風の記憶 − モンゴルに見た輝き 2 −


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     7月20日 水曜日
 本館へ朝食を食べに行く途中、懐かしいバスを見た。ホテル横に停まっていたのは、JESと書かれたオレンジラインのバス。後部のエンジンカバーが一部はずれているのも見憶えがある。去年僕を乗せてあちこちを回ったバスじゃないか。ひょっとしたら、またいつか世話になるかもしれない。その時はよろしくたのむよ。
 ヌフトホテルの朝食は、去年とはすっかり変わった。パンは柔らかくなり、バターもクセがなくなり……。なんだか物足りない気がする。そういえば、ホテル中に満ちていた乳製品独特の匂いも、今年は感じられない。
 出発の支度をすませ、本館正面に集まると、どこからかウマを二頭連れたおじさんが現れた。近寄ってウマを見ていると、1ドルで乗っていいという。すぐに乗り気になった僕だが、もう出発の時間だからと周りの人達に止められた。またこの次にと言ってきたが、次というのは三日も先だ。
 8時10分ホテル出発。ウランバートルからゴビへ飛び、その周辺を観光するのが今日の予定。まずバスで空港へ向かった。道路を横切るヒツジの群れに、たびたび足止めをくいながら。そういえば、昨日は空港の駐車場をウシが散歩していた。こんなのはよくある事らしい。
 9時20分ウランバートル離陸。チャーター機は、例によって旧ソ連製アントノフだ。ケーブルを接続してエンジンスタートする様子などを感心しながら見ていたが、その間ずっと天井から水がしたたり落ちてくる。内装が多少はきれいで(ペンキが塗られて)気を良くしていたのだが、やはりひどいオンボロだ。
 しかしパイロットは優秀な人らしい。そういえば、去年もこんな話を聞いた。旧共産圏の航空路線は、機体などハード面では信頼がおけないが、パイロットはみな空軍あがりで腕は確かだと。松田さんの話では、この機長はウムヌゴビ出身で、久しぶりに故郷へ飛ぶのではりきっているそうだ。しかも、今日のキャンプ地には、この五十人乗りアントノフのような大型機(?)が着陸するのは例がないとか。……確かに、はりきりがいはあるだろう。
 飛行機は飛び立って数分後には雲を突き通し、今は途方もない晴れ間のただ中にいる。あまり飛行経験のない僕にとって、窓からの眺めはまだまだ見慣れない不思議な世界だ。
 眼下の雲が、それよりさらに下の地面に、同じ形同じ大きさの影を落としている。この機体の影もまた、あのどこかに同じ形同じ大きさで映り、そして同じ速さで走っているはずだ。雲を抜け出たばかりの頃、機体の影は間近に雲に映っていた。影は意外なほどはっきりと形を持ち、その周囲には光の輪が、鮮やかに虹色を見せていた。
 このチャーター機には、副機長の家族も同乗している。こんな公私混同はべつに珍しい事でもないらしく、僕もまた気にするつもりはない。いや、かえって嬉しいくらいだ。ななめ前に座っているのは、小さな女の子だから。名前はムンフトヤ。永遠なる光という意味らしい。年は9才。でもただそれだけしかたずねられず、その子は目つきをなごませないまま、機内食の準備を手伝いに行ってしまった。それはそうと、国内線ではまず出ない機内食がこうしてサービスされるのも、はりきっている事の現れらしい。
 10時45分ゴビキャンプ着陸。飛行機は着陸後、すぐに片方のプロペラを止めてしまった。燃料節約のためだろう。
 ここで食料品などを荷降ろしする間、しばし僕らは休憩だ。中央にある建物に入ると、窓から外を見ている小さな女の子が一人。僕はコリずにまた声をかけた。
 「サイン バイノー」嬉しい事に、すぐに返事があった。女の子はふり返り、僕はかがみ込む。はにかみながら笑顔を見交わす。こんなふうに、すぐにうちとけてくれる子もいるのだけれど。「タニー ネェル ヘン ゲデグ ウェ?」「ムンフツツク」永遠なる花、か。聞いた事のあるような名前だ。そういえば、去年出会ったあの子はアルタンツツク、金の花といった。高嶺の花ならぬ高値の花かと、あとで辞書を引きながら一人苦笑した憶えがある。ムンフとかツツクとか、どうやらありふれた名前らしい。「タニー ナスタ ウェ?」ムンフツツクは、7本の指を立ててみせた。7才か。モンゴル語で答えてくれたって、今なら一応解るよ。
