レイリング日記90


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     1月3日 水曜日
 開店までまだ時間があったが、入り口の前はすごい混雑。数百メートルにもなる列は福袋目当ての人達だと知って少し安心したが、それでもその人達が入ってしまうまで待たなければならないわけだし、店員に誘導されて別の入口に回った。
 横浜の駅弁大会は、今回初めて行った。やはり場所が違うと、弁当の種類も違っている。つい買い過ぎてしまった。わざわざ遠くまで来たかいはあった。
 昼には用事もすみ、時間もあるし、せっかく来たのだからと逆向きに帰った。近郊区間内なら遠回りしても運賃が変わらないのをいいことに、根岸線で西へ向かい、茅ヶ崎から相模線で北上して、八王子から中央線で帰って来た。
 相模線はなんと、単線のディーゼルカー。信号所ですれ違いの停車をして、タブレットを交換するのには驚いた。東京近郊区間内に、まだこんな線があったなんて。買い物帰りという感じではなく、なんだか長い旅行の途中のような気分だった。
     1月7日 日曜日
 東海道線下りをすべて鈍行に乗って帰るのは、今日が二度目。でも前は夜行だったから、昼に乗るのはこれが初めてだ。
 熱海発米原行と、大垣夜行の次に長距離を走る列車に乗った。6時間半も走るというのに、トイレが付いていないのは困る。まあ乗る人はみんな近距離客で、新幹線を使わずに始発から終着まで乗る人なんて、めったにいないだろうから仕方がない。車掌も途中で二度交替したほどだ。
 ところが意外にも、僕のほかにも熱海から米原まで行く人がいた。始発駅からとなりに座っていたおじさんは、北海道から来て岡山まで行くというのだから、上には上がいるものだ。米原から先の列車でも一緒になって、最後は新幹線に乗り換えるため新大阪で降りていった。僕も次の大阪で途中下車し、その先は阪急で帰った。今回の切符は福知山線経由で、神戸を通らないから。

     1月11日 木曜日
 夜の大阪駅ホームは風が強くて寒かった。始発駅だから早めに入線すると思ったら大間違い。風の吹き抜けるホームで30分も待たされた。
 列車を引く機関車は、すでにディーゼルカーだった。それなら機関車の交換はないと思っていたが、どこかの駅で交換があったようだ。眠くてよく憶えていないけど。
 寝ている間に山陰線を通り抜けてしまうなんて、もったいない気もする。米子へ着く頃に起き出したが、雨が止んだというのが分かったくらいで、外はまだ完全に真っ暗だ。
 出雲市駅で大社線に乗り換えた。そろそろ7時になる頃に、ようやく薄明るくなってきた。雪がまったくないのが分かって、ちょっとガッカリ。でも雪はなくても、どこか山陰という雰囲気がある。大社駅も立派だった。木造でがっしりしていて天井が高く、人気もなくて薄暗くて、いい感じだった。
 大社線に乗って、目的の一つは果たした。次は木次線と芸備線。急行「ちどり」で広島まで行った。 山の中へ入っていくにつれて雪があちこち目に付き始め、やがて一面真っ白に変わった。予想していなかっただけに嬉しかった。
 スイッチバックの出雲坂根駅を過ぎると、島根県の最後の駅の三井野原駅。駅のすぐ前がスキー場だ。県境を越えて、次の駅は油木
ゆき駅。乗降は出来ないが、タブレットの交換のため停車した。駅員がひとり、雪を踏みしめてホームからはみ出た運転席までタブレットを運んだ。
 広島県に入って山を下ると、途端に雪はなくなってしまったが、雪とは別にもう一つ、予期しなかった嬉しい事があった。
 備後落合へ着く時に、ホーム売店で弁当等の販売をしているという車内放送を聞いて、待ちきれない思いですぐにホームへとび出し売店へ走った。お昼はすでに車内で食べていたけれど、初めての駅の初めての駅弁となると買わずにはいられない。備後落合で弁当を売っているなんて、今の今まで知らなかった。
 今日はたくさん弁当を買い込んだ。山陽に出てからも、宮島口であなご飯を買うために途中下車した。ところが駅の売場に店の人がおらず、戻るのを待つうちに徳山行きに乗り遅れてしまった。次の列車は岩国までしか行かない。くやしいから岩国でも弁当を買った。
 これで当分は、買い込んだ弁当ばかり食べる事になるだろう。今日も、朝は松江駅のホームでカニずしを食べ、お昼は「ちどり」の車内で松江の幕の内、晩はこだまの車内で岩国の弁当を食べた。


     1月24日 水曜日
 朝テレビをつけて、九州でも雪が積もっているのを知って、すぐに家を飛び出してしまった。学校へ向かう人混みに逆行して駅へ向かい、とりあえず熊本までの切符を買った。出かける前に一応時刻表を見たが、久大線は昼まで直通列車がないから迷う事はなかった。とりあえず豊肥線を通って、あとの予定は列車の中で考えよう。
 大分を出た頃には晴れていた空も、山の中へ入ると雲に覆われてきた。竹田で乗り換えると、その先は乗客も少ない。間もなく雪も降り出し、見る間に厚く積もり始めた。杉林も白くなり、強い風に時おり木がゆれると、雪は煙のように舞い上がった。信じられないくらいサラサラの粉雪だ。一瞬、左側の崖に細い滝が見えた。その滝も白く凍っていた。駅のホームに積もった雪は、もう30センチにもなっている。九州にいるとは思えない。雪景色を見ていると、かなり遠くまで来たような気がした。
 宮地でかなり待ち時間があった。さっきほどではないものの、カルデラ内でも雪が降り続き、積もり始めている。阿蘇は見えないが、かなり積もっているだろう。ホームは風が吹き抜け、雪が吹き付けて、5分と立っていられない。列車内から見る雪が真横に流れるのは、列車の速度のためばかりではなかった。待合室は広いが薄暗くて静かで、キオスクの周りだけが不自然に明るくてカラフルだ。レストランも閉まっていて、シーズンオフの観光地の駅はまったく寂し気な感じだ。
 列車内で時刻表を見ていると、熊本で三角線の接続があるので、行き先をそこに決めた。雪で到着が遅れたが、三角行きのレールバスは待っていてくれた。雪のため学校が早目に終わったらしい。下校する学生も多く乗っていた。天気は回復して陽も時おり射してきたが、風はますます強くなり、海は波が白く立っていた。
 三角駅では5分しか時間がない。乗って来たその列車が引き返すのに遅れると、1時間待たなければならないので、慌てて改札を出て売店に走った。ところが売店には鯛すししか残っていない。少し待てばかにずしが入るというが仕方ない。あきらめて列車に戻った。
 途中宇土でも降りたが、ここは売店が閉まっていた。その上じきに来るはずの次の列車が遅れ、この駅で40分も足止めを食う羽目になった。ついてない事もあったが、雪を見たくて出かけて来て、充分すぎるくらい雪を見たのだから満足だ。
 そして、この後もたっぷり雪を見る事になった。阿蘇にさしかかると再び雪の中で、なんと別府にも雪が積もっていた。
 ここでも後続の列車が遅れ、30分待たされた。タクシーが時おりチェーンを響かせて走り去るのを見下ろしていると、20時を過ぎたばかりでもなんだか深夜のような感じがする。駅のホームだけが明るいと、かえって寂しげだ。線路にはポイントの凍結防止のための小さな炎が、いくつも灯っている。
     2月3日 土曜日〜4日 日曜日
 二日間、一度も鉄道構内から出ずに、40時間かけて九州内を回った。昨日買った、土曜日曜の二日間に限り九州内乗り放題という切符で。予定もしっかり立てず、一日目前半の予定だけ決めて列車に乗り、あとの事はのんびり車内で考えた。
 何もかも忘れて、楽しいことだけ味わおうという旅だったのに、考えが甘かった。この旅はむしろ逆効果だった。同席した人達に、思い出したくない事、今は忘れようとしている事を根掘り葉掘り聞かれ、しまいには説教までされてしまった。自由席なんだから席を移ってもいいし、相手が勝手に話しかけてくるのだから無視したってかまわないはずだが、僕にはどうもそういう事が出来ない。どの人も愛想が良く、ニコニコして話しかけてくるものだから、迷惑そうな表情をする事すら出来ずにわざわざあいづちをうっていた。楽しいはずの時間がひどく長く、苦痛だった。
 一人でいるには、放っておいてもらうには、どうすればいいのだろう。汽車旅までも苦痛になるとすれば、もう楽しみなんて何もない。
     2月23日 金曜日〜24日 土曜日
 風が強く、雨も徐々に強くなり、海は荒れていた。豊予海峡を横切る時にはひどい揺れで、起き上がる事も出来ないくらいの船酔いにかかり、あお向けになって転がらないよう両手を広げ、目をつぶって口を大きく開けハアハア息をしながらじっと耐えていた。
 雲が厚くいつまでたっても明るくならなかったが、揺れがおさまった頃起き出して外を見ると、いつの間にか夜が明けていた。それでも海の色は冷たく暗く、雲は重く低く、今日一日どんな天気になるかだいたいの見当がついた。
 八幡浜港もどしゃ降り。入港が遅れて時間がないのにバスもなく、タクシーもいない。雨の中途方にくれていると、電話でタクシーを呼んだという人が駅まで相乗りさせてくれた。お礼は言ったけれど、こんな時は自分の口下手が本当に残念に思える。
 それでも結局列車には間に合わず、改札越しに動き出した列車を見送るだけだった。まあいい、宇和島駅で待つか八幡浜駅で待つかの違いだけだと、あきらめをつけた。
 予土線の列車の本数は少ない。その先の土佐くろしお鉄道も少ないし、今日は駅で列車を待つばかりで一日が過ぎた。八幡浜、窪川、中村、そして高知。雨に降りこめられて駅からも出られず、昼食は駅弁を窪川駅のホームで食べた。中村では目当ての駅弁は売り切れ、高知での待ち時間は長く、こうなると来て損したとは言わないまでも、こんな所まで来て何やってるんだろうという気になった。
 23時13分、雨で接続の列車が遅れ、「ムーンライト高知」も7分遅れで出発した。2時間半も待ってようやく列車に乗り込んでほっとしたせいか、すぐに眠ってしまった。妙な列車で、座席がなくじゅうたん敷きの床で、フェリーの2等客室のようだ。嫌な予感がしたが、まったく酔わなかった。何度か目が覚めたものの熟睡出来た。

