レイリング日記96
3月2日 土曜日
広島まで山陽線を戻り、そこから芸備線へ入った。昨日は海沿いを走ったので、今日は三次、備後落合、新見と山間部を抜ける計画を立てた。今は懐かしいディーゼルカーに揺られている。山あいの景色も、すっかり春めいている。窓から吹き込む風も心地良い。
昼を過ぎて下校する学生達の姿が絶えると、続いてハイカー達の姿が目に付きはじめる。やはり山間部の路線ならではだ。大きなバックパックのせいで、僕も何度かたずねられた。どこの山に登るのかと。駅では忘れ物のピッケルの持ち主に間違えられた。
備後落合を過ぎる辺りから、残雪が目に付くようになった。が、進む雪解けもまた春らしい情景だ。分水嶺を越え、新たな川がまさにここから流れ出す。
この路線を走るのは大学生の頃以来になるが、どの駅も変わってしまった。駅弁の衰退はここに限った事ではないが。それでも、今日は広島で掘り出し物があったから満足だ。さて、今夜の宿を決めた岡山まで、あともうひと列車。
3月3日 日曜日
日曜の早朝、人気のない列車でまず津山まで来た。そこから先、接続列車は当分ない。まだ寝静まっているような町をぶらついて時間をつぶした。小さな本屋が開いていた。まだ掃除中だったが、ほかに行くあてもないし入ってみる。気を引かれた文庫本を手に取ると、ブレーカーでも落ちたのか突然の停電。その本を買ってすぐ店を出た。
時間のあるうちに、今夜の何時頃に帰るか知らせておこうと、神戸の家に電話した。すると、昨夜ジュンから電話があったとか。普段ちっとも連絡をよこさないと思ったら、不在時にかぎってこれだ。
当分鈍行はないので、一部急行を利用する事にした。それでも津山で1時間以上も待ったが、さっき買った本で退屈はしない。読んでいたのは妹尾河童の本。ホテルの部屋や列車内の様子が緻密に描かれている。僕もそのうちに、モンゴルについてこのような本を記せるといいが。この人のような好奇心と観察眼とによって。急行に乗り込んでからも本に読みふけり、気付けば列車は雪深い山中に分け入っていた。
智頭からまた鈍行に乗り換える。早めの弁当を食べるうち、外の雪はまた急速に消え去っていた。
今は日本海を車窓に見ながら走っている。岩場に砕ける波頭が、白く勢いよく鮮やかに広がる。が、海と空の青さはまぎれもない春のきざしだ。
城崎で一時混み合ったが、和田山でほとんど降りてしまった。日曜日だというのに、どの列車も静かなものだ。僕は今朝最初の列車からずっと、大きなバックパックをとなりに座らせている。
鳥取、城崎、福知山、乗り換えで駅へ降りるたびジュンに電話を入れてみた。ところが、いつまでたっても留守番電話。両方で留守にしていれば世話はない。ようやく連絡がついたのは、北鈴蘭台まで戻ってからだった。
6月28日 金曜日
空港へ向かう快速に乗り、運転席越しにずっと前を見ている。この列車は記念すべきものになるだろう。関西空港への新路線を通れば、JR全線踏破という事になる。次はいよいよ外国路線だ。でもまだそれは、明日の話。
列車を降りるなり、いつもの習慣で弁当を買い込んだ。鉄道全線を踏破したし、駅弁も買ったし、今日はもうこれで満足だ。あとはトラブルなしに北京に着ければそれでいい。
北京までの所要時間がいやに長いと思っていたら、飛行機は上海を経由するという。しかもここで一度降り、入国手続きをすませるとか。制限時間は一時間。忙しい寄り道だ。
列が長くなる前に素早く並んだ。だが入国カードを書き忘れて追い返され、結局最後尾に。手続きが終わればすぐに搭乗で、上海に降りた実感など何もない。
いや、少なくとも遠くまで来たという実感だけは高まった。もう一度機内食を食べた事で。上海から積み込まれた食事は、初めて食べる洋風メニューだ。パンにチキンにクラッカー。デザートはキャンディ。
