レイリング日記95
1月15日 日曜日
6時過ぎには目が覚めた。トイレと洗面をすませて個室に戻ると、間もなく放送が流れた。みなが起き出し混み合う前に、身支度を整える。旅慣れればこんな事も出来るようになる。
上野駅に着き、まずは新宿駅に寄った。駅構内の例の店で、小淵沢の駅弁を購入。ここでは東海道線と中央線沿線の各駅の駅弁が手に入り、また上野駅でも北陸の駅弁が手に入る。首都圏というのはやはり便利だ。
新宿ではもう一つ得るものがあった。永田萠展が開催中、明日はサイン会との情報を得たので、明日はこっちに行くとしよう。マグリット展は後回しだ。
続いて秋葉原に買い物に寄った。捜し物の多くは見付からなかったが、一つ思わぬ掘り出し物もあった。腕時計のバンドに付けるコンパス。サイズは合わなかったが、バンドを削って無理に取り付けた。意外にも、元から付属していたように似合っている。
最後に、藤沢の従兄弟の所へ来た。ルリちゃんに会うために。
ベランダに出ると、ここからは薄暮の中に富士山が大きく見える。富士が陽に染まったり陰ったりするのを、眺め暮らすのもいいだろう。日本の中にも、住んでみたい場所はまだまだある。でもとりあえず、今目指すのはモンゴルだ。
1月17日 火曜日
テレビニュースで目が覚めた。地震による神戸の被害を伝えている。予定を変え、神戸へ行く事にした。連絡がつかないのでは、直接行ってみるほかない。旭川のバイト先へは、帰りが遅れる旨をハガキに書いて投函した。電話番号は知らないので。
今13時42分。こだまはようやく浜名湖を過ぎた。あの地震で近畿圏の交通はマヒ状態。新幹線も名古屋まで、こだまのみ1時間おきの運転となっている。在来線も大垣止まり。飛行機は飛んでいるが、20時半の便まで空きがなかった。
僕はまず浜松町へ寄り、品川から東海道線に乗り換え、さらに熱海からこだまに乗り換えた。どの手段で行くのか決めかねて、結局こんなに遅れてしまった。それでもじきに名古屋に着く。そこから先は、もう普通列車で行くほかない。
全日空が臨時便を運行するとのニュースが今入った。遅すぎる。僕は今、近鉄が動いていたのでその特急に乗り換え、さらに西に向かっている。やはりひどい混雑で、その上ニコチン中毒用の車両に押し込められてしまった。全席指定で座れたとはいえ、かなりきつい状況だ。また、ラジオで聞くニュースにも、苦しくなる。
死者数百人、負傷者数千人、ニュースを聞き情報が分かるにつれ、僕は楽天的に考えすぎていた事を思い知った。今日ばかりは、僕の楽天主義も通用しそうにない。
死者はついに千人を超えてしまった。以降は列車が地下に入り、ニュースは聞こえない。
難波から梅田へ向かう前に、千葉の父さんに電話を入れてみた。すると、神戸とは電話連絡がついたという。家の被害は軽く、二人とも無事らしい。もう行く理由もなくなったから、今から宿でも探して明日帰って来いなどと、父さんはのん気な事を言い出す。気が抜けた。
乗り込んだ地下鉄は今、停電で立往生している。梅田から先も、列車は全て不通という。これでは父さんの言う通りになりそうだ。今日一日、いったい僕は何をしていたんだろう。家族の中で、僕が一番の被害者のようだ。でも自分一人の問題なら、いつも通りの楽天主義でいられる。何があってもなんとか出来る。
なんとか梅田まで来たが、やはりこれ以上は進めない。列車はもちろん不通。バスもなく、タクシーも来ない。仕方ないのでホテルを探しにかかったが、それも空きが見付からない。とりあえず今夜は、自分の宿を見付ける事が問題だ。かろうじて徐行運転を開始した阪急で、京都まで戻ってみよう。
駅案内所の助けをかりて、なんとかホテルは見付かった。部屋にバスもトイレもない安宿だが、今はそんな事は問題にならない。それよりも、テレビで見るニュースに息が詰まる。ラジオで音声を聞いていただけでは分からなかった。僕の生きている間に、こんな大災害が身近に起こるなんて……。
