風にまかせて − モンゴルに見た輝き 6 −
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9 マンチュウリ
朝食後、部屋でしばしゆっくり過ごす時間を得た。本来なら満洲里市人民政府を表敬訪問している頃だが、市長が水害対策に追われ多忙のため、予定が変更されたのだ。
代表者に加え、未成年組から何人かだけが出かけて行った。後でカヨちゃんに聞くと、代理人が義援金に対して露骨に態度を変えるなど、不満の残る訪問だったそうだ。
幸運にもそんな気づまりな場に居合わせずにすんだ僕は、独り部屋でくつろいでいた。
窓を開けると、石炭の匂いが流れ込む。小雨の朝。息の白い夏。これが満洲里の町。
ホロンバイル地方の中心地として、18世紀から集落のあった海拉尓に対し、ここは今世紀初頭まで何もない土地だった。先に書いた東清鉄道敷設の際、ロシアから清に入った最初の駅に、満洲族の土地はここより始まるとの意味で、満洲里と名付けられたのがこの町の成り立ちという。
昨日、自転車を走らせながらこの町を見回したが、海拉尓同様に新しい建物ばかりが目に付いた。やはり近年になって急速に姿を変えつつあるのだろう。
こうしてその町らしさというのは失われてゆくが、しかしこの急激な変化こそが、現在の中国らしいといえるのかもしれない。
小学校の訪問は、さいわい予定通りに行われた。児童館の子ども達から絵を預かってきた以上、ちゃんと届けなければ申し訳ない。
満洲里第三小学校。5学年28クラス。生徒数1200名。教師数89名。かなり大きな学校だ。またコンピュータールームなど、充実した設備にも驚いた。北京の小学校に一時期通っていたバードも、こんなではなかったと感嘆している。もっとも、ハイグレードな学校だからこそ、我々外国人客の訪問先に選定されたわけだが。これがこの地の平均的水準だと早合点するわけにはいかない。
歓迎会も、合奏の披露など、形式ばったものだった。こちらもまた、桃太郎の上演をあたりさわりなく終えた。校長への質問の場も設けられたが、なんとなく無難な質問しか出来なかった。
休暇は? 冬休みが1月5日から2月28日まで、夏休みが7月25日から8月30日まで。学期中は週5日制。
授業は? 午前と午後に分かれ、合わせて6時限。
少数民族の生徒も50名いるそうだが、モンゴル族の学校は別にあるとかで、当校の授業は中国語のみという。進学においての具体的な少数民族優遇については、結局聞きそびれてしまった。
ただ一つだけ、ここに特筆しておきたい事がある。歓迎の文などを読み上げた代表の女の子が、とてもきれいな子だった。ほっそりとして上品で理知的で、白と水色の制服がよく似合っている。
その子が僕のすぐとなりに座った。が、僕は緊張のあまり「ニイハオ」の一言すらかけられなかった。相手があまりにきれいだったためと、真正面から校長先生に見られていたために。
あとで僕は男の子達に、かたっぱしから同意を求めた。
「さっきの代表の女の子、どう思う? すっごいかわいかったよな。なあ」
バードとイエローは僕の意見に賛同したが、オックスやブラック、それにブルーは、「さあ」「どこが?」「わからんかった」とそっけない。
なるほど、彼らはあの子と同年代だ。意識しすぎて素直になれないのも無理はない。その点高校生のバードなら、僕と同様あの年代に対しては冷静でいられる。イエローは……、あいつは特別。何事にも物おじしない奴だから。
ホテルに戻って昼食をとり、午後には達賚東へ向け出発した。ただし予定では自転車で向かうはずだったが、悪天候のため自転車はトラックに載せ、またもやバスでの移動となった。予定変更の続く日だ。