     2月25日 日曜日
 小雨の降る中を、来月いっぱいで廃止になるという鍛治屋線に乗りに行った。日曜日という事で、僕のように最後の記念にと乗りに来た人達が大勢いた。ビデオカメラを向ける人や、終着駅で降りるなり入場券を買う人。僕は写真を撮り録音をするだけで、何も買わずに戻って来た。それにしても、来月いっぱいで大社線、鍛治屋線が廃止され、宮津線が第三セクター化するなんて。こんな事は去年いっぱいで終わりかと思っていた。
 帰りの列車が、ちょっとした故障で動かなくなった。こんな事を楽しんではいけないと思いつつも、何か変わった事が起きないかといつも期待している僕は、つい喜んでしまう。少々の不都合や困る羽目になっても、後から思えば何もないより面白い。テープを回していて良かった。いい記念になった。
 テープといえば、向かいの席に座った小学生の兄弟も、列車の音を録音していた。それまではにぎやかだったのが録音を始めたとたんに口を閉ざして、代わりにパントマイムのように手振りで会話を始めるのがおかしかった。


     3月10日 土曜日
 京葉線が全線開通する日、早速乗って東京まで行った。空席があるにもかかわらずにずっと扉の所に立って、海や埋め立て地や遊園地や建設中のビルを見ていた。
 東京駅の長い連絡通路を通って中央線に乗り換え、八王寺から八高線、川越線を通って大宮へ行き、上野秋葉原を通って西千葉まで戻った。近郊区間内を遠回りして西千葉まで行ったというわけだ。310円の切符で、ずい分長く列車に乗れた。八高線も八王寺から飯能の区間は初めてだし、川越線も電化されてからはこれが初めてだった。
     3月13日 火曜日
 用事があるのは千葉なのに、また京葉線経由で東京まで行ってしまった。そして横浜線を北上して、武蔵野線経由で戻ってきた。京葉線が出来てから、経路が重ならないように遠回りするのが楽になった。
 先週の背広を受け取るのが、今日の外出の目的。なのに6時に家を出てから16時に帰るまでの間、ほとんどがムダな寄り道だった。ちなみに、帰りも東金線を遠回りした。
     3月14日 水曜日
 翌日に面接をひかえていながら、旅に出てしまった。こないだ買った、一日鈍行乗り放題の18切符で。一日有効というのを充分に生かそうと思い、昨夜のうちに出発して、0時1分新宿発の夜行に乗った。新宿までは普通の切符を買って。
 鈍行の夜行に乗るのはこれで四度目。なかなか寝つけなかったが、時間がそう長くないので疲れはしなかった。終着の上諏訪駅には5時46分に着いた。すぐに長野行の列車があり、篠ノ井線経由で長野へ。
 篠ノ井線は、始めはトンネルばかりで面白くないと思っていたが、その間にどんどん山を登っていたらしい。冠着
かむりぎを過ぎると峠を越えたらしく、景色が一変した。線路は山の中腹を通っていて、はるか下の方に街がかすんで見えた。川が流れ、向こうには白い山が連なって見えた。
 長野からは飯山線だが、接続が悪くかなり時間があるので、大勢のスキー客と一緒に信越線を北へ向かい、妙高高原で降りた。駅の近くを少し歩いてみようかと思っていたが、着いてみてその気をなくした。駅前はバス停にタクシー乗り場にみやげ物屋が狭い所に集まり、そこにスキー客と大荷物が列を作っている。僕は待合室に引っ込んで、駅で買っただんごを朝食がわりに食べていた。
 スキー客の多さには驚いたが、妙高まで来てようやく判った。雪の少ない今年でも、あれだけ雪があるのだから。山はもちろんのこと、街も線路ぎわも田んぼも白い。数日前にも降ったらしく、新雪がやわらかい。陽が高くなるとホームの屋根からしずくが落ち始め、時々雪のかたまりが線路に落ちた。
 信越線沿いは雪も溶け始めていたが、飯山線を進むうちまた雪が多くなってきた。それも信越線の雪とは違う、溶ける様子のまったく見られない、完全な根雪だ。
 進むにつれて雪はさらに深くなり、しばらくウトウトして目を覚ますと周囲は真っ白。乗客もいつの間にか少なくなり、ゆっくり走る列車の窓からのんびり景色を楽しめた。
 上越線にぶつかって、越後川口駅が飯山線の終点。ほかの乗客は下り列車に乗って、ホームには僕一人だけが残された。何もなくて、静かで、小さな駅だ。本当に何もない。改札口にも人影はないし、のどがかわいても売店すらない。心細くなるくらい何もない駅だった。
 ようやくやって来た列車は、またスキー客で混んでいてにぎやかだった。その後も何度か乗り換えたが、どの列車も大勢だった。
 清水トンネル付近の景色は、今日の旅の最後の楽しみ。辺りはすべて雪に覆われて、その白い中で木々の幹や細い枝が真っ黒に見えた。
     3月18日 日曜日
 今回のコースは中央線を下り、小海線を通って信越線に出て、高崎線を帰って来た。
 中央線はつい四日前に通ったばかりだけど、昼間に鈍行というのは初めてだ。笹子駅から車内販売のおばさんが乗り込んで来たので、笹子餅を買った。父さんも母さんもこの笹子餅の事はよく知っていて、昔はもっと大きかったと言う。でも味には文句をつけなかったから、その点は昔通りなのだろう。
 ほかにも今日は、あちこちで珍しい弁当が買えた。小諸と横川は、昨日のうちにしっかり電話で予約しておいたので。小淵沢駅では、土瓶のお茶があった。昼はもうすませていたのでお茶だけ買って、小海線のガラあきのディーゼルカーに乗ってゆっくり飲んだ。
 天気が悪かったが、まさか雪が降るとは思っていなかった。きっと関東では雨だっただろう。ほんの半日で冬に来てしまった。まっすぐの幹と細い枝のカラマツの林がとても静かで、雪は大粒で横なぐりで激しく、それでもカラマツ林に雪はとても似合っていた。
 そろそろ小諸へ着くという頃に、ラジオで千葉のストの事を聞いた。明日からのストが急に半日繰り上がり、正午から内房線は動いていないという。ストなんて初耳だし、驚いてうろたえたけど、だんだん楽しみになってきた。災難なんて喜ぶ事ではないはずだけど、このくらいの事ならかえって嬉しい。平凡で何も起こらないよりは、少々波乱のある方が良い。
 千葉まで帰って来ると、数本の列車が動いていた。駅には立て札などが放り出されていたりと混乱の跡は残っていたが、夜も遅くなっていたのでもう落ち着いていた。あっけなく帰り着いてしまい、ひょうし抜けした。
     3月25日 日曜日
 千葉で2分、成田で3分、安孫子で3分と、乗り換え時間が短くて慌ただしかった。土浦で途中下車してちょっとのんびりしたけど、その頃から今度は列車が混み出した。春休みの日曜日となれば当然だろうが。
 常磐線からは時おり海が見えた。少し緑がかった青い海に、白い波がかなり高かった。平
たいら駅でまた慌ただしく乗り換え、磐越東線を西へ向かうと、それまでの暖かな風景とはうって変わリ、まだ芽ぶかない落葉樹ばかりが目に付いた。
 郡山から先は水郡線で戻ったが、こちらでは対照的に春の景色が見られた。少し西に傾いた陽射しの射し込む車内は、暑いほどだ。郡山では雪が降っていたというのに。それにしても水郡線は長い。暑かった西陽はみる間に低く傾き、素晴らしい夕焼けを車内から見て、空が真っ暗になる頃ようやく水戸に着いた。
 水戸から先も、鹿島臨海鉄道、鹿島線、成田線と、初めて通る線ばかりを通ったが、その頃には残念ながら景色はまったく見えなかった。
     3月28日 水曜日
 ある程度の混雑は覚悟していたものの、30分以上も前からホームが人でいっぱいになっているのを見てウンザリした。さいわい座る事は出来たけど、前に座ったおじさんの行儀の悪さに、疲れは増すばかりだった。本人は終着駅まで足を投げだしていびきをかいて寝ていたが。
 大垣からの接続列車も混んでいたが、ほとんどの人はそのまま西へ向かった。僕は米原から北陸線で北へ向かい、敦賀から小浜線を通って西舞鶴へ向かった。
 今日の一番の目的が、あと三日で廃止され、後に第三セクター線となる宮津線。大社線や鍛冶屋線と違い鉄道としては残るものの、やはり残念だ。
 列車の入線を待っていると、正面の引き込み線に停まっていた特急用の派手なディーゼルカーがエンジンをかけ、調子をみているようだった。やがてホームに入って来た列車は、見慣れた朱色のディーゼルカー。ほっとして乗り込んだ。やはりローカル線にはこれが一番似合っている。
 豊岡で待たされ、福知山でも接続の列車がなかなか来ず、もうすっかり陽が暮れてしまった。考えてみると、今日は米原でも敦賀でもずい分長く待たされた。長く待つのはローカル線らしくていいとは思うけど、昨夜から列車に乗っている身としては少々くたびれた。神戸の家には21時に着いた。