そのごく一部を、僕もじかにこの目で見ている。大阪駅は建物があちこちひび割れ、外を救急車が走り回っていた。京都でも一部のビルの窓が割れ、この部屋でも壁の額が大きく傾いている。
1月18日 水曜日
この十数年の間に、神戸の街並みが少しずつ姿を変える事に、僕はなんとなく寂しい思いを抱いていた。そして今回、その街が一瞬にして崩れてしまった事が、ひどく苦しく感じる。自分でも意外なほどに。
今回の事で気が付いた。僕は何物にもたいした未練を残さず、あっさり振り捨ててどこへでも行けるように思っていた。けれどもやはり、僕の一部は今も神戸にあるらしい。
発車のベルが鳴っている。僕は上りのこだまに乗り込んでいる。今から藤沢まで戻るつもりだ。列車はJR私鉄共に復旧のメドも立たず、道路も緊急車両優先という。これ以上はどうする事も出来ない。引き返すしかないだろう。旅の無意味さに、むなしい思いだ。後先を考えず飛び出すのは、やはり間違いだったのだろうか。
とにかくもう戻ろう。そして明日はマグリット展に行き、あさって旭川に帰るとしよう。今さらマグリットとはしゃぐ気にはなれないが、本来の目的を果たさなければ、それこそこの旅は無意味になってしまう。
藤沢まで帰って来た。電話はもうムリかと思ったが、意外にもすぐつなかった。今度はおばあちゃんが出た。おじいちゃんとは京都からの電話で話している。
そうなると、今度はよその事が気にかかる。泉台は被害の程度は軽いと分かっていたが、ジュンの家へ電話してみた。ジュンはいなくて、出たのは妹の方。なんだかドギマギしてしまい、ろくに様子をたずねられなかった。ただ大丈夫という事は聞いたから、まあそれでいいだろう。
1月20日 金曜日
宇都宮までは、在来線を利用している。さっき大宮で、来る時乗った北斗星2号とすれ違った。あの日がはるか以前の事に思える。あまりにいろいろな事がありすぎた。
新幹線、在来特急を乗り継いで、今は函館行きの快速に乗りトンネルをくぐっている。ここを抜ければ北海道だ。とはいえ旭川に着くのは明日の午前1時。まだまだ帰路は長い。
3月22日 水曜日
出発の朝は冬。新雪が降り積もり、白く静まる結晶樹林の続く中を列車は走った。
峠を抜け十勝平野へ降りると、まぶしい陽光が戻った。降る雪も途切れがちになる。それでも、冬が去ったようには思えない。海の色はまだ重く、窓も細めにしか開けられない。北海道が春に満たされるには、もうあとひと月はかかるだろうか。
新得で駅弁を買った。これで、北海道内すべての販売駅で駅弁を購入した事になる。置戸駅の販売中止は残念だが、それだけが目当てではないし、ほかの楽しみに目を向けよう。海はいまだ冬めいた様相だが、波の荒さが今はかえって快い。海もこれが見納めだろう。今回旅に出た一番の動機は、最後に北海道を見ておきたいという思いだ。
釧路もまた雪の中。次の列車まで90分ある。弟への荷物を早く送ってしまおうと、郵便局を探しに街へ出た。荷物はこの前頼まれた、北海道限定販売の夕張メロンポッキー。サリン騒動で心配していた時に、お菓子を送ってくれとはのん気なやつだ。
根室へ向かう列車の窓には、ひたすら白い原野が続いて見える。やがてそれは徐々に青い闇に沈み、今は明かりの一つも見えない。この先に町があるとは、信じられない思いがする。
3月23日 木曜日
せっかく根室まで来たのだからと、納沙布岬まで行ってみる事にした。朝早くからバスは出ているし、それに厚床に駅弁はありそうもないので。昨夜5分停車で駅をちょっとのぞいたが、標茶線がなくなった今は、キオスクがあるだけの小さな駅になっている。予定では今日寄るつもりでいたが、岬へ行く方が面白そうだ。
まだ季節も早く、そして早朝という事もあり、観光客の姿はまったく見られない。歩き回るうちこごえてきたので展望タワーへ入場する。タワーも貸し切り状態だった。
