レイリング日記00


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     2月20日 日曜日
 雪が見たいと言う両親が、日本海側まで出かける事になった。僕もしばらく列車に乗っていないし、同行しよう。今朝起きると、自宅周辺でも降っていた。期待の雪景色をたっぷり楽しめそうだ。
 三田に着く頃には、雪は止んでいた。が、そこから北へ向かうにつれ、車窓の景色は白さを増す。福知山では乗り継ぎ時間がかなり空いたので、途中下車し、駅の周辺を歩いた。とくに目的はなかったが、積もった雪を踏みしめて歩くのは楽しかった。
 特急を使わず、ずっと普通列車を利用している。だが電化区間では、それほどローカル線の風情はない。まあ単線ではあるので、すれ違いのため駅での長い停車時間がたびたびある。そんなのんびりした雰囲気だけでも、両親の方は充分満足しているようだ。僕もホームへ降りてみては、雪で遊んだ。ふと見ると、すぐ後ろで車掌も雪を投げていた。
 豊岡に着くと、すぐに折り返し上り列車で帰途についた。列車に揺られ、景色を眺めるだけで充分満足したというので。僕ももちろんそれだけでいい。そういえば豊岡には、去年の日本一周の時にも来ている。公園にテントを張って寝たのだった。
 駅を出てすぐ、線路わきにこんな看板を見かけた。「大石内蔵助の長男、大石吉之進の墓」。この町は内蔵助の妻、大石りくの郷里だとか。とりあえず、赤穂浪士フリークのミキさんに報告しておこう。
     3月25日 土曜日
 あらためて、姫路へ行った。今日は電車を使って。天気は悪くなかったが、もう一度自転車で行く気にはなれなかった。だいたい10時からの販売に間に合うためには、かなり早く出なくてはならないし。姫路まで走るくらいわけないが、早起きだけはつらい。
 途中でJRに乗り換えるのも面倒なので、新開地からそのまま山陽電鉄で姫路へ向かった。思っていたほど時間はかからず、意外に早く着いた。
 記念弁当の発売時間まで、まだ30分以上もあったが、姫路駅周辺の古い写真の展示などもあり、退屈せずに待てた。前回たずねた店の人は、並んで待つ人も多いと言っていたが、今日はそれほどの事もなく、売り出しと同時にすぐ買えた。土瓶のお茶も売っていた。欲しい気もしたが、あまりいろいろ手を出すとキリがなくなるし、駅弁だけにしておこう。
 復刻版のその駅弁は、内容は当時の製品に忠実なものの、包装は当時のデザインではなかった。それでも、記念の限定販売というだけでも貴重だろう。
     4月2日 日曜日
 今回の旅は母さんの旅であって、僕はその付きそいに過ぎない。何十年ぶりになるのか、昔暮らした徳山の町を見たいというので、その案内をする事になったわけだ。もっとも、ただ山陽線を真っすぐ西へ向かうだけの、案内が必要とは思えない簡単な行程だが。
 18切符を使い、在来線を走る。姫路から先はかなり混雑した。春休み中という事もあるだろうが、もともと姫路岡山間は列車の本数が少なく、どうしても乗客が集中してしまう。
 岡山の乗り換えでは、母さんの方向音痴ぶりをあらためて思い知った。跨線橋を渡って別の列車に乗り換えただけで、なんだか元の方角に戻っているような気がすると言う。これでは案内が必要なはずだ。
 福山、広島と、わりと楽に進んだ。あまり混雑せず、また快速にも乗れたので。時間に余裕が出来たので、ちょっと宮島口で途中下車してあなごめしを買った。今回は僕の旅ではない、はずだったのだが……。
 かなり早い時間に徳山に着いた。ここからはもう完全に、母さんの旅だ。僕にとってはまったくなじみのない町で、何を見てもそう面白くはない。ただ国道2号線は懐かしかった。去年の日本一周の時、ここを通った事はよく憶えている。
 卒業校へも行った。親の学校などにあまり関心はないが、それでも構内の片隅に当時の古い校舎が残っていたのには、僕も感動した。今も部室などに使われているらしく、のんびりしたブラスの音が時おり響く。ほんの一時、別の時代をかいま見たような気がした。
     4月10日 月曜日
