子ども時代へ − モンゴルに見た輝き 4 −


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     3 新しく古い町エルデネト

 ぼくは再び列車に乗って旅をしている。今回の目的地は、エルデネトという町。ウランバートルから北西へ、鉄道で409キロはなれた町だ。エルデネトの事は着いてから紹介するとして、まずはこの列車についてレポートしよう。
 キップを買うのはとても大変らしいんだ。大勢の人がおしかけるから、すぐに売り切れるんだとか。ぼくは朝から前回のレポートの仕上げにかかりきりで、その様子を取材するヒマがなかった。サラが一人で行って、大変な手続きをみなすませてくれたよ。
 エルデネト行きの列車がウランバートルを出るのは、18時20分。その40分も前に列車はホームに着いたよ。でもここが始発というわけじゃなくて、南の町ザミンウードからはるばるやって来たんだ。ほら、暗やみの中で入国の手続きをした、あの国境の駅さ。さあ、機関車が汽笛を2度鳴らして、列車はいよいよ走り出した。
 出発前に外から数えてみたところ、列車は荷物車をふくめて15両。やはり緑に黄色いラインというカラーリングだ。1等車はたった1両、2等車は5両で、残り8両は3等車。今回ぼくらが乗ったのは、4人部屋の2等車だよ。見知らぬ若い女性2人が同じ部屋だなんて、なんかくたびれるなあ。
 こちらの同行メンバーは、ぼくにサラにマーガに、そしてなぜかサラの友達のナフチャ。4人部屋のはずなのに、なんで6人もいるわけ? まあ子どものマーガは数のうちに入らないとしても。
 と思ったら、すぐにやって来た車掌の検札で、マーガも半額の料金を取られたよ。これにはサラも意外な顔。市内バスなどでは、中学生まで無料だからね。
 でももっと驚いたのは、なぜかサラまでが日本人になっていた事だよ。彼女はいったいどんな手を使って、列車のキップを手に入れたんだ? 車掌の前で、サラは横を向いてすましている。
 ひと心地ついたところで、さあ夕食の準備だ。この列車には食堂車がないから、食事は自分達で用意しなきゃならない。サラは買いこんだパンとサラミを切り分け始めたよ。そして食事を始めたころ、タイミングよく車掌のコーヒーサービス。じゃなくて、これもやっぱり有料だった。あの国際列車と同じく、各車両に女性の車掌が2人ずつついてるよ。

 さて、食後の散歩がてら車内を調べて回ろう。まず車両の端にはトイレと車掌室、そしてマキで火をたく湯わかし器とストーブがある。なぜストーブが今どきマキなのかというと、電化した場合もしもこわれたりしたら、すぐに乗客の命にかかわるからだそうだよ。今は夏だから関係ないけどね。
 こんなところはあの国際列車と同じだけれど、ここから先は初めて目にする3等車だ。ここも向き合うベッドが2段ずつだけど、その上に荷物のたながあるのできゅうくつだ。しきりはあるけどドアはないな。ついでにシーツやまくらもない。そしてせまい通路をはさんだその反対側には、進行方向にそってまたベッドが2段ある。つまり一つのブロックに6つのベッドがあるわけだ。でも乗客はどう見ても10人くらいずついるんだよなあ。 とにかく、すごい人の密度だ。ベッドにもう横になる人の足が通路につき出して、大きな荷物にベッドをせんりょうされた人がいっぱい通路にうずくまる。さいわい車内は禁煙だけど、連結機付近にはタバコをすう人達がたむろしてるし……。
 その人達をかきわけながらぼくは進んだ。とにかく好奇心だけは押さえようがないからね。ところが、途中どうしても開かないドアがある。しかたないから、次は後ろの1等車を見てみよう。でも今度は入り口で車掌にさえぎられた。ぼくの好奇心も、カタいドアと車掌にはかなわないや。
 しかしぼくはそこで、意外な人を見付けたよ。キップが買えなかったので留守番をしているはずのバギー兄さんが、なぜかこの列車に乗っているんだ。しかもちゃっかり1等車に。さらに友達の妹だというかわいい女性までいっしょだよ。聞けば知り合いの乗務員にたのんで、特別に乗せてもらったんだってさ。
 そのちゃっかり男バギーの案内で、ぼくも特別に1等車を見せてもらった。国際列車とちがいここもやはり4人部屋だけど、ベッドはやわらかいし電気も明るいなあ。しかも新品の車両だ。それでもやっぱり窓やドアは重いけど。国内列車に乗る外国人なんてぼくくらいだと思っていたけど、ここにはロシア人が乗っていたよ。
 うれしいなあ、なんと弁当を売りに来た。前に書いたよね。ぼくは列車に乗って駅弁を食べるのが好きなんだって。すぐに買って食べてみたよ。まあスチロールトレーにパンとサラミと野菜が入っただけの、かんたんな弁当だったけど。

