四つの標しるべ
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10月7日 雨
今回もまた、出かけるのが早過ぎた。二時間待っても、フェリーターミナルは無人のまま。昼を過ぎてようやくチケットが買え、さらに三十分待って乗り込めた。
雨の中、出港は14時。まず大阪南港へ向かう。ここの出港は18時前のはずが、荷物積み込みに時間がかかり、20時過ぎまで遅れた。すっかり暗くなった中、船はすぐに沖へ向かい、もう神戸港は分からない。
10月8日 晴
早く目覚め、デッキに出てみると晴れていた。日の出を見た。そして遠くに四国の山並み。やがて前方には九州の影が。
まず宮崎に入港し、昼前には離れる。後はずっと九州の海岸線に沿って南下した。GPSの計測によると、船速は約35キロ。佐多岬を過ぎ、やがて屋久島が眼前にそびえる頃、日は没した。ゆっくりながら、それでも短く過ぎた一日だった。
夜中に奄美大島に入港。わざわざ起きてデッキに出たが、特に目新しい物はなかった。ただ乗客が多いのが意外だった。
10月9日 晴
早朝、沖永良部への入港で目覚めた。以降、島影はずっと絶えない。沖永良部島が消える前に与論島が現れ、それを過ぎるとすぐに本島が見え始める。だが那覇入港は昼前。さすがに本島は大きい。
石垣行きフェリーの出港は20時なので、かなり時間がある。まず出港ターミナルの場所を確認し、それから市街地を走り回った。さすがにフル装備の自転車は重い。タイヤがもつか気がかりだ。坂を登り、首里城へも行ってみた。だが入場料が高く、周囲だけ見回して引き返した。
石垣へのフェリーは、台湾へ向かう国際航路の船。速度も45キロと速い。だが夕食はターミナルですませたし、朝食もパンを買ってあるし、せっかくの立派な船でもただ眠るだけだ。
10月10日 雨
この船も遅れ、与那国行きに乗り継ぐのは無理になった。それならしばらく石垣にいようかと、気楽に考えている。船に併進するイルカを見た。石垣島も大きく、島影が見え始めてから入港するまで、二時間かかった。
まず船を確認して回ると、波照間への小型高速船が何便かある。自転車も積めるというので、まず波照間へ行く事にした。さて出港の15時までまた時間をつぶそう。町を離れ、灯台の建つ岬や唐人墓というのを見た。セミの声を聞いたが、なぜかエゾゼミに似て聞こえた。
突然のスコールの中を、高速船は走る。波に乗り上げる激しい航行。上陸してもまだ雨は続く。浜にはキャンプ禁止の看板があるが、探し回る余裕はないので今夜だけ許してもらおう。
10月11日 晴
夜が明けて、目前に広がる海の美しさに驚いた。だが、ここに居続けるわけにはいかない。テントをたたんで移動した。天気予報に反し晴れたのは幸運だった。対岸の西表島には、にわか雨が降っている。
日本最南端の碑の前で、昨日船に乗り合わせた青年二人と会う。だがそこもキャンプ禁止。可能なのはニシ浜のみとの情報を得て、元の場所に引き返した。浜の奥ならかまわないらしい。自転車で入れる裏道を見付け、不便も解消。これなら長居出来そうだ。
初めて海に入った。夜には初めて星を見た。モンゴルにも劣らない大迫力。見慣れぬ南天の星座が新鮮だ。
10月12日 晴
昨夜は二人の青年と、やはり船で一緒だった女性と、遅くまで語り明かした。ホタルが飛び交い、星は巡り、流星がいくつも走った。アケルナー、カノープス、南天の一等星を初めて目にした。
昼過ぎ、名古屋の青年と旭川の女性が島を発った。二人を見送り、午後は昨日見残した場所へ。空港へ行き、ゴミ捨て場まで見た。続いてバイトの口を求めて回ったが、全滅。あとはもう、ここでは遊ぶだけだ。また海に入った。沖まで浅瀬が広がり、泳げない僕でも遠くまで行ける。ハタタテダイ、カワハギの一種、クマノミ、小さなミノカサゴなどを見た。