関空離陸は30分遅れだったが、上海で調整したのか、北京へは定刻の着陸。それでももう暮色は深く、遠く近く街明かりがかすんで広がる。こういった物寂しさの中にこそ、旅情というものは感じられる。
あらかじめ頼んでいた現地の旅行社の人の案内で、ホテルへ着いた。去年とくらべてあまりに楽なので、うしろめたいような気さえする。部屋も僕にはもったいない豪華さで、落ち着かない気分だ。
6月29日 土曜日
ガイドの人の送迎で、予定通り6時にホテルを発った。これだけで、もう今日の予定はすべてうまく片付くような気がした。
巨大な駅舎は見上げるとかすんで見えた。中も広い。だが待合室は人と荷物でごった返し、きゅうくつだ。そこでひさしぶりに耳にするモンゴル語。やはり買い出し客が多い。一人あたり何キロかで制限される荷物を、安い運賃でかせごうというつもりか、子どもの姿も多かった。
一等車の客にまで制限があるとは初耳だ。47キロの荷物に2500元払えという。人民元の手持ちはない、ドル払いならいくらかと、言葉が解らないので手帳で書きながら交渉した。40ドル。仕方なく財布を出すと、係官は100ドルと書き換える。時間は迫るし、切符を握られていては勝ち目もなく、素直に支払うしかなかった。
列車に乗り込めたのは発車15分前。たとえトラブルがあっても、解決さえすればそれもまた楽しみだ。それに落ち着いて計算すれば、2500元は300ドル以上にもなると分かった。僕は機嫌を直し、動き出した列車の窓に缶ジュースで乾杯した。
軟臥と呼ばれる一等寝台はすいている。西洋人観光客が何人かいるだけで、僕は2人部屋を独占出来た。客車は旧ソ連製の、モンゴル所有の物。車掌は2人とも女性で、モンゴル人だ。言葉が通じると思うとほっとする。安心して、とりあえず朝食にした。昨日空港駅で買った寿司を。外国列車の旅でも、やはりまずは駅弁を食べたい。
ゆっくりできるのが汽車旅のいいところ。移り変わる車窓の風景を眺めながら、泉台の子ども達に向けてのレポートを書いている。すでにいろいろあったから、ネタには事欠かない。車窓にもまたいろいろなものが見える。北京市街を周回し、突然山越えにかかり、万里の長城を仰ぐ。ディーゼルに代わり、電気機関車とすれ違うようになる。再び畑が広がり、だが緑は薄く土ほこりが舞う。さっき止まった張家口チャンチャコウでは、ポプラの綿毛が舞っていた。停車駅が少なく、また停車時間も短いのは残念だ。次の大同タートン停車はもう午後になる。
駅弁購入はあきらめて、食堂車に食事に行った。客の顔ぶれはやはり、欧米人の旅行者がメイン。その人達がみなハシを使いこなすのを見て、感心してしまった。中国にいる間は中国メニューだ。モンゴルに入れば、車両ごとチェンジしてモンゴル料理になる。つまりナイフやスプーンに。今のうちに食堂車へ来てみた事で、興味深いものが見られた。
大同でも駅弁はなかった。食の中国も寂しいものだ。あとやる事は一つしかない。レポートを書くために、列車の編成を調べて回った。さすが特快、すべて寝台車だった。
車窓の風景には劇的な変化があった。内モンゴル自治区、ここはもうモンゴルの風景そのままだ。通過する駅名票にも、モンゴル文字が併記されている。北京から10時間ほどでこれほどの変化を見せるとは。だが、それで大陸も狭いというようには思えない。ただ多様さを感じさせられる。
いよいよゴビにさしかかった。影は長く伸びているが、まだ空は明るい。日本はそろそろ夜だろう。短波ラジオを引っぱり出すと、ラジオジャパンがキャッチできた。もちろん、ラジオウランバートルもよく入る。
列車はゴビの真っただ中をつらぬいて進んでいる。周囲は360度の地平線。その向こうに今、太陽が沈んでいった。20時16分。中国での一日の終わり。
国境の二連アルレン駅。すぐに係官が乗り込み、パスポートを預かってどこかへ消えた。自由になって外へ出ると、列車も台車交換のため車庫へと消えた。さあ、何をしてヒマをつぶそうか。
