レイリング日記94
1月28日 金曜日
早朝、ホテル周辺を散歩した。気温はマイナス15度くらいだろうか。さすがに温泉地で水分が多く、霧氷が見事だ。林の中を進み、細い流れを渡ると、水面から川霧が立ち昇っている。と思ったら、すぐ近くから湯が湧き出していて、その湯気だった。両手だけその温泉につかってみた。
ローカル列車で網走へ。煙草臭い室内には入らず、僕はずっとデッキにいた。ドア越しの席には赤ちゃんがいる。笑いかけて手を振れば、その子もガラスを叩いて応える。それでも僕は、ガラスの外にいるしかなかった。こんな赤ちゃんだって乗っているのに、ほかにも子ども達が何人もいるのに、なぜ奴らは平気で煙草など喫えるのだろう。
山の中からいきなり海辺へ出た。オホーツク海は暗い色をしている。雪原をまぶしく輝かせるのと同じ陽光が、あの海にも同様に射しているはずだが。
そんな暗い海の向こうに、水平線だけが不自然に白く浮かび上がる。あれが流氷か。単なる冬の海というだけでなく、これはまぎれもなくオホーツク海だ。
網走駅で待つ事2時間。弁当を食べたり付近を散歩するなどして時間をつぶし、ようやく「オホーツク6号」に乗り込んだ。峠へさしかかると雪は深くなる。日が隠れるやいなや、雪は暮色の薄紫に染まる。
ホテルに着いたのは、昨日より1時間は早かったものの、やはりすでに真っ暗。層雲峡は雄大な景色が広がるのだろうが、それは明日までおあずけだ。
1月29日 土曜日
朝からさっそく、ホテル7階の展望台へ行ってみた。昨夜ライトに浮かび上がっていた氷像群が、意外なほど小さく見える。いまひとつ迫力に欠ける眺めだ。あまりにも壮大な雪山をバックにしていると。
ホテルを出発し、ロープウェイに乗って高みを目指した。やはり山は眺めるだけでは満足出来ない。今は観光客は少ないが、代わりにスキー客がいるのでロープウェイの運行も続いている。とはいえやはり乗客は二人だけだった。ぜいたくなものだ。ガラ空きのゴンドラの中、あちこち移動しては眺望を360度楽しんだ。
展望台からの眺めは、すさまじい。スピーカーから流れる俗臭ただよう流行歌の騒音にはウンザリだが、吹きつける鋭い風はけわしい山々の姿を神々しく見せてくれた。
これほどまでに天気が良くなるとは思いもしなかった。見上げればシラカバの細い枝の一本一本までがまぶしいほどに輝き、バックの硬質の青色に広がる空が、まるでひび割れているように見える。
帰りのバスが出るまでまだ間がある。ヒマさえあれば何でも見たがる僕は、今度は建築中の氷像を見に行った。
間近に見ると、氷のモニュメントは巨大だった。水が吹きつけられ、徐々に形作られつつある壁や柱は、水が流れしたたる形を残したまま静止している。氷瀑ひょうばくとはうまく言うものだ。ただの氷にすぎない物が、淡く翡翠の緑色を帯びていて、まるで希少な鉱石のようにさえ見えた。
貴重な目撃はそれだけではない。バス停からエゾシカを見た。遠い姿だったが、生まれて初めての事だ。今まで僕が見たシカというのは、奈良公園や宮島くらいのものだから。帰り道、走るバスの中からも何頭か目撃した。頭上にそびえるけわしい山の稜線といい、ここはまるでアラスカのようだ。
旭川に着いた。母さんはホテルへ。そして僕はアパートへ。部屋では水分を含む物何もかもが凍り付いていた。トイレの水まで凍っている。唯一凍っていなかったのは、冷蔵庫の中の物だけだ。今朝は23度まで下がったらしい。室内も10度近くまで下がっただろう。僕はまだまだ北海道を甘く見ている。
2月2日 水曜日
