風にまかせて − モンゴルに見た輝き 6 −


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     7 シウジュル

 目覚めて窓のカーテンを開ける。外は静かな小雨が降っている。穏やかないい朝だ。だが思わずため息がもれた。
 表通りには、通勤する自転車の行列が流れる。ポンチョがとても色鮮やかだ。まったくの他人事なら、ただ楽しく眺めていられる情景だが。
 一時間半後、僕も同じ雨の中にペダルを踏み出した。
 市街地を走り抜ける。見渡すと、新築の建物にも西欧古典建築を気取った様式が見られるのが面白い。百年前から現在まで、いろいろな国の要素が入り交じってきた結果だろうか。こういったちぐはぐさこそが、この町らしさなのかもしれない。
 時おり、ロバが引く荷車に出会った。これは完全に中国の風景といえる。モンゴル国でロバを見た事はまったくなかった。
 ホテルからも見えた巨大な火力発電所を過ぎると、そこで町は終わった。丘の間をぬってしばらく起伏がちな道を走り、やがて草原のただ中へ出た。雨に沈んだ、ホロンバイル草原へ。
 雨に沈んだ、と書いたのは比喩ではない。実際、草原はすっかり水没していた。日本でも長江流域の水害が報道されているが、ここもやはり大雨が続いているのだろう。
 このホロンバイル草原は、世界三大草原の一つに数えられると聞いた。面積は25万平方キロ、北海道の3倍に相当する。今の季節、本来ならば夏草が、花々が、一面風にそよいでいたのだろうが。
 周囲にはもう、さえぎる物は何もない。強い風が北から吹き付け、顔をそむけずにはいられない。雨も本降りになった。大粒の雨滴が、肩に、脇腹に叩き付ける。濡れたジーンズが足にまとい付き、ペダリングをひどく阻害する。
 力まかせにペダルを踏みしめ、時おり顔のしずくをぬぐいながら、僕はこのような困難を克服しつつ進む事が、むやみに嬉しくてならなかった。多分、ジョギング中などにみられる「ナチュラル・ハイ」という興奮状態にあったのだろう。僕は自身の脳内に分泌される、エンドルフィンに酔っていた。
 いつの間にか、すぐ右手に湖が広がっている。あれがフフノールか。モンゴル語で青い湖を意味する名だが、それも今は白い霧に覆われ、鉛色に沈んでいる。
 湖のほとりは保養所になっており、ゲルを模した丸い食堂も建っている。そこで昼食をとるという。走っている間はまったく気付かなかったが、自転車を降りて初めて空腹感を覚えた。おまけにひどく寒い。気温は10度台まで下がっていた。
 だが疲労感はまったくない。午後にはまたすぐ走り出せるだろう。バードもまた、走り続ける意志を強く語った。それでこそライバルとしてふさわしい。
 しかし、彼と共に走る事はかなわなかった。天候悪化を理由に、午後の走行は中止となってしまったから。昼食を終えると、僕らは自転車をトラックに載せ、バスに乗り込んだ。
 車窓から見る草原は、依然どこまでも水没している。雨は降り続き、風もきっと吹き続けているのだろう。
 最後まで走り抜きたかった。この悪天候の中を、ただがむしゃらに走りたかった。だがそれは、僕の個人的な思い。もしトラブルが起こった場合、自分だけでは責任を負いきれないのだから、ここは団体の決定に従うしかない。
 もっとも、そんな不満はじきに忘れた。いつもの後部座席でいつもの連中と騒ぐうちに。
 「なあグリーン、いっその事二人の真ん中に座ったら?」
 ミッちゃんカヨちゃんを相手にはしゃぐ僕に、あきれたようにブラックが言う。
 「そりゃいい、そうしよう」
 僕は遠慮なく、二人の間に席を移した。
 「ふつうさ、言われてそうやってほんとに行くか?」
 「だって女の子に囲まれてる方が、楽しいに決まってんじゃん」
 ブラックの口調がいく分うらやましそうだったので、笑いながら答えてやった。僕はもう、姉妹に対してまったく気おくれを感じていない。
 しかし一方で、その事がどこか寂しくもあった。
 僕はやはり、大人なのだろう。姉妹が自分とまったく無縁の年代だから、ブラックとは違いこうして平然としていられるのだろう。

