レイリング日記92


 中央広場 > ボックスシートパビリオン入り口 > レイリング日記92
     1月9日 木曜日
 長野の冬は本物だ。飯田線で夜明けを迎えると、外は雪が積もり、さらに降り続いていた。だがその雪も南下するにつれて雨に変わり、積雪も水たまりに変わってしまったが。
 駅弁は買いそびれたが、のんびりできたし、筆も進んだ。家にいるよりも、こうしていつもとは違う場所にいる方が、ずっとはかどる。辰野から浜松までの間に、19章の後半と20章を書き上げてしまい、これで2作も終わった。もっとも完全に仕上がるにはまだまだかかるが、それは帰ってからの事。なんだか気が抜けてしまった。
 目的の駅弁は買えなかったものの、一応浜松や静岡などでは買え、車内で食べた。けれど東京行きの列車はロングシートで、そして会社帰りや学校帰りの人達で混み合っている。僕は神経が太いからそんな中でも平気で弁当を広げるが、やはり雰囲気は出ない。最後の列車がこれだから、またすぐ次の旅に出たくなる。
     1月15日 水曜日
 千葉の家から直接伊豆へ出かけた。
 昨日は用が済んだらすぐ東村山のアパートへ帰るつもりだったが、もう面倒になって千葉に泊まった。だから旅の用意もなく、何も持たずに出かける事になった。時刻表もないので、本当に行きあたりばったりの旅だ。けどそれもいい。切符と財布さえあれば、あとはなんとかなるものだ。18切符がジャンパーのポケットに入れたままだったのは幸いだった。
 伊東から先の伊豆急行線は、18切符は使えないが一度は来てみたかった。海はどこも絵になるが、特に良いのは熱川と稲取の間だ。日の光を通して、岸近くの波は明るい緑に見える。遠くには大島がかすんでいた。
 帰りは茅ヶ崎で降り、相模線に乗り換えた。この線を通るのは二度目だが、電化されてしまいつまらなくなった。昔の川越線の車両のように、扉をボタンで開閉するのだけは面白かったが。それから寒川という駅があった。熱川に続いて寒川か。温度変化の大きな一日だった。
     1月19日 日曜日
 高崎で列車を待っていると、十分以上も遅れて入線してきた列車は雪まみれだった。清水トンネルを越える前から、辺りは雪国風景に変わる。雪国ゾーンはかなり南まで張り出している。
 去年の春に買いそびれた石打の駅弁を買い、まだ行った事のないガーラ湯沢まで行って、雪の降り積もる中をスキー客にまぎれてウロウロした。
 ついでに吾妻線を草津口まで行くと、今度は温泉客ばかり。どこへ行っても僕は周囲から浮いているが、それが僕には満足だ。僕がしたいのは汽車旅で、ただのありきたりな旅行は決してしたくないから。
 とは言っても、僕のこれも旅と言えるのだろうか。今日のように近郊を日帰りで回るのは、汽車旅というより汽車散歩という程度のものだ。こういった外出をこれから、レイリングとでも呼ぶ事にしよう。
     2月22日 土曜日
 西へ向かう間はただ時間が過ぎるだけだったが、名古屋を過ぎて北へ向かい始めると、季節が変わった。それも逆に。米原のホームで次の列車をしばらく待ったが、屋根に積もった雪の上にボタン雪がさらにかぶさっていた。
 だがその雪も米原を過ぎると止んでしまい、積もっていた雪も見る間に薄くなり、わずかひと駅の間にすっかり消えた。時おり浅く明るく、赤い光が射す。移動は、変化。あらためてそう思い知らされた。

     2月24日 月曜日
 日本海側まで行くまでもなく、新見まで行けば冬はあった。煙草臭い待合室を避けて吹きさらしのホームにたたずめば、いやでも本物の冬が感じられる。風は強く鋭い。走る雲にさえぎられて、陽射しは一時ゆるやかに明るみ、そしてすぐに薄らぐ。
 かすかに舞っていた雪がいきなり北風と共に強まり、やがて対向するホームさえもかすむまでになった。十分ほどの間に辺りを白くおおってしまったその雪も、乗り込んだ列車が進むにつれて絶えてしまった。やはり、移動は変化だ。粉砂糖を散らしたような山に陽が射すと、風景は明るく、真新しく見えた。
 ある川を渡る時、カワセミを見た。息が止まった。体がふるえた。カワセミを何年かぶりに目にした事自体も嬉しかったが、それを今でもこれほど喜べる事も、同じくらい嬉しかった。橋を渡るたび川面をのぞき込むのが、いつの頃からかクセになってしまっているが、これも無意識のうちに今日のような事を期待していたためかもしれない。

     2月26日 水曜日
 今日は予定を立てずに出発した。時刻表もしまい込んだままだ。ただ東海道線を鈍行で東京まで帰る、それだけが今日の計画。
 やっと富士まで来たが、こんな時間になるという事だけは予定外だった。今19時を過ぎた。この調子で行けば、アパートに着くのは22時を過ぎるだろう。まあ無理もない。昼近くまで兵庫県内をうろついていたのだから。神戸の周辺にもまだ、駅弁未購入あるいは未確認の駅がいくつもあり、そんな駅を回っているうちにすっかり遅くなってしまった。


     3月5日 木曜日
 朝から雨降りだった。黒磯辺りでは、雨の中に時折白いものが混じって落ち始めた。まあみぞれくらいがせいぜいだろうとそう期待もせず、乗り換えた列車の中でもまた目をつぶってウトウト始めた。しばらくしてふと目を開け、思わず声を上げそうになった。降っているのは100パーセントの雪。地表も完全に白くなっている。
 例によって駅弁購入のために途中下車を繰り返したが、風邪をひいているにもかかわらず、いつまでも寒いホームにいた。雪の降る日に待合室にこもるなんて、僕には考えられない。東北の北風の中に立ち、白い息を吐きながら、僕はやはり寒い所で暮らすように生まれついているんだろうという気がした。誰もが避けようとする鋭い冷気が、僕にはとても心地良い。
     3月10日 火曜日
 また雨にたたられた。けれどこの前の冷たい雨とは違い、春の匂いを含む空気を潤わせただけで、じきに陽が射し始めた。今の季節に一番ふさわしいのが、こういう雨上がりの午前じゃないだろうか。身延線の小さな駅で、キチョウが飛ぶのを今年初めて見た。
 今日のコースは中央線を甲府まで行き、身延線を南下して東海道線を戻って来るというもの。ごく短距離の汽車散歩だ。小さい頃はあんなに遠い所だった甲府が、こんなに近くになってしまった。でもこれから先、これ以上日本が狭くなる事はないだろう。鈍行で旅をする限りは。特急はどんどん速くなっていくが、その一方で長距離を走る鈍行も残しておいてもらえるといい。
 今はどの駅へ行っても、もうじき走り始める新幹線「のぞみ」のポスターが目に付く。時刻表の表紙もみなそうだ。中央線の「あずさ」もすっかり変わってしまった。僕の好きだったボンネットの181系なんて、もうどこにもない。甲府駅のホームの列車の時刻案内板は、4日後のダイヤ改正を前に早々と取り換えられていた。古い表は紙に書かれてその下にぶら下がっていたが、見上げる僕の目の前ではがれて落ちた。拾いあげて近くの柱に貼っておいたが、まだ改正前にもかかわらず、古いダイヤなんてもう誰も気にしていないような気がした。
     3月14日 土曜日
 今日の行程は何事もなく、ほぼ予定通りに回ってきたが、何もなかったためにかえって物足りなさが残る。
 とは言っても、面白い事がまったくなかったわけでもない。今回はいつもの23時40分発の大垣行きではなく、ホームを間違えたせいで43分発の臨時の名古屋行きに乗った。どうせ浜松であの列車を追い越すし、名古屋で乗り換えればいい。そう思っていたがこの列車、駅では名古屋行きと言っていたのに、車内放送では大垣の到着時刻まで言う。結局この列車に乗ったまま、大垣まで来てしまった。
 広島へ向かう今日最後の列車で、親子連れがとなりに座った。そのうちに二人の小さな女の子が、ハンカチでいろんな物を作り始めた。おにぎり、おだんご、そのほかなんだかわからない物まで。こんな時は、こういう愛おしい存在が僕の身近にいない事が、ひどく物足りなく思える。普段は一人きりの気楽さ、自由さを、充分楽しんで満足しているにもかかわらず。