 飛行機を一緒に眺め、写真を一緒に撮らせてもらい、最後に握手をして別れた。僕は左手を出してあの子は右手を出し、おたがいに手を代え、二人で笑いながらいつまでもきりがなくて、両手を握ってから手を振った。
 11時35分ゴビキャンプ離陸。だが10分後には再び着陸してしまった。給油のためダランザダガドに。給油が終わればまたすぐ離陸。ここでは飛行機が、ひどく気軽にどこへでも降りてしまう。もうまるっきりバス感覚だ。
 12時55分ドートマンハイ着陸。ここが今日の宿泊地。今まで十数人乗り程度の小型機しか来なかったというのが、降りてみてよく分かった。地面は砂地で、タイヤが10センチ以上も沈んでしまっている。着陸は問題なかったが、明日は離陸出来るのだろうか。
 そんな事を気にかけたのは一瞬の事。飛行機を降りるなり男の子を見付け、僕はまたすぐ声をかけた。ただ、ルハウクという名がよく聞き取れないうえ、意味も分からない。
 通訳として同行している大学生の、サラさんことサラントゴスさんに救いを求めた。この男の子の名前の意味は、水曜日だそうだ。やはり、まだまだ通訳さんに頼らなくてはならないか。だが去年よりは話が出来るようになったと思う。いや、ただずうずうしくなっただけだろうか。キャンプでも、さっそく女の子に名前を聞いた。
 昼食時、午後の予定が変更になったと伝えられ、それに伴い班分けも行われた。2台チャーターしたバスが、1台しか来ていないのが原因だ。この国でなら、そういう事態も起こりうるだろう。今から呼び出しても間に合わないので、2回に分けて観光に向かう。先発は15時に出かけ、18時に帰ってそして夕食。後発は夕食後に出かけ、23時に戻るという。僕は人数の少ない後発隊に加わった。
 さてそうなると、夕食までの3時間がヒマだ。いやいや、ヒマは大歓迎。とどこおりがちだった旅の記録を進めようと、ゲルの外にイスを運び出し、座って手帳を広げた。
 じきに、係のおばさんがお湯を持って来てくれた。「バイルラー」とお礼を言うと、「ズゲール」と笑いながら返事をしてくれる。子どもばかりでなく大人にも言葉が通じたのは、少しばかり意外な気がした。もちろん、普通に考えればなんの不思議もないのだが。
 ふと、今の僕が自分でも不思議に思える。大人達が大の苦手で、極端に人見知りなはずの僕が、老若男女モンゴル人日本人にかかわらず誰にでもすぐ声をかけ、そして気軽に仲間に加わるなんて。
 文章をつづるのにも飽きてきたので、気分転換にのラクダを見に行った。二頭のラクダは日陰にたたずんだまま、つながれてもいないのにどこへも行こうとしない。イヌもやはりゲルの陰で、虫を追い払うほかはじっとうずくまっている。これが、ゴビの乾いた暑さに生きるという事か。僕はしばしそのイヌと、わずかばかりの日陰の中に並んで座ってみた。
 ところがじきに雷雨になった。この移り変わりの激しさもまた、ゴビの夏だ。
 雨やどりがてら隣のゲルに上がり込み、モンゴルタイムス記者のガンさんことガンホヤグさんと、サラさんを通していろんな話をした。彼は身振りを入れてモンゴル語を教えてくれる。嬉しい事にガンさんも左利きだった。そんな共通点からも、ますます親近感がわく。けれどかぎタバコをすすめられ、それだけはちょっと困った。
 予定時刻を1時間も回った頃、ようやく先発隊のバスが砂ぼこりと共に地平線に見えた。到着は、それからおよそ20分後。先に食事を終えた後発隊はすぐ出発だが、いくら日没の遅いモンゴルでも、じきに夕暮れだ。
 19時35分キャンプ出発。15分後、まず立ち寄ったのはラクダ飼い遊牧民のゲルだ。間近には砂の山脈がそびえている。山のすそ野を巡り、そこに生える潅木の赤い実を味わった。ハルラックという名の実だそうだ。
 続いて、ラクダに乗せてもらいに行った。去年一度経験があるので気軽にまたがると、立ち上がるやいなや手綱をあずけられてしまった。これは度胸を決めるしかない。ところがそう難しいものでもなく、手綱を向ければラクダはちゃんと回ってくれる。止まる進むもなんとかなった。大満足。同じラクダに乗るといっても、他人にひいてもらうのと自分であやつるのとでは大違いだ。
