川の街・坂の街・空の街 − モンゴルに見た輝き 3 −


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     6 展示会の日に

     7月16日 Rくんへ
 こないだまで、町はナーダムとよばれるスポーツフェスティバルでにぎわっていたんだ。モンゴルでもっとも盛大なお祭りだから、ぼくも見物したよ。でもそれよりも興味があったのは、そのナーダム初日の7月11日は革命記念日でもあるという事なんだ。
 ちょっとむずかしい話をするよ。むかしモンゴルはモンゴル人の住む土地でありながら、よその国の一部だった。モンゴル人はなんとか自分の国を建てたいと思い、最後はロシアの力をかりて独立を果たしたわけ。それが1921年7月11日の事で、それ以来その日は大切な意味を持つ日になったんだ。
 けれど数年前、民主化という国のしくみの変化によって、モンゴルはロシアからすっかりはなれてしまった。今のそういう時代に、革命記念日というのはどういう形で残っているんだろう。
 ウランバートルの中心部には、モスクワの赤の広場や北京の天安門広場のようにスフバートル広場というのがあるから、その日の朝そこへ行ってみたよ。すると、年とったえらそうな人たちが、スフバートルという独立運動でかつやくした人の像に、敬意をあらわす布をささげているだけだった。あとは演説みたいな事もいっさいなくて、すぐに解散してしまったよ。ブラスバンドの衛兵たちも、さっさとバスに乗ってスタジアムへ行ってしまった。
 あとで聞いたら、広場では前日になにか催しがあったらしい。革命記念日の意味あいはもうすっかりうすれて、今ではナーダムの前夜祭くらいのものでしかないみたいだね。
 ぼくだって、ほんとは陽気なお祭りさわぎの方が好きだ。モンゴルずもうは有名なだけあって、たしかに見ごたえあったよ。弓はすもうにくらべると地味だけど、けっこう好きだな。左ききの人が堂々と左手で矢をつがえるのを見ていると、気分がいいよ。日本はかなり押し付けがひどかったからなあ。
 そして一番見たかったのは、なんといっても競馬だ。馬に乗るのは子どもたちで、そのけなげながんばりぶりにもひかれていたし。息子が出場しているというおじさんが、かけこんできた先頭集団を見るなり突然飛び出して行った。その息子が5番を走っていたためで、ただの見物人であるぼくにもそのこうふんは伝わってきたよ。
 だけど、つぎつぎかけぬける馬を見ているうちに、しだいに気持ちがふさいできた。乗り手のいない馬がかなり目についたから。途中で何人も落馬しているんだ。平原に投げ出された子どもたちがぶじだといいけど。
 そして馬もまた、すべてがぶじとはかぎらない。この日はイフ・ナスという6才以上の馬による競技で、距離も30キロともっとも長かったんだけど、その長距離の全力疾走にたえられず、ゴールを目前にして何頭もの馬が倒れてしまったんだ。馬に限度をこえた走りを課すのは、なにも日本の競馬だけじゃないらしい。馬をかりたてる乗り手がいて、その乗り手である子どもをせきたてる親がいて、それではちっとも変わりないよ。
 でも、馬を道具のように考えていないのはすくいだった。息絶えた馬に取りすがって泣く子は、リタイアした事をくやしがるよりも、大切な馬を失った事を悲しんでいたはずだから。
 なんだかしずんだ話になってしまったね。最後におもしろい話をしよう。前にバスケットの試合を見に行ったんだ。モンゴル対アメリカの試合で、意外にもモンゴルチームは強かったよ。でも、モンゴルでの試合というのがアメリカチームには不利だったかな。試合の途中、天井の水銀灯が突然破裂して、ガラスが降りそそいだんだ。それでアメリカチームはすっかりおじけずいてしまった。もちろんモンゴルチームは平然としていたよ。なにしろ走る車がタイヤを飛ばす国だからね。