ダライトン、この地名はどういう意味だろう。ダライというのはモンゴル語で海を意味し、近くの湖の名前にもなっているが、末尾のトンが分からない。あるいはこれはモンゴル語と漢語の複合した地名で、ダライ湖を東に臨むからダライ東、なのかもしれない。
それはともかく、その地は都市から離れた草原のただ中で、完全にモンゴル族の生活エリアといえる。再びゲルに泊まるそうだが、今度こそ、あの西烏珠尓でのような安物でなく、本物のゲルに寝られるだろうか。また、モンゴル語でおしゃべりする機会も得られるだろうか。
だが道路の状態は予想以上に悪く、バスの進行を阻む。結局、今日三度目の予定変更となった。達賚東行きは中止、バスは町へと引き返す……。
カラ元気で、僕らはずっとバスの中で騒いでいた。いつものように後部座席に集まって。
ちなみにバスは二台あり、1号車は1班が独占している。一方こちらの2号車は、2班3班が乗り合わせている。そのため後部座席はやたらと狭い。2班の僕とミッちゃんカヨちゃんに加え、3班のブラックにオックスに、修行僧やビール男も集まっている。もっとも、だからこそにぎやかに騒げるわけだが。
騒ぎの中で、修行僧が言い出した。修行僧の呼び名は遠慮したいと。そこでみんなで新たな呼び名を考えたが、その結果、師匠と改める事に決まった。それもまた、彼にはふさわしいだろう。
それならビール男も改めなければ気の毒だ。他にもヨッパライ、アル中などとも呼ばれるが、どれもみなひどすぎる。ところが、本人は「アル中でええで」と言う。本当に、どこか常識を超越した不思議な奴だ。ちなみにアル中はアルコール中毒ではなく、アルコール中学生の略。
オックスは、その物静かでノーブルな雰囲気から、以前から殿と呼ばれていたが、最近は若と呼ばれるようになった。牛若丸の略、ではなくて、若君の意味だろう。ただ本人は何とも言わないし、僕は今まで通りオックスと呼ばせてもらおう。
そこでふと気付いた事がある。最近、バードや師匠までが、ミッちゃん、カヨちゃんと言い始めたという事に。僕がそう呼ぶ影響というのは分かるが、高校生の彼らにとっても、二人は小さな女の子でしかないのだろうか。いや、まさか。彼らも直接本人にそう呼びかけはしない。
他のみんなは、もちろん決してそのようには呼ばない。ブラックなどは二人をからかうように、舞鶴兄、舞鶴弟、などと呼ぶほどだ。そんなてれはよく分かる。僕もかつては考えられなかった。女の子を「ちゃん」付けで呼ぶなどとは。
それならなぜ、今の僕にはそれが平気なのだろう。そしていつの頃から、僕はあの子達をミッちゃん、カヨちゃんと呼ぶようになったのだろう。
バスは見知らぬホテルに着いた。郊外の、古びてさびれたホテルに。突然の予定変更では、このような所にしか部屋が確保できないのも当然だろう。
周囲には林が広がるばかりで、これでは食後にちょっと買い物、という訳にはいかない。まあいい、今夜は部屋で盛り上がろう。
もう一つ期待していた夕食会は、特に何という事はなかった。カレーにギョーザと、メニューもモンゴルの雰囲気ゼロ。わざわざモンゴルの民族衣装を着込んだ僕は、まるで道化だ。
日本料理だろうが中華料理だろうが、大人達は酒盛りさえ出来ればよいらしい。勝手にしてくれ。かかわりあいになる気はない。僕らは僕らで騒がせてもらう。
そう、それぞれお互いに、干渉せずにいるのがいい。ところがどうも、向こうはそうは思わぬらしい。杯が、なんと僕の所へ回ってきた。
客を酒でもてなすのは、モンゴル古来の風習。だが僕はそれを拒んだ。伝統は守られるべきだと思うが、しかし時流にそぐわぬ悪習にまで迎合する気はない。
飲めない者に酒を無理強いする事は、傷害罪にも相当するのだと、分別ある大人ならば認識しておいてもらいたいものだ。
気を取り直し、部屋に集まって、僕達だけで騒ぐ事にした。
最近はトランプで盛り上がっている。ただしゲームそのものより、むしろ罰ゲームの方を楽しんでいる。