     3月15日 日曜日
 今日はささやかな楽しみがいくつかあって、幸運な一日だった。一番の幸運は、なんといっても猿を目撃した事だろう。可部線に乗って外を見ていると、山から動物が駆け出してきて線路際で止まった。それが立ち上がって赤い顔を見せた時には驚いた。向こうも列車に驚いたらしく、こちらに向かってギャーギャー叫んでいた。
 再び山陽線に戻り、時間が少し余ったので宮島口で途中下車し、穴子飯を買った。弁当の中身はどれも同じだが、僕にとって大事なのは包装紙だ。何種類かある包装紙の中から、これはもうある、それのほうがいいなどと言いながら、希望の物を買ってきた。自分の好きな事には妥協しないのが僕だ。でも同じ所でたびたびこんな事をしていたら、そのうち顔を覚えられてしまうだろう。
 岩徳線は、今回のダイヤ改正からレールバスが走り出したらしい。レールバスなどは十年も前から走っていて珍しくもないが、この地元にとっては真新しいらしく、案内役の車掌が二人も乗り込んでいた。ワンマンカーに乗務員が三人もいるなんて、今だけだろう。
 薄闇にすっかり包まれた宇部駅のホームで、小郡への今日最後の列車を待った。缶コーヒーを飲みながらブラついていると、反対ホームに空のコンテナ車が停まっているのが目に付いた。面白い事に、ホームとコンテナ車とはほぼ同じ高さだ。ホームの続きのようでそのまま歩いてちょっと乗ってみた。いつまでも動きそうもないように見えたのでそんなたわむれもしてみる気になったのだが、直後に動き出したので少しあせった。こんな事でケガでもしたら、まったくのマヌケだ。

     3月16日 月曜日
 美祢線は山の中、そして雨の中。南大嶺で降り、枝分かれした短い線を通って大嶺まで行った。車内は僕のほか誰もいない。そして駅もまた。事務室は閉められ、何もかも運び去られて薄暗く虚ろだった。雨は降り続き、周囲の山々には霧がまつわりついている。やって来るディーゼルカーのエンジン音が、この時ほど頼もし気に思えた事はなかった。
 山陰線を東進しつつ、ひさしぶりに日本海を見た。海はかなり荒れていた。岸辺では波が巻き込むように打ち寄せ、白いしぶきが散っている。けれどそのまま遠くに目をやると、水平線は雨雲の空より暗く、冷たく静まっている。これが同じ一つの海とは。
 益田や江津での待ち時間は長かった。さすがに山陰側に来ると列車本数が少ない。そして風も冷たい。でもその冷たさは心地よい。車内のふやけたような暖かさに、長時間浸かっていた後では。

     3月17日 火曜日
 備後落合を過ぎると、思いがけず辺りは雪景色になった。遠くの山も、線路際のクマザサも白く、葉を落とした木々の張る細い枝もくっきりと白い。けどそれはわずかひと駅間の雪景色だった。
 こうして芸備線を通り、次の境線へ向かう予定だが、伯備線の下りはギリギリで間に合わない。時刻表で前もって分かっていても、目の前を去ってしまうのを見るとあらためて落胆してしまう。どうして乗り継ぎにあと一分待ってくれないのだろう。二時間も次の鈍行を待つ余裕もないので、新見から米子まで特急を使った。
 米子から伸びる境線を往復し、これで西日本の未踏破路線を踏破するという目的は達した。じつはまだ宇野線だけが残っているが、それは今度の楽しみだ。
 今は最後の宿を決めた岡山に向かっている。あとはもう帰り道だ。まだ帰りたくないという思いに応えてか、この列車は進みが遅い。ほかの列車との行き違いを理由に、たびたび長時間停車する。それでも今新見を過ぎ、あと一時間半で岡山に着く。

     3月18日 水曜日
 目を覚ますと、発車時刻の十分前だった。きっかり一時間の寝坊だ。慌ただしく支度をしてホテルをとび出し、予定の列車にはなんとか間に合った。僕らしくもない失敗だが、なんとかなったのだから笑っていられる。
 あとはもう帰るだけとはいえ、どうしても予定を変える事ができない理由がある。電話で予約しておいた駅弁だ。時間も言ってあるので遅れるわけにはいかない。
 数週間前にテレビで見て、予約販売の駅弁のある事を知った、私鉄の小さな駅の駅弁。番組では連絡先までは紹介しなかったので鉄道会社に問い合わせ、ようやく予約した弁当だ。これはどうしても手に入れたかったので、予定通りの列車に乗れて安心した。
 駅弁を買い、これでもう本当に何もかも終わり、あとは帰るだけだ。もう遅くなったってかまわない、と思っていたら、なぜかかえって予定より早くなった。
 掛川へ列車が一分半ほど早く着くと、JRの列車がちょうど向こうのホームに入って来るのが見えた。ひょっとしたら間に合うかもと思いつい駆け出すと、本当に間に合ってしまった。時刻表で見る限りこの乗り換えはまず不可能で、次の列車を待つつもりでいたのに。


     3月24日 火曜日
 陽が射すとどこかへ出掛けたくなるのが、ヒマな時の僕。午後にちょっと奥多摩へ行った。青梅線が未踏破のままだったので。近くだし、いつでも行けるという思いから後回しになっていたが、これでようやくJR東日本も全線踏破した。
 駅を降りても行くあてはない。辺りを意味もなくブラついていたら、川沿いに歩道が続いているのを見付けた。その道をたどり吊り橋を渡り、川を離れて山に入った。坂を登るにつれて、脚が、体が、山歩きの感覚を取り戻す。自分が脚力にだけは自身があるという事を、ひさしぶりに思い出した。
 登り口から十分で神社へ着いた。したたるほど汗をかいたのもひさしぶりだ。ジャンパーを脱いで腕まくりをすると湯気が立った。雪で腕をこすり、顔をぬぐった。こうなるともっと登ってみたい気になるが、もう時間も遅い。来る時とは別の道を帰る事で満足する事にした。
 薄く雪の積もった下り坂を、滑りそうになりながらゆっくり戻った。昼前の晴天もいつの間にか曇り、加えて日も暮れかけ、周囲の山の色も冷たい。冷たさと静けさというのは、どうしてこうも落ち着くものなのだろう
     4月4日 土曜日
 相模湖へ行ったが、失望した。駅には弁当と書かれた売店があるが、もう駅弁は販売していないという。それならまぎらわしい表示は消しておいてもらいたい。
 湖へ行っても岸辺は雑然としていて、水も濁り、全然絵にならない。長居する気にもならずにすぐその場を離れ、岸に沿って続く道をたどった。歩いて湖を一周しようと思ったのだが、その道は車が多くて散歩気分はそがれるばかり。その上いつの間にか湖からどんどん離れてしまい、満たされない思いで引き返した。
 去年の春のみどり湖を思い出した。現実はこんなものだろう。湖というと僕は美しく静かな物だと決めつけてしまうから、いつも失望する事になる。それは何も湖ばかりじゃない。どんな事にも理想を高く持ちすぎ、幻想を抱き、だからいつも現実に直面すると幻滅する事になる。
     4月29日 水曜日
 目覚めてすぐ耳にした雨音に、外出気分もしぼみかけたが、じきに窓に陽が射した。少し早起きしすぎたようだ。
 7時ちょうどに家を出て、直江津19分発の、西へ向かう列車に乗り換えた。かつてのお決まりのパターンだ。禁煙車の手前から3番目の海側、この席もまたお決まり。早朝のせいか、鈍行だからか、休日とは思えないほどすいていた。
 大糸線に入れば、楽しみは川を見る事だ。ところが雨上がりのせいか、それとも雪解けの季節だからか、水は茶色く濁っていてあの緑色は見られなかった。それならそれでもいい。目を上げて、芽ぶいたばかりの緑色に目をやった。カラマツが絵になっている。まぎれもなくこれは春の絵だ。そして濁る川も、思えばやはり春のものだ。
 不意に川が澄んだ。水の色はジェイドグリーンに変わった。視界が開けると遥かな白馬の山はまだ真冬の色で、季節的にも遠く思えた。
 無人駅でたった一人降り、青木湖に向かった。僕の歩いた西側の道は、鉄道と主要道路の通る東側とは対照的で、ほとんど人も見かけず静かだった。岸辺で一人っきりを充分楽しんだ。岩に座って何もせず、ただ静まる湖をみつめた。自分のいるべき場所にいるのだと感じながら。
     5月3日 日曜日
 起きようと思う時間にアラームをセットするというのは、僕には必要ないかもしれない。瞬間的に目が覚め、時計を見ると4時59分。僕のこの特技は、未だおとろえていないようだ。
 早朝千葉の家を発ち、けれど神戸の家に着くのはすっかり遅くなった。例によって鈍行を利用したためだ。昔はちょっとした気がまえと緊張を伴った鈍行の長距離旅行も、今では当たり前になってしまった。考えてみると、最近まったく新幹線に乗っていない。最後に乗ったのはいつだったろう。今は新幹線に乗る時の方が緊張するかもしれない。
 窓の外は、すっかり見慣れた風景。それでも今の季節はみな新鮮な感じだ。葉の色、雲の形、光の勢い。田んぼをレンゲがやわらかく覆っている様子は、まるで地面から淡い光が浮き上がるようだ。