 一枚残った18切符をもらい、使用期限最後の今日、東海道線を東へ向かった。このコースに意味はない。今日はただ、独りで列車に揺られさえすればそれでいい。
 まったく計画を立てずに来たが、運良く、米原ですぐに接続の列車があった。豊橋でもすぐに。かなり早い時間に、浜松まで来てしまった。そうなると、今日中にどこまで行けるか試してみたくなる。東京まで行くと、帰りが遅くなるだろうか。浜松から乗ったこの列車は、熱海行きだ。それなら今日は、熱海まで行って引き返そう。
 そう考えていたが、途中で気が変わって静岡で降りた。珍しい駅弁でも探す方が有益だと思ったから。予想通り、新しい大河ドラマにちなんだ弁当が新登場していた。ミレニアム記念の駅弁まであった。
 忘れていた。今日4月10日は駅弁の日だ。帰り道の豊橋駅では、駅弁の日弁当を見付けた。
 珍しい駅弁を三種も入手して、今日は間違いなく自分の旅が出来たと実感する。
     5月5日 金曜日
 バードからの突然の誘いの電話、もうお決まりになってしまった。ただ今回珍しいのは、自転車ではなく列車で出かけるという事だ。滋賀の近江鉄道に乗りに行こうと知人に誘われたのを、ついでに僕まで誘ったという事らしい。
 ひとに誘われての汽車旅、ひとの計画で動く旅は、僕は苦手だ。だが近江鉄道などという線は、こんな機会でもなければ決して乗るような事はなかっただろう。それに、その人はひどく研究熱心な人で下調べもぬかりなく、とても勉強になった。バードの忠告で地図を持参したのは正解だった。
 のんびり走るローカル線も、わずか半日で踏破してしまった。帰りは大阪でもう一人と別れ、あとはバードに引っ張り回された。近くに良い自転車店があるという。サイクルシューズが目当てらしい。それはかなり高価なシューズのようで、まるでサイボーグの足のようだ。
 今日は連れ回されるばかりの一日だったが、それでもそれなりに楽しめた。
     8月14日 月曜日
 まるで月曜日のように早起きをした。東京日帰りとなれば、それも仕方がない。
 早朝の新幹線はすいていた。買ったばかりのノートパソコンを、車内で開いてみる。最近ではよく見かける光景だが、慣れない僕としては少々緊張がある。それでもコーヒーを飲みながら、なんとなく気取った気分になっていた。
 じきにホームページの作成作業に没頭し、多摩川を渡った事さえ気付かないまま東京に着いていた。
 ミキさんとは、東京駅構内で待ち合わせている。新幹線の改札口、とだけしか言っていなかったのは失敗だった。改札口などいくつもあるのだから。去年から持っていてもめったに使わないPHSが、こんな時にまた役立つとは思わなかった。通話エリアの狭さを不便に感じていたが、屋内や地下など、こういうところでこそ便利なのだと初めて知った。
 どこへ行くかもやはり考えていなかった。とりあえず近くの上野公園へ。博物館でエジプト文明展が開催中らしいので向かったが、なんと月曜は休館。これで本当にどこへも行くあてがなくなり、そのままなんとなく上野動物園に入った。
 独りの時なら問題ないが、連れがいる時には迷惑が及ぶだろう。こういう所へ来た時の、僕のマイペースな行動というのは。気が付けば午後も遅くまで、ミキさんは不平も言わず付き合ってくれた。もっとも、博物館に行っていたところで、たぶん同じ事だっただろうが。
 それにしても、上野動物園はひさしぶりだ。小学1年の遠足以来だから、27年ぶりになる。そういえばあの日も集団から離れ、放送で呼び出されても聞いていないありさまだった。昔っから、ひとと行動するのは苦手なタチらしい。
 さて、次はミキさんの希望する場所へ行くべきだろう。で、浅草へ行く事になった。そこまでは二階建てバスが走っているという。バス停を駅前の交番でたずねると、巡査はとてもていねいに教えてくれた。最近の不祥事続きで、警察への嫌悪感はぬぐえないが、だからといって各個人を白眼視するつもりはもちろんない。
 16時過ぎ、遅い昼食だか早い夕食だかをすませ、浅草寺へ行った。ここは僕は初めてだ。誰かに連れられて来るのでなければ、独りではまず足を向ける事はないだろう。テレビの向こうの見知らぬ場所が、今日思い出の場所に変わった。