ここで思いがけない物を見た。壁に貼られた近郊の名物紹介の記事に、なんと厚床のほたて弁当が載っている。駅での販売はやめてしまっても、店にはまだ残っているらしい。すぐに行ってみる事にした。
気は急くが、田舎のバスはのんびり走る。乗り降りする人達もゆっくりと。結局駅への到着は5分遅れ、列車の発車3分前。大慌てで駆け降り、駆け込んだ。
そして厚床駅。ここで一旦降りれば、あとは次の列車までたっぷり2時間もある。僕ものんびりさを見習う余裕を取り戻し、ゆっくりと駅前の店に向かった。ところが……、鍵が掛かっている。休みなのかと僕はまたあせり、メモしていた番号へ電話を入れた。すると、じきに開けるといういたってのんびりした返事。田舎ののんびりさには、やはりかなわない。
とにかく、こうして日本最東端の駅弁、厚床のほたて弁当を手に入れる事が出来た。岬から島影を見るより感動した。ちょうどお昼なので、駅の待合室でさっそく広げる。ここは駅員一人にキオスクのおばさん一人の小さな駅だ。たずねられるまま、この弁当目当てに立ち寄ったと話すと笑われた。僕にとっては重大事なんだけど。これで本当に、北海道の販売駅すべてで駅弁が買えた。
釧路に戻ると今日も雪。発つ頃には晴れたが、やがて日が暮れた。夕暮れは、海の色からまず進む。白くくだける波も闇に沈んだ。ほかの乗客達は近郊でどんどん降りていき、またもや僕一人の貸し切りだ。
3月24日 金曜日
駅のホテルに泊まった。目を覚まし、明るくなった窓の外をあらためて見渡すと、駅の高架工事が早朝から進められている。やがて駅ビルも立て替えられ、このホテルも一変するのだろう。
今日は18切符は使用しない。JRを利用する区間は少ないので。今日の行程のほとんどは、第3セクターのちほく高原鉄道だ。
帯広で切符を買った。JRと他社線とにまたがるにもかかわらず、ここから北見まで通しで切符が買えるのは少々意外だった。こんな調子で、18切符もそのまま使えるともっといいのだけれど。それはともかく、札幌の地下鉄や函館の路面電車の一部を除けば、北海道の鉄道未踏破路線はここだけだ。初めての線路を走るワクワクが、ひさしぶりによみがえってくる。
やがて景色は山がちになり、それにつれて雪も深くなる。線路に沿って流れる川も、次第に早く細くなり、ついには雪の下に消えた。やがて、今度はオホーツクの目指す流れが雪の間から始まった。
置戸駅を過ぎた。こないだ電話でたずねて駅弁廃止はもう知っていたので、シャッターの降りる店を見てもそう落胆はなかった。それよりも、北海道内鉄道全線踏破、その事がまず嬉しかった。
昼過ぎには北見に着いた。ちょっと時間つぶしをし、網走行きに乗り継ぐ。15時前には網走に着いてしまった。ロッカーに荷物を置き、しばらく散歩する事にした。
向かったのはもちろん海岸。海風には氷点下の鋭さがあるが、それでも漁港は春だった。流氷の去った岸壁には漁船が並び、活気が感じられる。岸壁沿いに歩いてゆくと、ちょうど観光船が汽笛を鳴らし出港して行った。
ついでにターミナルまで行ってみた。すると掃除をしている。さっきの船が最後らしい。それなら明日、朝一番に乗りに来よう。案内など読むうち乗ってみたくなった。ロッカーの荷物を取りに行くついでに、バスの時刻も確かめた。なんだか今回の旅は、思いがけない予定変更ばかりだ。
3月25日 土曜日
シーズンも終わりにしては、乗船客は意外に多かった。観光バスで乗りつけた団体がほとんどだ。納沙布岬での貸し切り状態を思えば、こんなふうにニギヤカなのもいい。砕氷観光船は2隻あるが、乗り込んだのは緑色の新しい方だ。ひさしぶりの船という事もあり、なんだかうかれてしまい出港前からデッキを行ったり来たりした。
海明けしたはずの網走の海に、これほどの流氷が残っているとは意外だった。船は氷塊を避けようともせず、平然と乗り上げては砕きにかかる。氷塊はひび割れ、沈み込み、立ち上がる。時には裏返り、底部の茶色い藻を陽にさらす。鋭利な断面には、積層の縞模様が鮮やかだ。また、静まる氷塊も絵になっている。海面下の氷は青く、影も冷たく緑がかって見えた。