     7月23日 Aさんへ
 14日、ついに今年のツアー第一陣が到着だ。去年のメンバーとひさしぶりの再会ができた。そうそう、あのサラさんとも再会したよ。ただ、もしかすると秋にも日本に留学する事になるとか。皮肉なもんだよなあ。
 ツアーメンバーはすぐにフブスグル湖へ飛んだけど、僕は町に残って仕事だ。日本から届いた絵本の紹介を目的とした展示会が予定されていて、その準備があったから。
 その展示会、最初は僕一人で展示方法を設定して準備にかかったんだけど、ほかのスタッフ達はどうも不満げな様子。ついには編集長に、こんな展示会ならやらないほうがマシとまで言われてしまった。聞けば、モンゴル人に対しては整然と系統立てて示すよりも、無秩序でもとにかく物量で圧倒する方が効果があるらしい。結局は分類も何も関係なく雑然と積み上げられてしまった。
 僕は今でも、自分のデザインした展示スタイルは悪くなかったと思ってる。ただ、モンゴル人の事もよく知らずに一人でやろうとしたのは間違いだったんだろうな。僕ももっとおおらかにならなければ。
 展示会初日にはテレビやラジオの取材も詰め掛け、あまりの事の大きさに驚いてしまったよ。もちろん嬉しい驚きだ。でもそれ以上に嬉しかったのは、なんといっても大勢の子ども達が集まってくれた事だ。なかよしの売店の姉妹が留守なのは残念だけど、そのかわり新しく知り合えた子もいるしね。その子は学校で5年間日本語を学んだそうで、11才にして見事な日本語を話していたよ。そしてこの子も、もしかすると秋には日本へ行くんだって。嬉しい後にはどうしていつも、寂しい話が続くんだろう。
 でももう一つ、最高に嬉しい事があったんだ。展示会初日に父から手紙が届いたんだけど、それには僕が日本で最後に同人誌に投稿した作品が、新人賞を受賞したとある。奨励賞から一年半を経て、ついに念願の新人賞をものにしたんだ。もう飛び上がって踊り回って喜んだよ。困惑していたスタッフ達も、事情を説明したら一緒になって喜んでくれた。この事もモンゴルタイムスに書いてくれるってさ。

     7月23日 Jへ
 このところ嬉しい事ばかりが立て続けにあったよ。まず今年のツアーをきっかけに、去年通訳をしてくれたサラさんと一年ぶりに再会したんだ。ただ、会うなり思わずゴメンナサイの言葉が口をついて出てしまった。旅行記に彼女の事をことわりもなく書いたのが、なんとなくうしろめたくて。でももちろん会えたのはとても嬉しかったよ。
 ヒツジに会いに行く時は、僕もツアーに同行出来た。参加者最年少のたっくんと、それから副編集長の息子のビルグンくん、ひさしぶりに男の子達と一緒に遊んだよ。
 そして、日本から届いた絵本の展示会が開かれたのも、嬉しい出来事だった。スレンとソーコがいないのは残念だったけど、でもマーガというこないだゾスランで一緒に遊んだ子が来てくれた。絵本に夢中になるような幼い面が、ほほえましかったよ。
 それから日本語のじょうずな女の子も来ていたよ。その子の通う第23学校では1年生から外国語を習うんだって。モンゴル人の外国語習得にかける熱意は、ロシア語中心から英語や日本語に志向が変わろうとも、その本質は今も変わらないらしい。この国では8才から義務教育に入るけどもっと早く入学してもかまわないそうで、実際その子も7才で入学したらしく、今は11才の5年生だとか。子どもの吸収力で5年も学んだだけあって、かなりしっかりした話し方をしていたよ。
 でも理由はそればかりではないようなんだ。この子はテレビの子ども番組にアナウンサーとして出演してるんだって。サインもらえばよかったな。ムンフジャルガラン、限りない喜び、素敵な名前だよね。
 そして、中でももっとも嬉しかったのは、展示会初日に届いた父からの手紙で知らされた、コスモス文学新人賞の受賞。あまりの嬉しさに、マーガの手を取り踊り回ってしまったよ。スタッフ達には笑われたけど、みんなも喜んでくれた。絵本展示会のオープンに始まって新人賞受賞の通知が続き、きっとこの日の事は一生忘れられないだろう。本当に、最高の一日だった。
 ところで、受賞作品が何かを知らせる前に、まずゴメンナサイ。じつは例の物語なんだ。実名を出さなかった事と創作として発表した事で、かんべんしてよ。