 途中砂地にタイヤを取られながらも、バスはなんとか次の目的地に着いた。かつて海底だったという、赤茶けた土の露出する場所だ。恐竜化石の発見例があると聞いて、やにわにみんなは石拾いを始める。僕もちょっと白い石の層をほじくってみると、化石ではないが、シダの葉模様のシノブ石を見付けた。
 戻り道、同じ場所でまたスタック。先発隊も三回やったというし、僕らももう一回くらいやりそうだ。バスを押しながらそう思った。案の定、直後に三度目のスタック。しかも今度はかなり深刻だ。
 途方に暮れて遠くに目をやると、二騎のシルエットがやって来るのが見えた。なんと馬上の人は、さっきのラクダ飼いの人達だ。彼らはバスのかたわらにウマを停め草の上に腰を降ろすと、ゆうゆうとキセルをふかし始める。やはり、草原を走る最上の乗り物は、ウマをおいてほかにない。僕だけでなく、誰もが思った事だろう。
 日は沈み暮色は濃くなり、牧民二人も行ってしまった。今夜はここで野営だと、冗談半分みんなは笑う。それもまたいいなと、本気半分僕はうなずく。
 みんなで土をかき、石を埋め、後押しをし、ようやく砂地を抜け出した。バスは夕闇をついて走り出す。まっすぐキャンプ地へ向けて。次の予定地の泉に行くのは、もうあきらめるほかない。出発前に、先発の望月さんから泉の水を飲ませてもらった。それでひとまず満足し、早く帰って明日の予定を楽しみにしよう。
 と、運転手が突然何か叫んでブレーキをかけた。またトラブルかと思ったが、そうではなかった。ヘッドライトの光の中、小動物が逃げて行く。僕は急いでバスから飛び降り、帽子でそいつをつかまえた。ハリネズミだ。テレビの秘境番組で紹介されるような動物が、自分の手の中にいるなんて。信じられない気がするが、トゲの痛さは夢ではない。
 このハリネズミ、モンゴルではザラーと呼び、そのトゲを持っていると運が良いらしい。逃がした後、もしやと思い帽子を見ると、トゲが一本刺さったまま残っていた。早くも運が良いじゃないか。
 23時キャンプ到着。戻るやいなや、今度は双眼鏡を持って外へ出た。雲は多いが、半分ほどは星空が見える。月が隠れているのはかえって好条件かもしれない。
 僕はずうずうしく手近な集団に加わると、おせっかいにも星の説明を始めた。すると藤原さんが、「かんむり座どこかなあ」と独り言をつぶやく。そんな無名な星座、よく知ってるものだ。シャカに説法だったかな? 逆に人工衛星を知らせてもらう羽目になった。

     7月21日 木曜日
 激しい雨が夜明け前から降っていた。管理の人が天窓の覆い「ウルフ」を閉めてくれたらしく、雨は降り込まずにすんだ。ただ、同室(同ゲル)の兵庫さんのベッドがなぜか壊れていた。朝起きると床に寝ていたので驚いてしまった。夜中のそんな騒動も知らず、僕はすっかり熟睡していた。
 今朝もまた、ゲルの前にイスを持ち出し、座って記録をつけていた。するとそんな様子を、となりの阿部親子にアヤしまれてしまった。娘さんの方がわざわざ偵察にまで来る始末。ついでにウルフを開けるのを依頼するので、気安く引き受けた。ヒモをまず裏へと回し、それをゆっくり引いてめくり上げる。閉めるのにくらべ、開けるのはまあ簡単だ。
 9時35分ドートマンハイ離陸。直接ハルホリンへと向かった。ウランバートルへ戻らなくてすむ分、去年のツアーとくらべ空き時間も多くゆったり出来る。行き先へ直接飛んでくれるチャーター機は便利だ。
 この機は以前はジャスライ首相の専用機だったと、サラさんから説明があった。そう言われれば内装など特別な気がしたが、やはりオンボロだ。飛び立ってしばらくした頃、天井から煙が! と一時騒然となったが、ただの冷房の霧だった。
 10時25分ハルホリン着陸。飛行機は滑走路の水たまりで、繰り返しハデに水しぶきを上げる。僕はまたオルホン川に着水でもしたのかと思った。飛行機を降りると、近所の子ども達が集まって来る。名前を聞く暇はなかったものの、一緒に写真を撮らせてもらった。
 10時50分ハルホリンキャンプ到着。部屋割りなどがすぐには決まらなかったので、またしばし余裕の時間を過ごせた。集まった人達のおしゃべりに加わり、そして一人気ままに歩き回る。