 日がしずんで、外は夕やみに染まりつつある。今ズーンハラーという大きな駅に着いたところだ。降りた人達が線路を横切り去って行く。機関車が汽笛を鳴らして通り過ぎる。
 ……好きだなあ、こういう時間。遠くへ来たって実感するよ。なんだかもう二度と帰れないというような気分にさえなるけど、でもそんな感傷こそが旅の気分なんだよな。
 サラが言うんだ。この列車にスーパースターが乗っているって。チンギスハーンという名の、モンゴルでもっとも人気のあるロックバンドが。もうさっきまでの感傷なんてすっかり忘れて、うかれてしまった。ずうずうしく押しかけて、いろいろおしゃべりしたよ。新聞記者の友達というのはありがたいねえ。
 すごいスターだっていうのに、彼らはとても気さくで親しめる人達だよ。去年見かけたある女性歌手には、ターミネーターみたいなガードマンがいつもくっついてたけど。あいつ夜でもサングラスかけてやんの。あ、失礼。よく見たらチンギスハーンのメンバーの中にも……。
 話がそれたけど、なにしろ彼らはぼくらと同じ2等車に乗ってるんだよ。しかもカップラーメンなんか食べてたりして。だからとても楽しくさわぐ事ができたよ。座席がせまくても、電気が暗くても、とてもおおらかでゆかいな時間をすごせた。リーダーのジャルガルサイハンはしぶい外見に似合わずなかなかおしゃべり好きだし、エルデネバートルともヒツジ年のみずがめ座生まれという共通点で意気投合してしまったよ。なぜ4回もモンゴルへ来たのか、なぜモンゴルの食べ物が平気なのか、なんて質問に答えようもなくてぼくが困っていると、彼らは自分達で明快な答えを出してくれた。きみにはモンゴル人の血が流れているって。
 それにしても、列車の旅をしていると、ほんとにいろんな人と出会えるものだね。