1時間で網走港へ戻ってきた。短時間でも思っていた以上に楽しめたし、満足だ。これで、北海道の海に思い残す事は何もない。最後に船内をちょっと見て回った。そのせいで、下船は一番最後になった。
網走駅を発ったのは12時2分。ずい分ゆっくりな出発になったが、あとはもうアパートに戻るだけだ。のんびりと退屈な帰途についた。
常紋峠を越えると外はまた雪。遠軽もかなり降っている。立ち寄る町はどうしてどこも雪なのだろう。もう出歩く気にもなれず、次の列車までの1時間半を駅待合室で過ごした。完全禁煙とは、北海道にしてはしっかりしている。
対して列車内の方は、あい変わらずの無法地帯。この4日間の旅で、いったい何人の喫煙者に注意しただろう。もういいかげんにくたびれた。まあ救いなのは、誰もが意外と素直な事だ。なら最初から禁煙を守ってもいいのにと思うが。
3月28日 火曜日
今朝もまた新雪が積もっていた。旅に出る朝はいつも冬だ。
札幌へ向かう鈍行列車が、なんだかやたらと速く感じる。そういえば、あの旅では4日間ディーゼルカーばかりに乗っていた。電車に乗るのはひさしぶりだ。
苫小牧から先は、日高線に入ってまたディーゼルカー。終着駅まで行くと帰りが遅くなるので、途中で引き返した。
名も知らぬ駅で降り、下り列車を見送って、そのまま上り列車を待つ。一緒に降りた少年は、牧場のトラックで帰って行った。人気がなくなると風はなお冷たい。それでも陽射しは明るいし、ヒバリの声も絶え間ない。きっと旭川でも、ひと夜の淡雪などすぐに溶けてしまっただろう。
苫小牧まで戻り、あらためて時刻表を開いてみる。どうせ札幌でしばらく待つ事になるので、空港へ寄り道した。
きれいな建物に、よそ行きの人達。散歩の途中の僕は場違いだが、それもまた愉快だ。どこにでも入って行ける身軽さこそが、散歩の楽しいところ。ショッピングモールを歩き回り、弁当類を物色する。ただ、いくら駅が隣接するとはいえ、空港で売られる弁当まで駅弁と呼べるかどうかは疑問だ。結局、駅のホームで一つだけ買った。もっとも自分のコレクションなのだから、駅弁の定義付けは自分の判断次第だが。
3月30日 木曜日
最後の18切符で、北海道最後のレイリング。おとといは南へ向かったので今日は北へ向かった。やはり雪がまだ深い。
音威子府には9時前に着いた。そば屋も何かの展示室もまだ閉まっていて、小さな駅はひっそり静まっている。まずは付近を散歩してみる事にした。
町へ出てもやはり何もない。少し歩けば町をはずれてしまい、あとは雪原が広がるばかり。にぎやかなのは選挙カーだけだ。それでも一つ面白い物を見付けた。ある牧場の牛舎の屋根に風見が立っていたが、それは鶏ではなくて牛だった。
駅前の商店の古びた看板に、小さく駅弁の文字が残っている。当然ないものとあきらめながらも、一応たずねてみようと寄ってみた。奥から出て来たおばさんは、やはり今は売っていないという。そうと確認出来ただけでも来たかいはあったと、僕はあきらめをつけ店を出かける。ところが、おばさんは続けてこう言った。「ラベルなら分けてあげますけど」。慌てて「ぜひください!」とお願いした。
おばさんは目の前でクラフトの包みを破り、黄色いボール紙のパッケージを取り出してくれた。続いて2階に上がり、古い掛け紙まで持ってきてくれた。こんな親切を受けるなんて。消えた駅弁の包装紙が手に入るとは、今も信じられないくらいだ。それにしても、商売人は時としておそろしい。何も話さないのに、こちらの心を見抜いてしまうのだから。
駅に戻ったのは10時過ぎ。1時間はつぶせたが、それでもまだ3時間ある。まあ僕は、いくら時間があっても退屈はしない。特にこんなうかれ気分の時は。廃止された天北線の資料室を見学したりして過ごした。
のんびりは僕ばかりじゃない。昼になるとキオスクも一旦閉まりそば屋もいなくなった。ここはまるでモンゴルか南欧のようだ。