 ムンフツツク。そんな名前の花が本当にある事を、ここへ来て初めて知った。数え切れない種類の花が咲きそろうハンガイで、その花はあまりにも淡く小さく目立たない。ただ僕にとっては、その名を知った時から特別思い入れのある花となった。
 昼食もまた、いつまでも準備中。ヒマな時の僕は、なんにでも首を突っ込む。今度はバレーボールをする人達の輪に加わった。ただついつい力が入り過ぎ、僕の打ったボールはとんでもない所へ。そのたびにあやまり、「オーチラーライ」ばかり繰り返すものだから笑われてしまった。
 それから近くにいた三人の子ども達と写真を撮るうちに、ようやく昼食となった。ガンさんは僕のとなりの席に着き、まだオーチラーライを繰り返す……。
 そしてその後だった。この旅最大の恥にもなりそうな大失敗をしでかしたのは。
 入った時には無人のトイレも、出る頃には大勢が待っていた。女性ばかりが……。それでもニブい僕は、「手洗う水道はどこですかねえ」平然とたずねる。「あ、奥の方にありますよ」波さんも当然のように答えるものだから、僕は自分のあやまちにまだ気付かない。後から思うと、僕に恥をかかせまいという気づかいだったのだろうが。「今トイレどっちに入りました?」外で望月さんにやんわり指摘され、僕はようやく悟った。そこが女子トイレだったという事実に……。オーチラーライ。
 13時40分キャンプ出発、エルデネゾーへと向かった。ここはかつてモンゴル帝国の都カラコルムがあった場所だが、時代が違うのでエルデネゾー寺院は直接都をしのばせるものではない。とはいえ建立の際には都市の廃材も利用したらしく、まったくの無関係でもないようだ。それに今回初めて聞いた話だが、外壁の一辺400メートルという距離は、カラコルムの4000メートルの城壁を意識してのものだという。
 中に建つ堂も、去年見ているからとたいして期待せずに入ったが、ぐるりと回廊があるのには初めて気付いた。なんにでも首を突っ込む僕はもちろん、すぐにその真っ暗な中へもぐり込む。後からムンフトヤも続いたが、よほど暗いのが苦手なのか、僕の腕にすがりついてきた。
 次に亀石に向かった。これこそカラコルムをしのばせる形見と言えるが、エルデネゾーにくらべると影が薄い。今年は周囲に露店が出ていて、そちらの方がずっと人を集めている。
 僕もそこで、欲しかった骨の玩具シャガイを手に入れた。シャガイにはヒモが通してあり、穴空きの2ムング硬貨が付いている。モンゴルの硬貨というのを初めて見た。インフレが進めば少額貨幣は、しかも硬貨はかさばるだけだ。もうほとんど流通していないのだろう。
 そして次には、去年も見たヘンな石に向かう。亀石といいこの石といい、明日香の遺跡との共通点が気になるが、サラさんからこの石の説明を聞くのはてれくさい。石の方はほうっておいて、付近に放牧されているウシを見に行った。こうなると、動物専門家の藤原さんの出番だ。いきなり乳しぼりを始めたのが大ウケで、以後ウシのお姉さんと呼ばれる事に。続いて僕も乳しぼりに挑戦したが、結果はなさけないものだった。
 最後にバスは、オルホン河へと注ぐ小さな渓流に立ち寄った。
 小関親子の娘、美沙さんが、いつの間にかムンフトヤとすっかり仲良くなっている。もう一人の年かさの子と三人で走り回っていて、僕などとても入り込めそうにない。
 それでもサラさんの助力を得て、少し話が出来た。年かさの子の名前はヒシグ、恵みという意味だそうだ。驚いたなあ、モンゴルにもMちゃんがいたなんて。年は15だとか。美沙さんと2つ違いか。それなら気が合うのも当然かもしれない。僕とは12違いか。それなら……。まあそう気を落とすな。日本のMちゃんとだって18違いじゃないか。
 三人に仲間入りするのはあきらめ、僕は一人流れのほとりを散歩する。そして、水くみに来た四人の子ども達と出会った。名前をたずねてみたが、恥ずかしがって答えてくれない。それでもなんとなく離れ難く、もう一人の物好きの安保さんとで、水の桶を持ってあげながらその子達について行った。
 向かうはさっきバスの中から見かけたゲル。見ず知らずの人の家を訪ねるという事でさすがに気おくれしたが、「サイン バイノー」とあいさつすると、「サイン、サイン バイノー」とはっきり返事を返してくれ、すっかり気が楽になった。