母さんにゆずってもらった周遊券で、レイリングに出た。母さんはおととい帰ったが、周遊券の有効期限はまだまだ残っているのでそれをゆずってもらい、母さんには普通の片道乗車券で千葉まで帰ってもらった。さあ、これで僕は14日まで北海道内乗り放題だ。とりあえず今日は北へ、稚内を目指した。
初めて乗る急行「礼文」。礼文というのはアイヌ語が語源だろうか。風の事をレプンと言うそうだけど。その風の急行が、発車から20分も遅れてしまった。
今日はまたひさしぶりの吹雪。北へ向かうにつれ未開地の様相を増す雪原は、凍り付く窓越しに見ると恐ろしくさえあった。人にとって安全な場所である町は点でしかなく、その町と町を結ぶ道路や鉄道も線でしかなく、もしそれ以外の場所にいきなり放り出されれば、凍死するしかないだろう。
稚内までの4時間の道のりで、遅れは10分しか縮まらなかった。結果として、依然10分の遅れ。帰りの急行「サロベツ」はすぐ出発だ。駅構内をぐるりと見回しただけですぐ乗り込んだ。シーズンオフには駅弁すら売っていない。まあいい。レイリングだけでも充分楽しんでいるのだから。
このサロベツというのもアイヌ語だろうが、どうしてほかの地名のように漢字が当てられないのだろう。僕は立ったまま考えた。上り列車は混んでいて、帰りは旭川までずっとデッキに立ちづめだった。
2月4日 金曜日
午後にいろいろ用事があるので、今日は昼までの半日レイリング。「オホーツク1号」で遠軽まで行き、「オホーツク4号」で引き返す事にした。
今日は遠軽で40分の時間がある、はずだったのだが、またも列車が遅れた。札幌辺りは吹雪だとかで、入線も発車も30分遅れ。また前回と同じパターンにおちいりそう……。
しかし上川を過ぎる頃から晴れてきて、雪原も林もまぶしく輝き始める。この分なら、少しくらいの遅れは取り戻せるかもしれない。
そんな考えは甘かった。ダイヤの乱れのためか、途中駅で反対列車待ち合わせのため10分間の停車。結果として40分も遅れて、遠軽に着くと上り列車はすぐに入線してきた。ホームで駅弁を買い込んで、すぐそれに乗り込んだ。
上り列車が遅れる事はなく、予定通り昼過ぎには帰って来た。アパートへ帰るやいなやすぐ電話。また水抜き栓が回らなくなり、朝から完全な断水状態だったから。ほんとにどうにかならないもんだろうか。こんなくだらない事をいちいち気にしたくはないが、やはり不便だ。水は出たが流量はまだ不安定で、お湯も使えない。
2月6日 日曜日
今日も気晴らしレイリング。落ち込み気分はまだ治らない。まあ気楽に揺られる事にしよう。のんびりするのにも、考え事をするのにも、汽車旅は最適だ。
「スーパーホワイトアロー」で、1時間半かからずに札幌へ。札幌を近く感じるのも、この特急の速さのためだろう。みずからの巻き上げる雪煙に包まれて、外からは彗星のように見えるかもしれない。中からは、快晴の景色もかすんで見えるが。
対して次に乗った「北斗」は、ディーゼルのためかのんびりに感じる。いつだったか新しいカラーリングの車両に乗った時、それを振り子列車とかん違いした事があったが、振り子列車が走り出すのは3月からだそうだ。もうとっくに導入されていると思っていた。今時そんな事を騒ぎ立てたりしてないで、せめて禁煙くらいよその地方のレベルに追い付いてもらいたい。
長万部で降り、駅を出て駅弁屋を捜した。かにめしなら駅でも買えるが、ほかの物が欲しい場合は店まで行くしかない。帰る立ち売りのおじさんに導かれ、すぐに店は見付かった。ただし、頼んでから出来上がるまで20分待たされたが。
今日はそれだけの時間的余裕があって良かった。駅へ戻ってもまだ時間があり、ウロウロ歩いてヒマをつぶした。長万部は札幌よりさらに暖かい。足元の雪も溶けかけて、関東で雪を踏んだ頃の感触をひさしぶりに思い出した。