     5月5日 火曜日
 おとといとまったく同じように、今朝もいきなり目が覚めた。しばらくして、5時にセットしたアラームが鳴り出した。
 東海道線、湖西線、そして北陸線。何本も列車を乗り継いで帰って来た。夕方になるとさすがに鈍行も混み始めるが、それでもひしめくような混雑は都市周辺だけだ。
 でもほんの一時とはいえ、混雑はやはり嫌なものだ。今の季節、それもいい天気の日に、なぜ誰一人として窓を開けようとしないのだろう。ふやけるようなよどんだ空気に、わざわざくるまれているなんて。


     5月24日 日曜日
 新幹線に乗るのも在来線特急に乗るのもひさしぶりだったが、また当分乗る事はないだろう。窓が開かないというだけでもひどく息苦しい気がするし、それにいくらゆっくりするつもりでいても、どこか慌ただしさが付きまとう。高崎から各駅停車に乗り換えた。でも関東まで来てしまえば、それもたいして面白くもないが。
     6月7日 日曜日
 昨日借りた本を読み終えたかった事もあって、出発は午後になった。それでも本は二冊目の途中までしか読めなかった。今度帰って来た時にまた借りよう。
 遅くなったので特急に乗った。上野17時発のあさま31号は思った通り混んでいて、しかも蒸し暑く、窓も開かないので息苦しかった。やはり特急には本当の汽車旅はありえない。
 そうは言っても、車窓の風景は楽しんだ。そのために上野で一列車やり過ごして窓際へ座ったのだから。街を抜けると、色付いた麦畑が広がる。今は麦秋、景色だけは涼しげだ。遠景が空気遠近法でかすんでいる。やがて細かい雨が降り出した。天気のせいで夜も早い。峠を越える頃には、車内の映り込む窓に顔を近付けて、かろうじて空より黒い山が見えた。
     7月5日 日曜日
 アルペンルートは四度目になるが、7月に行くのは初めてだ。弥陀ケ原でゆっくりしようと思い、今日は大町側から入った。
 薄曇りの空の下でも、トンネルから出ると雪の室堂は目がくらむほどまぶしい。少し来るのが早過ぎたかもしれない。雪はまだかなり多く、おと年の6月とそう変わらなかった。地獄谷へも降りて行けず、天狗平まで歩くという思いつきの計画も次に持ち越しになってしまった。
 弥陀ケ原で途中下車するのは、やはり僕だけ。ひたすら歩き、道の途中に腰を降ろした。人の声も足音も、そういったものは何も聞こえない。完全な一人だ。僕にはこういうのが一番似つかわしい。一人っきりというのは、心の底から安らげる。
 見回せば、周囲は丈の低い草に覆われたなだらかな斜面が広がる。雪のないせいで室堂よりいく分薄暗く、夕暮れの近さを感じさせる。山はみな白くかすんでいる。すぐそばを雲がいくつも流れる。まるで薄紙に包まれているようだ。いつまでもこうしていられたら、どんなにいいだろう。
 考えてみれば、僕はいつだって一人っきりだが、それでも人の中に一人でいるのと誰もいない中で一人でいるのとでは、やはりまったく違う。
 帰りは直江津の駅で乗り換えに時間があり、ホームのベンチで列車を待った。遠くを歩く駅員のカンテラが揺れる。レールをきしませて貨車が過ぎる。改札の辺りだけが妙に明るい。夜の駅に見る物は、何もかもがそっけない。
 帰って来ても、どこか物足りない思いが残る。やり残したとか見残したという事ではなく、もともと無意味だったというような。来月の発表を待つ以上に関心を強く持たない限り、何をしても満たされないだろう。発表を待つ重苦しさをまぎらわすための、気晴らしとしかならないだろう。
     7月18日 土曜日
 早朝出発し、長野からは特急を使ったので、10時過ぎには上野に着いた。今日のように急ぐ時には特急もいいが、やはり性に合わない。窓が開かないというだけで息苦しい。まあ、今は冷房のせいで、鈍行も窓を閉めきるしかないのだけど。それに「あさま」の新型は初めてなので新鮮だった。
 秋葉原の用はすぐにすみ、昼過ぎには千葉の家に着いた。午後をゆっくり過ごせたのも、特急のおかげだ。ヒグラシの遠い声を聞いた。これがしっかりした夏の声になるまで、ここで待ちたい気になった。

     7月19日 日曜日
 上野を出たのが18時。混雑する特急車内も、体を包み込むような熱気のこもる駅構内に比べれば、まだ居心地良かった。汗をかくのも、座席に触れる背中側だけですむ。
 東の窓に向く僕からは夕日は見えないが、流れる建物がみな赤みを帯び、窓が次々に輝く。架線の上にも光が走る。特急のスピード感もたまには心地良い。
 日が暮れた頃に列車は高崎を過ぎ、西を向いた。進行方向には残照が燃える。夜の色の覆う空の中に、明るい昼間の名残りが灯る。じきにはかなく消える残照を名残り惜しげにみつめていると、なんという事のなかった一日でさえ、素晴らしい日だったように思えてくる。
 峠を越えないうちに夜になった。が、軽井沢では花火が見えた。もうすっかり夏だ。