     3月29日 木曜日
 神戸にいたのはわずか8時間。また今日も一日車中の人だった。新快速と快速を乗り継いで浜松までは早かったが、どうせ早く行っても身延線の列車がないので、あとは駅弁を捜して途中下車を繰り返した。
 身延線は良かった。2時間半が短く思えるくらい愉快だった。向かいの席に話好きな、中学生くらいの女の子が座ったから。僕は話好きではないし、自分から話しかけるのはもちろんの事、話しかけられても満足に返事も出来ないのに、今日はなぜかおしゃべりが楽しかった。
 しまいには「お子さんは?」なんてたずねられて大笑いしてしまった。年下から見ると、僕も子どもがいるくらいの年に見えるのかな。でも多分、僕がニコニコしながら横にいた赤ちゃんを眺めていたから、その様子を見てそう思ったのだろう。
 通路をはさんだとなりの座席にハーフのとてもかわいい赤ちゃんがいて、僕だけでなく周りの人たちも、赤ちゃんをあやしながらニコニコしていた。車内はとても和やかな雰囲気だった。


     4月5日 木曜日〜6日 金曜日
 いつもと違う事をする時には、充分時間に余裕を持たなければならない事が良く分かった。
 会社から直接別府へ向かうので、朝は42分の快速でまず東京駅へ行き、大荷物をロッカーに入れた。そして丸の内から出ているという晴海方面行きのバスを捜したが、どうしても見付からない。慌てて八重洲のバスターミナルに行き、同じ方向へ行きそうなバスに乗ったが、回りの景色がしだいに見憶えのない物に変わって、気が気ではなかった。次の停留所までと思っているうちにどんどん走り過ぎてしまい、もう降りて引き返すにも遅すぎるほど遠くまで行ってしまった。
 でも遠回りをしたものの、見当違いの方向へ行くバスではなかった。勝鬨橋を渡ったのでそこでバスを降り、会社まで走った。7分の遅刻。入社4日目にして、早くも遅刻してしまった。
 食べて飲んで、というより食べさせられて飲まされて、会社員になるとやはりこうなるのか。これも僕が地方へ行きたい理由の一つだ。でもどこでも同じだろうか。
 この数日間、僕はまったく僕らしくない。この後も大失敗をするし。やはり背広なんか着ていては、僕は駄目みたいだ。
 普段なら、いくらボンヤリしていても列車の時間をカン違いしたりはしない。時間があるので遠回りをしたら、東京に着いたのが列車発車の一分前だった。ロッカーに走って荷物を取り、発車のベルを聞きながら階段をかけ上がったが、ドアは閉まっていた。駆け寄ってドアをたたいたものの、ローカル線ならともかく東京駅では乗せてくれるわけがない。乗るはずだった列車をホームから見送る事となった。
 大垣行鈍行の夜行に乗り、ひかりとにちりんを乗り継いで、昼過ぎに別府のアパートへ着いた。まさか背広を着たままここまで来る事になるとは思わなかった。「銀河」に乗っていれば、着替える事も出来ただろうが。
     4月8日 日曜日
 九州での最後の思い出に、最後に出かける事にした。今日のために、必死になって引っ越しの荷作りを急いだのだから。
 まず日南線を南下した。強い風に雲は吹き払われ、天気は最上。南へ行くにつれて季節はどんどん進み、ついには田植えも終わってうすく緑がかった田んぼや、淡い紫の藤の花までが見られた。
 帰りにボックスシートに乗り合わせた家族連れは、お父さんがドイツ人だった。向かい側に座った男の子が、僕が置いていた時刻表を自分のとカン違いして手に取って、気付いてからテレ笑いする様子がとてもかわいかった。
     4月12日 木曜日
 一番大変だと思っていた一日は、わりと平穏無事に終わった。ただ新幹線に乗るまでは大変だった。電車の混雑は予想していたが、上野で切符を買うのに手間取ってしまったので。もう少し時間に余裕をもっていれば良かった。
 「あさひ」で長岡へ、「北陸」で直江津へ、それから高田への鈍行と、その後も乗り換えばかりで落ち着かなかった。今は旅館にいるが、ここもなんだか居心地悪い。早くアパートに入りたい。
     4月29日 日曜日
 本当に意外だった。乗る列車はどれもすいていて、僕はずっと座っている。各駅停車を選んだのは大正解。みんな特急に乗って遠くへ行くのだろう。各駅停車はすいているし、特急料金は要らないし、長い停車時間で駅弁は買えるし、いい事ばかりだ。それから、すべての駅に停まるから変わった駅も見付かる。
 トンネル内の駅が北陸本線にもあるなんて知らなかった。青函トンネルの海底駅と、上越線の土合駅くらいと思っていた。筒石駅、いつか降りてみよう。次の駅の能生も、NOというローマ字表記が面白かった。黒い駅名板に白ヌキ文字というのも変わっている。
 日本海の落雷を見た。暗い海の遠くで何か光ったように見えた時、最初は気のせいかと思った。でもたびたび視界の隅で光るので、気になって仕方なかった。そしてついに稲妻が海面に落ちる瞬間を見た。日本海とはすごい所だ。
     4月30日 月曜日
 昨夜は遅く、今朝もまた6時に出発で、全然時間はなかったけど、目的は神戸へ帰る事というより列車で旅する事だから、満足のいく連休だった。昨日の北陸線も初めてなら、今日の高山線も初めて。初めての駅の駅弁もずい分買えたし。じつは高山の駅弁は、出発前に電話で予約してあった。
 谷間を流れる川に沿って走るディーゼルカー、空は快晴で若葉の鮮やかな木々は強い風にゆれ、素晴らしい汽車旅だった。富山が近くなると右手には雪山。始め雲だと思っていた僕はそれに気付いた瞬間、実際とびあがって驚いた。北陸線に出てからも、今日は山側に座って雪山を見ながら帰った。
     5月5日 土曜日
 各駅停車はやっぱりすいていた。長距離の旅なら特急と、みんな決め込んでいるのだろう。確かに一日中鈍行に揺られるのは、気が長くなければ耐えられないかもしれないが。僕としては、いくら早く着いてもずっと立ちづめではかえって疲れるから、最初から特急に乗るなんて考えない。鈍行は混雑する時期でもまず座れるし、特急料金が浮くし、長い停車時間の駅や乗り換え駅では駅弁も買える。ほんとにいい事づくめだ。