     7月27日 Rくんへ
 モンゴルに来て一か月が過ぎたよ。言葉はまだおぼえられないけど、一人ぐらしは日本にいるころからなれてるし、たいしてこまる事もなく過ごしてる。それどころかもう毎日が楽しくて、ずっとこのままこの国にいたい気分だよ。
 今回はむずかしい話はやめておくけど、今モンゴルでは、学校に行けない子どもがふえたり子ども向けの本がほとんどなくなってしまったりと、子どもに関する問題がとても多いんだ。それで去年新聞社がモンゴルに絵本を送ろうと呼びかけて、日本全国から1万5千さつもの絵本が集まったわけ。それがモンゴルにとどいたから、そのしょうかいのために展示会を開いたんだ。
 展示会には毎日おおぜいの子どもたちが集まってくれて、もう楽しくてたまらなかったよ。子どもたちのあんなにうれしそうな様子を目にしたのもひさしぶりだ。ほんとはぼくは、こんなふうに子どもたちにかこまれるところで仕事をしたかったんだ。その望みがほんの数日とはいえかなうとは、思いもしなかったよ。
 けれどももっともっと最高にうれしかったのは、その展示会初日にとどいた父さんからの手紙だ。ぼくが日本で最後に送った作品が、賞を取ったと書かれてたんだ。ほんと、最後まであきらめるもんじゃないね。
 さて、いつかそのうちモンゴルの物語を書く事になるだろうけど、それもまたみとめられるようにがんばらないと。

     7月27日 Mちゃんへ
 手紙はちゃんととどいてる? きみにもこれで3通目だけど、一か月でずいぶん書いたなあ。だってここでは楽しい事ばかりあるからね。こないだはサラさんと再会したよ。ぐうぜん家もすぐ近くなんだ。かってに旅行記に書いた事をおこられるかなとちょっと心配だったけど、わらいながら読んでくれたからほっとした。ところで旅行記もちゃんととどいた? ひょっとしたら、イニシャルだけでも勝手に書いた事をおこってるかな。
 日本からとどいた絵本をしょうかいする展示会を開いたんだけど、それもとても楽しかったよ。なんといっても、子どもたちがたくさん来てくれて、よろこんでもらえたのがとてもうれしかった。マックサルジャルンも来てくれたし。この日初めて聞いたんだけど、この子ふだんはマーガとよばれてるんだって。ぼくもこれからは、おにいちゃん気分でそうよばせてもらおう。
 それから新しく知り合った子もいるよ。日本語のじょうずなその子は、テレビの子ども番組のアナウンサーもやってるんだって。それを聞いて急にテレビが見たくなったぼくは、テレビだけはアパートにあるからアンテナをさっそく買いに行ったよ。でもテレビはけっきょく写らなくてガッカリ。
 いやいや、そんな事くらいでおちこまないよ。なにしろぼくは今最高にしあわせな気分だからね。絵本の展示会ですっかりまいあがっていた時に、父さんから手紙がとどいたんだ。それにはぼくの物語が賞を取ったと書かれていて、ぼくはますますまいあがってしまったよ。自分の子ども時代をもとに書いたものがみとめられたわけだけど、子どものころにちっとも勉強しないで遊び回ってばかりいたのが、今になってこんな形で役に立つなんて、不思議なものだよね。