駅は派手だが、見かけ倒しで何もない。その代わり、駅前は買い出しのモンゴル人をあてこんで店が並んでいる。モンゴル語で客引きするなど、中国人の商売熱心さはさすがだ。クッキーとコーラを買い、ホームに座って夕食にした。
台車交換を終えた列車に再び乗り込む。パスポートはすぐに戻った。列車の天井裏や床下まで調べていたが、客の荷物は調べるそぶりもない。出国は意外と簡単にすみそうだ。
国境を越え、わずか20分でザミンウードに到着。だが時差のために日付が変わった。真夜中の入国審査、それだけで気は重い。眠いし疲れたしで、ほんとうに面白くない。まあ、入念な荷物検査などがないだけまだマシだが。昔はフィルムを抜かれたりと大変だったそうだ。
出発した。もう2時だ。さあ寝るぞ。
6月30日 日曜日
すっかり寝坊した。もちろん、それだけ熟睡出来たわけだ。
食事に行くと、ほかの乗客はもっと寝坊だ。僕が食べ終えるまで、誰も来なかった。食堂車が替わり、今日からはモンゴルメニュー。ひさしぶりに食べるホーショールがおいしかった。
チョイルでは停車時間に余裕がある。機関車の写真を撮りに行くと、カメラを構えた途端一人の男にどなられた。不慣れな観光客を装うとそれ以上は何も言わなかったが、うるさいものだ。以前近くにソ連の軍事施設があった事が影響しているのだろうが、それにしても時代錯誤だ。
ついでに駅前まで写真を撮りに行った。広場の像は、これもまたソ連風だった。
この駅を発車した時点で1時間20分の遅れとなっている。このまま行けば、ウランバートル到着は14時40分頃になるだろう。まだしばらくはのんびりできそうだ。
意外と早く町が見え始めた。やはりウランバートルは大都会だ。そんな事よりも、その風景がこれほどまでに懐かしく思えるとは。
到着は1時間遅れだった。迎えの人々は警官の整理で端に寄せられている。その人混みの中に、まずマーガの姿が見えた。そしてサラと、バトエルデネ兄さんも。旅は無事終わった。
デパート裏のアパートではなく、大通りに面したバギー兄さんのアパートへ向かった。去年は改装中だったが、今年はサラのアパートの方が改装中で、みんなこっちに来ているんだとか。バトドルゴルさんが、料理を用意して待っていてくれた。また、広い部屋が僕のために用意してある。ここまでしてもらうと、なんだか悪い気がする。客でなく、家族の一員となる努力をこれからしなくては。
もっとも気がかりだったビザの延長の件は、なんとかしてもらえそうだ。書類までちゃんと用意してくれていた。ただ僕の生年月日が分からず、招聘状を送れなかったらしい。
今日は4年に1度の国家大会議議員選挙の投票日。食事の後みんなで出かけた。僕とマーガは選挙権がないけど、ただ見学しに。投票箱は木で出来ていた。時間をたずねると、やはりモンゴルらしくのんびりで、7時から22時だとか。開票結果が出るにも、長くかかりそうだ。
7月10日 水曜日
とにかく慌ただしかった。言い出すのが急なものだから。それでも切符の購入はサラが引き受けてくれ、僕はその間にレポートを仕上げて日本へ送ってしまう事が出来た。
エルデネト行きの列車がウランバートルを出発するのは、18時20分、もう夕方だ。だがそれまでの時間は慌ただしく過ぎ、列車が動き出して初めて、僕は旅の始まりを実感出来た。
同行するメンバーは、サラにマーガに、そしてサラの友達のナフチャ。僕らの座席は4人部屋の2等車だ。ほかの車両も見に行くと、3等車はやはりすごい混雑だった。人ごみをかきわけながら、すべての車両を見るつもりだったが、途中どうしても開かないドアがあり断念した。
一方最後尾の1等車にも、車掌に制止されて入れなかった。ところがこの車両には、切符が買えなかったはずなのにちゃっかり知人のコネで乗り込んでいたバギー兄さんがいて、彼の口ききで僕も特別に1等車の見学ができた。ここも2等と同様4人部屋だが、内装は豪華でしかも車両は新品だ。それでも窓やドアは固かった。