 しかし長野での乗り換えでは時間がなくて弁当は買えず、上田では昼にならないと入らないとかで買いそびれた。その代わり、小諸や横川では長時間の停車で変わった弁当が買えた。横川で釜めし以外の弁当を買ったのは初めてだ。今日の昼は、この横川のおむすびを高崎線で食べた。
     5月27日 日曜日
 学生時代は日曜といっても何もしない日が多かったけど、最近は休日にはいつもどこかに出かけている。行きたい所もやりたい事もたくさんあるのに、自由な時間はほんの少し。だから日曜は無駄に出来ない。天気が良ければなおの事出かけずにはいられない。雨が降ったら散髪に行こうとずい分前から思っているが、延び延びになって髪も伸びてる。
 今日は黒部峡谷へ行った。4年前に行ったのは8月の真夏だったから、今頃の季節に行けば何か変化があるかと思い。山の緑が明るく鮮やかで、水の緑によく似合っていた。さすがに雪はもうなかったが、向こうに見える遠い山はまだ白かった。
 変化といえば、4年の間に欅平は少し感じが変わった。列車も新しい車両が増えて、僕としては面白くない。行きは席が残っていなかったので、仕方なく屋根付き壁付きの客車に乗ったが、帰りは吹きさらしのトロッコ列車で直接の景色をたっぷり楽しんだ。今度はアルペンルートへ行ってみよう。雪のあるうちに。
     6月17日 日曜日
 先週先々週と休日を無駄にしたという気がして、今日は絶対どこかへ出かけるつもりでいた。雪の少なくなる前に立山のアルペンルートへ行こうかと考えていたが、三日前にテレビで葉祥明展が開かれているのを知り、立山は後回しにして今日は新潟へ行った。
 あの人の絵は名前も知らない頃から好きだったけど、原画を見たのは初めてだ。淡い感じの絵があんなに濃い絵の具で描かれているとは意外だった。薄く広がる透き通った絵の具では、細かい描きこみは無理だろう。本当に、驚くほど細かい所まで描きこまれていた。
 サイン会まであるとは思わなかった。午後からだけどほかに用もないので、しばらく待ってサインをしてもらい、握手までして大喜びで帰って来た。画集や複製画も買って大はしゃぎの気分。
 行きは特急に乗ったが、帰りはのんびり鈍行で越後線を回り、途中弥彦線に寄ったりしながら帰った。
 その越後線の車中での事、大勢の子ども達と乗り合わせて、その中の一人の子に、僕はいきなり名前をたずねられた。その子はゲンキ君という7才の男の子で、車内をあちこち走り回りながら遊んでいるうち僕の席の所に来て、目が合ったので笑いかけるとその子も笑いを返し、それからたびたび僕の席へ来た。
 こういう事があるから、汽車旅は楽しい。そのうちにゲンキ君は向こうの席のユミカちゃんという女の子とからかい合いを始めて、僕の事なんかすっかり眼中になくなってしまったけど、その様子を見ているのも楽しかった。
     7月7日 土曜日〜10日 火曜日
 思ったほど疲れてはいない。74時間連続乗車となると、もっと疲れるかと思っていたが。一日目の「やまびこ」と「はつかり」を除いて、ずっと座っていられたからだろう。ただそのせいで、背中と尻があせもだらけになったけど。
 三日間乗り放題の切符を手に、まずは夜中の「能登」で出発。予想外にすいていて、翌朝大宮に着くまでよく眠れた。
 大宮での時間は少なく、急いで新幹線ホームにかけ上がった。すでに人の列が長く伸び、入線した列車も満員だ。初日からこれでは先が思いやられるが、まだ体力が充分ある時だし、そう苦にはならなかった。一ノ関で座れ、タイミング良く売りにきた駅弁で朝食にありついた。
 盛岡からの青森行き「はつかり」は、電車式寝台の583系。座れなくても、ただ乗れただけで満足だ。ただ、真っすぐ青森へ行っても接続の列車がすぐにはないので、駅弁を買いに野辺地で途中下車。次の鈍行でゆっくり青森へ向かった。北限の海とはいえやはり夏、とても明るい海だった。
 津軽線を行って戻り、続いて大湊線を北上する頃には陽も傾き、やがて恐山に沈んだ。日没後暗くなるのは早く、昼間の明るさからは考えられない寂しさがある。山は暗い紫色にそびえ、満月だけが暖かな色で輝いている。夜になると疲れも出て、野辺地に戻るまでに眠りこんでいた。「八甲田」でも座れてほっとした。

 翌朝目を覚ますと、列車は駅に停まっていた。目をしばたいて駅名を見て、驚いた。降りる予定の駅、宇都宮だ。慌ててカバンをつかんで飛び出した。でも熟睡出来たのは良い事だ。
 初めて在来の東北線を、ゆっくり鈍行で北上した。外は雨模様。乗客は少なく、たまに乗り込む人もすぐに降りてゆく。それでも福島へ着く頃には、日曜日らしくにぎやかになってきた。
 奥羽線の鈍行の乗客の中には、スイッチバックの廃止を前に、カメラやマイクを持った人達が大勢いた。僕もレコーダーで録音をしたが、一番の目的は峠駅の力餅。今回初めての東北旅行で、駅弁もずい分買ったが、この力餅を買えた事が一番嬉しかった。
 米沢から米坂線を通り、日本海側の羽越線へ出た。酒田で降りて「いなほ」を待つ予定だったが、時間もあったし乗った列車はさらに南へ向かうので、次の中条駅まで行った。たいした意味はないが、ここはまだ通った事のない線だから。
 そこから「いなほ」に乗って羽越線を北上したが、海岸線の景色がこんなに素晴らしいとは思わなかった。車掌の丁寧なガイドもあって、思いがけなく楽しい時間が過ごせた。
 それにしても、この日のコースは変化に富んでいた。峠を越え、海岸沿いを走り、また内陸部に入って山中を横断、陸羽西線と陸羽東線で太平洋側に戻って来た。今夜はまたも夜行で一泊だが、新幹線で一度上野まで戻り、下りの「津軽」に乗った。これも翌日の時間を、東北で有効に使うためだ。
 この新幹線で、となりに座った人が話しかけてきた。その人は東京に単身赴任していて、週末ごとに仙台まで帰り、日曜の夜にはこうして東京へ戻るのだそうだ。僕も東北をひと回りしてきたと答えたが、きっと旅を終えて帰る所だと思っただろう。もし上野から夜行に乗り換えてまた引き返すと言ったら、どんな顔をしたか。疲れた様子で会話はそう長く続かず、そのうち寝息が聞こえ始めた。
 上野駅での乗り換えは慌ただしかった。席に落ち着くやいなやすぐ発車。僕もすぐに眠りこんだ。