夜はテントの目の前で、島民達の酒盛りが始まった。バイト探しで冷淡にあしらわれた身としては、あのにぎやかさは意外だ。仲間うちでは陽気な人達らしい。
10月13日 曇
ラジオが壊れた。台風の接近しつつある今、唯一の情報源を失うとは。昼前の天気予報をフェリーターミナルのテレビで見た。明日から曇り、週末まで雨らしいが、台風の最接近はいつだろう。海は波が高く濁りも出て、早くも波乱の予感。また、行方不明者が出たとかで捜索隊が回るなど、なんだか雰囲気が重くなってきた。
岡山の青年も最後の便で発ち、僕は独りに戻った。早めに夕食をすませ、星空観測タワーへ行ってみた。だが管理人は台風対策に追われ、客は僕一人という事もあっておざなりな対応しかしない。望遠鏡も結局見られなかった。さすが田舎だけあって、冷笑も皮肉も洗練されておらず露骨だ。初老の男が中学生なみの態度をとるのは、腹立たしいよりむしろ痛々しい。ただ夜のサイクリングだけを楽しんで帰った。
10月14日 雨
午前中はまだのん気にかまえていたが、昼の天気予報を見るうち雨になった。船は全て運休し、ターミナルは静かだ。客を帰した民宿が閉まるかもしれないと思い、今日中に動く事にした。
素泊まりでいいからと小さな民宿で話がまとまり、テントをたたんで移動した。雨の止んだすきに食料を買い込み、濡れた荷物を広げ洗濯物を干した。あとはもう、これらを乾かしながら台風が過ぎるのを待つだけだ。
10月15日 雨
まだ外はおだやかだ。雨も降らないので、また食料を買いに出た。パンを売っていない島で、ジャムやハチミツがあるのは不思議。風に吹かれて洗濯物は乾きつつあり、荷物も片付きつつある。
もう何もやる事がないので、民宿にある本をかたっぱしから読んでいる。戦時中の話の絵本もあった。米軍の直接攻撃の少なかった八重山では、日本軍令の強制疎開によるマラリアでの死者の方が、ずっと多かったという。島民の僕に対する態度の冷淡さの理由も、少し解った気がする。それはそうと、閉ざされた部屋の中で読書に没頭していると、自分が今どこにいるのか分からなくなってくる。
10月16日 雨
島の有線放送は、一時間おきに台風情報を流すが、数値を並べ立てるだけで要領を得ない。夕方になり、腕時計の気圧グラフが上向いた事で、初めて通過を知った。
南海の孤島で初めて台風をくぐったわけだが、たいした事ではなかった。明日には出て行けるだろう。とはいえ民宿の居心地が悪いという事はない。素泊まりにも関わらず今朝は朝食を頂いた。情報が得られるのも利点だ。先日問い合わせた製糖会社はとぼけていたが、やはり島外からの手伝いはいるらしい。もっとも、こんな寒い島でバイトをする気などもうないが。
10月17日 曇
台風は去り、民宿を出て浜に戻った。浜辺の草木の葉は、あぶられたようにしおれている。潮をかぶったためらしい。
テントを張り、昼前にまたフェリーターミナルへ。天気予報では、過ぎ去った台風にまだ騒いでいる。北海道にいた頃は逆に、これからという時に台風情報が消えたものだが。
行方不明者の捜索も再開された。「ユタ」と呼ばれる巫女のお告げによると、不明者は島の西にいるそうだ。
僕は騒ぎを避けて東の公園へ。湿った陰気な所だが、まさかそこで「旅人の木」を見付ける事になるとは。古くからのあこがれの木との、初めての対面だった。
島の中央の灯台近くは、一本の木が絵になっていて、お気に入りの場所だった。しかしその木もまた、葉をしおれさせている。こんな高台の木までが、潮をかぶったらしい。
10月18日 曇
昨日来たという、大阪の三人組に昨夜は誘われた。一人旅でも、独りでいる時はあまりない。
風は今日も強く、テント内は砂だらけ。ストーブの具合が悪いのも砂のせいだろうか。分解掃除をしたが、ジェネレーターに通してある清掃用ワイヤーをうっかり引き抜いてしまった。まあ、かえって通りは良くなったようだが。