帰る途中にも登別で一度降り、駅前の店まで駅弁を買いに出た。また10分ほど待たされたが、以前から欲しかった洋寿司がついに買えた。ハムのにぎりにソースにカラシ、これは日本一奇妙な駅弁じゃないだろうか。
札幌まで「すずらん」に乗った。同じ線を戻るにしても、ディーゼルと電車とではやはり違う。今日のレイリングは少々遠出でもあったし、いろいろな列車に乗った。
2月7日 月曜日
留萠線を踏破するため、まず留萠駅までやって来た。ここは僕にとって、JR路線最後の未踏破路線だ。始め踏破は8日を予定していたが、誕生日の8日はもとから記念日でもあるし、JR全線踏破は1日早めて今日にした。ここから先、増毛まで行けば長年の目標は達成される。ただ接続の列車が1時間以上ない。しばらくここで足止めだ。
雪の降る留萌の町を少し歩いた。今朝出し忘れた手紙のために、ポストを捜しながら。町には魚の匂いが吹き寄せられている。もうすぐそこは日本海。
やっと見付けたポストを折り返し点に、駅へ戻った。小さな町にしては駅は大きい。そして最近改装したのか新しく見える。JR北海道カラーの黄緑色で大書きされた「留萠」の旧字体がちぐはぐでおかしい。町は新字体の留萌市で川も留萌川だが、路線名や駅名は昔ながらの留萠本線留萠駅だ。
待合室は禁煙で、旭川よりずっと近代的。ただ列車の方はやはり喫煙車で、僕はデッキに立っているしかなかったが。良くも悪くも、北海道は昔のまま何も変わらずにいる。
駅でも信じられないものを見てしまった。喫煙スペースで、赤ちゃんを抱いた母親が煙草を喫っているのを。北海道民の昔ながらの意識が現代に追い付くのに、いったいあと何十年の時間が必要だろう。煙たがってむずかる赤ちゃんはとうとう泣き出したが、母親はそれでも煙を吐きかけるのをやめる様子はなかった。
増毛行きの列車に乗り込んだ。またデッキに立ちドアの窓から外を見ているが、そこにあるのは本物の冬だ。重い海の色はそのまま暗い空に溶け、すぐ目の前の海岸さえ激しい吹雪にかすんでいる。
そうして行き着いた終着駅は、やはり雪に埋もれた無人駅。煙草臭さのこもる待合室を通り抜け、所在なく辺りを歩いてまたすぐ列車のデッキに戻った。
こうして僕はすべての路線を踏破して、見知らぬ場所はどこにもなくなった。だがそうなると、行くあても居場所もなくなってしまったような気がして、今はただ虚しさばかり感じる。この北海道にしてもそうだ。昔からのあこがれが、実際に住んでみた事で、ずい分色あせてしまったように思う。
帰ると通知が届いていて、僕の詞は落選だった。水道が出るようになり、6日ぶりに風呂に入った。登別の洋寿司を食べてみたが、それほど奇妙な物でもなかった。
2月8日 火曜日
全線を踏破したからといって、目標がなくなったわけじゃない。まだ見ぬ駅弁を求めて、ちょっと名寄まで行ってみた。
たった1両のディーゼルカーに揺られて1時間半。帰りも各駅停車で2時間かかった。眺める窓の外雪景色が清らかであればあるほど、車内のよどんだ空気への嫌悪はつのる。もう今日を最後にローカル列車に乗るのはやめよう。特急には少なくとも禁煙車がある。
戻ってから図書館へ行った。公園や大通りでは氷像作りが進んでいる。雪像の方はもう完成した。雪祭りは明日からだ。
2月12日 土曜日
まぶしい雪原の中を走っている。目を細めながらも目が離せない。ここしばらく遠出が出来なかったから、今日はちょっと遠くまで行くつもりでいる。まだ切符が有効で良かった。今の僕には気晴らしが必要だ。どんな形でもいいから、とにかく気分転換が。
ローカル列車にはもう乗らないつもりでいたが、今日はやむなく乗る羽目になった。それでも富良野までと新得からは禁煙区間となり、喫煙可の区間でもそれほど煙は立たなかったので助かった。とはいえやはり理解出来ない。この無意味な区間を限っての禁煙というのは。