 山形辺りで夜が明けた。早く目を覚ましたものの、外の景色が単調になってくるとすぐまた眠りこみ、結局かなり寝坊した気分だ。大館に着くのは昼近くだという安心感のせいもあるだろう。急行でゆっくり北上すると、東北の奥の深さが良く分かる。遠くまで来たのだとはっきり実感できる。
 花輪線の乗客は、100パーセント360度がおじいさんとおばあさん。途中から、聞き慣れた言葉を話す家族連れが乗り込んできて、なんとなくほっとした。
 盛岡からの上り「やまびこ」は、たいへんな混みようだった。どうせすぐに降りるのだが。さいわい座れたのですぐ眠り、目が覚めたらもう仙台、あっという間だった。
 仙台から常磐線に入った。夜中の「能登」で帰ればいいのだから、急ぐ必要はない。でも日が暮れると、もう帰途についたのだという気分になった。この時間帯、乗客は下校する学生達でにぎやかだ。ああいうにぎやかさ、嫌いではないけれど、ちょっと疲れる。
 平から乗った「スーパーひたち」は、初めてという気がしなかった。新しい新幹線と内装が良く似ているせいだろう。なんだか文房具の中にいるような感じだ。
 この列車が上野へ着く頃には、「能登」はもう出発しているので、新幹線で追いかけて高崎で乗り換えた。新幹線は汽車旅の情緒が皆無なので好きではないが、使いようによっては便利だ。おかげで常磐線をゆっくり回る時間が出来たのだから。
 この三日間、毎晩夜行列車の座席でゆっくり休む事が出来た。ただし今夜は、高田着が2時半だからのんびりしてはいられなかいが。
 宇都宮での事もあるし、寝過ごしたら大変だと思い、起きているつもりだった。それでもぽつぽつ灯っている遠くの明かりや、小雨に濡れた道路の街灯の反射などを、窓に顔を近付けながら眺めていると、眠気は増すばかり。時おり通り過ぎる踏切の音、ドップラー効果に変調されるあの独特の音は、もっとも眠気を誘う。
 気付くと高田は間近だった。出発から74時間ぶりに鉄道構内から外へ出て、三日間乗り放題の切符による最長の旅が終わった。
 シャワーをあびて荷物を片付けるうちに夜が明けた。長い一日が始まった。でも自分の楽しみのための事だからしかたない。会社帰りにバイオリンのリサイタルに寄った。五月のうちにチケットを買ってずっと楽しみにしていたもので、まさか旅行から帰った日に重なるとは思わなかった。疲れたけど、素晴らしかった。行って良かった。
     7月29日 日曜日
 18切符の季節だ。これで鈍行乗り放題。今日は富山港線、氷見線、城端線と、近くの短い支線を回った。
 富山港線は裏通り線。一分ごとに駅がある。氷見線は、廃工場の中を走り抜けるといきなり海水浴場。城端線は変わった駅名ばかり。退屈しない汽車旅だった。
 その後すぐ帰る予定だったが、夏は日の暮れも遅い。まだ明るいうちに帰路に着く気にもならず、七尾線にもちょっと行ってみた。津幡で時間があったので途中下車し、駅の中をウロウロ。何か面白い物でもないかとあちこち見ているうち、永田萌の絵のオレンジカードを見付けた。僕はいつも窓口で遠距離切符を買うからカードを使う機会なんてないのに、つい買ってしまった。
     8月5日 日曜日
 今日の目的は、福井から伸びている越美北線。でもそこまで行くのにずい分時間がかかった。でものんびり旅するのが僕の趣味だから、これもいい。
 一度だけ、大急ぎの慌ただしい事があったが。帰りの越美北線での車内放送で、今日は臨時列車が走るために一部ダイヤが変わっていると聞いた。福井で乗り換えが一分しかないのに困ったと思いながら聞いていると、福井到着が3分も遅くなるとの事。もうどうでもいいやという気になった。さいわい乗り継ぐ列車も待っていてくれ、ホームを全力で走ってなんとか間に合ったが。
     8月10日 金曜日
 初めて乗る電車寝台。慣れないせいか良く眠れなかった。そんな時、寝台に面して片側全面が窓というのは好都合だ。カーテンを閉めて明かりを消せば、窓の反射もなく外の景色が楽しめる。列車は意外とすいていて、上も通路をはさんだ向かいも無人。静かで落ち着いていて、たとえ眠れなくても快適だった。
 早朝には神戸に着いたが、家には夕方までに帰ればいいと、あちこち寄り道をした。まずは和田岬へ。手動扉が開いたままの木造の古い車両が、ディーゼルカーにひかれて入線してきた。知ってはいたが、実際目にするとやはり驚きだ。たったひと駅だけを行って戻って、これで山陽本線も全線踏破。
 あとはひたすら歩き回った。歩くならもう徹底的に歩いてやろうと思い、バスにも地下鉄にも乗らなかった。新神戸駅から布引山へ。ここは13年ぶりだ。13年前、5年生の夏休みの引越し前に登った時の事は今もよく憶えているが、意外と変わっていなかった。柵が新しくなっていたくらいで、どこも見憶えのある懐かしい景色だった。
 貯水池を過ぎ、市ガ原も過ぎて、この先に弁当を広げるような場所があったかなと思い始めた頃に川原に出た。花コウ岩の間を流れる浅い流れ。サワガニがいた。小さな魚がいた。赤茶色の砂の川底に、水を透かして届いた光が波を映す。川辺の木影は涼しかった。座るとすぐとなりに赤トンボが止まった。
 徳光院の方へ下山し、葺合の町を歩いた。13年ぶりに歩く町は見憶えのある所も多かったが、変わってもらいたくない所ばかりが変わっていた。小学校は改装の最中。区役所だった建物は建て変えられ、僕の住んでいた家は見る影もない。庭も、木がみんな伐られていた。それに、あの通りがあんなにも狭かったなんて。
 山を歩き、町を歩き、そして街を歩き、よく歩いた。最後は三宮から元町へ向かった。川原で顔を洗った後、横の石に置いた眼鏡をうっかり踏んでしまったので、その修理のために。でも、昔の場所にあの眼鏡店はもうなかった。

     8月12日 日曜日
 初めて乗った「スーパーくろしお」。かつては天王寺始発だったこの特急も、今では新大阪や京都発着の列車も多い。その列車だけが、大阪から環状線に入る線路を通るので、その区間を通る事だけが目的で乗車した。
 今日の目的は、関西の支線めぐり。和歌山から和歌山市へ。阪和線の鳳から枝分かれした東羽衣へ。今宮から湊町へ。そして最後に桜島線。30分に一本の列車には、ほとんど乗客がいなかった。
 和歌山市駅で駅弁を見付けるという幸運もあった。やはり実際行ってみないと何があるか分からない。固定した売り場で売っていたわけではないので、今頃の人の多い時とか、日曜日にだけ売っているのかも知れない。昨日の須磨駅もワゴンでの販売だったから、いつもいるとは思えない。


