風の記憶 − モンゴルに見た輝き 2 −


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     7月18日 月曜日
 旅に出る時はいつも、しょせんまた同じ場所へ戻るのだという、落胆めいた思いがふとよぎる。行きっきりの旅などそう出来るわけもなく、それはもうどうしようもないのだが。
 今回のツアーは成田発着。わざわざ名古屋まで行った去年を思えば、かなり楽だ。市原の家を出て、2時間後には空港に着いていた。もっとも早ければいいというものでもないが。集合時間はさらに2時間も先だ。本を立ち読みし、南北の見学デッキから眺めを見くらべ、昼食にハンバーガーを食べ、そんな調子で時間をつぶした。
 12時30分集合。集合場所も、そして加わるべき集団も、すぐに分かった。手続きも手際よくすみ、搭乗も時間通りだった。去年を思えば、気味が悪くなるほど順調だ。
 15時30分成田離陸。中国航空北京行きの便は、主翼の先にウイングレットの付いた新型ジャンボ。航空線にも鉄道と同じように、にぎわう幹線やひなびたローカル線もあるのだと実感した。禁煙という事もあって、とても快適だ。悪天候による揺れも、スリリングで面白い。ただ、窓が遠いのは残念。外では時おり雷が光るらしいが、僕の席からは何も見えず、あとはうたた寝くらいしかする事はない。
 19時15分北京着陸(中国には時差があると、この時点ではまだ気付いていない)。着陸の振動に目を覚ますともう空港だった。機内で寝ぼけ頭で書いた入国カード、空欄だらけのお粗末なものだが、とがめられもせずすんなり通れた。中国という国も、思っていたほどやっかいな国ではないようだ。それとも、団体客だからチェックが甘いのだろうか。去年は目前にしながらも降り立てなかったこの国に、僕はようやく足を降ろせた。
 20時15分空港発。バスから眺めるこの国は、やはり見慣れぬ不思議な世界だ。車は右側通行、横断歩道は縞が細くまばらだ。信号は、黄色があっても変わる前には青が点滅する。
 そんな事より、やはりなんといっても自転車があきれるほど多い。また夕涼みをする人達が、道端に座り込み、橋の手すりに列なして寄りかかる。そんな素朴な情景があるかと思えば、近代的な高層ビルが建ち並び、高速道路が伸びていたりもする。町の変化のスピードが感じ取れる。空港から市街地へ続く高速道路は、今となっては幻の、2000年北京オリンピックに向けて造られたそうだ。もしオリンピックが実現していたとしたら、この街はまたどれほどの変化を見せていただろう。
 20時45分ホテル着。部屋割りなどもすんなり片付いた。今のところ、この旅は意外なほど順調に進んでいる。もっとも気がかりだった非喫煙者と同室という希望も、あっさりかなった。
 その同室になった望月さんと、街へ夕食を食べに行く事になった。同行者がいなければ、とても僕一人では無理だろう。なにしろ僕にとっては、国内でさえ外食はまれな事だから。慌ててホテル内で両替を済ませ、そして出かけた。
 同行者がさらにもう二人増えた。前田さんと波さんが、女性だけでは心細いと言うので。ただこの二人、そんな言葉とはうらはらに先へ先へと進んで行く。良さそうな店を見付けたのも彼女達だ。見慣れぬメニューでも、まったく物おじせずに注文する。夜更けの異国の町にとまどいまごついているのは、どうやら僕一人だけらしい。

     7月19日 火曜日
 6時起床。これがさっそくの大失敗だった。7時朝食7時30分出発の予定なので、すぐに望月さんも起こすと、まだ5時だろうと言う。今の今まで知らなかった、中国に時差があったとは……。
 7時50分朝食、8時30分ホテル出発、空港到着は9時15分。これで予定通りのようだ。ただ航空券の数が合わず、今ひとしきりもめている。荷物はすでに行ってしまったが、僕らはいまだ足止め。間に合うんだろうか。まあ救いなのは、今僕の時計では10時30分となっているが、実際はまだ9時30分だという事。あと一時間は余裕がある。
 チケット紛失騒ぎはなんとか収まった。みんなでカウンターを持ち上げまでした努力がむくわれたのか、とにかく飛行機には間に合いそうだ。
 12時北京離陸。予定より30分遅れだった。また僕の席は通路側だが、禁煙というだけでもラッキーと思わなければ。
 13時50分ウランバートル着陸。中国からモンゴルへとやって来ると、ほっとする。人口12億の国から220万の国へ来ると。今朝見た自転車大渋滞の光景を、この国はじきに忘れさせてくれるだろう。サマータイムにより時差がなくなったのも助かる。それからもう一つ、中国の一人っ子政策と、モンゴルの子だくさん奨励との違いも、僕にとっては大きな問題だ。モンゴルでもっとも輝いているのは子ども達の姿だと、今も僕は考えている。