 水桶をゲルの中まで運び込むと、イスをすすめられ馬乳酒「アイラグ」と乳製品をふるまわれた。こういう場合、遠慮するのは水くさい。水運びのお礼を素直に受けた。アイラグは昨日もラクダのゲルでいただいたが、今日の方がずっと口あたりが良い。もちろん残さずいただいた。
 しばらくゆっくりして、子ども達とも話をしたかったが、もう帰る時間だ。ゲルの表まで来て待つバスに、僕らは慌てて乗り込んだ。後から酔いが少し回ってきたが、気持ちの昂ぶりや顔の紅潮は、アルコールのためばかりではなかったように思う。
 18時5分キャンプ到着。夕食まで時間があるようなので、なんとなくぶらついていた。すると美沙さんがムンフトヤに何かせがまれていて、言葉が分からず困っている。そこでまたサラさんに通訳を頼む。ムンフトヤは歌を歌ってと言ってるそうだ。美沙さんがてれているのですかさず僕が歌ってみせた。けれどムンフトヤはそれをよそに、美沙さんに今度は遊ぼうとせがみ続ける。それで横からジャンケンを教えてあげたが、僕を相手にはしてくれない。ヒシグの方も、恥ずかしいと言ってやはりしりごみする。結局僕は、サラさんの手遊びの相手になってしまった。せっせっせーのよいよいよい。……なんだかひどくカッコ悪い。
 それからは、僕は昼前の三人組と一緒に遊んだ。子どもの遊びの中では、身近な物がなんでもオモチャに変わる。この時オモチャになったのは、僕の大切な帽子……。
 三人に名前と年を聞くと、女の子はオンドラホで9才、男の子はエンフボルトで8才、もう一人のおとなしい男の子はドルフゴンでやはり8才。涸れる事なき井戸、平和なる鉄、そして穏やかさと、この三人の名前の意味もサラさんから教わった。
 夕食後の演奏会、始まるまでまだしばらく時間があるらしい。それでも退屈するような事はない。見回せば、ここにはいくらでも面白い事がある。
 酔ってますます陽気なガンさんが、カメラの前で波さんの肩に手を回したり、あげくのはては抱き上げたり……。そんなおおらかさはうらやましくさえある。ガンさんは妻子ある身だからこそ冗談ですむわけで、僕ならシャレではすまないだろうから。いやいや僕だって、悪びれもせずムンフトヤにかまってばかりいたんじゃないの?
 本気ではないものの、ついに波さんが怒った。真顔ではないものの、しきりにガンさんもあやまる。「ナミサン、オーチラーライ。オーチラーライ」。昼間には僕のオーチラーライ連発をさんざんからかったくせに、今度はガンさん自身がオーチラーライの連発か。
 さて、今度は何をしようかと思っていると、裏でウマに乗せてくれるという。さっそく試してみた。
 鞍にまたがり、チョッ、と言って左手の綱で尻を叩くと、ウマはすぐに進み始める。揺れはかなり大きいが、鞍に体重をかけずあぶみに立ち上がれば問題ない。右手で手綱を横へ向ければウマはその通りに曲がり、手綱を徐々に引けば少しずつ速度をゆるめ、やがて止まった。初めての乗馬がこれほどうまくいくとは、自分でも意外だった。まあ察しのいいウマに助けられた面もあるのだろう。とにかく満足。
 演奏会は形式ばったものではなく、とてもくつろいだ雰囲気だった。最後には聴き手も一緒になって歌い出すほどに。そんな気さくな場でも、招かれた音楽家は一流の人達だそうだ。ホーミー歌手のエルデネフーさんは、日本のテレビに出た事もあるとか。ホーミーといえば、面白半分みんながその声を真似るので、僕もちょっと試してみた。もう少し練習すれば出来るとエルデネフーさんにおだてられ、またすぐいい気になってしまう僕。
 最後はガリンナーダム。聞き慣れない言葉だが、なんという事はない、キャンプファイアーそのものだ。誰でも一目見れば納得するが、それまでは多くの人が首をひねっていた。サラさんが、火の祭りをひな祭りと説明したのが原因らしい。
 火を囲みながら、輪になりながら、回りながら、笑いながら、大声で歌い、手を叩く。燃えさかる炎と、そして近付いてくる雷光とが、僕の心を大きくあおり立てる。じきに激しい雨になった。僕は濡れながら笑いながら、ゲルへ向かって闇を走った。
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