     8月19日 日曜日
 今日のコースは只見線で会津若松へ行き、磐越西線で戻って来るというもの。もちろん18切符で。鈍行でも、一日がかりとなるとずい分遠くまで行けるものだ。それでもやはり早い時間の列車に乗らねばならず、直江津駅まで自転車で行った。早い時間から駅弁を売っていたり、トワイライトエキスプレスが入線したり、意外な事がいくつかあった。
 小出駅で、只見線に乗り換えるわずかの時間に駅弁を買いに走った。売り場はすぐに見付かったが、人がいない。しばらく待ったが戻って来る様子もなく、待ちきれずにお金を置いて持って来てしまった。全力疾走で列車に飛び込んだが、落ち着いて考えたら無茶をしたという気がする。
 冷房のない古いディーゼルカー。全開の窓から吹き込む風は稲穂の匂いがした。線路のわきにはツユクサが。それでも日射しは夏のままだ。トンネルに入って涼しくなるとほっとしたが、このトンネルが信じられないくらい長い。県境のトンネルだ。新潟から出るには、どこを通っても山を越える必要がある事に気付いた。
 会津若松も意外と近いものだ。行って帰るだけなら一日ですむのだから。駅の中をうろついただけで引き返した。駅弁は忘れずに買ったが。
 帰りの磐越西線からも磐梯山はよく見えた。見る角度によってかなり形が違って見えるが、頂上付近の吹き飛んだ、プリンのような形が一番磐梯山らしいと思う。福島もいい所だ。稲穂は色付いて風に波打ち、線路際のススキもまだケバだたない若い穂が上を向いて開き、少し季節が進んでいるようだ。
     8月26日 日曜日
 一か月も前に新聞で見かけた中島潔展、それっきり何も聞かないのでちょっと不安だったが、新潟まで行ってみたら心配する事はなかった。本人も来ていて、サイン会まであった。午前の回には間に合わなかったので、13時まで待ってサインをもらった。
 デパートの入口でピアノを演奏していた。一日に何度か、決まった時間に演奏しているらしい。急いで帰る必要もないし、手近なイスに座って聞いていた。一本列車を遅らす羽目になった。
 帰りはのんびりと鈍行列車で。体調がすぐれないので行きは用心のつもりで新幹線に乗ったが、僕にはやはり鈍行列車が合っている。窓を開けば風が吹き込み、カーブするたび射しこむ光の角度が変わる。越後線は僕にとって、お気に入りの線になった。
     9月1日 土曜日〜2日 日曜日
 長野での待ち時間がなんと5時間。もう少しゆっくり出発しても良かったのだが、家で待つも外で待つも同じと思い、早めに出発した。
 日の暮れも早くなったものだ。街はじきに真っ暗、店もあちこち閉まり、たいして時間もつぶせずに駅へ戻った。パンと紅茶で夕食をすませ、待合室のベンチで待つ事3時間。でも明るく広く居心地のいい所だったので、苦にはならなかった。列車も発車の一時間前には入線したので、早くから乗り込んで落ち着けたし。
 翌朝まだ薄暗いうちに名古屋へ着いた。乗り換えの列車待ちをするうち夜は明けたが、それでも時間が早過ぎて駅弁は買えず、今朝はとうとう朝食を食べそびれた。豊川駅では、店は開いていたものの9時にならないと出来ないといわれ、1時間じっと待合室で待っていた。昨夜からよく待合室を利用するなと思いながら。
 列車の出るのが9時7分。9時になるやいなや店へ飛び込みなんとか弁当を手に入れ急いでホームへ。こうまでして手に入れた弁当も、立って食べるわけにもいかず、結局昼過ぎまで食事にありつけなかった。
 飯田線は、意外にも混雑していた。本数が少ないから乗客が集中すると考えれば、不思議でもないだろうが。飯田まで立ちづめだったが、そのせいで左を見たり右を見たりと、かえって景色を楽しめた。
 飯田から先、伊那谷に入ってからの広い風景と、それまでの山の中の風景とでは、やはり緑の谷川沿いの風景の方が素晴らしい。澄んだ緑をした水の色が、トンネルの闇に慣れた目を射るようだった。
 一日がかりで、中部日本を太平洋から日本海まで縦断した。さすがに疲れた。飯田でやっと座ってから、弁当を食べ終えるやいなや睡魔が。その後も座ればウトウトのしどうしだったが、夜になってなぜか目がさえてしまった。長野から乗った直江津行きの最後の列車では、窓を開けて涼しい夜風に吹かれながら、ポツポツ灯った明かりを眺めていた。いい旅だった。
     9月9日 日曜日
 深夜の映画番組で「ジェニーの肖像」の放送、大喜びでタイマーセットして寝たのに、今朝起きて見ると野球中継の延長で一時間繰り下がり、最初しか録れていなかった。なぜ野球ばかりが優先されるのか。いつだって多数派がのさばり、憤る事ばかりが続く。
 気を取り直して今日も出かけた。18切符も残り一枚、使用期限も明日までだ。
 この最後の一枚で、七尾線を行き着く所まで行った。単線の非電化という僕好みのこの線も、やがて電化されてしまうそうだ。日本海に突き出たこの線に、雪に覆われる頃にまた来ようと思うが、その時は電車が走っているわけだ。
 輪島まで行き、慌ただしく引き返してきた。それでも和倉温泉では、駅弁を買うために途中下車したが。
 直江津に21時過ぎに着く列車で帰った。前にこの列車で帰って来たのは、どこへ行った時だっただろう。日の暮れるのが早くなった。
     9月15日 土曜日
 ひさしぶりにのんびりした朝だった。平日はもちろんの事、ここしばらくは休日も早起きをして出かけていたから。
 今日は自転車でどこかへ行くつもりだったが、雨降りではどうにもならない。それでもアパートで一日を過ごすのが嫌で、列車に乗ってつい上田まで行ってしまった。上田の駅弁をまだ食べた事がなかったから。そして、やっぱり列車に揺られてどこかへ行きたかったから。
 帰りは妙高高原で乗り換えた。乗客のほとんどいない始発列車の窓から、発車までの数十分間、静かに山を眺めていた。雨は上がり、谷から湧き上がる濃い霧が山の斜面にまつわり付きながら、ゆっくり流れていった。
     9月22日 土曜日〜23日 日曜日
 出発は18時50分。会社から帰って夕食をすませ、片付けをしてギリギリだった。いつもなら土曜は昼過ぎには帰れるのに、今日に限って17時。慌ただしい出発になった。
 長野駅でしばらく待ち、「ちくま」に乗り込む。3週間前と同じだ。今回は、あんなに長くは待たなかったが。それから朝食も用意した。あの日は名古屋に着く頃には薄明るくなっていたが、今日はまだ真っ暗だ。朝食のパンをホームのベンチで食べながら、夜が明けるのを、次の列車が着くのを待った。
 武豊線にまず行き、終点の武豊でちょっと降りてまたすぐ同じ列車に乗り込む。
 そしてもう一度名古屋へ戻り、駅弁目当てに伊勢市、松阪へ寄り、最後の目的は、松阪から別れて伸びる名松線。
 この名松線に乗って、あとは明日に東海道線の支線と太多線に乗れば、JR東海全線踏破というはずだったのに、まったく残念だ。こないだの台風で不通になっていた。途中の家城
いえきまでは行けたが、そこから先はバスでとの事。駅前に待つバスに、地元の人らしいほかの乗客達は乗り込んでいったが、僕はバスで行っても意味がないと思い、引き返した。本当に残念だ。
 でも考えてみれば、こうやって乗り残しがあるのも、先の楽しみになっていい。いつかまた来よう。まったく、台風で不通だなんて、いかにも僕にふりかかりそうな不運だ。
 途中で引き返したせいで、早く着いた。弟に地下鉄の駅まで迎えに来てもらい、一度アパートに行ってから食事に出た。彼の案内で大学へ行き、学食でカレーを食べた。僕の学校とはまるで違っていて、あまり落ち着ける所ではない。弟にとっては日常の場所だろうが。街もまた、さっき来たばかりの帰り道がもう分からない。

     9月24日 月曜日
 地震に起こされた。起きてニュースを見ていると、さらにもう一回。名古屋辺りで地震なんて珍しいと思うが、どうも僕はこういう小さな天災に縁があるようだ。
 アパートを出て、地下鉄駅へ向かう道、こんなに長かったかなと思いつつ歩き続けた。何十分も何キロも歩き続け、やっと見つけた駅は3つ目か4つ目。どうしてこれだけいくつもの地下鉄駅の入り口を見落としたのだろう。JRに乗り換えてようやくほっとした。慣れた列車に乗ればこっちのものだ。
 分岐線の美濃赤坂へ行く列車は、大垣でほとんどの人が降りてしまい、僕の乗った車両はほかに一人いるだけだった。東海道線といっても、まったく別のローカル線のような感じだ。桜島線や大社線に良く似ている。
 終着の美濃赤坂も、当然無人。時間があるのでちょっと降り、構内を眺めてみたが、時刻表を見て驚いた。本数の少ないのは分かっていても、真っ白な中に数字がぽつぽつ書かれた表を目にするとあらためて驚く。
 岐阜から先は周遊券のエリア内だが、赤坂からそこまでの運賃は別に払わなければならない。行きは車掌の検札の時に払ったが、戻る時はその機会がなく、とうとう多治見を過ぎるまで払う機会がなかった。運賃を払うのにこんなに苦労するとは思ってもみなかった。たかが310円でも、黙っていて不正乗車になるのは絶対嫌だ。
 太平洋側と日本海側とで、こうも天気が違うとは。妙高を過ぎて新潟県に入ると、雨が降っていた。外はすでに真っ暗。車内を映し込む黒い窓の外を、いくつもの水滴が斜めに流れる。歩いて帰るには降りは強いし、荷物もあるし、タクシーで帰る事にした。
 上越へ来てタクシーへ乗るのは二度目だが、ここのタクシーは驚くほど感じが良くて、本当に気持ちがいい。わざわざ降りて外からドアを開けてくれるなんて、まるでハイヤーのようだ。そんなサービスに慣れていない僕は、なんだか悪い気がして自分で開けてしまうが。