     7月26日 日曜日
 白河駅で列車を待っていたが、臨時列車のためにダイヤが一部変わったらしく、予定時間になってもなかなか現れない。長くかかりそうなので待合室に入って待った。
 ようやくやって来た列車に、長く待たされたせいもあって気が浮かれ、僕は調子に乗って目の前の開いた窓からとび出した。下の窓わくに手を掛けて跳ぶと、途端に上の窓わくに頭をぶつけ、胸ポケットの切符がふっ飛ぶほどの勢いで後ろにはじきとばされた。出血はたいした事なかったものの、傷はいつまでも痛んだ。
 昨日の海でもそうだったが、僕は時々、自分が大人だという事を忘れてしまう時がある。いつまでも12才のつもりでいて、だから25才のこの体を持てあましてしまう。大人の体で子どものようにふるまう時には。
 途中で来月の四国への周遊券も買い、満足して帰途についた。高崎で次の長野行きの列車を見ると、それにはクーラーが付いていない。窓を全開にした列車で峠を越え高原を走る事を思うと、もうそれだけで嬉しくなった。
 吹き込む風に髪はかき乱され、傷がチリチリ痛んだが、それくらいなんでもない。これが本物の汽車旅だ。この峠は先週も越えたばかりだが、密閉された混み合う車内に押し込められて、夏の何が分かるだろう。
 山からヒグラシの声が広がる。浅くなった陽射しに空気はやわらかく暖かな色にかすみ、重なり合う山々は遠くから次第に冷たい色に変わる。風にも重苦しい熱さがなくなり、体をなでるようにすり抜ける。
 いい休日だったが、昨日と今日の二日間だけで、なんだか今年の夏のすべてを過ごしてしまったようにも思える。
     8月1日 土曜日
 小海線も変わってしまった。以前のまま変わらない風景も、ガラスに密閉された容器の中から見るのでは、ローカル線の汽車旅を実感する事は出来ない。
 窓の開かない新型車両が走るようになったのは残念だが、それでも列車で遠出をすれば何かしら楽しみはある。どうしようもない事はあきらめて、楽しい事を探してみる事にした。
 不思議に思うのが、駅名に海に関係するものが多いという事。こんな山の中だというのに。けれどもすぐそばを流れる川は、遥か遠くの信濃川の源だ。海から伸びた指の先が、ここまで届いているとも言えるだろう。川は夏には、波立つ海をいっそう近く感じさせる。キラキラ光って涼しげで。
 今日は空も青い。そして夏のカラマツ林はさっぱりした勢いを感じさせ、これもやはり絵になっていた。
 うたた寝しながら北へ戻るうち、空はすっかり曇っていた。妙高まで来ると、さっきの小海線から続く同じ一日とは信じられないほどだった。この列車はここから急行に変わるので、ここで降りて次の鈍行を待った。ホームのベンチから山を見上げながら。
 寒さを感じさせる色をした山肌に、季節も時間も分からなくしてしまうような濃い霧が、まつわりつきながらゆっくり南に流れる。まったく同じ光景をいつか見た気がするが、いつだったろう。
     8月2日 日曜日
 ひさしぶりにハングの練習に行ったが、風が悪く、たいした練習も出来ないまま早い時間に終わってしまった。まあ一応行っただけでも気がすんだ。夏の海も良く見えたし。遠くにわき上がる雲の下には、なんと大きな島影が。初めて佐渡を見た。あれほどはっきり見えるものだとは知らなかった。
 早い時間の列車は分からないがとりあえず駅まで戻ると、すぐに踏切が鳴り列車の音がした。けれど来たのは逆方向。下りはやはり、いつもの16時41分までないらしい。一時間も待つ気にならないので、柏崎に向けて歩き出した。駅三つ分くらいの距離、僕の足ならなんでもない。
 距離は問題なくても、道が問題だった。線路づたいに歩くつもりが、道は不必要に曲がりくねる。そのたび別の道に入ってなんとか離れないようにしたが、線路はすぐに見えなくなった。
 見通しがきかない上に目印になるような物もなく、迷いそうな道のりだ。とにかく西へ向かおうと、方向を間違えないよう辺りに気を配った。こういう所で方向を知る手だてになるのは、なんといっても家屋だ。ベランダはたいてい南に面し、テレビアンテナは必ず一番近い大都市を示す。ところがそのアンテナが、みな後ろを向いている。どうも柏崎にはテレビ局はないらしい。もしあれば、アンテナの指す方に向かえばすむのだが。もっとも正確な方向を示してくれるはずのBSアンテナは、とうとう見かけなかった。
 不確かな道のりながらも、最後にはそれらしい場所に行き着いた。店が立ち並ぶ街に入り、でもそこから先どちらへ足を向ければいいのか見当がつかなくなった。駅への案内など何もないのだから。手帳を確認すると、柏崎発の列車は16時52分。あと8分では間に合わないだろう。ところが適当に歩くうち、駅前のホテルが目に付いた。あと4分。全力疾走で駅に駆け込み、あきらめかけていた列車になんとか間に合った。
     8月16日 日曜日
 飯田線を南下した。18切符の3枚目で。ただし豊橋まで行くと日帰り出来なくなるので、途中の飯田で弁当を買って引き返した。
 帰りは混んでいた。ローカル線の鈍行とはいえ、やはり国民的大移動日だけの事はある。それでも行きは余裕のある旅を楽しんだ。朝は5時半、はちみつ色の朝陽の射し初める頃には出発し、18時半、夕陽がアプリコットジャムの色を帯び始める頃には帰り着いた。早目早目が混雑を避けて疲れずにすむコツだ。
 ただその事ばかり考えていたせいか、なんだか物足りなさが残る。それでも山はきれいだった。夏の山並みは空よりもさらに青く鮮やかで、真白な雲のホイップをのせているところなんかとても新鮮に見えた。
     8月21日 金曜日
 昼休みに、新聞社宛てに小説の原稿を出してきた。無茶な事をしてしまったと今でも思うが、こうして遠く離れた所にいると、少しは気持ちも落ち着く。
 今は寝台特急「瀬戸」の中にいる。長岡や東京での乗り換えは慌ただしかったが、ようやくのんびり気分になれた。明日の朝には四国だ。あの郵便物が届く頃、僕は遠く離れた所にいる。それだけでも、つい勢い込んで無茶をした後のきまり悪さからは逃れられる。明日からの数日間で、こんなきまり悪さなどすっかり忘れてしまおう。

     8月22日 土曜日
 またいつもの気まぐれで計画変更。まず阿波池田まで行き駅弁を買う予定だったが、それは明日でもいいと突発的に一つ手前で降り、先に徳島へ向かった。でもそれは失敗。徳島駅は改装中で駅弁はなかった。
 気を取り直し、すぐに牟岐線を南下した。今なら海部の先の第三セクターも回る時間もあるだろうと思いながら。弁当の不運を考えても、結果的にはそれで良かったと思う。車内で楽しい事もあったし。
 二年生の女の子と幼稚園の男の子を連れたお母さんに、おせんべいをもらってしまった。騒がしくてすみません、なんて。僕にとってはにぎやかさは楽しみなのだから、気にしなくてもいいのに。話を聞くと、その人は以前直江津に住んでいたそうだ。そんな事からいろいろおしゃべりしたが、こんな時には本当に自分の口下手がもどかしく思える。子ども達とも、もうちょっとおしゃべりしたかった。
 その家族は日和佐で降りて行った。住んでいるのは高松だが、厄年のおはらいとかでお寺へ行くのだそうだ。
 聞くところによると、この海岸にはウミガメが産卵に来るそうだ。確かに時折垣間見る海の色は、ほかとは違う。そして驚いたのが、川の清らかさだ。こんな海の近くに至るまで、源流の清澄さを保っているなんて。揺らめく波を透かして見る川底が、緑の色を帯びている。ふるさとにしたい候補地が、また一つ増えた。

     8月23日 日曜日
 阿波池田からバスに乗り、大歩危に向かった。大ボケ。なんて僕にピッタリの地名だろう。今日は夜までに高知へ行けばいいのだから、川辺でゆっくりするつもりだった。あのジェイドグリーンの流れのそばで。それなのに、増水して危険なので立入禁止だという。それではここまで来た意味がない。駅まで歩く道すがら、流れをはるか下に見降ろすだけしか出来なかった。弁当も駅のホームで食べた。
 水量が多いので船を出さないというのは解る。けれど立ち入りまで禁止するのは行き過ぎだろう。危険か安全かを判断するのは、個人意思のはずだ。危険だと思う者は離れていればいいし、大丈夫と思う者は降りて行けばいい。それでたとえ万一の事があったとしても、本人の判断による結果なら文句は言えないだろう。小さな子ども相手ならともかく、判断力の備わった大人相手に他人が口をはさむ権利はないはずだ。まさか僕にも勝る大ボケがいるとは思わなかった。
 昨日も今日も、ちっとも計画通りにいかない。そうなると、明日もどうなるか分からない。でも今は明日の事など考えなくてもいいだろう。旅の中にいるうちは、ただ今だけを楽しめばいい。もちろん、以前に立てた計画にこだわる必要もない。
 のんびりと鈍行で高知に着き、それでもまだ時間があるので街を散歩した。特に何もないが、広くて明るい街だ。川が比較的きれいなのと、市電が走っているのが気に入った。冷房が入って窓を閉め切った松山の市電より、開いた窓から風の吹き込むこの街の市電の方が僕は好きだ。

     8月24日 月曜日
 朝から雨音を聞き、テレビの予報も傘マークで、もうすっかりあきらめていたが、出発の頃になって陽が射した。なんて幸運だろうと手を振り上げたが、同時にぬか喜びになりそうだという予感もあった。
 その予感通り、列車が西へ進むにつれて空は暗くなり、雨も再び降り出した。それもかなり激しく。雨と霧とが、「さいはて」を演出する。三年前とまったく同じだ。あの時は昼過ぎ、今回はまだ朝だが、中村への道はやはり夕暮れを思わせる薄暗さに包まれている。
 今日は列車はこれでおしまい。後はずっとバスだ。まあ、岬めぐりにはその方が似つかわしいかも。バスは中村の市街を抜け、そして四万十川を渡り、川沿いに海に向かった。四国の川はどれもみな緑色をしているが、この川の色はやはり特別だ。本気でここに住みたくなってきた。日和佐と中村と、まずはどちらがいいだろう。
 高知から一緒だった双子の小さな女の子達は、途中の土佐清水でお母さんに連れられ降りて行った。なんだか名残り惜しくて窓越しにずっと見送っていたら、外から見上げるようにして笑いかけてくれた。こんなささやかな事だけで、単純な僕は幸せな気分になる。中村でまたもや駅弁を買いそびれた不運など、もうすっかり忘れていた。
 足摺岬はやはり雨の中。傘をさしていても、濡れずにすむのは上半身だけだ。けれども不運は同時に幸運でもある。岬は人気もなく、僕は落ち着いて一人きりで海を眺める事が出来た。
 足元の波涛に目を落としていると、霧に包まれた周囲が一瞬光った。驚いて目を上げる間もなく雷鳴が。揺さぶられて持ち上げられるような気がするほど、激しい響きだった。雷は断崖や波涛よりもスリリングだ。岬の先で傘をさして立つのは危ないと判っていながらも、次の雷、さらに次の雷を期待して、しばらくその場に立ちつくしていた。
 雷を見届けてからその場を離れた。歩き回るうちにあずま家を見付け、そこで弁当を広げた。その頃から雨は勢いを弱め、雷も遠くなった。すると途端に人通りが多くなる。こんな雨の中で弁当を食べる僕にあきれたらしく、中には顔を見合わせて露骨に笑う者もいたが、勝手にするがいい。僕の方だって、激しい雨や雷におじけづいて引きこもり、明るくなるやいなやわき出すように群れなしやって来る連中にあきれていたのだから。
 やがて雨は上がった。依然雲は厚いが、あの雨の後ではそれでも上天気に思えた。
 宿毛へ直行するバスは夕方までないそうだ。ダイヤが変わったらしい。今日もまた計画通りにはいかなかった。清水からなら一時間早く出るそうなのでとりあえずそこまで行こうと思ったが、案内所の人の薦めでその少し先の竜串まで行った。
 宿毛へのバスを待つ一時間を、竜串の磯の散歩で楽しんだ。断崖の上から見降ろすのもいいが、それだけでは昨日の大歩危と変わらない。やはり波打ち際はいい。波に足を洗われていると、先月の海での事が思い浮かんだ。なんだかもうずいぶん昔の事のような気がする。とても同じひと夏続きだとは思えない。
 ガラ空きのバスに乗り、海岸伝いに宿毛へ。そして宿毛から宇和島へ。長い長い道のりだった。地元の人達が乗り込み、またすぐ降りてゆく。慌ただしく乗客が入れ替わる中で、僕だけが一つの席にじっと動かない。なんだか誰からも忘れ去られたように思える。日も暮れて、空は墨色。途切れ途切れに見える海も鉛色に沈んだ。バスが進むにつれ、黒い山の稜線はうねるように形を変える。もうどこを走っているのかも、どこへ向かっているのかも分からなくなった。
 こういうもの寂しさや心細ささえ、僕はどこか楽しんでいる。そういう気分に浸りながら、一人旅はこうあるべきと、どこか満足している。