終着の帯広で降り、構内をあちこち歩き回った。帯広は初めて降りる駅だ。思っていたより大きく、弁当も種類がそろっていた。まずホームの売店で一つ買い、続いて改札を出た食堂でもう一つ、ハローキティの弁当を見かけてつい買ってしまった。
折り返し上り特急に乗り込んだ。札幌までの3時間は、ひどく退屈なものだった。
対して旭川までの2時間半は、物足りないほど短く感じた。となりににぎやかな家族連れがいたので。子ども達ははしゃぐたびに僕にも笑顔を向けて、それだけで僕はなぐさめられた。楽しい時間を共有できた嬉しさに、思わず旭川を通り過ぎてしまいそうになったが、こんなひと時は引き伸ばしてみたところで意味はない。笑顔を見交わした一瞬の喜びだけを抱えて列車を降りた。
もうあの子達に会う事は二度とないだろうが、それでいいのかもしれない。その一瞬を、いつまでも大切にするためには。子どもの存在が身近にない事で、かえって僕は子どもの物語を創る事にうち込めるのかもしれない。
今日の旅の間に、18作のだいたいの流れが定まった。もうすぐにも書き出せそうだ。
2月13日 日曜日
昨夜はなぜか寝つかれなかった。ぼんやりラジオを聞きながら、明け方まで寝返りばかり繰り返した。まあいい、その分列車で眠ればいい。
ひさしぶりに快晴の朝、すがすがしく冷え込んだ。川霧。霧氷。ダイヤモンドダストの中を駅へ向かう。今日の目的地は網走だ。外は木々の枝ばかりでなく電線までが霧氷をまとい、白く輝いている。
車内でウトウトしていると、急停車で起こされた。外に目をやるとシカの姿が。斜面を駆け登り、そこからしばらくこちらを見降ろしていたが、列車が動き出すと林の中に消えた。じきに車内アナウンス。やはりシカの横断による急停車だった。さすが北海道、こんな事もたびたびあるのだろう。双方とも無事でございます、と言う車掌の口調も落ち着いたものだった。北海道は日本のモンゴルだと前から思っていたが、日本のアラスカという感じもする。今度はクマでも出ないかな。
途中止まった生田原駅はきれいな駅だった。列車行き違いの4分停車にコーヒーを買いに走ったが、駅が図書館になっていて驚いた。入口のチラシを見ると、ここは駅でもあり図書館でもあり、また2階は資料の展示室になっていて、建物の名称はオホーツク文学館というそうだ。いつか訪れてみよう。だが今日は販売機でコーヒーだけ買い列車へ戻った。今目指すべきはオホーツク海だ。
網走駅を出て、とにかく歩き出した。道は分からなくても迷いはしない。海という大きな物が目標なら。
ちょうど流氷祭りとかで、海岸はにぎやかだった。雪像に氷像、どこの祭りも変わらない。並ぶ出店も似たようなもの。
じきに雪が降り始め、すぐに吹雪になった。帽子が飛ばされそうになる。まるで真空にさらされたようにヒフが痛む。流氷に覆われた海面は白く静まっているが、その静けさも穏やかなものではない。
切り裂かれるような冷気を承知のうえで、あえて海岸沿いを歩いた。オホーツクの厳しさに、耐えられるだけは耐えてみたかった。橋を渡りさらに歩くとモヨロ貝塚へ出た。小さな資料館があるだけで、人影もなく、林が雪に埋もれている。寂しい所だったが、本でしか知らなかった場所を目にする事が出来て、満足して駅に引き返した。
連休の最終日となると、やはり混むものだ。発車まであと1時間半あるというのに、改札前にはもう列が出来ている。もちろん僕もずっと立ちづめ。乗り込んだら弁当食べて、あとはずっと寝て行こう。
