今まではなんとも思わなかったその事さえも、今の涼にはひどく味気なく感じられた。
 「なに?」
 「そろそろお昼食べようって。もどろうよ」
 「ああ」
 「ねえ、なにさっきからへそまげてるの? ずっとつまらなそうにして」
 「べつに」
 「ほらまた」
 「なにが?」
 「おもしろくなさそうな顔してる。せっかく来たんでしょ、みんなと遊ぼうよ」
 「…………」
 「もう最後なんだから。ね」
 「……うん」
 「おかしいよ、いっつも笑ってる子がそんな顔してたら」
 「いいだろべつに。うるさいなあ」
 綾香は身を返した。涼は綾香の後ろ姿に声をかけあぐねて、戻って行く水色の服の背中をただ黙って追った。
 (もう最後なんだから……。もう最後なんだから……)
 さっきの綾香の言葉を、涼は心の中で繰り返しつぶやいた。
 もう最後なのだから、弟達と一緒になってはしゃぐわけにはいかないと涼は思っていた。そんな事を繰り返していれば、綾香に子ども扱いされるばかりだと気付いたからだ。
 綾香の気を引くために、はしゃいでみせる事しか出来なかったなんて、今にして思えばあまりにみじめだった気がする。しかしだからといって、こうして無理にそっけない態度をとるのもまた、くだらない事に思える。距離をおく事で、心が満たされるはずなどないのだから。

     11

 昼食を食べ終えると、涼は模型のボートを持って下流に向かった。
 「せっかく持って来たのに船で遊ばないの?」
 母にそう言われるまで、涼はボートの事などすっかり忘れていた。
 小さな防砂ダムの下流に行くと、川は深く広くなり、流れをゆるめている。ダムから流れ落ちる水に注意する必要はあるものの、ここならボートを走らせるのに充分な広さがある。涼はボートにバッテリーをセットした。
 「今のモーター見た? あれほんとはもけいひこうきにつけるモーターでね、涼ちゃんがいろんな店をさがし回って、やっとみつけてきたんだ」
 小さい弟が、綾香の弟に説明した。まるで自分が作ったとでもいうような、その自慢げな口調がなんだかおかしい。
 本当は、涼も綾香に自慢したいような気持ちで、このボートを持って来たのだった。だが冷静に考えてみれば、女の子が模型に興味を示すとは思えない。さめた気分で涼はスイッチを入れ、オレンジ色の甲板をはめ込むとボートを水に放った。
 確かにボートは速く走った。とはいえラジコンと違い単調に直進するだけで、涼はじきに飽きてしまった。弟達は歓声をあげながら水の中を駆け回っている。けれど綾香はやはり、岸から静かに眺めるだけだ。
 小さなバッテリーは五分とたたずに切れた。涼はボートを弟達にあずけると、川から上がった。
 「速いぶん、電池の切れるのも早いや」
 綾香を笑わせようとおどけたように涼が言うと、綾香もからかうように問い返してきた。
 「それであきるのも早いの?」
 「まあね」
 本当は、ほかの事に気が向いているために、ボート遊びに心から熱中出来ないのだが。
 涼は細い登り坂を回って、防砂ダムの上に出た。
 弟達が動かないボートで遊んでいるのが、すぐ下に見える。三人は、時おり水をかけたりと、かなり乱暴にボートを扱っている。それでも涼は何も言わず、勝手にさせていた。
 岸にいる綾香も弟のそんなふるまいを見ていて、時おり気にするように涼を見上げた。けれども涼はそれにもかまわずに、ただ考え事に没頭していた。

     12

 涼は防砂ダムの上にたたずみながら、風や水の音すら忘れるほどに考え込んでいた。
 今までは弟達と一緒になって、綾香ともまるできょうだいのようにはしゃいでいて、それで充分満足だった。それがなぜ、今になって急に物足りなく思えるのだろう。涼にはそれが、自分でも不思議でならなかった。
 (もう最後なんだから……)
 涼はもう一度、その言葉を心の中でつぶやいてみた。
 (もう最後だから、……だからそうなんだ)
 別れを前にして初めて、涼は綾香を特別に意識する自分の気持ちを自覚した。
 涼は無意識のうちに、綾香に自分の事を唯一の存在と印象付けて別れたいと考えていたのだろう。遊び仲間の一人としてではなく、もっとも身近にいた一人の少年として。
 ようやく自分の思いをはっきり自覚した涼だったが、だからといって迷いがすっかり解けたわけではなかった。
 (じゃあどうしたらいい? 今さらあいつらの仲間に入っても意味ないし、でもこんな所に一人でいたって……)
 どうすればいいのか分からないもどかしさは、さっきまでとまったく変わらなかった。
 (こんな所に一人きりでいたって……)
 不意に、背後から強い風が吹きつけた。ひと吹きの風は、涼の野球帽を宙に舞わせた。
 「あっ!」
 グレーの野球帽は回りながら木々をくぐり抜け、流れの上を飛んで行く。もう取り戻せないと悟った涼は、かたく目をつぶった。せめて帽子が水に落ちるのを見ずにすむように。
 再び目を開いた時には、帽子はもうどこにも見当たらなかった。
 涼には、あの帽子は未だにどこかを飛び続けているように思えた。いつまでも……、今でも……。

     13

 それまでもっとも身近だったものが、不意に手の届かない果てへと去ったこの日の事を、涼は今でもはっきり覚えている。風に乗り飛び去った帽子のゆくえを、今でも時おり気にかける事がある。
 引っ越しの日の朝、涼は新しく紺色の野球帽を買い、新しい町ではいつもその帽子をかぶった。またその後も帽子を買い替えるたび、強い愛着を持ってそれらを大切にかぶった。
 しかしそうしながらも、あの日の出来事はいつまでも頭から離れず、不意に遠くへ去ってしまった大切な存在も、今でも心に残っている。

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