 深夜の新幹線もわりとすいていた。だが、もうパソコンで作業する元気もない。新大阪に着くまで、途中駅の停車にも気付かないほど眠り込んでいた。
 23時を過ぎ、新大阪から先はもう新幹線はない。あとは在来線を乗り継いで帰った。
 残り二日の盆休み、もうどこへ出かける元気も残ってない。
     8月26日 土曜日
 終戦直後、平和の象徴として「はと」と名付けられた特急が誕生した。主要幹線を走り続け華々しく活躍していたが、新幹線開通に伴い姿を消してしまった。
 その特急「はと」が、今回特別にリバイバル運転される。幸運にも切符が手に入り、団体旅行に参加出来る事になった。新大阪から博多まで11時間、ひさしぶりの本格的なレイリングだ。
 古き良き時代の列車の復活という事で、僕はすっかり感傷と郷愁に浸っていた。だが今回のこの列車は、そんな郷愁とはまったく無縁の、ひたすらにぎやかなイベント列車だった。団体旅行というのは、そういったものだろう。
 ただ意外だったのは、そんな騒ぎの中で、いつしか僕自身もはしゃいでしまっていた事だ。この列車を記念した特別な駅弁が嬉しくて、それをきっかけについうかれてしまったらしい。僕の感傷も、しょせんはその程度だ。
 車内では、考え事にふけるひまもなく、次から次へといろいろなアトラクションが催される。マニア向けの難解クイズに、鉄道部品のオークションなど。そしてそのたびに僕も、しっかりそれに参加していた。
 クイズは上位7名までは残ったが、各車両5名ずつ参加の決勝には進めなかった。車掌体験では、抽選に当たったのはすぐ向かいの席の人だった。
 そして最後がオークション。ブルートレインのテールランプが出品されているのを見て、ついまた燃えてしまった。旅情を誘う、夜汽車の赤い尾灯……。これだけは絶対手に入れたい。同じ車両内にはたいした競争相手もなく、余裕でモノに出来た。
 と思っていたら、真の競争相手は別の車両にいた。対面し、あらためて今度は一対一の勝負。初めてのオークション体験だったが、こんなに面白いものだとは知らなかった。もしかしたら、年配だったその相手が、まだまだガキの僕に譲歩してくれたのかもしれないが。
 日の傾く頃に山口県を走り抜ける。この辺りはまだ住んだ事がないが、学生時代によく行き来していた所でもあり、なんだか懐かしい。特に、みかん色のガードレールがさらに夕日に染まる、こんな日暮れの頃には。
 すっかり暗くなった頃、九州に上陸した。博多に着いたのは21時を過ぎていた。だが日本一周の時の悪い印象がまだ残り、この街に泊まる気にはなれない。ハンバーガー店で時間をつぶし、夜行バスで帰途についた。

     8月27日 日曜日
 夜行列車の感覚で考えていたら、夜行バスはかなり狭かった。座席がそれぞれとなり合わずに独立しているのが、飛行機よりはマシだが。サービスエリアでの最後の休憩の後、カーテンを閉められて座席はすっかり囲われた。
 今朝は6時起床と聞いていたので、一人先に5時半に目覚めた。混まないうちに顔を洗いトイレをすませて、コーヒーをいれて席に戻る。周囲が起き出す頃には、僕はゆっくりと二杯目のコーヒーを飲んでいた。夜汽車の旅に慣れていれば、朝も余裕だ。
 ところが、その後すぐにサービスエリアに入って休憩となった。ほかの乗客はみな降りて、広い所でゆっくり身づくろいをしている。べつに車内ですませる必要はなかったようだ。
 僕はもう何の用もないし、自販機で飲み物を買っただけでバスに戻ると、席にはサービスのお茶が置かれていた。
 夜行バスは初めてで、ほんとに何も分からない。だが、すっかり旅慣れてしまった今、旅の中でこれほどとまどう事が多いのは、新鮮な感覚だった。
 律義にも、昨夜上映していたアニメ映画の続きを始めた。福岡を経って大阪へ着くまでに、ちょうど良い時間の作品を選んでいるのだろう。もっとも僕は途中で降りたので、ルパンと伯爵が対決するラストシーンは見られなかった。


     9月9日 土曜日
 明日の試験は明日の事。今日はただレイリングを楽しもう。両親が、18切符を一日分残しておいてくれていた。数日前にも二人で予定も立てずに出かけ、名古屋から京都に奈良まで回ってきたそうだが。