……そのつもりだったが、とても眠れるような状態じゃない。おし込められて閉めきられた車内はまるで防空壕のようだ。座っていても力が薄れる。もう特急にも乗りたくなくなった。
3月30日 水曜日
午後になって「コスモス」が届いた。僕はやはり選外だった。分かっていた事とはいえ、やはり気がふさぐ。18作を書き上げた嬉しさも、これでどこかへ消えてしまった。いくら書いたって、認められず読まれもしないのではなんの意味もない。前回は奨励賞だったしまったく認められていないわけでもないだろうが、それでも日陰者には変わりない。意味もなく自分が不当におとしめられているような、そんな気さえする時もある。……相当落ち込んでいるな。
夕方旭川を発った。春分を過ぎたとはいえ、まだ日没は早い。外はもう真っ暗になった。ひなびた雰囲気の鈍行列車といい、今の僕にふさわしい旅の始まりと言えるだろう。さあ、せめて今くらいはのんびりぼんやりとしていよう。ガラ空きの夜の鈍行列車は、とても気が落ち着く。
いいかげん、小さな事で落ち込むのはやめにしよう。さらにほかのいろいろな事まで考えて、ますます気を滅入らせるのはくだらない。とにかく、ささいな事にふり回されていていいはずはない。周りをふり回すというか、周りに影響を及ぼすような存在になりたいと思うのなら、今まで通り自分の思うままにやっていくだけだ。
3月31日 木曜日
結局夜汽車の中ではほとんど眠れず、今朝になって鈍行に揺られながらウトウトしている。途中、ロックフェラーと案内放送が聞こえ、どこへ来てしまったんだと驚いて目を覚ますと、なんという事はない、六原という駅だった。外はさっきまで雪が激しく降っていたが、一ノ関まで来るとそれも止み積雪もなくなって、天気もいきなり回復した。陽光が一度に季節を進ませた。
仙台辺りまで来ると、今度は風が強く吹き始めた。暖かい風、春一番だろうか。列車を徐行させるほどに激しい。今僕は季節の早回しを体験している。
4月9日 日曜日
早朝、市原の家を発った。あとはひたすら鈍行で北を目指す。札幌への夜汽車に間に合うために、23時頃までに青森に着けばいい。
間に合うどころか、姉ケ崎で一本早い快速に間に合った。この15分の早まりが黒磯では1時間の早まりになり、かなりの余裕が出来た。当初の予定では時間ギリギリという事で、夜行は指定席をとってある。だから慌てずのんびり行こう。浮いた時間は、どこかで途中下車して駅弁でも買えばいい。
都市近郊だけはさすがに混み合う。福島、仙台、乗り換えの慌ただしさもあり、あまり落ち着かないままいつの間にか夕方になっていた。一ノ関を過ぎ、ようやくガラ空きの客車でのどかな感じになった。このまま終着の盛岡まで行きたい気分だけど、どうせその先1時間は次の列車がない。途中、北上や花巻で降りて時間をつぶそう。この列車だって盛岡近くになればどうせ混むだろうし。
途中下車して駅弁を買い、1時間後の当初の予定の列車に乗り込む頃には、すっかり日は暮れていた。これまでにも何度か雪が舞っていたが、ここまで来るとずい分季節をさかのぼったような気がする。今乗っている八戸行きは、電車ではなく電気機関車にひかれる客車だ。静かで、けれど停車がどこかぎこちなくて、車窓の風景と共にひなびたうら寂しさがある。僕は今、北へ帰りつつある。トンネルを抜けもしないのに、外は雪国になった。
ニギヤカだったとなりの子ども達も降りていった。車内はいきなり虚ろになり、僕はいつも通りの独りきりに戻った。もっとも、たとえ誰かがいる時だって、やはり独りなのだろうが。ただそれを忘れているだけで。
それでも今は、しきりと笑みが顔に浮かぶ。長い間じっと固まっていたから、ちょっとした感触がいつまでもくすぐったい。
4月10日 月曜日