今夜の罰ゲームは、アル中特製ニンニク水のイッキ飲み。これがおそろしくまずい代物だった。という事を知っているのは、もちろん僕が負けて飲まされたから。
酒を拒否しておきながら、こんな妙な物を飲む僕は、身勝手だろうか。しかしあの場合とこの場合とでは意味が違う。僕はあの時、大人の側からの干渉に対して反発した。なぜ僕を、僕達を、放っておいてはくれないのかと。
オックスが、イエローが、ブルーが、今夜もまた連れ出されてしまった。こちらは干渉しなくても、向こうは絶えず干渉する。向こうは無礼講でも、こちらは規律に縛られる。
「俺はもう何十年も子どもやってるから分かるけどな、大人なんていつだってあんなもんさ」
今の無力はどうにもならないが、せめてこの理不尽さへの憤りは、ずっと忘れずにいてほしい。
なんだか騒ぐ気も失せてしまい、僕もブラックの部屋を途中で脱けて、自分の部屋へ戻った。そしてそのまま独りで眠った。
10 ボーダー
今日もまた僕達は、班分けもかまわずに最前列を走っている。ブラックなどは、4班を結成したと宣言するほどだ。今のところ、この件に関しては大人達も黙認してくれている。
そのブラックが僕のとなりでつぶやいた。
「ああ眠う。昨日ロクに寝られへんかった」
「あい変わらず寝付きが悪いんやな」
「いや違うねん。オジャマ虫がおったから」
オジャマ虫? 同室の師匠が? いやまさか。それ誰の事だよと僕が問うと、ブラックは前を向いたまま答えた。
「舞鶴の兄がな、あのまま部屋に泊まっていったんや」
ミッちゃんが? 正直言って一瞬驚いた。しかしまあ、子ども同士ならば許される事かもしれない。特にブラックや師匠のような奴なら安心だ。西烏珠尓のゲルでの事を思い出し、なんだかほほえましい気分になった。
ふと思った。大人と子どもの間のボーダーラインは、いったいどの辺りに引かれているのだろう。そして、今の僕はそのどちら側にいるのだろう。
僕達は今、ロシアとの国境に向けて自転車を走らせている。国境まではわずか8キロほど。交通量も少なく、フリーランには最適に思えた。……実現はしなかったが。
出発前、僕はイエローとこんな冗談を言っていた。
「国境に向けてフリーランしたいよなあ。ゴールは国境の鉄条網でな、先着順に銃撃されるんだ。一着ゴールイン、バーン! 二着ゴールイン、バーン! 国境に響くゴールの銃声」
だが実際の国境は、拍子抜けするほど穏やかなものだった。
中俄互市貿易区と呼ばれる区域が設けられ、その一角には多数の商店が立ち並んでいる。警備兵の姿などまったく見られず、代わりに大勢の買い物客がさざめき歩いている。もちろん写真撮影も自由。ちょうど国門をくぐり抜けて来る貨物列車に、僕は続けてシャッターを切った。
有刺鉄線には一応高圧線も張られているが、どうせ牧場の電気柵程度だろう。命にかかわるほどではないはずと信じ、右手の指先で恐る恐る触ってみた。電気はまったく流れていなかった。
柵の向こうの緩衝地帯は、幅わずか数百メートル足らず。60年代の中ソ緊張の頃、あのダマンスキー島事件当時でさえも、国境閉鎖には至らなかったという。つくづく穏やかな国境だ。
さて、せっかく来たのだから買い物でもしよう。
いつもの夜の町歩きでは、ジュースにアイスに果物と、残らない買い物ばかりしている僕だが、今回は面白い物を見付けた。散髪用のハサミのセット。苦笑しながら購入した。なぜこのような物を買ったか、その理由は後で明かそう。
商店にはロシア人の姿が多い。物資の不足する母国から、越境して買い出しに来る人々だろう。いや、本当にそうだろうか。それにしては、この人達の様子もまた、あまりに穏やかすぎる。まるで観光に来たついでに、おみやげを選ぶかのようだ。