 昨日はとうとう、夜中の12時まで彼らとさわいでしまった。今日はモンゴルの祭日、日本でいう建国記念日みたいな日だから、日付が変わったところでお酒を回し飲みしておいわいしたんだ。そのせいで、それからの事はよくおぼえていない。夜ふけにダルハンという大きな駅に止まったらしいけど、それにも気付かなかったよ。
 でも今朝は早起きして、朝日がのぼるのをしっかりと見たよ。モンゴル北部に位置するこのあたりでは、山には木もしげっているし川も多い。夜の間に冷えこんだらしく、川面から霧が立ちのぼっているよ。
 そして8時20分、終着駅エルデネトに到着。すぐに車でホテルに向かったけど、駅から市街地までかなり距離があるなあ。今のうちに、このエルデネト市について少し紹介しておこう。
 エルデネトという名前は、モンゴル語で宝の地という意味。日本でいえば宝塚かな? まあじょうだんはおいといて、ここにはまず鉱山があり、それによって発展した町だから、そんな名前が付いたんだ。産出するのは銅とモリブデン。モリブデンというのは、鉄にまぜて強くするための金属だ。
 この市はボルガン県の中にあるけど、行政上は県に属さない特別行政都市。日本でいう政令指定都市みたいなものかな。人口はわずか6万人だけど、これでもモンゴルでは一つの県に相当する大都会だからね。
 街区は大きく4区に分けられ、それぞれにアパートが立ちならんでいる。9階建ての高層アパートもあるよ。中心地にはショッピングセンターもある。
 さて、やっと着いたのが、その中心地に建つこの町最大のセレンゲホテル。バギー兄さんはまた知り合いの家にやっかいになるそうで、泊まるのはぼくら4人だ。でもねだんが高いから2人部屋に入ったよ。女ばかりの中に一人でいるのはもう平気だけど、床で眠るとなるとミジメだなあ。……寝袋持って来ててよかった。
 まずナフチャの案内で、彼女のむかしの仕事場を見学に行ったよ。そこは市役所のすぐとなりの文化会館。ナフチャは演劇をする人なんだ。ぼくはちゃっかり舞台衣装を借りて、写真をとってもらったりして。
 この文化会館や市役所の南側には、大きな広場がある。ウランバートルにもスフバートル広場というのがあるし、モンゴルの町には決まって中心地に広場があるんだ。この国がまだ社会主義国だったころ、集会を開くための場所として。今日はその、かつての革命記念日なんだけど、広場ではべつに集会もなく、ただ人だかりがしていたよ。
 その人々の流れにそって南へ少し坂を下ると、そこはもう草原だ。その草原の中にあるスタジアムで、これからナーダムというスポーツフェスティバルが始まる。でもぼくはあまり興味はないな。それよりもおもしろいのは、近くに並ぶ出店だよ。こういうところ、やっぱりお祭りはどこの国も変わらないなあ。
 でも一つモンゴルらしいのは、食堂がみな遊牧民の移動住居ゲルだという事だ。ぼくらはそこでホールホグという料理を食べた。これは大きなカンに肉を入れて作る手のこんだ蒸し焼き料理で、おいわいの時くらいにしか食べられないメニューなんだ。
 ナフチャはなつかしい友達との再会ではしゃいでるけど、サラとマーガは長かった列車の旅につかれたらしく、ホテルにもどって休みたいってさ。ならぼくは一人で町を見て回ろうか。
 町なみの様子は、近世ロシア風。モンゴルは旧ソ連の指図で近代化が進められたから、どの町もみなそうなんだ。ただ首都のウランバートルは、ここ数年でイマ風な物がふえてさわがしくなったけど。エルデネトは今もクラシックなままで、車も少なくとても静かでほっとするよ。
 建物のかべには、マルクスやレーニンの顔が描かれている。二人とも、むかしはとても人気があったんだ。そう、この町ができた当時はね。その下に書かれた「マルクスの教えは正しくもっとも力強い」なんてセリフ、今じゃもう古くさいけど。
 東の町はずれの丘の上に、大きな記念碑が見えたから登ってみたよ。するとその記念碑には、モンゴル語とロシア語で「友好」とならべて書かれていた。
 この町の鉱山は、旧ソ連の技術で開発が進められたんだ。産出する鉱物も、ずっと旧ソ連に輸出され続けていた。今では状況も変わって、日本が最大の輸出先らしいけどね。なのに町で見かける外国人といえば、今もなぜかロシア人ばかりだよ。
 あとほかに多いものといえば、ウシだな。放牧されてるウシ。そしてウマに乗る人も。ウランバートルでもウマやウシは見かけるけど、ここほど多くない。やっぱりここはそれだけいなかなんだなあ。ウランバートルじゃぼくが写真をとっていてもだれも気にとめないけど、ここではたびたび声をかけられる。とっちゃいけないっていうんじゃなくて、興味を持ってたずねられるのだから、ぼくも楽しいよ。
 もう一つこの町のいいところは、噴水が水をふき上げてる事だな。そんなのあたりまえって? でもウランバートルでは、最近の民主化という国のしくみの変化による混乱で、公園は荒れはて噴水なんてこわれてしまっているよ。この町は本当に、むかしながらの姿をそのまま残しているんだなあ。

 日がしずみ夕やみがせまるころ、ぼくらはまた広場へ行った。ほかにも大勢の人達が広場に向かっている。でもだからってべつに、これから人民の集会が始まるわけじゃないよ。今年はこの国の革命75周年というだけじゃなくて、この市の誕生20周年でもあるんだ。これから広場で始まるのは、市民のお祭りさ。ステージでは歌に踊りに演劇と続いて、とてもにぎやかなフェスティバルだよ。地方の人はふだん静かにくらしている分、こんな時だけは思いきりうかれさわぐんだろうね。
 今夜このホテルのホールでも、あのロックバンド、チンギスハーンのコンサートが開かれるんだ。なのに信じられないよ、1人5000トゥグルクだっていうんだから。こっちはホテルの客だぜ。なんでタダで聞かせないんだよ。チェッ、こんな時こそ、バギー兄さんみたいに知り合いのコネが使えりゃなあ……。

