風にまかせて − モンゴルに見た輝き 6 −
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3 リーブズ
練習走行の時にも、紙芝居の時にも、イエローとブルーの兄弟は僕に対して、いつも必ず「グリーン」と呼びかける。「グリーンシープ」の呼び名は、もうすっかり定着していた。
紙芝居。そう、僕らは自転車ばかりでなく、紙芝居の練習もしている。内モンゴルの小学校を訪問する、その時のための準備として。
紙芝居の読み手は何人もいる。だから配役を割り振って、それぞれが自分のセリフを読み分ける。紙芝居は児童館でも読むが、こうしてみんなで演じるというのは、初めての経験だ。
自転車。そして紙芝居。これまで一人でやってきた事を、今僕は初めて、大勢の人達と一緒に取り組んでいる。とまどう事も多いが、イエローやブルーとのコンビで当たるなら、なんとかやっていけるだろう。
ところで、僕は主役の桃太郎。もしもグリーンの呼び名が定着する前なら、ピーチとかピンクとでも呼ばれていたかもしれない。
ある練習走行の日、その朝は雨が降っていた。
今日の練習は休みだろうか。電話で確認しようか。だが僕は電話が苦手だ。直接確かめる方がまだましと、僕は雨の中を明石へ向かった。
出かけた理由はもう一つある。旅行説明会の際に配られたアンケートはがきを、僕はその時提出し忘れていた。だからその日、担当の人に直接手渡すつもりだった。
だが、集合場所には誰も来ない。やはり中止だったようだ。仕方ない。僕はまた雨の中を引き返した。この日、一人きりの練習走行、往復約50キロ。
しかし不満はない。自分自身の判断による行動なら、たとえどんな結果でも納得できる。少なくとも、雨中走行のいい経験にはなったと思う。もっと上等なレインウェアを用意しなければ。それから、顔への雨滴を防ぐバイザーを自作しよう。
ところで、例のアンケートはがきについては、その夜になって電話があった。同好会の事務局に宛てて、郵送すればいいとの事。だが住所を聞くと、そこは以前に郵便配達のバイトをしていた時、僕が担当していた区域だ。よし、それなら直接持って行こう。僕は手紙も苦手だ。
翌日、僕は直接みずから郵便配達に出かけた。半年前に赤い郵便自転車で走っていた、なじみの担当区域ヘ向けて。
ふと思った。そういえばあの郵便配達もまた、みんなで協力しながら走る、集団サイクリングだったのかもしれない。今日はその同じ場所を、自分の自転車で個人的に走っている。なんだか不思議な気がした。
突然雨が降り出した。僕はまたもや濡れる羽目になった。
翌週の練習走行、二度目のフリーランで、僕は高校生の「シルバーバード」に破れた。またもや2位か……。
僕はすぐに自転車店に駆け込み、径の小さいスプロケットに交換してもらった。ギア比が大きくなった事で登坂はきつくなったが、その分速度は出るはずだ。長距離用のランドナーでロードレーサーにどこまで対抗出来るか分からないが、チューンナップしたグリーンシープで、いつか再び勝負をかけよう。
仲間ばかりか、いいライバルも得られた気がする。
この「シルバーバード」も、前回に僕を抜いた「シルバーボア」も、イエローやブルーと共にそろって紙芝居の出演者だ。そしてもう一人の出演者、中学生の「ブラックマウス」とも、いいおしゃべり相手になる事が出来た。
紙芝居の練習は、なごやかに、順調に進んでいる。
これで僕は、すっかりサイクリングメンバーの一員となる事が出来たのだろうか。
いや、そう言い切る自信はまだ持てない。
ある練習走行の日、休憩時間に僕は勝手に海岸へ降りて集合に遅れた。またある別の日には、昼食後に食堂となりのゲーセンでゲームに夢中になり、やはり集合に遅れた。
僕の衝動的な行動が、周囲に迷惑をかけているのは明らかだ。自分の興味や関心を押し殺すつもりはないが、もっと自制する必要はあるだろう。
ふと、アンケートはがきを届けに行った日の事が、頭をよぎった。
郵便配達のバイトの際は、区域も順路も、時間も決められていた。その同じ場所を、あの日は自分の気まぐれで勝手に走った。違和感を覚えたのも当然だろう。