     7 夏の日々

     8月 新聞寄稿
 今年もまた、あの日がめぐってきた。うだるような暑さも、セミの焼けつくような声の響きもここにはないが、これが同じあの日である事に間違いはない。
 日本では、毎年8月6日の朝、広島平和公園での慰霊祭の様子がテレビ中継される。そして8時15分、原爆が投下されたまさにその時刻になると、集まった大勢の人々は犠牲者の霊に対し黙祷を捧げる。そのしばしの静寂の荘重さに、戦後世代と呼ばれる戦争の経験を持たない僕ら若い世代も、ひどく厳粛な思いにとらわれたものだった。
 広島長崎への原爆投下から終戦に至る夏の日々を、僕は今年初めて日本の外で迎える事となった。モンゴルの夏はあまりにも爽快で、当時の人々が味わった失意を含んだような日本のけだるい暑さにはほど遠い。しかしそれにもかかわらず、モンゴルで迎える8月6日は、ほかのどの国にいるよりもヒロシマに近いだろうと感じた。
 モンゴルで知られている少女の折り鶴の歌を日本に紹介してくれたのは、現在日本で活躍しているモンゴル人歌手のオユンナだった。原爆により白血病にかかった少女がはかない望みを折り鶴にこめた物語は、確かに日本国内でもよく知られている。だがそれがモンゴルにまで伝えられ、しかも歌として広められているとは思いも及ばなかった。オユンナは、モンゴルで誰もが知っているこの歌が日本ではまったく知られていない事に驚いたそうだが、僕達日本人からすれば、日本のかつての悲劇がモンゴルで歌い継がれている事にこそ驚きを感じたものだった。
 しかしなぜ、モンゴルの人々は日本の悲劇にこれほどまでに共感してくれるのだろう。
 ザイサントルゴイに登る日本人観光客はたいてい、旭日旗を踏み折る兵士の絵に身を硬くし、ぬぐい去れない過去を痛感する。それなのに、モンゴルの人々が日本に温かな思いを寄せてくれるのはなぜなのか。戦争の犠牲者に対するいたわりの心には、国の違いによる隔たりなど存在しないものなのだろうか。
 それを考え合わせると、最近のアメリカの対応にはひどく失望させられる。以前、終戦50周年を記念した切手の発行にあたり、キノコ雲の図案にまるで原爆投下を正当化するようなコメントがかぶせられ、問題とされた例があった。また同国で開かれた原爆展は、退役軍人団体の圧力により規模を大幅に縮小された。削除の対象となったのは、原爆投下後の惨状を伝える展示内容だ。このような事実を認めたくないという心理が働くのは、やはり加害の当事国だからこそなのかもしれないが。
 しかしそれならば、日本もまた被害者の面ばかりを強調しているわけにはいかないはずだ。海外に原爆の理解を求める事ももちろん大切だが、同時に戦時下にアジア各国に及ぼした非人道的な行為にも、目を向ける必要があるだろう。
 日本では、長年秘匿され続けた化学兵器や生物兵器の使用の事実が、近年になって次第に明らかになりつつある。たとえば関東軍七三一部隊が初めて細菌を実戦使用したのは、1939年8月にハルハ河においてだという事実も明らかにされた。モンゴルに温かく迎え入れられた日本人としてはこれほどつらい記録はないが、これも当事国の人間として、目をそむけて過ぎるわけにはいかないのだろう。
 だが、まだこれで戦中戦後の暗部がすべて明らかにされたとはいえず、もちろんそれに対する公式な謝罪や保障問題も残されたままになっている。今後のアジア各国間同士の関係をさらに改善するためにも、戦後50年の節目をきっかけとして、お互いすみやかに過去の清算を終える事を望みたい。

     8月12日 Jへ
 モンゴルはもう少しずつ秋めいてきているよ。日本はたいへんな暑さらしいね。3番目のツアーが来て、ひさしぶりにいろいろなニュースを得たよ。
 涼しい高原にいると、蒸し暑かった終戦の夏のイメージも湧かなくて。それなのに、こないだは原爆について書くよう頼まれてしまい大変だった。文筆業を志す以上ここで引き下がるわけにはいかないけど、やっぱり創作の方が気楽でいいよ。翻訳の方でも、日本語科の学生にずい分苦労をかけてしまった。二人分の苦労の価値ある記事に、なっていればいいけれど。
 その学生はアリオナーという女の子で、毎日のようにタイムスに顔を出してくれるんだけど、こないだはスタッフ達に、その子に関してかなりきつい冗談を言われてしまった。ビザの話から始まって、いつまでモンゴルに滞在するかという話題になったんだけど、結婚すればいつまでもここにいられるなんて事を言い出すんだ。こういう話題に流れるのはもうお決まりのパターンだけど、しまいには、相手にはアリオナーがいいんじゃないかとまで言う始末。本人の前でのこういう冗談はタチが悪いよな。笑っていれば誤解されるしかといって嫌がれば失礼だし、7つも年が違えば妹みたいなものだと逃げるのがやっとだよ。
 そういえば、サラントヤの事も妹呼ばわりしたっけ。またズーンモド・ゾスランに遊びに行った時、軽い冗談でサラとマーガを、大きい妹小さい妹と呼んだんだ。するとサラは年を逆にサバ読んで、わたしはほんとは30才だからきみの姉だなんて言い返す。数字に弱い僕が40才? とうっかり聞き返すと、サラはおこるおこる。女性相手に年齢に関しての冗談は通じないって、よーく分かったよ。
 でももう一人のサラ、ツアーの通訳についてくれたあのサラさんも言っていた。モンゴル人は親しい間柄同士では、かなりきついと思われる冗談でも平気で言い合うものらしい。今回のツアーには僕も同行したんだけど、夜にサラさんのゲルを訪ねた時、おみやげは? といういきなりの催促に絶句したものだった。
 そして、スタッフのバトジャルガルとサラントヤも含め四人でおしゃべりをしていると、いきなりツアー客の一人がやって来て、本を見せてくれと僕を呼ぶんだ。それについて、後でバトジャルガルはこうコメントした。あの人はサラさんの身を案じ、適当な口実をつけて僕を外に連れ出したのに違いないと。僕はまたもや絶句さ。こういう手厳しい冗談に対して、気のきいた返答ができるようになれば一人前なのだろうけど。
 でも、一番冗談きついのはやっぱり日本人かもしれないなあ。前のツアーで来た新聞記者が、取材の合い間に僕の写真を見て言ったんだ。「これは奥さんとお子さんですか」。その写真は、最初のツアーに同行してヒツジに会いに行った時、サラさんとたっくんと並んで撮ったもの。僕が否定すると相手はあっさりうなずき、たっくんを指差しながらこう言った。「ああそうですね、この子はどう見てもモンゴルの子だ」。
 最後にもう一つ面白い話を。僕のモンゴル名が決定したんだ。シンイチに音の似たモンゴル語という事で、サンチルСанчирという名前になったよ。意味はというと、これが冗談みたいなんだけど、なんと土星の事だった。中学時代に僕が土星呼ばわりされていたのは憶えてるだろ? しかも、僕の住む所はバヤンズルフ区のサンサル町なんだけど、このСансарの意味は宇宙。これって出来すぎだと思わない?