 次の日、町はとても静かになったよ。人手はもう多くないし、一方で店はまだ休みだし。アパートのベランダから、ヒツジの声が聞こえる事もなくなった。とっくにおいわいの料理になっちゃったんだろうな。
 まず帰りのキップを買いに行ったんだけど、窓口が開くのはなんと16時! ……しばらくホテルで待つしかないか。
 このホテル、きのうは朝早くにチェックインできたように、チェックアウトもまた遅くてもかまわないらしくて、それだけは助かるよ。日本なら、チェックインは早い所でも14時から、チェックアウトも10時までにとか、きっちり決まっているけどね。
 バギー兄さんが来たから、ちょっと近くの博物館へ行ってみる事にしたよ。中へ入ると、職員がついて回って解説してくれるんだ。なかなか親切だけど、写真はいいかとたずねたらダメだって。まあそりゃそうだな。でもその一方で、バギーが展示物をさわる事には何も言わないんだ。やっぱりまだよくわからないよ、この国の常識は。
 小さな博物館だけど、展示物がユニークでなかなか楽しめたよ。町の成り立ちについて、鉱山について、がメインなんだけど、中にはこの町で生まれたふたごをすべて紹介したコーナーなんかもあったりして。
 そして、あの日チョイルで買った記念コインに描かれていた、宇宙飛行士のコーナーもあったよ。日本人宇宙飛行士がアメリカのスペースシャトルで宇宙へ行くように、モンゴル人宇宙飛行士もむかしソ連のソユーズで宇宙を飛んだんだ。そのモンゴル人唯一の宇宙飛行士グルラグチャーが、ここボルガン県の出身だったとは知らなかったなあ。
 訪問者ノートをめくってみると、3年前に日本人の記入があった。ぼくの記入を次の日本人が見付けるのは、いつになるだろうね。

 エルデネト市20周年おめでとう! 車も少なく、静かで、広々としていて、気に入りました。民主化の混乱による荒廃とも無縁だったようで、噴水が水をきらめかせる様子に感動しました。ウランバートルではもう見る事の出来ない光景ですから。若くて昔ながらの町エルデネトを、訪れる事ができたのを幸いに思います。
  1996年7月12日 広川慎一


 同じころサラとナフチャは、ナフチャの友達の家へと出かけていたんだ。ぼくらはホテルにもどって二人の帰りを待った。けれど列車の時間になってももどらない。もうお金もないからホテルにいるわけにもいかないし、22時になってとうとうチェックアウトしたよ。夕やみの中で荷物をかかえて、さあ、ぼくとマーガはこれからどこへ行けばいいんだろう……。
 でもバギー兄さんとその知り合いの案内で、そのまたさらに知り合いの家に泊めてもらえる事になったんだ。知り合いを多く持つ友達というのはありがたいなあ。これで今夜のところはひと安心。深夜になってサラももどって来たし。ほらね、トラブルというものは、いつだって最後には解決するものなんだ。

 ところで、きのうのサラとナフチャの行方不明の原因って、なんだったと思う? 友達の家をいくつも回って、ずっとさわいでいたらしい。バカらしいから、こっちもいちいち腹を立てるのはやめにしよう。
 でもサラもすなおにあやまった事だし、朝食を買いに行くのにつきあったよ。途中ふと見上げると、アパートのベランダにはヒツジの毛皮がほしてある。あとの祭りのさびしい光景だな。
 さて、今日もやっぱりキップを買うのに夕方まで待たなきゃならないし、それまでまた一人で散歩でもするか。
 まずバス停へ行きバスを待った。だがそこでむなしく過ぎる空白の時間……。おとといは車が少なくていいなと思ったけど、バスもまた少ないとなると、よろこんでばかりもいられないな。
 やっと来たバスに乗りこんで、ぼくは車掌にお金をはらった。ウランバートルと同じ料金だろうと思って50トゥグルク札を渡したんだけど、車掌はチケットといっしょにおつりをくれたよ。へえ、エルデネトのバスは安いんだなあ。でも降りてから確かめてみると、あれ? おつりも50トゥグルクあるじゃないか。あのおばさん、100トゥグルク札を受け取ったとカンちがいしたな。
 ぼくが降りたのは、町はずれの草原の中に、一戸建ての家々がならぶ地区。郊外の一戸建てと言えば聞こえはいいけど、そんな優雅なものじゃないよ。住み心地は仮設住宅以下のバラック小屋さ。ウランバートルにも、町で暮らしたいけどアパートには入れない人達が住み着く、こういう地区があるけれど。
 そんな地区を通りぬけ、草原へ出た。するとそこには、本当に豪華なバンガローが建設中だったよ。いったいどんな金持ちの別荘だろうな。でもたぶんそれはロシア人ではなくて、最近の国の変化の中で運良く成功したモンゴル人だと思うよ。
 草原の中にも、いろいろとおもしろい物があるもんだ。オボーという名の、その土地の神様をまつる石の小山が、町の回りになんと三つも! うーんなにか意味シンだなあ。変わったアイテムが手に入ったらまた来てみるか。
 そしてぼくは山の上の大きな岩を目指す。ああいうのを見ると、登りながらさけんでみたくなるんだよなあ。ところが、岩の回りにはハルガイという危険な草がしげっていたんだ。うかつに近付いたぼくはシビレ草と言われるそれにさわってしまい、!!! ……左手にかなりのダメージを受けてしまった。もうあきらめるしかないな、岩に登っての「ファイト一発」は。