僕は今また、集団に属している。
僕はもう、たった一枚の葉ではなく、多くの葉の中の一枚なのだ。だからもう、ただ一人はみ出すわけにはいかない。ただ一人ざわめくわけにはいかない。
7月のある走行練習の日、メンバー紹介の名簿が配られた。あのアンケートはがきの末尾に書き込んだ言葉が、そのまま自己紹介として掲載されている。
それぞれの顔写真も並んでいる。僕の顔写真もまた、その中に整然と収まっている。これだけ見れば、僕もリッパに「多くの葉の中のただ一枚」なのだが。
モノクロに沈む写真を皮肉な思いで眺めるうち、ふと妙な事に気付いた。以前にもらった旅行者名簿には、45人の名前が連なっていた。ところがこの名簿に並ぶのは、46人の顔写真。整然どころじゃない、一人余計じゃないか。
謎の46人目は、二つの名簿を見較べればすぐに判明した。だがそれを確かめた後、僕はますます落ち着きを失った。
その人の名前は、僕が記憶しているかつてのクラスメイトの名前だった。
4 ヒロインズ
ひさしぶりに、幼年時代を過ごした古い市街を訪ねてみた。
あの頃の僕の家は跡形もなくなってしまったが、小学校は不思議と変わらずに残っていた。陽炎と蝉時雨の中、当時と同じ制服の女の子が通り過ぎる。僕は自転車を停め、その軽やかな後ろ姿が歩道橋に消えるのを見送った。
そういえば、明日から夏休み。
名簿の46人目の名前は、その小学校で2年生の時に同じクラスだった、ある女の子のものだ。その子について今も憶えているのは、色の白い子だったという事。髪のきれいな子だったという事。だが大人になったモノクロの顔写真では、本人かどうか判断がつかない。
次の練習走行の日、おしゃべりする女性達の輪の中に、僕は意を決して割って入った。直接本人に確認する決意をもって。その結果、あっさり事実は判明した。やはりその人は、かつてのあの子だった。
だが、僕が当時の名字を名乗っても、その人は僕を記憶してはいなかった。つまりこれは再会ではなく、初対面のようなもの。……まあいいか、あの頃のスカートめくりも時効となったようだし。
さあ、練習走行に気を入れよう。
練習走行もいよいよ大詰めとなり、距離も徐々に伸びてきている。しかし今になって初めて参加する人にとっては、いきなりの長距離は大変なのではないだろうか。僕にとってはまだ物足りないが、少し気になった。
メンバーの中には、イエローとブルーの兄弟のほか、遠く舞鶴から参加する、ローティーンの姉妹もいる。名簿の写真でしか知らなかったその姉妹のうち、妹の方がようやく練習に姿を見せた。
(やはり家が遠いから、練習参加も大変なんだろうな。だがいきなり現地で本番ともいかないだろうし。最後の練習くらいは、姉さんの方も参加するかな)
結局、僕はちっとも練習走行に気が入っていない。
帰り際になって、僕はその子に声をかけた。
「この自転車のグリーン、どう思う?」
じつは近所を走っていた時、4年生のマリちゃんに、「ヒロさんの自転車、色がヘン」と言われてしまい、それ以来、自転車に対する周囲の評価が、気になって仕方ないのだ。中でも特に、女の子の評価が。
「なあ、べつにヘンな色じゃないだろう?」
「…………」
その子は黙ったまま、ただ首をかしげた。もともとおとなしい子なのか、それともウソを言うのが嫌なのか。……手厳しいよ、女の子というのは。
やはり男同士の方が気楽でいい。
最近イエローとブルーと僕は、昼食のうどんにトウガラシを真っ赤になるほど入れ、強がって「激辛党の一味」を名乗っている。中でもイエローは陽気な奴で、走りながらいつも歌っている。僕はサイクリングの歌を作って贈った。内モンゴルの草原を走りながら、彼らと合唱する日が楽しみだ。
しかし男の子の中にも、会話のはずまない相手はいるが。
ブラックのほかにもう一人、中学生の男の子がいる。銀色の自転車に乗り、ウシ年だというので「シルバーオックス」と名付けたが、そんな猛々しい呼び名の似合わない、物静かな子だ。
その日の帰り、オックスの母親が用事で迎えに来られず、たまたま帰り道の同じ僕が、途中まで彼を送る事となった。
「汗かかないのはいいけどさ、やっぱ太陽出ないと夏としては物足りないな」
「…………」