以前に中国からモンゴルへと列車で旅をした際、モンゴル人の越境商人を大勢見かけた。彼らはみな、買い集めた膨大な中国製品を、背負い、担ぎ、あるいは引きずっていた。その姿を、ガハイチレフ、すなわちブタを引きずると自嘲的に呼びながら。
買い出しに来るモンゴル人とロシア人のこの違いは、いったい何が原因だろう。国境をかいま見た事で、国境についての疑問はますます深まってしまった。
しかしそれは仕方のない事かもしれない。今回の国境訪問は、いわば折り目の片側から眺めたようなもので、半面しか見てはいないのだから。ロシア側の事情など、こちら側からは知り得ない。
帰り道にふと思った。子どもと大人の間のボーダーラインというものも、両側からの視点を持たなくては見えてこないのかもしれない。
昼過ぎには、郊外のホテルから市街地のホテルへ戻った。達賚東まで行かなかった分、午後は時間が浮いている。近くの市場へ行きそこで解散、夕食まで自由行動となった。
ミッちゃんとカヨちゃんは、帽子を探しに行くという。おやおや、師匠も同行するようだ。バードはしばらく独りで回りたいとの事。それを聞くと僕も独りになりたくなり、そのまま市場を離れた。
考えてみれば、この旅が始まってからというもの、僕はいつもみんなと一緒だった。仲間が得られた事はもちろん嬉しいが、それはそれとして、やはり独りでなければ自分らしくなれない気もする。
車の間をすり抜けて道を渡り、気の向くままに交差点を曲がる。町に飽きたので駅にでも行こうかと思いながら、ふと目に付いた書店に立ち寄る。こんな気まぐれも、独りきりなら許される。
店内で地図を物色していると、
「粟沢さん」
不意に呼びかけられ、僕は撃たれたように驚いた。独りだと決めてかかっていたし、突然耳に飛び込んだ日本語だったし、何よりそれが、あの元同級生の声だったから。
僕が地図を探している事を知ると、彼女も地図を選び始めた。
「粟沢さんにピッタリの地図あったよ。ほら、これ」
幼年向けの絵地図を広げながら、元同級生は悪意のない笑顔を見せる。
「…………」
僕はまともな返事をしたのだろうか。声を発しているのは分かったが、自分が何を話しているのか、自分でもよく分からなかった。うかつな事を言い出さぬうちに、僕は買い物をすませると急いで店を出た。
あの子は今も変わらずに、僕の事を子ども扱いしている。しかしそれならなぜ、あの頃のように「広川くん」と呼ばないのだろう。大人になり、母方の姓を名乗るようになってからも、子どもの頃の姓はペンネームとして、今も残しているというのに。
そうか、そうだった。彼女は子ども時代の僕を憶えてはいないのだ。
僕を子どもと見ているようでも、あの人にはやはり、僕の半分だけしか見えてはいない。
国境の駅は人影もなく、不思議な静けさに包まれていた。独りになるにはちょうどよい。靴音だけが天井に反響している。
待合室には、列車の発着時刻の掲示がある。列車本数はひどく少なく、また水害のため長距離列車が遅れるとの貼り紙もある。乗客が見当たらないのも無理はない。
切符売場ものぞいてみた。運賃は、海拉尓まではわずか11元、北京まででも104元。もっとも一般市民の経済感覚としては、安くはないのだろうが。
ひとしきり静けさを楽しんでから、未舗装の駅前通りをたどって市街地へ戻った。
それにしても、なぜ駅と市街地とがこのように離れているのだろう。モンゴル国との国境の駅二連浩特では、駅前を車が流れ店も並び、にぎやかなものだったが。
この路線は国際貨物輸送が主で、旅客輸送は副次的なものでしかなく、鉄道は市民生活から乖離しているのかもしれない。そういえば、自転車で国道を走る間も、満員のマイクロバスをよく見かけた。海拉尓まで買い物に行く程度なら、人々はバスを利用するのだろうか。