     10月10日 水曜日
 駅弁目当てに高山まで行った。それだけの価値ある駅弁だと思ったから。春と秋の祭りの日だけに売られるそうで、一年のうちたった4日間だけのチャンスだ。
 これで買いそびれたらガックリ肩を落として帰る事になるだろうと思ったが、そんな心配は必要なかった。売店にはいくつも積み重ねられていて、幻の駅弁なんて大書きされている。こうなると、かえってシラケる。
 パノラマ列車というのか、前が見えるようになっている列車に初めて乗った。運良く一番前の車両が自由席の禁煙車で、しかも一番前の席が空いていた。下呂から乗って高山が終点では、空いているのも当然だ。短い区間だったが、短いからこそ片時も目を離さず前方の景色を楽しんだ。
 ガラス一枚隔てたすぐ目の前には、運転士の背中。後ろから見られていては運転しにくいだろうと思ったが、停車のたびに両腕を広げて何度も大あくび。全然気にしてないようだ。
 カーブするたび陽の射す向きが変わる。低くから射しこむ日射しに、車内はとても明るい。この車両は前面だけでなく、横の窓もかなり広くとってある。運転席上に天窓まであるのには驚いた。スモークガラスが外からは黒く見え、窓とは思っていなかったから。特急はあまり趣味ではないが、初めての時は新鮮な気分で楽しめる。
     10月14日 日曜日
 つい四日前に遠出したばかりだが、今日もちょっと遠くへ。あの日に駅の広告で、鉄道記念日フリー切符というのを知り、さっそく買ってしまっていたから。一日だけ区間内乗り放題という、僕好みの切符。酒田までが区間内なので、時間の許す限り北へ向かった。
 列車本数が少ないので計画を立てるのが大変だったが、鈍行にも乗り、駅弁も買い、あまった時間で羽後本庄から出ている第三セクターのレールバスにまで乗った。ここは開業5周年とかで、駅も車内も派手な飾りつけがされていた。さびれた無人駅の入口に色鮮やかなリボンが下がっているのは、妙な感じがする。
 前後するが、新潟から乗った特急を鶴岡で降り、駅弁を買って次の列車を待っていると、ホームに着いたのはディーゼルカーがたったの一両。やはり地方に行ったら鈍行に乗らなくては。酒田からの列車も50系客車だった。デッキへの扉の型やトイレの位置が変わっていて面白い。人の言葉もまったく違っていて、遠くへ来た事を実感させてくれる。
 今日の海の色は重かった。7月に東北へ来た時は海の明るさに、東北でも夏は明るく鮮やかな事を気付かされたが、これからの海こそ北国の海らしい。もっとも、わざわざ秋田まで来なくても、直江津辺りでもそんな海が見られるだろうが。
     10月26日 金曜日
 雨の天気予報にくさっていたが、朝のうちに雨は上がり、この秋一番とも思える上天気になった。やはり僕は運が良い。早退までさせてもらえるし。
 予定していたより2時間早い列車に乗り、車内から日暮れ時の素晴らしい景色を目にした。日没間際、山の頂だけに赤く陽が射し、その上に淡く虹が立つ。山では雨が降っていたようだ。予定通り「白山」に乗っていたなら、暗て何も見えなかっただろう。
 ただ、「白山」の新しい車両にも興味があったが。「あさま」もこれから車両が新しくなっていくようだが、これは旧車両だった。それでも電話は付いていて、車内から千葉の家へ連絡する事が出来た。

     10月28日 日曜日〜29日 月曜日
 横浜の保土ケ谷へ行った。でも一人ではまったく分からないので、母さんの車で出かけた。
 20年ぶりの、ほとんど憶えていない町へ行っても無意味だとは思わない。小さい頃住んでいた町がどういう所か、今どうなっているか、大いに興味があったから。
 社宅の門とコンクリートの階段、そして緑色のフェンス。確かに見憶えがあった。あの緑のフェンスにはよくしがみついたりよりかかったり、よじ登ったりもしていた。東京へ引っ越す日の朝に、ここを歩いたのも憶えている。
 でも付近の様子は、すっかり変わってしまったとの事。ゴルフ場は大学になり、商店街へ向かう坂の両側も家が並んでいる。記憶の底の風景と目にする風景とが違いすぎ、当事の記憶が浮かんでこない。だが商店街まで行くと、豆腐屋が変わらず残っていたと母さんが感激した。いつも僕が水に手を突っ込んでバチャバチャやっていたそうだけど、それも僕は全然憶えていない。
 今日中に僕は上越に帰るが、夜行で帰るのでのんびり出来た。夜行列車の「ムーンライト」は、すいていて快適だった。高田へ着く頃には、3号車には僕一人。こんな車内だから、いつになくよく眠れた。


     11月4日 日曜日
 雨の中、朝早くから柏崎まで出かけたのは、SLの運搬を見るためだ。肝心のD51はトレーラーのガーダーにはさまれて良く見えなかったが、交通規制された道路を見たこともない大型のトレーラーがゆっくり走る事自体が見ものだった。特にカーブを曲がる時の後輪の操作は興味深かった。あまりに長いものだから、後輪にも人が付いて操作をしている。小さなエンジンで油圧ポンプを回し、油圧でステアリングしているらしい事も分かった。
 公園まで付いて行き、ずっと作業を見ていた。機関車を吊り上げて線路に据えるのは明日になると聞き、見物人は急に少なくなったが、もう少し見ていようと残るうち、なんとなく帰りそびれた感じで、僕はいつまでも見ていた。
 少しずつガーダーが解体され、クレーンは動き、部品が運ばれ、作業はゆっくりながらも進んでいる。手前のガーダーが吊り上げられてSLが姿を表すまで、結局3時間半も見ていた事になるが、最後の瞬間には待ったかいがあった、と思った。
     11月11日 日曜日
 最高に満足のいく一日だった。なんといっても天気が良かった。昨夜の冷たい雨も遠い場所の事、四国は快晴で陽射しは暑いほどだった。
 岡山から乗った列車、「マリンライナー」は、窓も広く取ってあり見晴らしが良い。前でなく外側を向いた座席といい、この車両は瀬戸大橋の眺めを楽しむためにあるようだ。橋が架かって二年になるが、観光客は今も絶えない。僕も橋を渡るのは三度目、帰りに渡って四度目だが、確かに飽きない。
 今日の一番の目的は下津井電鉄だが、時間があるのでまず四国へ行き、下津井電鉄は最後の楽しみに残しておいた。のんびり高徳線で徳島まで行って、とんぼ返りで戻ってきた。のんびりなんだか慌ただしいんだか分からないが、駅弁さえ買えればそれで満足だ。
 児島へ戻った頃は夕暮れ時、僕の一番好きな時間だ。西に向いたホームに赤く陽が射している。この時間を選んだのは正解だった。
 手を伸ばせば天井に手が届くような小さな電車は、モーターの音も電燈の形も、警笛の音も、ドアの開閉する具合までも、何もかも懐かしい感じがする。そして外に目を向けると、空の色も海の色もみる間に深みを増し、その中でライトを明滅させ始めた瀬戸大橋がひときわ目を引く。
     11月25日 日曜日
 手早く掃除や洗濯をすませ、長野まで出かけた。目的はただ一つ、駅弁だけ。しかし目当ての駅弁が手に入らず、すごすごと引き返した。一つは特急車内での販売のみで、もう一つは製造中止との事。がっかりだった。
 駅弁はがっかりでも、車窓から見た初冬の風景には大満足だった。落葉したカラマツの林や冷たい色の沢が時おり視野に入り、すぐに後ろへ過ぎて行く。そしてその向こうには、まったく動じない妙高の山。白くなるとますます大きく堂々と見える。
 列車もドアが半自動になり、扇風機にカバーがかかった。雪が積もったらまた出かけよう。もちろん海沿いの線にも。山の中の線も海沿いの線も、この上越から伸びている。本当にいい所に引っ越してきたものだ。
 帰ってから原ノ町の駅弁屋に電話をした。おとといテレビで見たが、あの鮭めしがじきに製造中止になるそうなので、いつ頃まで売っているかたずねようと思い。するとあの放送で急に注文が増え、もう容器がなくなってしまったそうだ。これで永久に入手不可能。今日は駅弁の厄日か。
     11月30日 金曜日〜12月2日 月曜日
 夜汽車の旅ももう慣れたもので、乗り込んで座ったらすぐに寝付いた。会社から帰るなりカバンを持ち換えてすぐ出発したりして、ただ疲れただけかもしれないが。初日から疲れていては困るが、熟睡して翌朝はすっきり目覚めた。
 盛岡は雨が降っていたが、たいして強い降りでなくて安心した。台風のために列車が不通になったりしたら困るので。今回は特にローカル線ばかりを走るし。
 盛岡からは山田線で海岸へ向かう。外はまだ暗く、見る物もなかったが、車内では元気な子が一時もじっとしていないであちこち歩き回り、僕の横を通るたび、目が合うたび笑ってくれるので楽しかった。
 夜の明けた頃宮古に着き、次に乗る釜石行きの列車を待った。さっき乗って来た列車が盛岡行きとなり出てしまうと、直後に釜石行きの運休を告げるアナウンスが。これはひどいと思う。戻る列車が行ってしまってから、この先が不通になっている事を告げるなんて。さいわい、第三セクターの三陸鉄道がここから北に向かって伸びているから、予定を変えてそっちへ行く事にした。もう初日の朝から計画がメチャクチャだ。
 即興でプランを立て、乗り換え駅や列車の時刻を電子手帳に入力した。その後どこに置き忘れたか、時刻表をなくしてしまった。手帳に予定をすぐ入力していたのは正解だった。でもこれから先、もう予定の変更は出来ない。
 波は確かに高かった。解きおり漁港の近くを通ったが、波は防波堤を越えて退避している漁船を濡らしていた。小さな砂浜では、はるか沖で波頭が白くくだける。巻き込むようにしてぶつかる波は、どれくらいの高さになるのだろう。漁船くらい軽く横に転がしてしまいそうだ。遠くの岬の岩場は、霧に包まれたように見える。あれは波しぶきらしい。
 終点の久慈からJRに戻り、八戸線で八戸へ出た。海を離れれば、台風の名残りはあまり見られない。ただ、川岸には激流の跡が残っているし、見上げると雲の流れもまだ速い。
 八戸から一気に古川まで南下し、石巻線と仙石線を回った。まだ通った事のない線を通ったという満足感はあるものの、駅弁はないし日が暮れて外は見えないしで、海岸の線と較べて感激は薄かった。仙石線の車両は、ドアを除けばすっかり京浜東北線だし。
 この仙石線の列車が6分も遅れて発車したので、気が気ではなかった。仙台での、新幹線へ乗り換え時間が短かったから。しかも仙石線のホームがあんなに離れた所にあるなんて。初めのうちは早足程度だったが、乗り換え通路がどこまでも長く伸びているのを見て、慌てて走り出した。同じ列車の乗客はどこへ行ってしまったのか、通路は無人。自分の足音だけが響く中で僕はますますあせり、重いカバンを振り回しながら駆け抜けた。