 キップは買えたし、人数もそろってる。今日は無事に帰れそうだよ。それどころか、列車の発車までまだ時間があるからと、ちょっと鉱山を見学できる事になったんだ。例のバギー兄さんの知り合いの知り合いの案内でね。この町のかなめともいうべき鉱山を見学できるなんて、まったくラッキーだよ。
 この鉱山はモンゴル最大であるばかりじゃなく、世界でも十本の指に入る規模だそうだ。埋蔵量はわかってるだけでも3億トン! ここで使う電力は町の発電所ではまかないきれず、遠くウランバートルやロシアからも送電しているんだとか。
 採掘は、日本のように抗道というトンネルを掘り進むんじゃなくて、露天掘りといって地上から重機械で掘り下げていく方法。ダイナミックな光景だろうけど、残念ながらそこは見学できなかった。そのあとの、掘った鉱石から金属質をより分ける工程を見学したよ。
 建物はあざやかな青緑色できれいだけど、一歩中へ入ればもうそこは、熱気とほこりと騒音に満ちた灰色の空間さ。横向きの巨大な円筒がいくつも回転してるのは、鉱石を鉄球といっしょにかき回してくだく装置。いくつか段階があって、だんだん鉄球を小さいものに替え、少しずつ鉱石を細かくしていくんだ。最後には、鉱石はパウダーみたいになってしまうよ。
 その次の工程は、ドロ水のあふれる大きな水槽。鉱石パウダーを水にまぜれば、軽い石パウダーは水といっしょにあふれるから、そのあとで底にしずんだ重い金属パウダーだけすくい上げればいいわけだ。
 その後電気炉でドロドロにとかす工程が続くんだろうけど、そこもまた見せてはもらえなかった。だから、銅とモリブデンとをどうやって分けるかという事はわからないままだよ。不完全なレポートでごめん。これで、エルデネトについての取材はおしまいだ。

 でも、ぼくの旅はまだ続いている。今は帰りの列車の中だ。もうほんとにお金がないから、3等車に乗っている。こんなビンボー旅行でも、ぼくはとてもうれしいよ。また新しいものが見られると思うとね。
 3等車は自由席だから、ベッドの数よりもこんなに人数が多くなるんだな。でもぼくはさわがしいのもきたないのも暑いのもまるっきり平気だから、旅のしめくくりをゆったり楽しんでるよ。雑然とはしていても、禁煙だけは意外としっかり守られてるから、北海道や東北の鈍行よりずっとマシだ。人々もとてもなごやかだし。それにぼくがめったにいない外国人だからか、いろいろ気をつかってくれてね。下段のベッドの下も荷物入れになっているんだけど、自分達の荷物をすみによせて、ぼくのバックパックをその安全な収納場所に入れさせてくれたよ。
 子ども達は電子手帳や日本語をめずらしがって、今も集まってぼくの手もとをのぞきこんでる。見慣れない物不思議な物に、すなおに関心をしめす好奇心いっぱいのこの子達が、もしかしたら20年後に今のぼくみたいな事をしているかもしれないね。


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