川の街・坂の街・空の街 − モンゴルに見た輝き 3 −


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     4 ウランバートル速報

     6月26日 Jへ
 日本は最後の最後まで物騒だったな。あのハイジャックのおかげで出国時に苦労したよ。持ち込み荷物はすべて取り出されあらためられた。
 でも本当に苦労したのは、中国に入ってからだよ。群がるタクシー運転手達をなだめながら押し止めながら、両替をすませ翌日の便の確認をし、続いて空港内のホテルのカウンターを探したが、どうしても見付からない。連絡バスも分からず、結局タクシー運転手の思いのままだ。法外な値段をふっかけられた。両替した金額を見られていたのもまずかったようだな。
 ホテルに着いてからも、言葉が通じずタイヘンだった。英語の上手な日本人青年の登場に、救われた思いだったよ。英語については、高校で赤点を取ろうが大学で単位を落とそうが平気でいたけど、今回ばかりは無力感に襲われた。初めての国外一人旅、思いのほか大変なものだな。ホテル内にはモンゴル料理のレストランもあったけど、もう一歩も外に出る気になれない。途中千葉で買った駅弁を部屋で食べてすませたよ。
 国外一人暮らしもやはり初めてだけど、こっちは今のところなんとかなってる。一つ困ってるのは、28日までお湯の供給が止まっている事だ。民主化直後の混乱による食料不足や物不足は、ここ数年でほぼ回復したけれど、エネルギー不足は今も深刻らしいんだ。お湯は火力発電所から各戸に供給されているけど、それが順番に地区ごとに止められてしまうわけ。水道も夜間は止まるし。まあそれは、去年の日本の水飢饉を思えばなんでもないよな。

     6月26日 Aさんへ
 モンゴルに住み着いて、ようやく少し落ち着いてきたよ。途中寄った中国では、たった一泊にオロオロしたけど。でもそれなりになんとか解決したよ。ホテルへのバスは分からなかったけど、代わりにタクシー運転手がまとわりついてきたし、チェックインも英語の出来る日本人青年に頼ってしまった。夕食は出国前に買った駅弁(手荷物チェックの時恥ずかしかった)を部屋で食べてすませ、朝食はセルフサービスだったから黙って好きな物だけ食べたよ。初めての国外一人旅で気疲れしたけど、それでもけっこうなんとかなるもんだな。
 モンゴルに来てからは、ほんと気楽なもんだよ。絵本が着くまでは、何もする事がないからね。モンゴル語の会話集など眺めて、飽きれば買い物に行ったり、取材について行ったり。スタッフの顔ぶれは、去年とすっかり替わったよ。ひと足先に日本から来ていた、センパイとなるはずだった人もまた……。今はビザが切れてもどこかで不法滞在を続けているとか。職務怠慢や違法行為は確かに問題だけど、でも何でも収入の手段にしてしまうしたたかさや、周囲の批判を気にしないずぶとさには敬服するよ。到着早々に街で会ったけど、わずか三か月のうちにモンゴル語をすっかり習得していた。この適応力、順応性、かなわないなあ。感心していいものかどうかは分からないけど、自分にはないその豪胆さはうらやましいよ。
 さて、それよりも僕の方の話をしようか。タイムスの近くに食品ザハがあって、いつもそこで買い物をして帰るんだ。ここには野菜果物から魚や卵まで、なんでもそろってる。食料不足は昔の話。もっとも、物価高はますます深刻だけど。
 僕はチョローンツァイ(固めた茶葉)と塩とミルクを買って帰って、スーテイツァイを作って飲んでる。本物の味が自分にも作れる事が分かって、モンゴルで暮らしていく自信がついたよ。お茶をいれるくらいでなんだ、って言われそうだけど、僕は日本にいた頃から、満足に出来るのは紅茶をいれる事くらいなものだったから。