「けど今日の雨、たいして降らなくて助かったよな」
「…………」
なんだか独り言をつぶやくようで、じきに僕も口をつぐんだ。
だがその沈黙は、重苦しいものではなかった。むしろ僕は彼に、親近感を覚えていた。
僕は緊張する相手に対して、必要以上に口数が多くなる。たとえば初対面の女の子になどは特に。つまり反応は対照的でも、小心なのは僕も同じだ。
山道にさしかかった。林が両側に迫り、道はますます寂しくなる。
「ああヒグラシの声か、いいよなあ」
僕の独り言に、オックスはかすかにうなずいてくれた気がした。
練習会もついに最終日となった。今日は100キロの距離を走るという。雨が降っても走り抜けるという。いつにも増して、頑張る気になった。
この新しい自転車も、乗り始めて早くも二カ月が過ぎた。そしてこの日の走行の途中、ついに累計走行距離1000キロを達成。手を振り上げて叫ぶ僕を、イエロー達が祝ってくれた。
帰途には夕立に降られた。だが仲間と共にいれば、ハプニングもまた楽しい。雨の激しさが、むしろ心地よく気分を高揚させる。僕の作った歌「風にまかせて」を、「雨にまかせて」と替え歌にし、イエローと二人で大声で合唱した。
内モンゴルへ行ってからは、もっと大勢で合唱ができるだろうか。
この日、例の舞鶴姉妹の姉さんの方も、初めて練習に参加した。姉妹そろった安心感からか、妹も今までよりくつろいだ様子だ。ファインダー越しにふと見せたピースサインに、心がなごんだ。
ところで、僕は姉の方にも同じ質問をしてみた。
「この自転車のグリーン、どう思う?」
「抹茶みたい」
またしても、簡潔ながら手厳しい感想だ。
僕の方は、あい変わらず必要以上に口数が多い。おせっかいにも、二人にほかの仲間を紹介した。
「あれがブラックマウス。あいつもネズミ年だから。そしてこの兄弟が、イエロータイガーにブルースネークだ。ヘビ年の弟が青い自転車で、トラ年の兄貴がほら、黄色い自転車だろう」
するとイエローはてれたように笑いながら、なぜか弟の青い自転車にまたがった。
「それぼくの!」
「え? ああゴメン、気付かんかった」
間違いをブルーに指摘され、慌てるイエロー。どうやら姉妹を前に緊張しているのは、僕だけではなかったようだ。
後で僕はこっそりイエローをひやかした。
「さっき自転車を間違えたの、あの子達の事意識してアガッてたんだろう」
「いいや、べつに。ただウッカリしとっただけや」
「隠すなって。女の子の前で緊張してたの、分かってんだから」
「そんな事ない。だっておれ、学校に好きな人おるもん」
「え?」
「あっ、やばい、言ってしまった」
イエローは観念して、ついには相手の名前も白状した。さらには、ブルーにも好きな子がいるという。学年のアイドル的存在で、ライバルも多いらしい。そしてブラックにもまた、小学生時代から想い続ける相手がいるとか。
……そうか、みなそれぞれに、心に抱くヒロインがいるのか。そういえば確かに僕も、少年時代にはいつも必ずヒロインがいた。だからいつでも力が出せた。自分のためばかりでなく、その子のためにも頑張れた。
今の僕にも、そんなヒロインを見出す事は出来るだろうか……。
満足のいく最終練習走行だった。一日の走行距離は150キロ。最高速度が60キロ。どちらもこれまでの最高記録になる。今日はそれなりに、僕も頑張れたようだ。
帰宅後、心地よい疲労感の中で、僕は姉妹に渡す本を準備した。僕の作品を読んでくれるという彼女達の約束が、満足感をさらに充実したものにしてくれる。
こうして女の子の反応に一喜一憂する面は、あの頃の僕とまったく変わってないのだが。
たとえば、翌日にはこんな事があった。
自転車を梱包する前に、最後の調整走行をしている時、近所の公園で5年生のリナちゃんに会った。
「わあきれいな色。ステキな自転車」
そう言ってくれるのはきみだけだよ。僕が気を良くしていると、あの子はさらにこう続けた。
「モンゴルのおみやげ、おねがいね」
なるほど、そういう魂胆か。ちゃっかりしてるよ、女の子というのは……。
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