 上野から乗った夜行「津軽」を横手で降りた。今、「津軽」の経路はちょっと変だ。福島と米沢の間が夜間工事中なのか、仙山線経由で奥羽線に入るコースをとっている。山形に入って方向転換して青森へ向かうためか、客車寝台から電車寝台に変わっているし。そのせいか、前夜ほど安眠出来なかった。
 横手でちょっと待たされた。煙草臭い待合室が嫌で、あちこちウロウロしていた。ようやく列車が着き、改札口へ行って禁煙車はどこかたずねたら、入線した列車は一両編成だった。しかもそれが喫煙車。
 7月にも思ったが、東北の人間は異様に煙草を好む。禁煙車も何もあったものではない。僕を除いたすべての大人が煙を吐いている。あれはもう完全に中毒だろう。東北地方は日本のコロンビアだと思った。それさえなければ、一度は住んでみたいと思うが。
 花巻や、遠野なども通ったが、本当に住んでみたいというような所が多いのに残念だ。遠野の駅はなかなか素敵だった。石造りでどっしりしていて、昔の甲府駅を思い出した。思いがけず駅弁を買う事も出来た。
 釜石も不思議な駅だった。駅を出ると真正面に大きな工場、ほかには何も見えない。ガランとした薄暗い待合室には各種の鉱石が展示され、こうなるとホームへの地下通路も坑道めいて見える。
 三陸鉄道の、今度は南リアス線を通った。湾と岬とが交互に続く海岸線を一直線に突き抜けるこの線は、半分がトンネルだ。それでも退屈する事はなく、次に出る所はどんな風景かとワクワクした。小さな湾は北欧のフィヨルドを小さくしたようだ。両側の岬は沖まで突き出し、その海岸は海からそびえるとまではいかないものの、急な斜面だ。手前の針葉樹林の深い緑が、時折視界を横切り、木の間越しに湾の風景がまたたくように見えた。
 その後大船渡線、気仙沼線、石巻線を経由して、仙台へ。今日もまた仙台駅を走った。東北線の枝分かれした線を乗ってきたから。これで東北線も全線乗った事になるが、仙台に戻ったのが新幹線発車の6分前だった。
 上野まで行くと間に合わないので、大宮で降りて「能登」の到着を待った。到着一分前になってアナウンスがあった。機関車が故障して遅れるとの事。今回の旅は、トラブルに始まりトラブルに終わった。
     12月24日 月曜日
 暗いうちに出発して、播但線、因美線、姫新線を回った。山陽と山陰とで、これほど天気が違うとは。北上すると見る間に青空を雲が覆い、やがて雪も時おり落ちてくるようになった。そして山陰の海岸線、白い波しぶき、これこそ冬の風景だ。三陸の海岸となんとなく似た感じだった。
 列車の中は暖かだけど、その分ホームで待つ間が寒い。ローカル線は待ち時間が長いから、これはつらい。それでも、ローカル線は冬が一番良く似合うと思う。赤い客車も朱色のディーゼルカーも、冬の景色の中にあるのが一番似合う。
 鳥取から乗った列車で、前に座った小さな男の子におっちゃんおっちゃんと呼ばれた。その子のおばあちゃんがお兄ちゃんでしょといくら訂正しても、おっちゃんは最後まで直らなかった。不精ヒゲのせいかな。それにしても楽しい時を過ごした。ああいう慣れ慣れしいくらいに人なつっこい子は好きだ。

     12月25日 火曜日
 片町線と奈良線を回った。どちらも近鉄が併走していて、いつもそちらの方を利用していたから、これらの線を通るのは今日が初めてだ。
 片町線は、乗り換えを何度もくり返して一時間半。奈良線は一本でまっすぐ行けたが、列車は30分に一本だった。あれでは近鉄と勝負にならないだろう。それでも初めて乗って、駅弁も買って、満足して帰って来た。

     12月26日 水曜日
 大阪から富山まで乗った「スーパー雷鳥」は、前面展望がきいてとても良かった。グリーン車は信じられないくらいすいていて、一番前に座った僕はすっかり孤立していた。さらに後ろの人達が途中でほとんど降りてしまっていたのを、前ばかり見ていた僕は全然気付かなかった。
 出発前、大阪駅では面白い事があった。12時に発車するトワイライトエキスプレスを見送った後、ぼんやり自分の乗る列車を待っていたら、トワイライトエキスプレスがまた入ってきた。上り列車の到着だとじきに気付いたが、なぜ戻ってきたのかと一瞬驚いた。
 上越に着けば雨降り。僕のいない間に雪でも積もっているかと思ったが。でもその方が良かった。やはり最初に積もり始めるのを自分の目で見たい。


     12月28日 金曜日〜29日 土曜日
 個室の寝台で、大宮辺りまでぐっすり安眠出来た。長岡や高崎に停まったのも気付かなかったほどだ。同じB寝台の料金なら、個室は得だ。たぶんこれから何度も利用する事だろう。
 個室のもう一つ良い点は、部屋を暗くして外を見られる事。明るい室内の反射もなく、荒れた日本海の白い波が間近に打ち寄せるのがはっきり見えた。暗い海に白い波頭が浮かび、それが延々と寄せ続けるさまは見ごたえがあった。
 千葉の家には午前中早いうちに着いた。今日はボンの散歩以外は出かけないつもりだったが、大き過ぎた靴を換えてもらうために木更津へ行った。その車の中で熟睡してしまった。やはり個室で安眠したとはいえ、寝不足らしい。

     12月31日 月曜日
 最後の日、18切符で関東を大きく一周した。烏山線、水戸線、日光線、両毛線、そして高崎線。朝暗いうちから出発して、帰った時にはもう、今年は1時間半を残すだけだった。
 それにしても、僕も年末にこんなくだらない事をして出歩いているが、ほかの人達は何の目的で出歩いているのだろう。夜遅くなっても人が多い。中でも外国人の姿が多いのが不思議だ。昨日の秋葉原もそうだったが、あんなに大勢の外国人がいったいどこから来て、どこに行くのだろう。一度、日本語のあまり上手でない外国人に道をたずねられて困ってしまった。言葉の通じる日本人が相手でも、僕は苦手なのに。


翌年の日記へ

パビリオン入り口へ