一方帰り道の踏切は、駅とは対照的に大変な活気に満ちている。引込線が多く、21対もの線路を横切り、その長大さだけでも見ごたえがあるが、何より遮断機を下ろす係員と通行人とのせめぎ合いが、激しく迫力があった。
貨物の入れ替えや客車の付け替えで、列車や機関車がひっきりなしに通過する。そのたびにベルが鳴り響き、遮断機が下ろされるのだが、歩行者も自転車もかまわずそれをくぐり抜ける。自動車さえも、ボンネットを遮断機の下に突っ込んでしまう。係員は何やら叫ぶが、そのままにしておくわけにもいかず、結局は遮断機を上げ車を通す。やがて、けたたましい警笛を鳴らしながら機関車が来ると、人々はようやく足を止め、間近でそれをやり過ごす。
なるほど、この町の人々は、日常このような形で鉄道とかかわっているわけか。
踏切の喧噪はいつまで見ていても飽きないが、18時の音楽チャイムが町に流れたのを機にホテルへ向かった。急げ、あと30分で夕食だ。
夕食をすませて30分後、僕は再び駅へ向かっていた。バードにブラック、イエローやブルーも連れて。
イエローとブルー、この二人と共に行動するのはひさしぶりだ。彼らは門限が厳しいので、すぐにホテルへ送り返さねばならなかったが、夜道を怖がるブルーに頼られるのも悪くはなかった。子どもに対し、親や教師のような立場にはなりたくないが、叔父や兄貴にならなってみてもいいと思う。われながら、無責任な望みだが。
また急いで駅へ引き返した。もうじき20時51分、海拉尓始発満洲里終着の普通列車が到着する。いきなり駅の方から、明るい音楽が大音量で流れ始めた。今になって突然にぎわってきたようだ。
ところが駅に駆け込むと、あい変わらずバードとブラックのほかに人影はない。音楽が絶えれば、後はまた僕らの声が反響するばかりの静寂。期待が急速にしぼんでゆく。
だがそんな落胆があったからこそ、その後の感激は大きかった。なんと列車は、意外なほど大勢の乗客を乗せて到着した。
人々のざわめきとタクシーのクラクションを聞きながら、僕達は満足して帰途についた。
昼間の訪問では、僕はただ駅舎を見たにすぎなかった。だがこの夜の再訪によって、ようやく駅本来の姿を見る事がかなった。
ホテルに戻ると、すぐにみんなに取り囲まれた。僕は覚悟を決め、散髪用のハサミを差し出す。さあどうにでもしてくれ。
数日前、まだ罰ゲームを決めずにトランプをやっていた頃、ボロ負けした僕にどんな罰ゲームを課すかみんなは話し合った。そして、僕の長髪をバッサリ切ろうとの案に意気投合してしまった。僕はハサミがない事を理由に拒み続ける。ところが、ハサミは今朝とうとう手に入ってしまった。もう逃げられない。
じつを言うと、断髪は僕自身もひそかに楽しみにしていた。髪形を変える事で、変わる自分を自分でも見てみたかった。だからこそ、ハサミも自分で買ったのだ。
まずブラックが後ろ髪を切った。続いてアル中が耳の辺りを。意外にもおとなしい切り方だが、左右非対称になったようだ。そして側面の残りを師匠が。切りすぎた、段になったと、独り言で僕をうろたえさせる。前髪はバード。あいつがこんなにムチャする奴だったとは。ジュニアは決してハサミを持とうとしない。カヨちゃんもほとんど手を出さないが、代わりに絶えず口を出す。最後にミッちゃんが仕上げを。後に鏡を見る僕のショックを、それなりにやわらげてくれたものと思う。
メガネをかけ、鏡に向かった。人相は確かにすっかり変わっている。だがそれだけの事だ。もともと主義主張を持って髪を伸ばしていたわけでもなく、よって断髪前の僕も、断髪後の僕も、何ら変わりがあるはずなかった。
そして思った。もちろん僕にも僕自身のすべての面が、見えているとは言い切れない。こんな外見的な事にとらわれず、もっと別の角度から、自分を見る必要があるだろう。
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