サラの言うには、あの人気ロックグループ、チンギスハーンがこの列車に乗っているとか。さっそく見に行く事にした。いや、見るだけでなく、席におじゃまして話までする事に。記者の友人というのは本当にありがたい。11日は独立記念日。12時になったのを合図に、みんなで乾杯した。
7月13日 土曜日
昨夜サラとナフチャは、友達の家でうかれ騒いでいたらしい。遅れた理由がそんなくだらない事なら、こちらも気にするのはやめにしよう。まあサラも素直にあやまったし、もう過ぎた事だが。
夕方まで何の予定もないので、また一人で散歩に出た。エルデネトのチケットはどんなだろうと思いバスに乗ったが、去年のウランバートルの使い回しでガッカリだ。ただ面白い事もあった。僕が50トゥグルク払うと車掌がおつりをよこすので、ここは安いなあと思ったら、後で見るとおつりも50トゥグルクあった。100トゥグルクとカン違いしたな。
バスでつい遠くまで来てしまった。降りたのは郊外のバラック密集地。そこを通り抜け、そのまま町を一定の距離に見ながら草原を歩いた。オボーを見付け、得体の知れない立入禁止地区を見付け、大岩の下ではシビレ草まで見付け……。なぜか毎年やってるな、これは。いいかげんこりればいいのに。今年の被害は左手の指を3本。もう帰る事にした。
切符は買えたし、メンバーもそろっているし、今日は無事帰れそうだ。それどころか、時間があるので少し鉱山を見学出来る事になった。本当に少しだけだったが。砕石工程と、比重差による金属質分離の工程の二つ。事前に博物館を見学していたので、よく理解出来た。写真撮影が許可されなかったのは残念だが、これでエルデネトをひと通り知る事が出来たように思う。
列車もまた、ひと通り知る事が出来そうだ。金がないので帰りは3等車。こういう旅を僕はしたかった。暑くてもいい。汚くてもいい。騒がしいのはむしろ楽しい。唯一の外国人はそれだけで目立つし、そのうえこの電子手帳が面白いらしく、子ども達が集まってくる。こういう旅を、僕はしたかった。
7月14日 日曜日
深夜ダルハン駅に着いた。しばらく停車するらしいので降りてみた。特に何もなかったが、この駅に一度は降りたという記念にはなる。
上段のベッドに横になると、汗の流れる暑さにもかまわず寝入ってしまった。夜半に今度は寒くて目が覚めたが、それでも再び寝入っていた。
国内列車のいいかげんさか、列車はホームには着かず離れた線路に停車した。それはまあ面白かったが、早朝の到着はやはりあっけない。
だがその分時間が持てたので、今日はかなり仕事がはかどった。文章を整理し、写真をプリントし、それを原稿に取り込み、レポートはもうすっかり仕上がってしまった。
8月15日 木曜日
台風は過ぎた。予定通り出かけられそうだ。
早めに夕食を食べてから出発した。それが少し早すぎたようだ。臨時列車銀河82号が大阪を発つのは21時半、だがその1時間半前には大阪に着いてしまった。まあいい。早いのはいくら早くても困らないが、遅いのは1分遅くても困るのだから。ひさしぶりの汽車旅だが、その事だけは忘れていない。
8月16日 金曜日
臨時列車は意外とすいていて、寝台でなくても安眠できた。早朝東京に着き、またいつものように日比谷公園で駅弁を朝食に食べた。まるっきりの自分なりの旅。僕は楽しかったが、サラにはちょっときつかっただろうか。
渋谷駅から歩いてモンゴル大使館を捜した。警官に聞いたり道端のおばさんに聞いたりして、なんとかたどり着いた。僕にとっても必要な場所だし、よく憶えておこう。
せっかく東京に来たのだから、弟に連絡して会う約束をした。ちょうど友達同士集まる時とかで、都合が良かった。あとは約束の時間までひまつぶし。以前京都で見たモンゴル秘宝展を、もう一度新宿で見た。