 西烏珠尓に到着した。この小さな集落が、今夜の宿泊地となる。このような機会でもない限り、この村の事など一生知らずにいただろう。そして、こうして書き留めない限り、じきに忘れてしまうだろう。シウジュル。モンゴル語源のようだが、その意味は分からない。
 僕らの宿泊用らしい、ゲルの組み立てが行われている。バス移動で到着が早かったため、間に合わなかったようだ。バスを降り、組み立てを手伝う事にした。こう見えても僕は経験者だ。
 ところがどうも勝手が違う。基本的な構造は変わらないのだが、細部があちこち異なっている。はっきり言って、貧相な安物だ。まばらな骨組みを組み立ててしまうと、その周りにフエルトを一枚も巻く事なく、防水布をかぶせただけでおしまいだった。今にも吹き飛ばされそうに、布は風にバサバサ揺れている。
 モンゴル族はこの移動用簡易建物を、単なる家屋でなく家庭の意味をも含む「ゲル」という名で呼ぶが、漢族はその簡便さをいく分見下すように「包
パオ」と呼ぶ。なるほど、今夜の宿は僕のよく知るモンゴルの「ゲル」ではなく、初めて見る中国の「包」なのだ。
 この内モンゴル自治区において、モンゴル族は全人口の二割に満たない少数民族となってしまった。さらに古来からの遊牧生活を送る人も、現在急激に減少している。
 その背景には、中国政府による定住化の推進がある。政府の打ち出す少数民族への優遇は、都市生活においてこそ、より多く享受出来る。そのため、若い世代がみな都市部へ流れてしまうのだ。
 都市部で就職すれば、仕事も住宅も、さらには税金面でも少数民族は優遇される。結果として都市生活者は、草原で遊牧を続けるよりはるかに豊かになれる。しかしその一方で、古来から守られ続けてきた伝統的な生活様式は廃れ、民族的アイデンティティーが失われつつあるのではないか。
 中国政府が少数民族を優遇する背景には、民族間の経済格差の広がりからくる不満が、民族紛争に発展する懸念があると聞いた。民族紛争を防ぐには、経済格差を縮める事はもちろんだが、民族意識そのものを薄れさせる事こそ、もっとも効果的かもしれない。これは考え過ぎだろうか。
 かつてこの地に元朝を築きながらも決して漢文化に染まらなかったモンゴル族が、現在急速に「漢化」しつつある。
 なんだか気が滅入ってきたが、濡れたままの服で風に吹かれたため、体の方もすっかり冷えきってしまった。
 近くの銀行でトイレを借りられるというので、行ってみた。敷地の隅に作られた木の小屋には扉もなく、ただ床に穴が開けられている。少し気分が明るくなった。モンゴルも、中国も、村のトイレはちっとも変わらないじゃないか。
 戻ると銀行の入り口には、職員らしい男性と女性が立っていた。とりあえず「ニイハオ」とあいさつしたが、そこから先に続く中国語を僕は知らない。ちょっと銀行内を見てみたかったので、「入っても構わないですか?」とモンゴル語でたずねてみた。
 あまり期待はしなかったが、意外にも通じたようだ。女性は僕以上に意外そうな表情を見せ、そしていきなり早口の中国語でしゃべり始めた。「違う違う」、僕は慌てて相手の言葉をさえぎる。「僕は中国語は話せません。モンゴル語なら少し話せます」。女性はやっと分かってくれ、モンゴル語に切り替えてくれた。バイリンガルとは頼もしい。
 内モンゴルに来て初めて、モンゴル語で会話の出来る相手に出会えた。彼女はモンゴル族には見えないが、僕のつたないモンゴル語を理解してくれる。嬉しかった。漢族の中にも、このようにモンゴル側に歩み寄ってくれる人もいる事が。