夕方になっても強風は続き、依然テント内に砂が吹き込む。台風の過ぎた後は、もっとすっきりするかと思っていたが。
10月19日 曇
夜通し砂が降り続け、今朝は風紋の中で目覚めた。昨夜もまた遅くまでおしゃべりを。むだ話ばかりでなく、与那国のキャンプサイトについてなど、有用な情報も得られる。西表のマジックマッシュルームの話も興味深い。星は多く、流星もひんぱんに走る。だが夜が明ければ雲が空を覆い、海も荒く波立つ。朝晩は涼しく、ホタルも飛ばず、台風を境にすっかり季節が変わったように思える。
大阪の三人組を港から見送った。ここで何人もの旅人を見送ったが、明日は僕も発つ。最後にもう一度、最南端の碑に行った。最後の実感からか、夕陽が台風以前のように鮮やかに見えた。だが夜は雨。
10月20日 曇
何人かの男達が、小舟で海へ出ている。詳しくは知らないが神様の行事だという。荷作りを追えて浜を去ろうとすると男達に呼び止められ、今採ったばかりのブダイとタコの刺身をごちそうになった。意外だった。島民の好意的態度に接するのは初めてだから。
港で、今日こそは見送られる立場になった。フェリーはかなり揺れる。デッキでは潮をかぶるが、酔わないためには海を見ているしかない。石垣島の近くでウミヘビを見た。
夕方の市街地を回り、ラジオや燃料を買った。次は腹ごしらえだ。ハンバーガーショップに入ると、フェリーで一緒だったメガネの青年が店にいた。彼もフェリーターミナルで夜を過ごし、明日与那国に渡るという。驚くほどの軽装で、テントも持たずシュラフだけで旅している。石垣で盗まれるまでは、ママチャリで回っていたとか。それに比べ、僕は大げさな旅をしているものだ。
民族舞踊の練習をする学生達、訓練をする消防士達、夜のターミナル広場は不思議な空間だ。もちろん、僕もまた場違いな存在なのだろうが。明日からはまたテントでくつろげるだろうし、今夜だけは騒がしいベンチでがまんしよう。
10月21日 曇
早朝警備員に起こされた。フェリーはやはりひどく揺れたが、寝不足に助けられてずっと眠っていた。目覚めると、船は波を避けるために、本来の航路でない島の南側を回っていた。最西端の岬よりさらに西へ回り、一時間遅れて入港。
すぐ話に聞いていた比川浜へ向かう。昨日から一緒のメガネの青年も同行した。途中は山道で、波照間より大きな島と実感できる。だが夕方やっとたどり着いた比川浜は、水が停められていた。明日別のキャンプサイトを探しに行こう。とりあえずパンで夕食をすませ、今夜はここで野宿。パンを売っているなど、ここは波照間より都会だ。だが中波ラジオは台湾の放送ばかりで、NHKすら聞こえない。フェリー内でも台湾のテレビが映っていた。
10月22日 曇
昨夜はテントを張らず、シュラフとシュラフカバーだけで眠ってみた。サンゴを枕に、星砂を布団に。この浜の砂はすべてが星砂だ。だが何度かにわか雨に降られ、夜明け前にとうとう起き出した。
古くからのキャンパーに聞けば、この浜以外の場所はキャンプ禁止だという。水は夜に公民館までくみに行けばいいとの事だが、よその状況も知りたかったので、自転車で回ってみた。森林公園、最西端の岬、ダンヌ浜、どこも水があり快適そうだ。だが交番でたずねたところ、やはりキャンプを黙認するのは比川のみだという。ダンヌ浜で休んでいると、いつの間にかパトカーが来ている。話を聞こうと近付くと、パトカーは去った。
役場へも行った。水を停めているのは漏水のためで、早ければ今日中にも復旧するという。あまり信用出来ないが、遅れるようならまた来ればいい。ついでに東崎や南岸の絶壁も回った。波がくだけ、潮が煙っている。波照間よりずっと荒々しく、気に入った。
今日のうちに、観光名所をみな回ってしまった。それなら明日はバイトを探すか。あるいは泳ぐか。もしもシャワーが復旧したなら。