     6月27日 Mちゃんへ
 いよいよモンゴリアンになった慎一にいちゃんだよ。モンゴル語で書くとШиничи ах。ここではロシアの文字を使うのが今もふつうなんだ。日本語だって、中国の漢字を使っても書くよね。さっそくだけど住所を知らせよう。むずかしいからお父さんかお母さんにたのむといいね。
 心配なのは、ちゃんとみんなとどくかということ。めずらしい切手を送るのは、しばらく様子を見てからにするね。
 今回送ったのは路線バスのキップだよ。乗りこんで車掌さんにお金をはらうと、このキップをくれるわけ。ねだんはどこまで乗っても30トゥグルク、6円くらいだ。ここの感覚でも高くはないよ。もっとも食べるものや着るものや、そのほかいろいろなものが高くなりすぎてるんだけど。バスだって、キップに書かれたねだんは50ムング(1トゥグルクの半分)だから、この数年で60倍に値上がりしたことはまちがいないよ。
 ウランバートルの子どもたちは、夏休みまっさかりで朝から晩まで遊び回っているよ。夜の10時をすぎても、はしゃぎ声はつづいてる。今ごろは9時半をすぎても日がしずまないからね。それはなぜだかわかる? 昼間は夏に長く冬に短くなるのは知ってるね。その長さの差は、北極や南極に近いほど大きくなるんだ。ウランバートルは旭川よりも北だから、夏の今は昼間がずっと長いわけ。もっと北へ行けば、白夜といって夜中まで明るいよ。
 でも、理由はそれだけじゃないんだ。この国では夏の間、時計を一時間進めていて、つまり10時でも9時の明るさなわけ。これをサマータイムといって、日本でもそうしようって考えがあるよ。夜おそくまで明るいと、大人もしごとが終わってから遊べるからね。でも北海道は朝の3時から明るいんだから、早起きして遊んだっていいと思うけど。

     6月28日 Tへ
 ひと足先に出国させてもらったけど、初めての国外一人旅は苦労の連続だったよ。最小限の荷物でも60キロ、オーバーウェイトで高くついたし、ホテルでも英語が解らなくて困ったし。まあきみの場合はこの手の心配はないだろうけど。
 気掛かりなのはやはり、向こうに着いてからの生活の事だろうな。アメリカの治安の悪さと最近の対日感情を考えると、重い気分になるのも分かるよ。モンゴルはかなり親日的だけど、治安の悪さは同様じゃないかな。社会主義から脱し民主化を進めて数年、今は所得差の拡大に物価の変動に雇用不安等々、資本主義のマイナス面ばかりが露呈している状態だからね。
 民主化直後の物不足といったら、もうすさまじかったらしいよ。モンゴルは早くからコメコン体制に組み込まれ、畜産物を供給する一方で機械や工業製品はソ連や東欧から得て、自国の産業発展はほとんど考慮しなかったらしいんだ。そのために公害と無縁でいられたという利点もあるにはあるけど、国家間での循環が機能しなくなったら……。唯一自給可能な畜産物さえ、輸送手段がマヒすれば都市部で不足する。食料の配給制はつい最近まで残っていたそうだよ。
 今は何でも西側からどんどん入って来ている。ただし物価もどんどん上がるけど。新聞社の近くに食品市場があるから、そこで安く買い物をして自炊でしのぐつもりでいるよ。でもどうしても外食になる事もあるんだよなあ。昨日の事、女性記者の用事に付き合い外出すると、その子の親友とバッタリ。で、そろってレストランで食事という事になった。そして会計の時になってから、二人はそろって「持ち合わせがない」とさ。三人分4160トゥグルクを払う羽目になったよ。パン数十個分の出費はつらいよなあ。だから今日は早めに、その子に安食堂で175トゥグルクの食事をごちそうしておいた。
 ロシアほどではないものの、モンゴルの通貨もインフレは進んでいる。おと年は一ドル360トゥグルクだったのが、去年は400、そして今年は440だ。ただしこの公定レートのほかに、ヤミのレートというのもあるんだ。一人では行かないようにと注意され、到着早々車で取引の場に連れて行ってもらったよ。大きなカバンを抱えた人達が、意外にも屋外をおおっぴらにうろついていて、その中の462の値を示す男に頼んだら、車中に乗り込んできて替えてくれた。彼らはそれをよそでさらに高値で売って、利益を得ているらしいんだ。今は官民あげて外貨獲得に必死だからね。それを持って外国に出て行き、担ぎ屋で荒稼ぎする者も多くなる一方さ。
 そうそう、僕としても物不足で困ってるんだ。電気製品が相次いで壊れてしまって。コンバーターなんてたった三日でスパークした。入力電圧の違いにより回路を自動切替するタイプなんだけど、その機構の複雑さが災いしたらしい。それからシェーバーも、コンバーターを通してチャージしたにもかかわらず溶けてしまった。今のところヒゲを伸ばすつもりはないから新しいのを探したら、日本製をコピーした粗悪な品ばかりだ。こういう品はそれでもここではぜいたく品で、みなドルで値が付けられているんだ。たとえ担ぎ屋になるつもりはなくても、誰もが外貨を欲しがる理由は解るだろ?