 村はずれの食堂で夕食となった。この食堂もまた、ゲルを模した円形の建物で、中央の広間をいくつかの小部屋が囲んでいる。僕ら未成年組は、その小部屋の一つに集まった。
 やがて広間では酒盛りが始まったようだ。小部屋の僕達にはなんの関係もない事だが。
 自分があのような大人達の仲間でなくて、本当に幸運だった。自分があのような醜態をさらさずにすんで、本当に幸運だった。
 しかしその後のゲルの部屋割りは、不運だった。まさかその酔漢達と同室になるとは。
 僕は酔っぱらいは嫌いだ。行動が不気味だし、何より臭い。そっと別のゲルに避難した。やはり僕は幸運なのかもしれない。あのトランプ女性軍はバス内に移動したようで、そのゲルは僕達だけの場所となった。僕達だって、追い立てられるばかりではない。
 だがイエローとブルーは、同行している母親に連れられ消えた。オックスの姿も、いつの間にか見えなくなった。彼らが今夜を大人達と共に過ごさねばならないのは気の毒だが、僕に差し出がましい真似をする権利はない。いずれ、彼ら自身の意思で行動する日が来るだろう。そう期待する。
 今夜集まったのは、僕を加えて8人。バードとブラック、ミッちゃんカヨちゃん、そしてもう3人の未成年達。冷えた体を暖めるため、毛布に潜り込むより先に、まず毛布争奪戦で暴れ回った。
 大人達と同じようにビールをラッパ飲みしながら、しかし平時とまったく変わった様子のない「ビール男」。という事は、こいつは普段から酔った状態なのかもしれない。親子で参加しているため「ジュニア」と呼ばれるひょろっとした奴は、こう見えても騒ぎをよそに寝入ってしまうほどしっかりしている。そしてもう一人、確保した毛布をしっかり体に巻き付け、静かに座り続ける高校生。その姿から「修行僧」の呼び名が付いたが、ネパールやブータンを旅したという彼には似つかわしい名だ。
 やがてめいめいが毛布を確保し、騒ぎはおさまった。静けさが戻ると、すぐに僕は眠くなった。
 だが一番端に場所を取ったブラックは、吹き込むすきま風になかなか寝付けないようだ。
 「ああ寒う。この場所、もろに風が入って来る」
 「じゃあもっとこっちに来たら?」
 「あ、いや、……平気や」
 ミッちゃんの提案を、ブラックは断った。いかにも少年らしいとまどいや気おくれが、なんだかほほえましい。そうか、二人は同年代なのだ。その事に今さらながら気付いた。一方僕は……。
 眠りの中に沈みながら考えた。もし僕がブラックの立場なら、どうしただろうか。多分、遠慮なくミッちゃんに寄り添い平然と眠っただろう。なんのとまどいも感じずに、そしてなんのときめきも抱かずに。