急行「はまなす」の座席は、自由席と指定席とでは大きな差があった。行きは札幌で時間があったので並んで自由席に座ったが、帰りは青森で時間がないので念のため指定席をとっていた。するとシートがやたら座り心地がいい。リクライニングも深いし、フットレストも付いている。もっとも、僕はべつに硬いボックスシートでもかまわないが。とにかく座れば眠れるのだから。
アパートには午前中に帰りついた。今夜はちゃんと横になって寝よう。
4月25日 月曜日
今朝はかなり冷え込んだ。外は霜が真っ白に降りていて、氷も張っていた。神戸の方は暖かいだろうと思い薄着をしたものだから、ひと時真冬を味わう羽目になった。
鈍行を乗り継いで函館へと向かっている。夕方の夜行に間に合えばいいのだから、時間よりも特急料金を節約すべきだろう。とはいえ苫小牧では時間をつぶし過ぎた。用があってちょっと途中下車したら、次の列車が1時間半もないなんて。
でも大切な用事だから仕方ない。先週金曜に家賃を振り込みそびれたので、どうしても北海道内にいるうちに、家賃を振り込まなくてはならなかった。……まったく、旅のさ中にこんな用事を引きずったのは初めてだ。でもこんな事でもなければ、苫小牧の町を歩く機会などなかっただろう。歩道のタイルに赤ちゃん達の足型が、名前や生年月日と共に彫られているのが面白かった。
登別まで来て、次の列車までまた少し間があった。鼻歌を歌いながら、ホームを端から端まで意味もなく歩き回った。水道があったので顔でも洗おうと思い、帽子を取りメガネを取り準備をして蛇口をひねったら、水は出なかった。
長万部から特急に乗り、函館での乗り換えも終えて、今ようやく「日本海4号」の車内でのんびりくつろいでいる。青函トンネルの急降下を、時計の気圧計を見ながら実感しているところだ。もう弁当も早々と食べ終えてしまった。明日の朝も早いし、日が暮れたらすぐに寝よう。でも日も長くなったし、トンネルを抜けてもまだ明るいだろうか。
4月26日 火曜日
直江津に停まって目が覚めた。空はまだ深い青色だった。昨日、北海道では同じ頃すでに明るかったのに。それでも、すぐに赤みを帯びた光が広がり、見る間に明るくなった。富山に降りる頃には日が昇った。
「日本海」に乗っていればそのまま大阪まで行くが、気になってる事があるので途中下車した。これから七尾線羽咋駅に駅弁の確認に寄る。まあ今までに二度ばかり通っても見かけなかったから、どうせないだろうが。それならそれでもいい。降りてみれば自分で納得がいくから。大切なのはその事だ。
羽咋に弁当はやはりなかった。それ以前に店が開いてない。まあいい、それならまた今度だ。僕は簡単にあきらめやしない。
今日は天気も良いし、それだけでも気分が良い。あちこちで、遠足に向かう子ども達を見かけた。無関係な僕までが、なんだかウキウキしてくる。……ただし、ほんの一時だけ。そんな気分も、すぐに通り過ぎてしまう。
4月29日 金曜日
天気も良いし、こんな日に部屋で机に向かっていていいはずがない。大阪へ向かった。駅弁の確認に。
大阪城公園駅を降りると、売店ではなくワゴンが出ていて弁当を売っていた。あの本に書かれていた通りこの駅で駅弁販売はあったのだから、そうなると羽咋での駅弁販売も信ぴょう性を帯びてくる。まあそれはまた次の事。とにかく今日は買えて良かった。たぶん、今日のような休日だけに売られているんだろう。
公園はとてもにぎやかだった。陽が射して、風が吹いて、僕としても気分は良かった。それでもどこか居心地が悪い。僕の居所なんてどこにもない感じだ。誰もいない所に一人でいるのならいいが、大勢の中に一人でいるのはつまらない。ベンチで弁当を食べると、梅田のデパートのエッシャー展に寄って帰ってきた。