 僕も今日は、まったく予定を立てずに出かけた。時刻表さえ持たずに。
 モンゴル以降、こういった行き当たりばったりが増えた気がする。以前は、出発前にきっちり計画を立てていたものだが。もっとも、計画をその場その場で変更する事も多かったので、結局はあの頃も行き当たりばったりだったのかもしれない。
 途中通った京都駅では、ちょっと妙な気分だった。昨夜見た映画で、ガメラがこの駅を破壊したのを見ていたから。
 あのような映画、地元の人はどんな気分で見るのだろう。あまりにも非現実的だから、冷静に見られるものだろうか。だがまさか神戸の街が破壊される映画などは、震災後には制作されないはずだ。いや、神戸新空港沈没などは、案外面白いかもしれない。
 米原では少し待たされたが、あとは順調だった。鈍行を乗り継いでも、東海道線は短いものだ。豊橋から乗った列車でようやく座れたので、弁当を広げた。ロングシートでは、旅の情緒などまったくないが。
 昼食を終え、ひと寝入りするうちに沼津に着いていた。自転車では7日間かかった距離だったと、つい考えてしまう。箱根を越えればJR東日本圏内。駅の発車の音楽が懐かしい。
 ガラ空きの列車に揺られながら、暮れる海と空をのんびりと眺めていたが、ふと考え直して混み合う快速に乗り換えた。明日のんびりするために、買い物などは今日のうちにすませてしまおう。秋葉原へ直行した。
 すっかり夜になってしまった。これからホテルを探さなくてはならない。都心は高い気がするので、少し離れる事にした。18切符なら、どこへ向かうのも気分次第。

     9月10日 日曜日
 昨夜は予習もせず、ホラー映画を見ながら寝てしまった。今朝も時間があったにもかかわらず、ずっとパソコンでホームページの準備。直前にあたふたしても仕方がないし、しょせんは遊び気分で受ける試験だ。
 地理コンテストは午後に始まる。ゆっくりホテルを出てもまだ時間があり、ついまた足は秋葉原へ向いてしまう。
 一度パソコンを手にすると、欲しい周辺機器が次々に増えて困る。帰りの新幹線分の金額だけが、かろうじて手元に残った。昔は帰りの電車賃まで使ってしまった事もあったが、最近はそこまで無分別ではない。無計画ではあるけれど。
 試験会場は、明治大学の新築ビルの中だった。きれいすぎて場違いのような気がしたほかは、緊張するような事もなく、カメラも気にせず楽に解答用紙を埋めていった。
 ところが、突然電話が鳴り出した時には、さすがに少し慌てた。こちらからの連絡用に持っている電話は、普段かかってくる事などめったになく、だから試験中は電源を切るようにという注意も聞き流していた。失敗だった。聞き慣れないメロディーのオリジナル曲で、ただでさえ目立つというのに……。
 そんなハプニングもあったが、簡単な試験は早めに片付いた。さあ、もうのんびりはしてはいられない。明日からまた出張だし、早く帰って休まなければ。それでも「のぞみ」に乗る金はもう残っておらず、混雑する「ひかり」の自由席で帰るしかなかったが。
 時間帯のせいか、本当に混雑していた。もちろん始発駅なので座れはしたが、となりに誰かが座るとパソコンを開く気になれない。カフェテリアへ行こうかとも考えたが、デッキや通路に立つ人をかき分けるのも面倒になり、結局ワゴンでコーヒーを買って席に引き返した。
 新幹線も、たまにはいいが続くと飽きる。


     12月31日 日曜日〜1月1日 月曜日
 弟からゆずり受けた、デジタルカメラと内蔵型CD−RWドライブで、さらにパソコンの可能性が広がった。中古とはいえ、重宝しそうだ。何しろデスクトップの方は、古いカメラや古いドライブに見合う、古いパソコンだから。
 そして、今まで使っていたCD−ROMドライブの方は、ドライブが故障中の父さんのパソコンに使えるのでちょうど良い。つまりCDドライブのドミノ移植だ。
 カメラはすぐに接続が出来た。データ移動も問題なし。が、ドライブ交換の方はかなり手こずった。古いタイプはやはりやっかいだ。
 弟の手伝いもあって、なんとか出かける前にはマウントする事が出来たが、ライティングソフトのインストゥールは間に合わなかった。動作テストは帰ってからに持ち越し。来年に、来世紀に持ち越しだ。