     8 ルート301

 安眠出来たとは言い難い。時おり雨だれが首筋に落ちるため。この安っぽい簡易ゲルでは、外に寝るよりはましといった程度だ。だが薄い防水布を叩く雨と風は、夜明け前には静まった。昨日から濡れたままだった服も、今朝にはすっかり乾いていた。
 いよいよ走行本番だ。9時、西烏珠尓を出発した。国道301号線をさらに西へたどり、国境の町満洲里マンチュウリを目指す。
 誰もが張りきっているのか、ペースは昨日よりかなり早い。僕もますます力がみなぎり、ついには班から突出して先頭集団に加わった。
 先頭集団にはバードがいる。イエローとブルーがいる。ブラックやビール男もいる。
 僕は子どもの頃からこれまで、ずっと独りで走ってきた。しかし今にして初めて、仲間と走る楽しさを知った。
 だが、はしゃぎ過ぎは禁物だ。休憩の際、スイカを切る包丁がなくなったというので、僕は得意になってスイカの一つをヒザで割った。だがそれは熟れ過ぎ腐っていた。まるでB級スプラッター映画のように、赤い汁が噴き出し飛び散る。ああ、せっかく乾いたジーンズなのに。
 気を取り直し、再び走り始める。道は左にカーブを描き、南へ向かい始めた。
 地図によれば、この先には嵯崗という町がある。チャガン、おそらくこれは、モンゴル語で白を意味するツァガーンから転訛した地名と思われる。だが、いったい何が白いというのだろう。
 坂道を登りきってその先を見渡し、僕は会心の笑みを浮かべた。なるほど、これは一目瞭然。
 道の続く先には、白沙に覆われた丘が長く長く連なっていた。
 旅はこのようにして、僕の探求心を満たしてくれる。地図の上だけでは決して知り得ない事を、僕の前に示してくれる。
 一方腹も満たされた。ここで昼食と聞き、何もない丘の上でどうするつもりかと思っていると、満洲里から来た現地旅行社の車が、弁当を用意してくれていた。
 草原に座って弁当を広げる。陽光は射さないが空は明るく、草は風にそよぎ、黄色い花々も揺れている。こんな食事を僕は待っていた。そう、こんなひと時を僕は楽しみにしていた。
 草原を散歩するなどしてゆっくりくつろいだ後、再び走行を開始した。
 道はなおも南へ向かう。地図によれば、そろそろのはず。このまま南下すれば、国道は東西に走る鉄道を横切るはずだ。
 この地を走る鉄道は、哈尓浜と満洲里を結ぶため浜洲線と呼ばれるが、その前身は帝政ロシアが敷設した東清線である。シベリア鉄道の短絡線という性格上、この東清線のみがロシア規格の広軌だった。
 日露戦争後に日本が鉄道の権利を受け継ぎ、満洲鉄道として東北部全域の路線を支配してからも、当線の広軌と他線の標準軌の二重規格は、併存し続けたらしい。鉄道で北へ向かった場合、必ず途中で列車を乗り換えたという記述を、満洲国についての本の中に見た。
 そして、現在はどうなっているだろう。二種のゲージの併存は、鉄道輸送を物流の要とするこの国にとって、不便この上ない事と思うが、中華人民共和国成立後に軌道を換えたという資料は、ついに見付ける事が出来なかった。
 調べても分からない事は、自分で確かめればいい。後続の自転車が次々追い抜いてゆくのもかまわず、僕は踏切で自転車を降りた。
 一目見ただけでも、日本の軌道より広い事は分かる。狭軌の1067ミリに対して標準軌は1435ミリ、三割以上も広いので一目瞭然だ。しかし広軌は1524ミリ、このわずか6パーセントの差は、計測してみなければ分からない。
 かがみ込み、この時のために用意していたメジャーを伸ばし、線路の間に渡してみた。結果は1435ミリ、標準軌だ。中国は解放後に軌道を付け換えていた事が、今初めて判明した。
 僕はこのようにして、僕自身の探求心を満たす。通り過ぎるだけでは決して知り得ない事を、好奇心と積極性とで確かめてゆく。
 だが、これですっかり疑問が解けたわけではない。中国がこの路線のゲージを変更したのは、いつ頃の事だろう。そしてまた、かつての満洲鉄道が、不便な二重規格を改めずにいたのは、なぜだろう。
 (追記 満州鉄道は36年8月までには哈尓浜以西を、37年6月までには以東を標準軌に改築していた) 

 踏切を過ぎると、道は右へカーブした。国道301号線は線路に沿って西へ続く。
 さっきまでの追い風が、強い横風に変わってしまった。この先ずっと、横風に苦しめられる事になりそうだ。
 休憩のたびに、リタイアする者が続出する。カヨちゃんも、イエローも、ブラックも、バスに乗ってしまった。ミッちゃんは大丈夫だろうか。だいぶ遅れているようだが。
 心配する必要はなかった。あの子は修行僧のとなりに寄り添い、楽しそうにおしゃべりしながら走って来る。
 「いや、ただ風よけにされてただけですよ」
 修行僧は言うが、そんな言いわけはますますアヤしい。べつにやきもちを焼くわけではないが、なんとなく意表を突かれた気分だ。彼はもっとストイックな奴だと思っていた。
 まあそれはいい。僕には男の勝負が残っている。再び先頭集団に加わり、バードと先を争いながら走った。GPSによれば、目標の満洲里まで直線距離で20キロ。
 あと10キロ。あと5キロ。丘を越えるたびに、もう町が見えるだろうと思うが、道はさらにその向こうへと続く。そのたび気がくじけそうになるが、バードの手前、弱気は絶対見せられない。
 そしてとうとう、町のポイントを過ぎてしまった。大まかな地図を基に座標を入力したので誤差も仕方ないが、ここまで頑張ればいいという目標が、これでなくなってしまった。いや、あとはただ、バードと共に走ればそれでいい。
 現地でフリーランの機会はなかったが、バードとは充分に競う事が出来たと思う。そして、かなわないという事も充分に思い知った。だが今の僕には不満や落胆はない。追いかける目標が得られた事が、むしろ嬉しい。
 坂の上で、バードが自転車を停めた。僕はまだ坂の途上にいる。彼は背中を向けたまま立ちつくしている。僕はペダルを踏みしめ続ける。やがて徐々に視界は開け、彼のみつめる物が何であるかが僕にも分かった。
 丘の向こう、バードの後ろ姿の向こうには、満洲里の町が広がっていた。