店の人が戻ったので、そばを食べた。駅のそばを食べるなんて、生まれて初めてだ。いつもは駅弁ばかり食べているので。今日は包装紙だけで充分満足したが、それで満腹するには到らない。
名寄でまた列車待ちの時間がある。地図で図書館を見付けて行ってみたが、休みだった。結局また町を歩き回るだけの時間つぶしになった。
深名線の車両は、昔ながらのクリームと朱のカラーリング。乗り込むと床は木だった。「国鉄」を思い出す。そういえば音威子府でもらった古い包装紙も、「いい日旅立ち」と書かれていて懐かしかった。遠くへ来たという実感が、今日はいつもとは違った形で湧き起こる。
流れ出す車窓の風景。雪はまだ深い。湖も凍り付き、見えるのは白い雪原ばかり。やがて暮色のかげりの中で、雪は次第に青く沈む。春のきざしなど、ここにはまったく見られない。やがて廃止となるこの線は、この季節のこの時のまま、とどまり続けるような気がする。
5月9日 火曜日
目を覚ますと、車窓には朝霧立ちのぼる大沼が広がっていた。やがて陽は高く昇り、快晴の一日が始まった。北海道の空は、去る日もまた明るい。
とはいえ去るにはまだ間がある。函館では2時間の待ち合わせだ。ベンチに座ってのんびり過ごした。滑り出した先発列車からは、団体の小学生達が手を振っている。僕もホームから手を振り返した。今はまだ、見送る立場だ。
僕は海底駅見学のために、1時間後の次の列車に乗り込む。吉岡の方は函館へ折り返すコースしかないのでパスし、竜飛で降りた。
係員の案内で、説明を受けながら団体で歩く。5人と小人数なのと、時間に余裕があるのは救いだが、今さら遠足の真似事をするのはやはり抵抗がある。そういえば、僕は遠足というとよくはぐれていた。だが待っすぐ進むしかないトンネルでなら、はぐれようもないだろう。最後に自由時間があったので、記念に海面下140メートルで駅弁を食べた。
青森から、奥羽線を経由して秋田へ。そして羽越線へ入って新潟へ。何年ぶりになるだろう、この線を走るのは。秋田では見知らぬ駅弁を売っていた。
5月10日 水曜日
新潟のホテルで一泊した。今朝一番の列車は、新潟発長野行の急行。快晴の空の下の穏やかな日本海を眺めてから、高田で途中下車した。
2年程度でそう変わるはずはないが、それでも見知らぬビルがいくつかある。以前住んでいたアパートは、まるっきり変わらぬまま名前だけが変わっていた。「末広荘」が「コーポ末広」に。
もっとも変わったのは図書館だ。高田公園の中に、きれいで広くてなんでもそろった図書館が新築されていた。計画はだけは知っており、引っ越しの時にはその事だけが心残りだった。
ゆっくりしすぎてしまったようだ。駅へ戻ると予定の列車は出た後で、次の特急に乗った。すると途中で普通列車を追い抜き、当初の予定よりかえって早まってしまった。もっとも、早ければいいというものでもないが。新幹線の建設もかなり進み、この路線もじきつまらないものになるだろう。
弟のアパートに着いた。僕がマックをいじったりビデオを見たりしている間、弟にはじつにいろいろな友人から電話がかかる。やはりモンゴルの話になったらしく、そういった事なら本人にと、弟は僕に受話器をよこす。電話はダメ初対面の相手はダメ女性はダメの三重苦の僕に……。
駅弁は明日の朝食に残しておき、夕食は外に食べに行った。なんだか最近、いろんな所でいろんな物を食べている。
5月11日 木曜日
昨夜はこたつで寝た。床の上で、クッションを枕にして。最近いろんな所で眠っているが、昨夜が一番長く感じた。
今日は藤沢まで行くだけだ。時間もたっぷりある事だし、秋葉原に寄り欲しかったCDを買った。そしてしばらく時間つぶし。弟に聞いたマック館をのぞいてみた。
のんびりやって来ても、15時前には着いてしまった。さっそくルリちゃんと対面。見慣れない相手に不思議そうな顔はするものの、泣かれないだけ良かった。僕の方も、前のようにこわがってばかりはいられない。抱き上げてあやしたり、ミルクをあげたりといろいろ挑戦してみた。