     8月25日 火曜日
 今日も計画を変更し、朝ホテルを発つ前に新しい計画を立てた。そしてその計画も、列車が予定よりも早く着いたためにまた変更になった。
 どうやら列車もダイヤが変わったらしい。時刻表の上では乗り換え不可能な列車に間に合ってしまった。新居浜から乗った列車も、時刻表には載っていない。もう計画の立てようもないので、後はただ来た列車に乗る事にした。夜までに高松に着きさえすれば、それでいい。
 予讃線も全線踏破した。新居浜、川之江で途中下車し、駅弁も買った。これで今日の目的は達した。それでもまだ時間があるので、気まぐれでつい四国を出てきてしまった。明日回る予定だった宇野線を今日通ったって、べつにかまわないだろう。
 瀬戸大橋を渡り、今は茶屋町駅で宇野行の列車を待っている。そして宇野から船で高松へ渡るつもりだ。もう一度四国へ戻って今日はおしまい。時間があると僕はついくだらない寄り道をしてしまう。でもそれは、どんな気まぐれも思い通りになるという、一人旅の気楽さのためでもある。
 宇野線を踏破し、これで本州九州四国のJRはすべて踏破した。まだ北海道が完全未開拓のまま残っているが、目標をなくしたくはないので、当分足を向けるつもりはない。
 今は船で高松に向かっている。デッキに出て風に吹かれていると、なんだかこれから旅が始まるようにも思えてくる。

     8月26日 水曜日
 高松で岡山行きのマリンライナーに乗り込み出発を待っていると、となりのホームにブルートレインが入線した。「瀬戸」だ。四日前、この場所のこの時から始まったのだとふと気付いた。ちょうどひと巡りして、ここでこの時にこの旅は終わった。

     8月27日 木曜日
 行きは2時間50分で高田から東京まで行ったのに、帰りは姉ケ崎から高田まで14時間、まる一日がかりだ。18切符で鈍行利用という事と、身延線へ回り道した事のせいだが、それは無駄にはならなかった。行くたびに売り切れて買いそびれていた富士宮の駅弁を、三度目にして今日ようやく買えたのだから。
 もう一つ、今日は面白い事に気付いた。富士まで東海道線を進んだが、早川駅に停まった時にクマゼミの声を聞いた。以前から、テレビで東京近郊が映る時にこのセミの声を聞き、疑問に思っていたのだが、今日初めて自分の耳で確認した。やはりクマゼミは確実に東に勢力を広げている。
 それにしても、僕が子どもの頃には静岡以西にしかいなかったセミが、わずかの間に関東にまで広がったのはなぜだろう。クマゼミはもともと亜熱帯のセミだ。それが東へ北へと広がるという事は、やはり温暖化が原因だろうか。それにしても、変化が早過ぎる気もするが。大型のセミだから、ほかの種との競合に勝って分布を広げているのだろうか。たとえばコウベモグラとアズマモグラのように。日本海側はどうなっているのだろう。あちこち回って調べてみるのも面白そうだ。いつかやってみたい。


     8月30日 日曜日
 最後の18切符で、一日を車中で過ごした。七尾線と能登鉄道を乗り継いで輪島まで行った。輪島では15分でとんぼ返りだったが、それでも全工程は往復16時間半にも及んだ。
 七尾線は電化されてしまい、二年前と比べて面白みは減ったが、それでも退屈なものではなかった。近年になって新たに電化されたのに、途中でわざわざ電源切替があるなんて変わっている。
 またのと鉄道のレールバスは、穴水で編成が分割されて二手に分かれ、帰りには反対に別方向からの列車と連結されて七尾に向かう。佐世保と長崎へ分かれるブルートレインのような事を、ここでもやっていたとは知らなかった。
 金沢から乗った列車で熟睡してしまった。直江津まで3時間以上、やはり長い。糸魚川で目を覚ますと、あれほど混み合っていた車内はいつの間にかガラ空きだった。家へ帰る途中という気がせず、遠い所まで来てしまったという気分になる。まあ、帰って来たという実感がないのはいつもの事だが。
     9月13日 日曜日
 昨日と同じく、今日も何もしない一日だった。列車ただ移動するだけの、旅ともいえない行程だった。
 神戸駅を出たのは9時頃で、19時には上越に着いた。いつもの旅と比べれば、少々あっけない。もちろん出発が遅ければゆっくり起きてのんびりできるし、早く着けばそう疲れないし早く眠れもするのだけど。
 でもそのために、旅を慌ただしいものにはしたくない。今日も特急を利用したのはどうしても仕方のない区間だけで、あとは鈍行を利用した。僕にとって旅を満足のいくものにする一番てっとり早い方法が、鈍行を利用するという事だ。
     9月26日 土曜日
 今日明日二日間乗り放題の切符で、東北へやって来た。今日の目的は、いくつかの駅の弁当販売の確認と購入だけ。なにしろ北海道を除いてJRは全線踏破してしまったものだから、あと残っている目的といえばそんな事くらいだ。
 のんびりしたものだった。新幹線で北へ向かいながらあちこちで途中下車をし、そのたびに一時間待った。白石蔵王、栗駒高原、水沢江刺、しかしどの駅にも弁当はない。ほかのいくつかの駅でもすべて買いそびれた。これからは、ほとんどそうなるだろう。たいていの駅はもう購入済みで、残っているのは販売が不確かな駅ばかりだから。
 ちょっとのんびりしすぎたようだ。時刻表を見間違え、10分の狂いから盛岡を出るのが一時間遅れてしまった。これでも上野発の夜行列車には間に合うが、発車10分前では席があるかどうか。
 弁当連続買いそびれとなっても、それでもやはり旅は楽しい。僕にとっては、ただ遠く離れた所でゆったりいるというだけで、充分満ち足りた気分になる。それに、旅の中にいると筆も進む。今日一日で、4章の後半から5章の終わりまで書き進める事が出来た。
 それからもう一つ、思いがけない発見もあった。予定をはずれて本八戸から乗った二戸行きの列車のデッキに、いわさきちひろの絵が掛かっていた。

     9月27日 日曜日
 今日も昨日と同様、駅弁捜しの旅だった。
 羽後本庄はホームから売店も消え、特急の車内販売だけが細々と続いているようだ。「白鳥」の車内で運良く買えた。鳴子の方は完全に消滅。まあそれを確認しただけでも、ムダではなかった。
 荒れ始めた日本海を見ながら、色付いて広がる田んぼを見ながら、今日はずい分鈍行を利用した。
 ローカル線のディーゼルカーはいいものだが、その一方で車内の乗客の品のなさに失望もした。禁煙車で煙草を喫い、ゴミを床にまき散らす。明治の頃はゴミを足元に置き去りにしていたそうだが、ここの公衆道徳は明治の頃のままらしい。昔のままの風景を残す田舎も、いい事ばかりとはいえないようだ。
 小さな子どもまでが、当然のようにお菓子の紙を足元に捨てたのはショックだった。こんな時はどうすればいいのか、黙って見ている保護者をさしおいてでも注意すべきなのだろうが、ためらううちに間をはずしてしまった。その保護者もまた、ソバの食べ残しを放置して降りて行った。