 17時半にはホテルに到着した。わりと早かったよな、と強がったが、実際は少し足に疲れが出ていた。そして、ひどく腹がすいていた。
 明日の小学校訪問の際に披露する、紙芝居の最後の練習が、夕食後に行われた。出演者自身が描いた登場人物の絵を首に掛け、本番さながらのリハーサルだ。
 主人公を任された以上、練習本番にかかわらず、これまで僕は精一杯演じてきた。しかし、今夜は酔漢達の注視の中、なんだか食後の余興でもさせられるようで不快だった。
 不快感の原因は、もう一つある。
 上演前と上演後に、全員で桃太郎の歌を合唱する事になったが、そのために歌詞カードが配られた。
  いきましょう いきましょう
  あなたとならば どこまでも
  けらいになって いきましょう
 この歌は1番2番はよく歌われるが、3番以降は今回初めて知った。
  そらすすめ そらすすめ
  いちどにせめて せめやぶり
  つぶしてしまえ おにがしま
 驚いた。まさかこれ程までに、軍国主義的色合いが強かったとは。
  ばんばんざい ばんばんざい
  おとものいぬや さるきじも
  ぶんどりものを えんやらや
 このような歌、とても歌えるものではない。かつての満洲国であるこの地において、しかも8月半ばというこの時期に。
 ところが、この団体の責任者は平然と言う。終わりには4番5番を歌うかと。戦中世代の未だ変わらない加害への無自覚に、寒さを覚えた。
 出来れば僕は、浦島太郎にでもなりたかった。

 もう時間も遅いので、恒例の夜の買い物は、近所ですます事にした。
 ホテルのすぐ裏の雑貨店に入った。いかにも国境の町らしく、ロシア人向けの商品や、ロシア語の表記も見られる。その一方で、モンゴル的色あいは、海拉尓以上に希薄になった。
 また菓子類の袋には、時おり日本語が書かれている。これは日本人向けというよりも、単なる流行だろう。香港でもこの夏は、意味のない日本文の書かれたTシャツが人気だそうだ。桃にピーテと書き添える無邪気さに、笑いを誘われた。
 衣料品の棚の上に、場違いな機械が置かれている。不思議に思い、近くへ行ってよく見てみた。
 「なんだこれ? ミシン? ああ、小型のミシンか。なるほどミシンね」
 するとこの僕の独り言が、店員達に妙にうけた。ミシミシ、ミシミシ、と繰り返しながら、仲間うちで笑い合っている。ミシミシ、いったいどういう意味だろう。バードにたずねたが彼も知らない。なんだかわけが分からぬまま、僕もあいまいに笑い返して店を出た。
 冷たい夜気に触れながら歩くうち、不意に頭の中が澄んだ。そうか思い出した。ミシミシは中国語ではない。あれはもともと日本語だった。
 戦時中、日本の兵隊達はみな横暴で、タバコ! メシメシ! と怒鳴りながら、略奪まがいの事もしていたらしい。それをこの地の人々は、最も身近に聞かれる日本語として、いつしか覚えてしまったという。
 店員達を前にして、僕もまた無自覚だった。この町の人々にとって、あの時代がまだ遠い過去ではない事に、気付きもしないで。
 古い世代の無自覚を非難する資格は、僕にもなかったのだ。


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