     6月29日 Rくんへ
 日本を出発してから今日で一週間。いろいろな事が起こるから、毎日がとても長いよ。
 出発したのはハイジャックのあった次の日だ。あんな事のあとだから心細かった。その夜泊まった北京のホテルでは、英語のわかる人に通訳してもらったりして、なんかすごくカッコ悪かったなあ。ホテルは空港近くの、一泊130ドルのごうかなホテル。そんなところ今まで泊まった事なくて、それもまた心細かったよ。
 次の朝、空港でモンゴルへ向かう人達を見ると、日本人がかなりいたよ。観光客に、仕事の人に、セミナーに参加するという学生(ホテルで通訳してくれた人)に、それにテレビの撮影隊もいた。でも引っ越して行くっていうのはぼくくらいのものだったよ。
 お昼すぎにはモンゴルの首都ウランバートルに着いた。とりあえずまたホテルに入ったよ。一泊8ドルの安宿に。北京の時とはえらいちがいだなあ。
 どうせだから食事も安くすませようと思って、さっそく市場へ買い出しに行ったよ。そしてその帰り道、大通りをタイヤがはね回っているのがふと見えた。なんだろうと思ったら、前の車のタイヤが一つなくなってるんだ。この国では車が故障して道のわきによく止まってるけど、その故障の瞬間を見たのは初めてだった。市場へ行ったのも初めてだったし、その前に道ばたで両替をしたのも初めてだったし、観光で来ただけじゃ見られないものを、たった半日でいろいろ見たよ。
 昼すぎからの半日とはいっても、まだまだ長いよ。ここでは夜9時半を過ぎないと日はしずまないからね。サマータイムといって、夏には時間を繰り上げているのが原因なんだけど、そのため今はモンゴルと日本とでは時差がないんだ。中国では1時間の時差があって、モンゴルまで来るとまた時差がなくなるなんて、おかしな感じだよ。
 着いた日の事だけで、話は過ぎてしまったね。新しい生活の様子は、またこの次に知らせるよ。これからのモンゴルストーリー、続きをお楽しみに。


     5 絵本到着

     7月10日 Aさんへ
 7月4日、ついに絵本が到着したよ! 北海道から67日ぶりに、僕はウランバートルであの絵本達と再会したんだ。なんだか感慨深いものがあるなあ。
 じつはターミナルには先週から到着していたんだ。でも週末に受け取りに行く当初の予定は、当日になって突然延期。辞書を通して記者の一人にたずねたところ、未だ変わらぬこの国の官僚主義が障害になってるらしい。彼はむっつりした表情を作ってみせて、もったいぶった動作でスタンプを押すしぐさをしたよ。ひとたび定まった役人のそういう体質は、長い時間を経て世代が変わらぬ限り、もう変化のしようがないのかね。
 ところでもめていた理由はというと、関税なんだ。いくら輸入ではなく寄付だと説明しても、全然通じなくて。とにかく、絵本にかかる関税(なんと20%!)は、とりあえず僕が生活費の中から立て替えた。たいした使命感も持たずにやって来た僕が、まさかこんな役まで負うとはね。
 そして火曜日の午後。コンテナターミナルへ向かうのに、僕はビデオカメラを準備した。到着はもう自分で記録するほかないからさあ。ところが、また入り口でウルサイ事を言うんだ。撮影は許可しない、入場者は3名までと。日本へ報告する義務があるんだと大きな事を言って、撮影だけは許してもらったけど。
 ターミナル内でカメラを回していると、頭上のクレーン操作手が大声でわめく。一瞬イヤーな気分になったけど、じつは抗議どころか撮ってくれというリクエストだったんだ。係官とは対照的に、現場の人達は寛容なので安心したよ。それに係官だって、検査のため取り出した絵本に楽しげに見入っていたし。
 絵本はトラックに積み替えられ、タイムスのある図書館前へ。ここからはもう自分達で運ぶしかなくて、大変だったよ。それでも通訳をしてくれている学生や、館内の売店の女の子までが運ぶのを手伝ってくれて、嬉しかったな。
 混載していたアパートへの荷物も、外で遊んでいた子ども達が運ぶのを手伝ってくれたんだ。それもとても楽しそうに。日本人からすれば仕事の手が遅いとされるモンゴル人だけど、小さな頃から働く事の重要性や満足感を身に付けているというのは、大きな美徳だと僕は思うよ。
 もう一つ、他人への手助けをごく自然に行えるというのも、うらやましいな。バスに乗っていても、荷物を支えたり老人に手を貸したりするのをよく見かける。そしてそれに対して、とくにお礼をのべる様子が見られないのがまた興味深いよ。自分にできる手助けをするのは、人々の間でもう当然の事なんだろうな。いずれは僕も、その一員になれればいいけれど。でもこの前はむやみに高い食事を当然のようにおごらされて、あ然としたけどなあ。
 さて、絵本は今、編集室の片隅に天井に届くほど積まれている。これが僕の仕事だ。モンゴル時間の中で、せいぜいゆっくり片付けていくよ。