5月2日 月曜日
原稿を仕上げるメドもついたし、またちょっと出かけた。駅弁の確認のため、山陰線の八鹿駅へ。こないだは大阪城公園であっさり見付かったが、今日はそうもいかないんじゃないだろうか。それでもレイリングを一日楽しめればそれでいい。
弁当の販売確認以前に、店が開いていなかった。羽咋とまるで同じじゃないか。仕方ない、また来るとしよう。休日しか開いていないとしたら、昨日来れば良かったかもしれない。でもそんなのは後から言える事。ただレイリングするだけでも、気分転換にはなった。
昼は福知山で駅弁を買って食べた。重そうな箱を肩から下げ、昔ながらのスタイルでおじさんは弁当を売っているが、気ぜわしく階段を駆け降りる人達は、ただの一人も立ち止まらない。そんな様子をしばらく眺めていたが、寂しい光景だ。この駅は多くの引き込み線が今も残っているが、駅構内が広いためにさびれた印象はかえって強い。
5月7日 土曜日
夜が明けきらないうちに神戸を発った。それでも今日は青森までで終わりだ。途中まで、駅弁の確認などをしながら鈍行で北上してきたが、今は特急「白鳥」に乗り込んでいる。それでも青森まであと8時間。今やっと直江津だ。退屈なので、手紙を書いたりしている。
5月8日 日曜日
退屈なくらいに何もない一日だったのに、昨日は最後にトラブルがあった。夜行に乗って検札があって、その時になって初めて、うっかり急行券を函館までしか買っていなかった事に気付いた。北海道の車掌に替わるのを待って乗り越しの精算をしたが、満席状態だから函館からは自由席へと、さもその席がふさがるような事を言う。そのくせ確認を求めると、指定席の販売状況をなぜか把握していない様子。はっきりしないまま、僕は開き直ってせめて函館までゆっくりしようと眠り込んだ。
結局、函館からは誰も乗り込んで来なかった。席がふさがるというのは車掌の勝手な憶測だったようで、すぐまた眠り込んだ。
今の季節、北海道の夜明けはとても早い。考えてみれば、5月の北海道を目にするのは今日が初めてだ。
7月14日 木曜日
急行や特急を乗り継いできたが、盛岡からはようやく僕の好きな鈍行だ。解放感からブラインドを上げ、窓を開けた。ところがじきに、「冷房中なので窓はお閉め下さい」と注意されてしまった。仕方ない。ひとの中にいる時には、全て自分の思い通りとはいかないものだ。
またね、どうも、と言って、となりのにぎやかな男の子が降りていった。あんな子と乗り合わせるのも旅の楽しみの一つだ。でも、「またね」とは言っても、また会う事など決してないだろう。僕にとって、子どもはこんなふうに一瞬すれ違うだけの存在でしかない。
南に向かうにつれ、どんどん暑くなる。福島辺りでもすごい熱気だ。そんな中を僕は、例の大荷物をぶら下げて駆け回っている。ここからまた寄り道だ。それにしてもこの袋、「ほっかいどう」なんて大きく書かれていて、嬉しいくらいに人目を引く。米沢で予約していた駅弁を受け取った時も、店のおばさんを驚かせてしまった。いっその事、モンゴルまで持って行こうか。
8月9日 火曜日
特急白鳥は、大阪駅を10時10分に出発した。そして今も走り続けている。青森到着は22時47分だ。12時間37分。昼間の特急としては、たぶんこれが最長だろう。こんな列車に乗っていると、日本は狭いとつくづく思う。わずか半日走る間に、外の景色は刻々とめまぐるしく移り変わるのだから。乗客達もまた、めまぐるしく入れ替わる。
その一方で、僕自身には何の変化もない。なんの出来事も起こらない。これでもう、僕の旅はすっかり終わったのだろう。それならせめて、今の間だけでもゆっくりしていよう。アパートに帰ればまた忙しいのだから。