5月13日 土曜日
大雨は過ぎ去った。今朝の空は快晴、西に白い富士がくっきり見える。今日の目的地は、その富士のふもとだ。
その前に、まず朝のひと仕事。ルリちゃんにミルクをあげた。ルリちゃんは今日で7か月。次に会うのはいつになるだろう。抱き上げた時、ルリちゃんは僕のあごをつかんだり鼻をつまんだりする。そんないたずらをしなくなってしまう前にまた会いたい。
さて、今日の目的地の静岡へ。草薙駅に予定通りの時間に降りたが、アヤコさんは見当たらない。というのは僕の思い違いで、後ろから不意に声をかけられた。モンゴル以来お決まりの帽子ですぐに僕だと分かったとか。アヤコさんの方は、髪にウェーブ、メガネもなしで、まるっきり分からなかった。
今日は一人じゃないというのに、いつもの習慣はどうしても抜けきらない。駅のそば屋に弁当を確かめに寄った。あっさり弁当が見付かったのも意外だが、店のおばさんとアヤコさんが顔見知りだったのも思いがけなく、また気恥ずかしかった。
公園は広々していて明るく、人が多いわりには落ち着けて、良い所だった。陽射しは強いが風が心地良い。見晴らしの良いベンチに座り、ゆっくりおしゃべりを楽しんだ。
公園内には、図書館もあれば美術館もある。屋外にも彫刻が点在しているが、館内にはロダンの彫刻がそろっているというので、入ってみる事にした。美術鑑賞の後は、近くの喫茶店に寄りケーキと紅茶。もうすっかりデート気分だ。
まあそんな気取りはここまでで、次におすすめのお好み焼き屋に行ってみた。店のおばさんはやはり顔見知りだそうで、とても気さくで愉快な人だ。僕もお好み焼きが焼けるまでの間にすっかりうちとけてしまい、ついはめをはずしてはしゃいでしまった。
楽しかった。もう最高に。僕は友人は少ないが、その分良い人ばかりにめぐまれていると思う。アヤコさんとは駅で握手をして別れた。この先いつまた会えるか分からないが、手紙の上では今まで通り友達でいられるだろう。
すっかり遅くなったので新幹線に乗った。車内から名古屋の弟に電話を入れるつもりでいたが、昨日の育児疲れのためか、今日のデート疲れのためか、すぐに寝入ってしまった。気付けばもう名古屋。ホームから慌てて電話をすると、弟はまだ帰っていない。急ぐ必要もなかったようだ。
アパートに着く頃には、弟も帰っていた。着くなりすぐに食事に出た。いろんな所で、いろんな人と、いろんな物を食べたもんだ。だがそれも今夜が最後。明日はいよいよ、神戸に到着する。
5月14日 日曜日
寝坊のはずの弟も、9時過ぎには起きた。思ったより早く出発出来て、ゆっくり寄り道も出来そうだ。
切符は名古屋までしか買っていない。JRはここまでで、あとは近鉄で行くつもりだったから。時間があるので鳥羽へ寄り、ついでに賢島まで足をのばした。駅弁は手に入ったし、さあ、これで神戸に向かおう。でも……。
はっきりしない気詰まりのようなものが、どこかに重く固まっている。もう寄り道で到着を先のばしするつもりはないが、急いで向かう気にもなれない。鶴橋からまたJRに乗り換えた。大阪から先、私鉄はまだ復旧していない。
ビニールシートの屋根、瓦礫の山、列車で走り過ぎる瞬間にも、それらは数多く目に焼き付く。復旧の進む建物がある一方で、未だに傾いたまま放置されているビルもある。三宮で列車を降りた。駅周辺の様子を確かめたい気もしたが、すぐ地下鉄に乗り込んだ。
家に着いた。風呂に入り、夕食を食べ……、いつもの事であっても、同じ神戸にいるとなると、ぜいたくなようでひけ目に思える。
6月21日 水曜日
何事もなくすべて順調にいくとは思っていなかったが、まさか出発早々に失敗をしでかすとは。最初の電車で、母さんに持たされた藤沢へのおみやげを置き忘れた。網棚に置き去りのマンジュウの包み、サリンと間違えられなければいいけれど。