     7月10日 Jへ
 絵本が先週ついに届いたよ。で、その大量の絵本の整理に追われ、いきなり僕は忙しくなった。ただナーダムの休暇に入ったから、今日はアパートでのんびりしてるけど。ナーダムというのは、国をあげての体育大会とでも言えばいいかな。またナーダム初日の7月11日は、革命記念日でもあるんだ。かつては盛大な集会も開かれたようだけど、今はどうなんだろう。
 さて、今回はまず僕のアパートから紹介しようか。と言ってもここは松田夫妻のモンゴルでの住居で、僕は単なる間借り人だけど。部屋はベッドルームとリビングのほかに八畳間(?)があり、僕はそこで生活してるわけ。もちろんバスやキッチンも使わせてもらってる。各戸に供給されるのは電気に水道(冷水と熱水)、あと今は停止中だけど暖房のスチーム。この国ではガス供給はなく、調理もすべて電気なんだ。シンプルなのはいいけれど、暖房も給湯も中央任せでしかも途切れがちとなると、不安は残るな。でも家賃に含まれる基本料金のみというのは助かるよ。電話も市内ならば無料だし。社会主義体制の崩壊後、教育も医療も有料になった中で、唯一残った生活保障の制度といえるかな。
 アパートは、12階建ての高層アパート。遠目には立派に見えるけど中は傷み放題、電灯も壊れて真っ暗だよ。エレベーターもあてにならず、10階の部屋まで階段を登る事もしばしば。まあ見晴らしがいいのは嬉しいけど。特に夜景は見事だ。向こうの山の中腹にはソヨンボという国の紋章が描かれているんだけど、昨夜からそれに灯がともっているよ。ちょうど神戸の市章山のように。お祭り気分はいよいよ高まってきたな。
 町ではウシにウマにヒツジまで見かけるけど、それでも大都会だよ。イヌも多いな。でもネコはまず見ない。たった一度だけ目撃した事があるけど、その時は前を横切る黒ネコに感激してしまった。
 僕は毎日バスで通勤しているけど、売店を眺めながら歩くのも楽しいよ。飲み物にお菓子、パンにタバコ、せっけんに歯みがき、缶詰にビン詰、肉に野菜、いろんな品ぞろえの店があって便利だ。あとは露地売りも多いな。ジュースにアイス、それからホーショールという揚げ物料理に、サマルという木の実など。新聞もやはり街頭売りだ。
 でも買い物は市場でするのが一番。慣れない者とみるとおつりをごまかしたりと、ちょっとばかり注意を要する場所ではあるけど、そんなささやかな緊張感もある意味では楽しいよ。抗議すればすぐ折れるから、この国はまだ穏やかな方だろうな。
 ただ、一度ショックな事があったんだ。日本の国旗がプリントされた小麦粉の袋が、公然と棚の上に置かれていた。援助物資が国民に配られる事なく売りに出されているという話を聞いてはいたけど……。今回の絵本にしても、もしそれを託すべき受け手がなく、ただ援助として送るだけだったとしたら、どうなっていただろう。