 ひさしぶりのレイリング、しかも夜汽車となればなおさらだ。これが、今世紀最後のレイリングになる。そして、来世紀最初のレイリングともなる。
 今回乗る列車は、出雲大社の初詣へ向かう、団体貸し切りの特別列車。夏の「はと」への参加をきっかけに、冬の旅行案内がいろいろ届き、そのうちの一つに申し込んでいた。もっとも、僕は団体も混雑も苦手なので、列車の道程のみを楽しみ、後は一人で帰るつもりだが。
 B寝台に荷物を置き、通路側の補助席から、窓に顔を寄せて夜を眺める。わけもなく、なんとなく感傷的な気分になる。明石海峡大橋の巨大な放物線が、今ゆっくりと背後に過ぎた。
 境界を越える。世紀の境界を、千年紀の境界を。これほどに大きな境界を越えるのが、こうも簡単な事だったとは。僕は列車の窓辺に座っている。ただ座って待っている。それだけで、列車は勝手に進んでゆく。時は自然に流れてゆく。月もいつまでも空にとどまるように見えながら、確実に低くなってゆく。
 遅い夕食かそれとも早い夜食か、弁当が配られた。今世紀最後の駅弁。大みそからしく、そばの弁当だった。
 列車や駅弁だけが楽しみ、だったはずだが、せっかくなので倉敷で途中下車した。駅前のテーマパークで、ミレニアムのカウントダウンを楽しむというのも、このイベント列車の旅程の一つとなっている。
 夏の「はと」の時にも思ったが、僕の感傷などというものは、まったく軽薄なものだ。きらびやかな遊園地の中で、にぎやかな音楽と花火の中で、僕はいつしか叫びながらとび跳ねていた。はしゃぎ屋の性格は、世紀を越えてもあらたまりそうにない。
 その瞬間を、とび跳ねていた僕は空中で迎えた。

 列車の出発までまだ間があるので、しばらく散歩をした。真夜中の遊園地は、異世界だ。カウントダウンの昂揚感が、いつまでも静まらない。
 ところが遊園地を出れば、当然ながらごく日常の町の風景が広がる。21世紀となった今も、もちろん何の変化もない。なんとなく、肩すかしの気分だ。べつに僕も、エアカーやリニアやロボットの世界を、本気で期待していたわけではないが。
 出発時刻よりもかなり早めに列車に戻った。
 この列車の最後尾には、昭和初期の展望車、マイテ49が連結されている。すいている間にそこへ行き、発車時刻までしばらくくつろいだ。
 当時造られた本物ではなく、80年代に復元したものらしいのだが、それでもクラシカルな雰囲気は充分だ。やわらかな照明。つややかな木の色。足音が響く。ニスの匂いがする。
 後部デッキへも出てみた。そしてふと思った。昭和初期の目で見渡せば、この日常風景も驚異の未来世界だという事に。
 レトロ列車に乗る事で、未来が実感出来るとは面白い。

 ひさしぶりの寝台車はよく眠れた。列車の揺れはもちろんの事、発電機のうなりさえもが、なんだか懐かしくて心地良い。
 松江で列車を降り、ようやく団体から離れて独りに戻った。ここからは、昔ながらの僕の旅だ。鈍行利用で一日に限られるほかは、何の制約も受けない勝手気ままなレイリングだ。とりあえず米子まで戻り、時刻表を開いて即興で計画を立てた。
 昨夜からの「昭和初期の視線」は、今朝も続けている。自動ドア、蛍光灯、自販機、そして駅前のコンビニ……。やはりこうして見れば、日常も驚異の未来世界だ。
 車内でパソコンを取り出した。見慣れた愛用のノートパソコンだが、しかしこれこそ驚異のハイテクといえる。
 伯備線を戻り、新見から姫新線へ入り、津山を経て津山線を岡山まで帰ってきた。山深いローカル線を、細かい雪が舞っていた。
 次いで海を見たくなったので、そこから先は赤穂線をたどる。海は薄雲の下で、おだやかに明るかった。
 元日は、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートを見逃すわけにはいかない。遅くならないうちに帰宅した。そして昨日の続き、前世紀からの続きだった、パソコン改造作業もようやく終えた。
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