10月23日 雨
夜になって公民館へ水くみに行った。二度往復した。続いて、打ち上げられていた海綿を持って体を洗いに行き、最後に洗濯をした。いつまでこんな不便が続くだろう。水は復旧しない。聞けば半月前からこの状態だという。不便な状況にキャンパーを追い込み、長居させないつもりだろうか。波照間でも、与那国でも、ダイバー様、観光客様とあがめるが、貧乏キャンパーは邪魔物扱いだ。見苦しいというのなら、展望台で弁当ガラを散らかし昼寝をしている町職員の方が、よっぽど見苦しい。
今日は雨になった。昨夜の洗濯物が散らかるテントの中で、一日こもっているしかない。古い作品の文章手直しをしていよう。FMは良く聞こえるのでラジオも聞いた。ポリ袋でザックカバーも作った。テント内で一日中過ごすのは初めてだが、それなりにやる事はあるものだ。だが、これが数日続くとどうなるだろう。
10月24日 雨
今日も雨。顔に落書きされた飼い犬が、ゴミをあさりに来た。つくづく陰惨な島だ。
メガネの青年は、バスで中心地の集落へ行くという。僕は靴も濡れてしまったので、出歩く気になれない。そのうちバイトを探してみて、駄目なら今度は黒島へでも行こうか。
昼前買い物に行くと、この集落唯一の店が閉まっている。別の落書き犬が、店のゴミをあさっていた。午後も行くが、やはり閉まっている。そのうちに、メガネ青年が戻った。今日のうちに空港へ行き、向こうで夜を明かすという。以前からいたバイクの二人連れも、テントをたたんだ。あさって出港予定のフェリーが、台風を避けて今夜中に出るというので。僕は予報に注意しつつ残る。バイクを見送り、メガネともバス停で別れた。
ついでに店に寄ると、ようやく開いていた。暗闇の中ですっかり遅くなった食事をとっていると、沖を行くフェリーの明かりが見えた。この島では、何人の旅人を見送る事になるだろう。
10月25日 雨
早朝の小雨のうちに、テントを砂浜から堤防内に移動した。風が強くなったのは台風の影響だろうか。様子を見て、ひどくなるようなら民宿に移ろう。今回はラジオがあるので心強い。
バスに乗って出かけた。マイクロバスには料金表もアナウンスもない。島内三つの集落を回り、集落間の料金は100円。日本一安い路線バスらしい。運転手は僕には共通語で話すが、地元客との会話はまるで外国語だ。
雨がひどくなった。レインウェアを着込み、バイトの口をたずねて民宿を回る。だがこの島も駄目だった。気の毒がってお茶をすすめてくれる民宿もあり、波照間よりは温かいが。
出て来たついでに買い物をした。封筒や便せんを買い、これで手紙を書くというテント内の仕事が出来た。
もうバスは待たず、歩いて帰った。この島の土はいやに赤い。一方ではサンゴの石灰質も多く、波照間同様セメント会社の採石プラントがある。またあちこちで何かの工事をしている。ここでも赤土が海に流出しているのだろう。
10月26日 雨
ようやく雨が上がった。ひさしぶりにカバーを取ると、自転車はひどい状態になっていた。あちこちサビが浮き、フロントバッグは虫だらけ。そろそろここを発つ頃合いだろうか。せめて最西端からの夕陽は見ていきたいが。
天気を気にしながらも、自転車で出かけた。サトウキビの作業について農協でたずね、水の事で重ねて役場に苦情を言い、郵便局で絵ハガキを投函した。帰る途中ふと見かけたのが、スナックのバイト募集の貼り紙。女性だろうと期待せずに入ったが、知人に連絡を入れてくれ、あっさり明日からバイトが決まった。草刈りなど野外の仕事らしい。とりあえずテントから通い、住む場所が見付からないようなら、その時は短期ですませてよそへ行こう。突然の豪雨の中、トラックで送ってもらった。
夜に再び迎えに来てくれた。仕事の打ち合わせと聞いたが、ただヤシガニ汁をごちそうになった。今までの寒い人々の事を思うと、この好意は意外だ。