 話はそれるけど、まだ絵本が着かなくてヒマだった頃、同じ図書館内の売店の、リンチンスレンとソドノムバルジルという姉妹と友達になったんだ。愛称はスレンとソーコ。絵本が届いてからは、僕が忙しくなった代わりに二人が絵本目当てに遊びに来る。でもナーダムが終わると二人は、五週間も田舎へ行ってしまうんだとか。寂しいなあ。
 古くから草原で遊牧を営んできた人々だけに、都市生活者もたいていの場合、こうして夏を郊外で過ごすわけ。しかもその避暑地はゾスラン、夏の放牧地を意味する言葉で呼ばれている。じつは僕もひと足早く、一日だけそのゾスランの生活を体験してきたんだ。次は郊外の様子を紹介しよう。
 昨日はタイムス記者のサラントヤに誘われて、彼女の祖母の誕生日の集まりに出席したんだ。場所はウランバートルからバスで20分ほどの、ズーンモド・ゾスラン。なだらかな丘陵に、ゲルではなく木造の一戸建てが並んでいて、モンゴルとしては見慣れぬ光景の集落だった。でも料理はいかにもモンゴル風で安心したよ。まずスーテイツァイ。そして各種の乳製品。そしてメインの料理は、屋外でのホールホグ。これぞまさしくモンゴルの料理だよ。
 まず火を焚いて、手頃な大きさの石を十数個、充分に熱しておきます。石が灼けたら、牛乳缶に石と切り分けた肉とを交互に放り込みます。野菜も入れます。塩で味付けしたら缶のふたを閉め、それをそのまま火にかけます。中と外から充分火を通せばできあがり。
 どんな料理か分かってもらえたかな? たっぷりのスープがまた最高にうまい。石を灼いた時の灰が浮いてるけど、この日は薪を使ったから平気。もっとも、たとえ乾燥糞の燃料だって、きっとヤケクソで飲んだだろうけど。
 家族が多いというのもまた、モンゴルの特徴だ。サラントヤの兄さん達やその奥さんとを合わせれば、もう一ダースほどになる。そしてさらにその子ども達が加わる。たくさんの子ども達となかよしになれて、僕はそれが嬉しかったな。言葉はまだほとんど通じないけど、草原を駆け回って遊ぶのにそれはちっとも問題にならないし。
 モンゴル人と日本人とは外見上とても似ているけど、一つまったく違う面がある事に気付いたよ。モンゴルの人は、感情表現がとことんストレートでオープンなんだ。初対面の警戒心は露骨に表情に表すし、うちとけた後の親しみの言葉もくどいほど繰り返す。そして感激すれば人目をはばからず涙を流す。たぶん日本人が淡泊というか抑制しすぎているのだろうけど、こういった面は欧米人に近い印象を受けたよ。スキンシップもまた欧米的。お別れの時、子ども達とごく自然にほっぺにキスし合えるのがまた嬉しかったな。でもキスの相手は女の子から、おばあさん、おじさんへと続き……。
 なんだか疲れがどっと出てきた。今夜はこのへんでおやすみ。