     10月4日 日曜日
 しばらく乗らないうちに「北陸」は様変わりしていた。B寝台個室の車両がえらく増えている。1/3は個室車両じゃないだろうか。これなら前日でも空きがあるはずだ。室内もきれいに変わり、ロックがカード式になっていた。これで直立出来るくらい天井が高ければ文句はないのだが。それから、充分に寝ないうちに到着してしまうのも少々残念だ。
 早朝千葉に着き、そして夜になった今、再び夜汽車で高田へ向かっている。慌ただしいものだ。せめて車内にいる時くらいのんびりしたいが、そうもいかない。高田着は2時20分、寝過ごさないよう注意しなければ。そう言えば、この「能登」は以前から全然変わらない。夜行急行の自由席というと、みんなこんなものだろうか。
     10月18日 日曜日
 昨日の疲れというわけでもないが、休日のゆったり気分でつい寝坊してしまい、9時半の列車に間に合わなかった。次は昼過ぎまでない。開き直って午前中はゆっくりする事にした。
 黒姫に着いた時にはもう13時。これから何の手がかりもないまま童話館を捜さなきゃならないのに、まあなんとかなるだろうとのん気に考えた。とりあえず看板か案内図でもないかと駅前を見回すと、目に付いたのはレンタサイクルの看板。さっそく借りて、気の向く方角へ自転車を進めた。
 本当になんとかなってしまうのだから面白い。たいした苦労もなく童話館に行き着いた。いつでものん気でいる事と、とにかく行動を起こす事。これさえ守ればなんでもたいていうまくいく。
 そのまま自転車で童話館まで乗りつけようとしたが、車両進入禁止だった。たぶん自転車もダメ。そこへタイミングよく送迎バスが来たので、慌てて自転車を止めカギを掛け、荷物をつかんでバスにとび乗った。
 思えば昨日から、ずっとこんな調子だ。天狗平でも、夕日に未練を残しながら終バスの音に慌ててバス停に走ったり、富山でも乗り換え4分間に地方鉄道駅からJR駅へ全力疾走し、切符も適当に買って車内で精算した。今日もバスに駆け込み息を切らしていたら、なんだか僕一人が浮いていた。周囲の人達は厚着をしてもなお寒がっているのに、坂道を自転車で駆け登ってきた僕は、ジャンパーを脱いで腕まくりをしながら、汗をにじませているのだから。
 童話館は思ったほど規模の大きなものではなく、人の多いせいもあって博物館的なゆったりした落ち着きはない。けれど小学校の図書室の懐かしい本もあったから、いつかゆっくり読みに行きたい。
 一人でいるのはやはり僕だけだ。たしかに一人で行って楽しめる所ではないのだろう。手を引いて連れて行くような子でもいれば……。けれども僕は、身近な子どもの存在にあこがれながら、同時に子どもを恐れてもいる。
 行きの列車内では、2才の男の子と乗り合わせた。とても人なつっこいその子は僕の所にもやって来たが、僕は笑いかけたり声を掛けたりするだけで、ほかのおばさん達のように抱き上げる事はおろか、頭をなでてあげる事すら出来なかった。もし泣かれでもしたらどうしようかと、ついひるんでしまう。この時ばかりはさすがの僕も、のん気にかまえる事も行動を起こす事も出来なかった。
 まだ少し時間があるので、付近を散歩した。館内はにぎやかだが、外は対照的に静まりかえっている。黒姫のふもとのなだらかな斜面に沿って、夕暮れ時の静けさがゆっくりと流れる。
 林の中へ続く道があったので入ってみた。さらに細い別れ道の方へ。道は池に続いていた。ただ色付いた木々の葉と冷たい色の水面だけが、かすかに揺れている。
 しばらくたたずむうちに、風は息が白くなるほど冷たくなり、夕日は林の向こうの黒姫の、肩の辺りにゆっくり沈んだ。
     10月30日 金曜日
 時間があまりないので、早く着いてそれからゆっくりした方が良いと思い、長野から「あさま」に乗った。たしかに早く着くが、やはりその分物足りない。到着前に片付けようと、ずいぶん早く夕食の弁当を食べた。
 列車よりも、夕食よりも、さらに日の暮れの方が早かった。家が建て混み、駅が無機質になり、関東まで戻って来たと思う頃には、もう夜になっている。静謐の中に広がっていた残照も、いきなり過去の遠い風景となった。
     11月15日 日曜日
 今日で上越新幹線は十周年だそうだ。それを記念して新潟付近一日乗り放題の切符が出たので、それを利用してあちこちの駅弁を買い集めた。一番の目的は、新発売のひらめずし。わざわざ新津で途中下車し、駅前の本店に行って一つ作ってもらった。あとで新潟駅へ行くと売店にいくつも積み重ねられていて拍子抜けしたが、値札が貼っていないという事で、わざわざ本店に買いに行った弁当は特別だ。ごくささやかな違いだけれど。
 長岡への列車では、となりにおじいさんに抱かれた2才くらいの男の子が来た。目が合うたびに笑いかけていると、男の子は「おじさんいる」と小声でおじいさんに報告する。やっぱりおじさんにされてしまい、僕は苦笑した。
 おじいさんが「おじさんじゃないなあ。おにいさん、って」とその子に言い聞かせてくれた。それからはもう「にいさーん」の連発。覚えたばかりの言葉をただ繰り返すのが楽しいんだろう。呼ばれるたびにふり向くと、男の子はそのたびに笑ったり、顔を隠したり、そっぽを向いたり……。僕はすっかりその子のオモチャだ。肩をポンポンたたかれもした。
 身近にいないから知らなかったけど、小さな子どもってあんな手をしていて、あんな目をしていて、そしてあんな声であんなふうにおしゃべりするものだったのか。あの子の「にいさーん」の呼び声はずっと耳に残りそうだ。夏の海のかおるちゃんの「おにいちゃん」の声のように。そういえばあのかおるちゃんも、最初は「おじちゃん」だったっけ。
 帰りの羽越線でも、愉快な連中と乗り合わせた。ボックスシートに一人座っていると、残りの席をジャージ姿の女子高校生達に占領された。その三人のにぎやかな事。いつもならウンザリするところだが、今日はなぜだか楽しい気分になった。多分この子達が、高校生とは思えないくらい無邪気だったからだろう。
 本当に、まるで小学生のようだった。人目をはばからず大口開けて、足をバタつかせてのけぞりながら大声で笑うのだから。おにぎりをほおばる子のごはんつぶが僕の胸までとんで来る。さすがに僕も対処に困り、ほおづえをついて目をつぶった。すると一人が、もう僕が眠ったとでも思ったのか、わざとしおらしい声で「おさわがせしてすみませーん」なんて言うから、思わずふき出してしまった。彼女達もまた大笑い……。
 女の子というものは、仲良し三人集まれば、誰でもこんなふうになるけれど、それにしてもあの子達は特別すごい。もうハシが転げたら転げっぱなしの笑い転げという感じだ。底抜け陽気からこぼれる笑いは、いつまでも尽きる事はなかった。
     11月20日 金曜日
 紀勢線を、鈍行を乗り継いで田辺まで行くつもりでいたが、ここでまたハプニング。豪雨のため徐行、やがて運転見合わせとなって、列車はついに停まってしまった。しばらくして運転は再開されたが、乱れたダイヤでこの先どうなる事やら。
 ただ遅れるだけなら、たいして問題ではない。すべての列車が同様に遅れるなら。特急を優先したダイヤ回復のため、遅れがみなこの列車にしわ寄せされているというのが、大いに問題だ。
 この列車は各駅で長時間停車する。本来なら追い付かない後発の特急、対向する特急、果ては対向する鈍行までも優先して通すために。さっきの駅では30分停車した。対向する20分遅れの鈍行をやり過ごすために。この列車はもう2時間以上遅れているというのに。
 5時間半以上かかって、列車はようやく新宮に到着した。過ぎてしまえばこれもまた楽しかった。何も起こらないよりは心に残る。車内では、向かいの席のおばあさんに蜜柑をもらった。地元産の物だろう。ユズみたいに小さくて、酸っぱいかなと警戒しながらも丸ごと口に放り込んだら甘かった。
 窓わくに日付の落書きが三つ並んでいた。昭和43年3月15日、昭和54年1月22日、平成3年10月17日。一つめは僕が横浜にいたまだ幼い頃で、二つめは神戸で6年生の冬、あのハイキングの翌日だ。そして三つめは去年東村山にいた時だが、2作目の4章を書いていた頃だという事のほかは、何があったかなどまったく憶えていない。