22時テントに戻る。テント内はまだ乾かない洗濯物に加え、今日濡れた荷物、そして自分もしずくをしたたらせ、最悪の状況。
10月27日 雨
夜通しの激しい雨と風の中、凍える夜を過ごした。服はまだ乾かず、さらに雨だれが落ち続ける。五日続きの雨とは、まったくたいした試練だ。以前はただ生きていただけだが、今は生き抜いている気がする。台風11号は台湾の向こう側だそうだ。強風圏内に入り、各注意報が出ている。
それでもバイトは予定通り。最初の仕事は、港に着いていた芝の苗を、飛行場へ搬入する作業だった。YS11のランディングを間近に見た。関係者以外立入禁止の場所に入るのは楽しい。
午後は牧場へ行き、飼料を運んだり刈った牧草を集めたりの作業。その頃になって雲が切れ、陽が射し始めた。帰って日が暮れるまでのわずかの時間に、洗濯物を干しバッグを広げた。バイトが始まると、急に忙しくなる。ふと思いついて自転車で飛び出したが、西崎に着いた頃には夕日は沈んでいた。
水道が、チョロチョロとしたたるようになっていた。再三の抗議の成果も、この程度か。
10月28日 曇
台風は過ぎ、六日続きの雨とはならなかった。今日の作業は、山の下草刈り。そこに植えられたアカギは、ヨナグニサンの食草だという。古いマユをいくつか見た。続いてリュウキュウコクタンを植えた町営林へ行き、下肥えをまく。公共事業の下請けと、今になって知った。
午後はまた牧場へ。刈った牧草をフォークで運ぶのは、まるでインガルスの気分。波照間で聞いたマジックマッシュルームがこの島にもあった。だが地元民の目もあるし、こっそり採るのは難しそうだ。今日はサトウキビを味わった。歯で皮をむいてかじると、思ったよりずっと甘く、みずみずしかった。だが後で手がベタついた。
10月29日 晴
最西端はさすがに朝が遅く、6時に起きてもまだ星が見える。食事をすませ、さっそくテントの移動にかかる。浜に降りると、意外な人物と再会した。波照間で見送ってくれた即席カップル。昨日のフェリーで来たとか。話はバイトを終えてからゆっくり聞こう。
今日の作業は、防風林になるフクギの苗を起こす作業。果てしなく続き、ウンザリした。明日もあさっても続きそうだ。一方貸家の方は早くも見付かったようで、近く引っ越せそうだ。キャンプも、自転車の旅もじきに終わる。
いや、一つ思い付いたが、最西端のこの島を起点に、最東端を目指して日本縦断するなんてどうだろう。梅雨明けを追いながら走るなど面白そうだ。よし、とりあえずは初夏までここで旅費をかせごう。
10月30日 晴
今日は午前中作業を休み、新居の掃除をした。新居といっても古い家だが。前の住人が失踪したまま、空き家となっていたそうだ。衣類からアルバムまでそのまま残されている。
午後の作業を終え、今日のところはテントに帰る。キャンプ生活もあとわずかだ。だが沖縄らしいしっくいかわら屋根の家に住むのもいい。
10月31日 晴
今日も星の時間のうちに起き、夜明けをずっと見ていた。空や海とこうして身近に向き合えるのも、今のうちだけだ。キャンプ生活も、わずか三週間で終わってしまう。もう少し放浪していたかった。いや、旅はまだ終わりはしない。まだ第1章が終わったに過ぎない。日本縦断の旅はこれからだ。
バイトの方は、昨夜の雨で土がぬかるみ、予定の作業が出来ないらしい。今日のうちに引っ越しする事にした。テントをたたんで自転車に積み込み、家へと走る。大荷物での山越えはきつかったが、ひさしぶりに旅の実感を味わった。この重装備も、次は半年後になる。家の前に自転車を停め、写真を撮った。
引っ越しをすませ、午後の作業に出かけた。そして仕事をすませると、今日はテントではなく家へ帰る。
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