     7月13日 Mちゃんへ
 今モンゴルは、ナーダムとよばれるスポーツフェスティバルの連休なんだ。ぼくもアパートで休養中。つかれが出たのか、ちょっと熱っぽくてね。休み明けには新聞社のツアーで日本人団体がやって来るし、またつかれそうだなあ。ところで、今日はMちゃんのたんじょうびだから、ハッピーバースデー。
 たいしたものは送れなくてゴメン。今回入れたのは、新聞社のある図書館の売店で売っている、紅茶のティーバッグのつつみ紙。バナナのフレーバーというのが変わってるだろう。今ではいろんな輸入食品が出回ってるよ。
 じつはこれ、買ったんじゃなくて、なかよくなった売店の女の子からもらったんだ。スレンというその子は始めからぼくの事をШиничи ахなんてよんでくれて、この国でこんなに早く妹みたいな子にめぐり会えるとは思わなかったな。でも、その子は明日からいなかへ行ってしまうんだって。しばらく会えないと思うとさびしいな。
 ほかにも友達はいるし、元気を出そう。新聞社には記者の家族が時どきやって来るんだけど、こないだはちっちゃな女の子が来たよ。ノミンという名前にびっくりしちゃった。ルリというきれいな石の意味なんだけど、ぼくのしんせきの子が、やっぱりルリちゃんというものだから。ほんと、おどろいたなあ、モンゴルにもルリちゃんがいたなんて。
 それからマックサルジャルンというむずかしい名前の子も来たよ。スレンとかノミンとかと同じように、やさしいよび名もあるはずなんだけど、それはまだ教えてくれない。ぼくの発音がヘタなのをおもしろがって、いつまでもそうよばせるんだ。小さいくせになかなかナマイキで、でもとってもかわいい子だよ。13才だというんだけどまだピアスも付けないで、どうみても10才くらいにしか見えないんだよなあ。
 どういうわけか、なかよくなれるのは女の子ばっかりだ。男の子は身近にいないんだよ。町ではよく見かけるんだけどね。道ばたでくつみがきをしたり、ジュースを売ったりする子たちを。
 アイドル歌手のようなドレスに大きなリボンの子が親に手をひかれて歩く一方で、ほこりまみれのだぶだぶの服をひっかけた子が道ばたにしゃがみこんでいる。今のモンゴルの子どもたちというのは、そんなふうに差がはっきりとあらわれてしまっているんだ。
 どうしてそうなったかかんたんに言うと、むかしの社会主義という国の仕組みの中では、学校でも病院でも、それからしごとでも、たいていの事は国がめんどうをみてくれたから、まずしい人もなくみなが同じように暮らしていけたんだ。ただしそのかわり、かってにどこかへ行ってはいけない、外国の事を知ってはいけない、国の悪口を言ってはいけないと、自由はほとんどなかったけど。それが今は資本主義という仕組みに変わり、好きな場所で好きなしごとをして、つまり自分の力で自分のお金を作ってもいい事になり、もちろんなにを見てもなにを言ってもいいとすっかり自由になったわけ。でもそれはやっぱりいい事ばかりじゃなくて、成功した人はどんどんゆたかになるけど、失敗した人はどんどんまずしくなってしまうんだ。今までみんな国にめんどうをみてもらっていたから、なおの事大変なんだよね。
 絵本を受け取りにコンテナターミナルへ行った時、ジュースを売る男の子に会ったんだ。その子に学年をたずねると、3年生だったという答えが返ってきた。もちろん、今度4年生だという意味じゃないよ。読み書きとかんたんな計算さえできれば用はたりるからと、学校をやめてしまったらしいんだ。もっと勉強をかさねてしょうらい大きなしごとにつくよりも、今食べていく事のほうが大事なんだろうね。
 それから、こんな光景を目にした事もあるよ。安食堂のとなりのテーブルで十代前半の男の子三人が食事をしていたんだけど、三人は食後にタバコをすい始めたんだ。こんな事、日本でなら問題だろうけど、ここではそれもしかたないよ。あの子たちは自分のはたらいたお金でそれを買っていて、つまり年は小さくても、しごとをして家計をささえる大人なんだから。
 そうなると、いつまでたっても一人前になれない自分がはずかしくなるな。こないだは記者の一人にさそわれて、いなかに遊びに行ったんだ。その妹の、例のマックサルジャルンもいっしょに。そして昼ごはんの前に泉へ水くみに行くと、とちゅうに橋のない川があった。ぼくがはだしになるのをちょっとためらったら、いきなりマックサルジャルンにおぶわれてしまったよ。28才のぼくが13才の女の子におんぶされたなんて、どう思う? また帰り道にはぼくも水の入れ物を一つ持ったんだけど、とちゅうで穴にはまってひっくり返った。せっかくくんできた水を、ぼくは頭からかぶってしまったよ。もうはずかしくて、しばらく起き上がれなかった。こういう時の気持ちを、穴があったら入りたいって言うのかな。それじゃ、バイバイ。


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