三田から福知山線を北上する。今日新発売の、ウシが鳴く駅弁を買うため、山陰線の和田山まで行くつもりだ。弁当屋にはあらかじめ、電話で予約を入れてある。
ところが、福知山でふとホームのワゴンを見ると、そのウシが鳴く駅弁を売っている。まさかここまで出張しているとは。二つ買ってもいいだろうと思い、さっそく一つ買ってみた。
ウシを型どったプラ容器を開けると、モーウ、モーウ、モーウ、と鳴き声があがる。笑えるけれど、ウシの抗議の声と思うと食べにくくもある。容器は上げ底で、もうギュウギュウづめ、なんてタイトルを考え合わせると二度笑える。それでも味は良かった。
和田山に着き、予約の弁当を受け取った。いくつあってもいい。発売初日となれば貴重だし、発声回路も欲しかった。一つはルリちゃんにあげようか。
折り返し、ここからは新大阪まで特急を利用する。その先は新幹線。駅弁購入の目的は果たしたし、もうゆっくりはしていられない。大阪まで来ると、離着陸する飛行機が目に着く。明日の今頃は僕も機上の人だ。
新幹線の単調さも、書き物をするには好都合。22作の冒頭部分がかなりなめらかに流れてくれた。気付けばもう熱海だ。各駅停車に乗り換え辻堂に向かった。
従兄弟宅に着いた。そこでテレビを見て知ったのだが、国内線でハイジャックがあったという。日本は最後の最後まで物騒だ。
だが僕の方はのん気だ。航空券やホテルの案内なども旅行社から無事ここに届いていたし、ルリちゃんも僕の事を忘れずにいてくれたし、気がかりは何もない。駅弁の鳴くウシを聞かせてあげると、目を丸くしていた。
お寿司をごちそうになり、和室に布団を敷いてもらった。日本はこれで最後だ。
10月8日 日曜日
昨夜成田に降り立ったのは20時。宅配にトランクを預け身軽になった後、地下の駅へ。寝台の切符がとれたので、そのまま帰る事にした。
今朝7時過ぎ大阪着。9時には家に着いた。雨が降り、虫が鳴き、日本はいかにも日本的だ。
10月19日 木曜日
衝動的に旅に出た。鉄道記念日関連の企画切符を手に入れた事、それを利用して九州北部の駅弁未購入駅を回るという目的はあるものの、最大の動機はどこかへ行きたいという衝動だ。あるいは、独りになりたいという欲求か。
日暮れの頃、山陽線の西端を走り抜けた。モンゴルで8月に見たコスモスが、今再び咲いている。海峡をくぐり、夜の北九州を走った。町明かりはどこまで走っても尽きる事がない。見慣れたはずの風景の中に、あらためて日本を感じた。
10月20日 金曜日
駅弁探索の旅は、衰退の現実ばかりが目に付いて、いつも気が重くなる。昨日も岩国で途中下車したところ、錦水軒の売り場はなくなっていた。今日も早岐まで行き、やはり西海軒が消えているのを知った。
昼過ぎには引き返しにかかった。上り列車にはイギリス人が乗っていた。ある人が彼女に英語で話しかけ、そういえば、周囲の人達がみな日本語を話している事にその時あらためて気付いた。当然の事だが、僕はここでは外国人ではなかった。
10月21日 土曜日
まず宇土に駅弁の確認に行ったが、やはりなくなっていた。続いて南阿蘇鉄道へ。阿蘇白川に地元起こしの駅弁誕生と以前テレビで見た憶えがあるが、それもすでに見当たらなかった。
この駅で40分もの待ち時間がある。いつものように散歩で時間をつぶす事にした。そして見付けたのが白川水源という湧水池。光が揺らめく中、砂が踊っていた。ここまで来たのもまったくの無駄足ではなかった。
最後に戸畑で途中下車した。ところが売店に弁当の文字はあるものの、置いてはいないそうだ。ホームからただ夕日を眺めてから、次の列車に乗った。
遅くなってしまったので、徳山から新幹線に乗り換えた。ひさしぶりに乗る新幹線はあまりに速く、外が見えなければ走っているのか飛んでいるのか分からない。内装も飛行機めいて、乗客も遠距離移動者ばかりで、まったく面白くない列車だ。ただ、丸い先頭の古い車両は懐かしかった。九州では無骨なデザインの新型車両ばかりを目にしていたから。
翌年の日記へ