弟とその友達は、あいかわらずの陽気な仲間達だ。初対面の相手ばかりだったが、一緒に焼き肉を食べ、そしてカラオケで騒いだ。結局は終電で帰る羽目になり、ホテルの門限に数分遅れた。
10月14日 月曜日
鉄道記念日のフリー切符でレイリングに出た。今日は山陰へ向かうコース。
山陰線も城崎まで電化されてしまい、あまり面白くはない。ただ今日は、意外な物を目にした。列車にはねられたらしいシカが横たわり、それをカラスがついばんでいた。北海道でも車内からシカをよく見たが、こんな光景を目撃した事はなかった。
山陰線を鳥取まで行き、そこから因美線に入って南下し、津山線をたどって岡山に出た。どこでも乗り換えが慌ただしかったが、ローカル線をのんびりたどるのはひさしぶりだ。執筆の方もはかどった。
10月16日 水曜日
東海道線を東に向かった。途中、岐阜からちょっとわき道にそれて美濃太田に寄ったが、それ以外はずっと幹線を走っている。平日の昼間でも人は多い。ちょうどテスト期間中で、学生達も昼に帰るし。座れない事はないが、落ち着いて書き物に集中する雰囲気ではない。今日はヘッドホンで音楽ばかり聞いている。
浜松まで行って引き返した。とても良い天気で暑いほどだったが、米原まで戻る頃には日が暮れ、風も冷たくなった。細い月がかかっていた。
10月18日 金曜日
フリー切符による最後のレイリングは、西へ向かった。目的地は宮島口。珍しく売店に人がいた。並ぶ弁当の包装紙を見比べながら選んでいると、未使用の包装紙を2枚分けてくれた。やはり収集家が多く訪れるので、そういう時のために用意してくれているのだろう。とにかく行ったかいがあった。
はしゃぐ小さな女の子と母親がとなりの席に来た。その親子連れが降りると、入れ代わりに遠足帰りの小学生の団体が。にぎやかなのは楽しい。ただ、それが過ぎるとなおさら寂しい。いつから僕は、一人旅ばかりするようになったのだろう。
11月11日 月曜日
早朝東京に着いた時の、いつものお決まり。日比谷公園のベンチで、昨夜買った駅弁を朝食にした。
そのまま歩いて新橋へ。あらかじめ出版社の場所を確認しておこうと思ったが、駅前の大きなビルですぐに分かった。まだ8時前、かなり時間があまってしまった。
列車を乗り回していれば、時間はすぐに過ぎる。新橋から総武線で千葉方面に向かい、ふと思い付いて蘇我から京葉線に入り、新木場から有明の新都心を走る新交通システムに乗ってみた。ポートライナーと似たような物だが、ゆりかもめというネーミングはこの地に似つかわしい。最前席に座ると、なかなかいい眺めだった。
八重洲のブックセンターで立ち読みをし、また日比谷公園に行って弁当を食べるうちに時間になったので、出版社に向かった。原稿を持ち込む用事はあっけなく15分で終わったが、直接持ち込んだ事で気がすんだ。
ただ、夜行列車で帰るまで、時間がかなりあまってしまった。なんの連絡もないまま押しかけては悪いかとも思ったが、ルリちゃんにどうしても会いたかったので藤沢の従兄弟宅に行った。ルリちゃんはずいぶん大きくなっていた。僕の事はもちろん憶えていないだろうが、それでもとても楽しく一緒に遊べた。僕はほかの役割は何もできないが、子どもの遊び相手にだけはいつでもなれる。
懐かしの大垣夜行に乗った。ただし今では、前席指定の上品な快速列車だが。車両も新型に変わり、おもむきがなくなってしまった。今となっては、ただ安上がりな事だけが魅力だ。
11月12日 火曜日
静岡停車では目も覚めなかった。以前は真夜中の駅弁購入が楽しみだったものだが。今も販売しているんだろうか。浜松や豊橋でも長時間停車していたようだが、静かなものだった。
うたた寝を続けながら神戸に向かった。だがこのまま真っすぐ帰ってもつまらない。駅弁でも買おうと、京都や大阪で途中下車を繰り返した。
翌年の日記へ