 15時5分空港発、30分ホテル着。懐かしのヌフトホテルへやって来た。ただ今回は裏の旧館に泊まるので、多少の新鮮味はある。シャワーやトイレが部屋にない事くらい、ゲルを思えばなんでもない。
 たぶんこの木造の建物こそが、チョイバルサンのかつての別荘だったのだろう。後に迎賓館に変わってから、表のコンクリートの本館が建てられたのだと思う。ちなみに周囲の別荘群も、元はみな共産党幹部の物だったらしい。
 午後はミーティングを行い、そして自己紹介に移った。やはりモンゴルに来る人達はひと味違う。モンゴルに三度も来ている人、ネパールの山々をトレッキングした人、ニュージーランドで羊飼いを経験した人など、さすがに個性派ぞろいだ。日本中は旅したものの、外国はまだここしか知らない僕など、まだまだ井の中の蛙だと思い知らされる。
 それでも目立ちたい思いもあって、強気の自己紹介をしてみせた。「広い所が大好きで、モンゴルにあこがれてます。いつかはここに住みたいのですが、今はとりあえず北海道に住んでいます」そういえば、去年はいつか住みつくつもりだと、もっと強気に言い切った。会社を辞めいきなり北海道に移り住んだように、モンゴルへも飛び込んでしまえるかどうか、それは少々疑問だが。「そこで農作業を手伝いながら暮らしていますが、本当は作家になろうともくろんでいます。いつもメモをとっていますが、あまりアヤしまないでください」からかい半分みんなはどよめいたり、おどけた言葉に笑ったり。松田さんからも、社会主義時代なら間違いなくスパイ容疑(!)だと言われてしまった。
 それから、モンゴルタイムスに入社してこの国にやって来るという、日本人青年の事も聞いた。冗談半分僕も誘われたが、本当に僕にもそんな道が開けたら、どんなに良いだろう……。実際に可能かどうかは別として、可能性が広がるだけでも嬉しい。
 雨が降り出した。ホテル裏の山に登る計画もこれでお流れかと思ったが、小やみになり薄陽が射したのを機に登るという。モンゴリストはやはり意志が堅いというか、物好きというか……。もちろん、僕も同行した。物好きでは誰にもひけをとらないつもりだし、それに腹ごなしのつもりもあって。ホテル到着後、昼食は17時近くになってからだった。21時の夕食までに、少しでも腹をすかせておかなければ。
 シカをたびたび見かけた。それから何かのひそむ巣穴も。登ってゆくにつれ野生動物の痕跡は増え、対して同行者は減ってゆく。最後まで残った物好きは、僕を含めて五人だけとなった。
 僕らはホテルから400メートルを登り、2000メートルを越える頂きについに至った。
 北の斜面には、モンゴルのイメージにはほど遠い、深い針葉樹林が広がっている。東を見れば急な崖の向こう、谷をへだててさらに高い峰が連なる。
 そして、南から西にかけての眺望は、もう素晴らしく雄大なものだった。
 薄く陽の射す空の淡い明るみを、雨の影が重く横切ってゆく。対して遠い草原は、陽光を受けて輝くように浮き上がる。無彩色の中、唯一色鮮やかに。いく筋もたばねられよじれ合うような河が、白く幅広く光っている。街のはずれがそのほとりに、山の端に隠れてほんの少しだけ見えた。思いがけなく遥か遠くに。
 帰り道は迷ってしまった。北斜面から続く林に入り込んでしまったせいで。「行きと帰りと別の道で、二倍楽しめましたよね」と気楽に僕が言うと、「あなただけは四倍でしょう」とさらに軽く返されてしまった。登る途中、僕はビデオカメラと双眼鏡のケースを、うっかり岩の上に置き忘れてしまった。それを取りに一度引き返したものだから。
 雷が近付き、雨も落ち始めた。暮色もいきなり深まり、足もとがおぼつかなくなってきた。それを雷光が、ほんの一瞬視界にはっきり浮き立たせる。
 そんな中に、真っ白にさらされた骨が横たわるのを見た。シカの背骨と腰骨の一部。かなり離れた所に後足が一本、そしてもう一本。自然な死に様とは思えない。ここにもオオカミがいるのだろうか……。
 シカの骨に気を取られていた、そのほんのひと息遅れが命取り。雨がとうとう本降りだ。ふもとのあずま屋で雨やどりをしたが、すでにしずくがしたたるほどに濡れている。僕は再び雷雨の中に飛び込んだ。
 雨に打たれて帰るというのも、それはそれでいいものだ。水を浴び濡れて戻れば、みんなの注目を浴びる事となったから。
 夕食は、本館まで食べに行かなくてはならない。再び雨の中へ。せっかく着替えたのだし、それにまた同じ手で注目を集めるつもりもないので、今度はちゃんと傘を用意した。ちなみにシャワーもやはり本館だけだとか。めんどうなので今夜はやめにした。さっきの雨でもう充分だ。
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