     11月21日 土曜日
 朝一番の列車で田辺を出発した。串本へ行く前に、弁当を買うために白浜で途中下車。早過ぎてまだ売店が開いていなかったが、一時間待ってしっかり買った。
 今回の旅の目的は、紀勢線の駅弁未購入あるいは未確認の駅めぐり。今日までのところ、多気と串本は駅弁なし、紀伊勝浦では昨日買い、白浜でも今朝買った。熊野市は明日に持ち越しだ。昨日はそれどころじゃなかったので。
 今日はあの荒れ模様が遠く思えるような好天だ。串本で降りるといつかのようにレンタサイクルを借り、橋杭岩、潮岬、そしてあの砂浜を回った。波の色はちっとも変わっていない。やはり海は青空の下、陽光の中で見なければ。遠い海は蒼く、近くの岩の間の水は碧色。いつまでも見飽きない。
 ついでに海中公園まで足をのばした。ついでとはいえ、乗り慣れない自転車で行くにはちょっと距離があった。だが着くと途端に疲れを忘れた。
 水族館は小さいながらも、発光魚の展示や自然採光の水槽が面白い。そして海中公園。千葉の勝浦にあるのと同じようなものだが、眺めは大違いだ。窓をのぞくたびに、!! の連続だった。魚の多さばかりじゃない。周囲のサンゴ、そしてその上を泳ぐ熱帯魚達……。あの砂浜に立った時から、ここの海は日本のものとは違う南国の海だと感じたが、やはりそうだった。コバルトブルーのルリスズメ、黄色いチョウチョウオ、ハタタテダイもいた。あんな世界がこんなに身近にあったとは知らなかった。
 つい長居をしてしまった。駅へ戻ると50分オーバー。悪かったなあと思っていたら、一時間以内なら超過料金はいいと駅員に言われ、ますます気がひけた。嬉しかったが。

     11月22日 日曜日
 新宮を出発し、名古屋へ向かっている。昨日田辺を出た時から帰りの切符を使っているが、帰途についたのだという実感はさらに増した。新宮より西はディーゼルカー、昨日までの電車に較べゆっくりしているが、おとといひどい目に遭ったばかりとあっては、そののんびりさに不安がよぎる。まあその停車時間の長いおかげで、熊野市では弁当を買いに走る事も出来たが。途中下車の必要もなくなり、予定がかえって早まった。
 新宮以東で困るのが、禁煙になっていないという事。西日本では、もちろん禁煙車と喫煙車を分けてある。電車とディーゼル、煙草の問題、同じ一つの線で西と東でこうも違うのも面白い。JR東海も東海道線では禁煙にしているが、その分車両が無味乾燥になっている。それを思えば、禁煙の問題を含めても、こんな昔ながらというのもいいかもしれない。窓さえ開ければしのげるし。
 同じ線を走るにしても、豪雨と快晴とでは大違いだ。特に違うのが川の色。初めて目にするように、川を渡るたびに、息の止まるような思いがした。ゆらゆらと陽光を透かす水は、どうしてあのような色になるのだろう。鼻の奥から目頭へ涼しいものが突き抜けるような感じで、いつまでも見飽きない。とはいえ車中からの眺め、すぐに後方へ流れ去ってしまうが。

     11月23日 月曜日
 昨日のうちに大曽根の駅弁は確認していたので(やはりなかった)、予定よりゆっくり出発出来た。弟のアパートを出たのが10時。それでも早くから起きてはいたが。一人先に起きた僕は音をひそめてコーヒーをいれ、弁当を食べた。それから冷蔵庫にあったバナナを一本、黙っていただいた。
 いつものように鈍行を乗り継ぎ、妙高高原まで帰って来た。名古屋なんて遠いようで近いものだ。あんなにゆっくり出たにもかかわらず、わりと早い時間に帰って来られた。急ぐ必要もないので、ここから先急行に変わるこの列車を途中で降り、次の下りの鈍行をホームのベンチで待っているところだ。
 早目に帰って来たとはいえ、今の季節の日暮れはさらに早い。暮色の薄闇に、辺りの色あいはすっかり寒色に統一されている。山の頂の白いのだけが、かろうじて分かる。息も白い。こういった、もの寂しいほどに静かな冷たい世界に、僕はたまらなく魅かれる。
 暮色の黒姫も本当に素敵だ。あの場所をいつか自分のよりどころに出来ればいいと、今では本気で考えている。ずっと住むつもりはないが、山小屋くらい持ってたまに帰って来られればいい。それとも、ここ以上に魅かれる場所が、将来見付かる事もありうるだろうか。


     12月6日 日曜日
 昨夜の飲み会が、今日の予定にも影響を及ぼした。連絡が出来なかったのでハングの練習は取りやめに。もう二か月も行っていないので今日は行くつもりでいたのだが。
 今日は瓢湖へ行った。最寄駅は水原駅だが、新津から先の列車が一時間待ち。わずかふた駅のためにそんなに長く待つ気になれず、向こうの方だろうと見当をつけて歩き始めた。僕にはやはりこうしか出来ないものだと思う。歩くのは楽しいし、ただ待つのはつまらない。その方面へのバスはなく、タクシーは初めから考えにない。一人きりなら好きなようにやるだけだ。
 昼になったので河原の堤防で駅弁を食べ、阿賀野川の長い鉄橋を渡った。ここまでで一時間、まだ半分だ。ここでふとかたわらのバス停を見ると、その付近から出る水原行きのバスがある。時間はあと2分。考えるうちにバスが来たので乗り込んだ。見知らぬ土地をさまよい歩くのも楽しいが、なじみのないバスにいきなり乗り込んでみるのもまた楽しい。
 歩けばさらに一時間かかるであろう道のりを、バスは15分で走り抜けた。さすがにノンストップで走っただけの事はある。乗客は僕一人で途中のバス停にも止まらず、信号にも一度もかからなかった。
 水原駅で地図を確認し、さらに20分歩いてようやく瓢湖へ着いた。湖というよりは、池か沼という感じだ。郊外にあると思っていたが、町に面していたのは意外だった。コンクリートで固めた岸や、警戒心をほとんど見せない水鳥にも違和感を覚えた。なんだか何もかもが人工的に見えてしまう。餌付けだけとはいえ人の手が少しでも加われば、そうなるのも仕方ないのだろうか。
 それでも水面をうめつくすカモ達やその間をぬって泳ぐ白鳥は、まぎれもなくシベリアからやって来た渡り鳥だ。そして湖の向こうに横たわる遠い山並みの向こうには、さらに遠い山が真っ白に見えた。冬鳥との取り合わせもよく、絵になっている。
 5才くらいの男の子が鳥達にお菓子をあげていた。エサを勝手にやってはいけないので感心出来る事ではないが、なかなかほほえましい光景が見られた。2才くらいの双子の男の子達がそばに来ると、男の子は見知らぬはずのその子達にもお菓子を分けてあげた。それも当然の事のように、ごく自然に。二人もまったくとまどいを見せずに受け取った。そしてそれを当然のように自分の口に入れるものだから、もう笑ってしまった。
 男の子はもう一度お菓子を二人に手渡すと、今度は投げる見本を示してみせる。そんなさりげない子ども達の交流が、たまらなく素敵に思えた。僕は小さい頃から人見知りで、あの年頃でもやはり会ったばかりの相手にあんな親しい態度をとる事は出来なかったから。双子のおねえちゃんらしい3才くらいの女の子が来ると、男の子はその子にもお菓子をあげた。その子もやっぱり、まずは自分でお菓子を食べた。
 出かけると、なぜだか筆が進む。行き帰りの列車の中、そして乗り換えの待ち時間の合い間に、20章の最後と21章を書き終えてしまった。これで5作目も終わりだ。まだ仕上がったわけではないが、目指していた場所にとりあえず流れ着いてくれて、今はほっとしている。帰ってさっそく、手帳に打ち込んだデータをワープロに転送した。
     12月12日 土曜日
 夜行で発つので時間がある。大急ぎで5作目を印刷し、6作目も手直しして印刷した。これでようやく本当にひと息つける。今まではノートをつける暇もなかったが、旅の間くらいたっぷりと書きつづろう。
 そして今は金田一温泉駅の待合室にいる。売店とストーブとテレビがあるだけで、駅員は一応いるがカーテンの向こうに引っ込んで改札もしない。こういう場所にいる時こそ、さいはて気分が強くなる。それでも僕は、遠くにいてもさらにその遠くにあこがれ、どこまで行っても行き足りない思いをぬぐえないが。
 ここで降りたのは、駅弁の確認が目的だった。でもここは×。本八戸は嬉しくも〇だった。今から向かう二戸はどうだろう?
 二戸もやっぱり×。けどまあいい。確認出来れば気がすんだ。そしてようやくひと心地ついた。のんびりと座り、食事もすませたので。今は青森に向かっているところだが、ここまでは大変だった。ずっと立ちづめで、眠いのに眠れもせず弁当も食べられなかった。
 青森までやって来た。冬の青森は初めてだ。鈍色の空の下に暗緑色の海が見え、さいはてを本当に実感出来る。
 ホームを厚く覆った雪を踏みしめて歩いた。するどい風が吹き抜ける。僕の体を突き刺し、切り裂き、そして貫く。両手を広げて向かい風に駆け出したくなる。不潔な部分をすべてそぎ落とされるようだ。ここにはひと足早く本物の冬がある。挑みたくなる厳しさがある。
 雪は昨夜の高田でも薄く積もっていたが、新井から妙高へかかるとかなりの積雪になった。闇の中でも地面はほの明るく、そして街灯の光の中だけに降りしきる雪たちが浮かぶ。今日もあちこちで積雪を目にしたが、北へ行くにつれ増えるのでなく、部分部分にだけ積もっているというのが面白い。場所によっては列車を遅らせるほどの積雪で、その列車を待って僕がたたずむ駅には雪などどこにもないという、なかなか奇妙な冬の世界だった。

     12月13日 日曜日
 慌ただしい出発だった。またホテルで寝坊してしまったので。6時15分に発つ予定が、目が覚めたのはその5分前。昨日の寝不足のせいだ。朝食抜きで大慌てで支度した。
 列車には間に合った。2番線というのを改札上の表示で確認し、階段を降りた所がちょうど禁煙車だったのですぐ乗り込んだ。今日も朝食を食べそびれるかと思ったけど良かった、と安心しながら弁当を食べ始めると、そこへ車内放送。「この列車は田沢湖線経由盛岡行きの快速です。お乗り間違いのないよう……」もうあせって、荷物と食べかけの弁当を手に飛び出した。五能線の列車はその先にいた。同じホームに二本の列車を止めるなんてまぎらわしい事は、やめてほしい。
 五所川原に思ったより早く着いたので、一本早い津軽鉄道に間に合った。五能線の列車はここで30分止まっているそうだ。時刻表で8時3分発となっていれば、着くのはその1分前とつい考えてしまうが。
 一本前のは普通の列車だったが、行きも帰りもストーブ列車というよりは、その方が良いだろう。普通といっても、ひなびた感じが良かった。窓が二重になっているのも北国らしい。林檎畑を抜けて田んぼの中を走っていると、雲間から陽が射した。凍り付いた雪が光った。
 予定では金木でとんぼ返りのはずだったが、時間が出来たので付近を散歩した。津島医院とか津島歯科とかいうのが目に付いた。太宰の本名の津島という姓、ここには多いのかな。キョロキョロしながら、凍路を滑りながら歩いた。
 ストーブ列車は、本当にただストーブが一つ置いてあるだけ、だった。けれど古い列車は、ただひなびた様子だけでもいいものだ。ストーブの前に座り、ウトウトしかけた頃にはもう終着駅だった。
 冬の海をかすめるように、五能線を走った。ここも冬には初めてだ。夏に走っていたあの観光列車も今はない。薄雲のせいで海の色も鈍いが、波だけは鮮やかに白く大きい。3時間半を長く感じさせない、本当に飽きない海岸線だ。
 それに対して、その後の特急は退屈だった。やはり特急なんて単調で何の面白みもない。景色も見えないとなるとなおさらだ。16時を過ぎると辺りは早くも闇に沈み、雨まで降り出した。帰り道がこれでは、まるでこれから戻る日常は闇と雨と暗示するようで、気持ちも沈んでくる。


     12月20日 日曜日
 7月にも乗ったあの列車で碓氷峠を越え、長野に向かっている。夏には夕暮れ時だった時間でも、今は完全な闇夜だ。もちろん窓を開けるわけにもいかない。今日はぬかるんだような生温い暖房に浸かっているしかなかった。
 夏と冬とではもちろんまったく違うが、同じ冬でも今日は二つの冬を見た。長岡から上越線を南下すると、水上を境に雪は見る間になくなった。清水トンネルを過ぎてもまだ白かったのでおやっと思ったが、やはり高崎まで行けば乾いた冬だった。
 その前に、水上で途中下車してバスで上毛高原駅へ。ここでの駅弁購入が今日一番の目的だ。買えたので満足。これでもう、東日本に駅弁未購入の駅はなくなった。しかしそうなるとまた、僕の意識は遠くへ向く一方だが。
 7作目も旅の間にだいたい片付いた。これが今日のもう一つの収穫だ。この分なら、クリスマスまでに仕上がりそうだ。
     12月23日 水曜日
 飯田線を南下し、天竜峡で駅弁を買って駅の周辺をぶらついてから、今帰途についたところだ。
 飯田線へ来るのはこれで何度目になるだろう。本当にたびたび来ているような気がする。こうして列車に揺られていると、つくづく自分がヒマ人に思える。アパートにいればやる事も多いが、物語を書き終えた今はもう、外出先でやれる事は何もない。こんな時くらいせいぜいのんびりしよう。
 北上するにつれ雨が降り出し、それがいつの間にか雪に変わった。まだ空は明るく雪も淡いが、今から僕が帰るのは、遥か北の山の向こう。どれほど降っているか楽しみだ。もうクリスマスとは無縁の年だが、雪だけは確実に僕にも訪れてくれる。
     12月25日 金曜日
 昨夜は欲しかった本が手に入ったのが嬉しくてたまらず、ついそれを読むうち夜更かししてしまった。一冊読み終えるまでどうしても眠る気になれなくて。そして会社でもまた読書に没頭してしまい、二冊目を読み終えるまですっかり仕事を忘れていた。
 そして今は残りの二冊をカバンに詰めて、神戸へと出発したところだ。大阪への夜汽車が着くまで、直江津では50分もの待ち時間がある。今夜もまたゆっくり読書を楽しめそうだ。
 三冊目も読み終えた。夜汽車の寝台の中で。ホームでの50分はあまりに短く、続きはここで読む事となった。昨夜に続いてまたもや夜更かしだ。でも本は読みたい時に読むのがいい。場所も時間も選ばずに。
     12月28日 月曜日
 姫路までの列車の中は、ひどくにぎやかで愉快だった。乗り合わせた子ども達の一団は、駅に停まるたびに人数が増え、にぎやかさもそれにつれて増してゆく。仲間が加わるにつれはしゃぎ気分が高まる様子が、見ていて楽しかった。
 一番年かさらしい男の子が、一番ちっちゃな女の子をからかっては、パンチの連打をあびていた。だれかこいつを止めてくれとか言いながら、そのくせまた挑発をくり返して、いかにも楽しそうだった。
 姫路で列車を降りると、その子達もそろって降りた。そしてホームで外国人を見付けると、悪ノリ気分のままハローとかグッドモーニングとか声を掛ける。それでも以前の僕らと較べれば、まだまだおとなしい方だろう。一人きりになって長いので忘れかけていたが、あんな頃の自分達をふと思い出した。
 あんな仲間を失って、もう何年になるだろう。もう二度と得られないというのは分かっている。ますます同窓会に気が進まなくなってきた。大人になってしまったみんなに会って、何になる。
 駅弁をあちこちで買い求めながら、西へ西へと向かっている。途中下車を繰り返していると、鈍行の旅でも少しばかりせわしない感じがする。それでも眠くなるような穏やかさ、単調さはあい変わらずだ。はっきりしない天気のせいもあるだろうし、別府にいた頃から飽きるほど通った線でもあるからだろう。今日はどこへ帰るのか、ふと分からなくなるような気がした。日の暮れる頃われに返ると、当時の習慣で小倉駅で大分行きの列車を待っていた、というような事にならなければいいが。
 というような事もなく、ちゃんと姫路まで帰って来た。この新快速が今日最後の列車か。やはり単調な汽車旅だった。もちろん得る物もあったが、何年かすれば今日の事などすっかり忘れてしまうだろう。
     12月30日 水曜日
 おととい以上に精彩を欠いた旅だった。やはり通り慣れた東海道線にも新鮮みは感じられない。その上駅にも列車にも風情がないし。
 とはいっても、今日のような帰省ラッシュのピーク時に座ってのんびり出来るのは、やはり鈍行ならではなのだが。窓わくに腕をもたせながら、しじゅうウトウトしていた。
翌年の日記へ

パビリオン入り口へ