     8月14日 Aさんへ
 ツアーも帰国して、ひと心地ついたよ。今回は僕もゴビからハルホリンへと同行したり、それに前後して新聞記事の執筆があったりで、ここのところ忙しかったけど。
 ゴビに降り立つのは、おと年去年と数えて今年で3度目。そうなるともう新鮮みは感じられないな。その代わりなんだか懐かしい気がしたよ。陽射しの勢いも、草の香りも。
 ヨリーン・アムを訪れたのも2年ぶり。ただ、谷間に残る氷を見たのは初めてだ。前回はすっかり解けていたからね。だから、本などでは万年雪と紹介される場合もあるけれど、今年でせいぜい二年雪のはずだよ。
 大きな角の野生のヤギが、山の稜線に張り出す岩の上に立つのを見たよ。いかにも孤高の動物といったシルエットだった。ウスユキソウも見かけた。西洋名エーデルワイス。モンゴルではツァガーンオールツツク、白き山の花と呼ぶらしい。摘まれてもしおれない事から永遠の花とも言われるけど、本当の永遠の花、ムンフツツクは別の花の名前だ。去年ゴビで出会った女の子がやはりムンフツツクという名だったもので、特別その花には思い入れがあるんだけど。でもその花は見られなかった。
 残念ながら、その子にも会えなかったよ。でも翌日ハルホリンで飛行機を降りると見憶えのある男の子がいて、トゥルバット? と声をかけると、その子は笑いながら手を差し出す。草の実くんとの一年ぶりの再会だ。今年もまた草の実を飛ばし合って遊んだよ。
 ハルホリンでは、写真を撮りに行く松田さんに同行。目標のアネハヅルのほか、貴重な目撃もあったよ。夏の間、シベリアでなくモンゴル高原で営巣するハクチョウもいるんだ。日本では冬の鳥のハクチョウが、夏の川べりの深い草の中にいる。まさにここは、テレビの秘境番組の世界だな。
 今回ツアーに同行したスタッフは僕のほか、バトジャルガルという僕と同年代の物静かな男性と、サラントヤという学校を出たばかりの明るい女性、そして去年からもうおなじみのサラさんことサラントゴス。夜にはバトジャルガルと一緒にサラ×2のゲルに遊びに行ったんだ。そして乳製品をかじりながら四人で楽しくおしゃべりしていると、ツアー客の一人が突然やって来て、本を見せてくれと僕を引っ張り出す。この人は僕が買った工芸品の本を昼間から見たがっていたんだけど、なにもこんな時に来なくても……。勝手に見といてくれと言ってまたすぐサラ達の所に戻ったよ。
 去年のモンゴルホタクにしてもそうだけど、僕が珍しい物を手に入れると、決まって誰かがうらやむから困るよ。えらそうな事を言うつもりはないけど、自分の持たないものに対してすぐ卑屈になったりしないで、もっとのんびりかまえて望みを将来まで持ち続けてもいいんじゃないかな。僕だって、モンゴルで暮らす望みをかなえるのにずいぶん長い時間をかけたんだから。
 さて、この次の望みはというと、やっぱり郊外で暮らす事かな。遊牧民になるのは無理だとしても、ゲルを一つ持って好きな所で暮らすなんていいだろうなあ。

     8月16日 Mちゃんへ
 こないだおもしろいものを手に入れたよ。口琴という小さな楽器なんだけど、リードをはじいて音を出し、それを口でひびかせるものなんだ。単純な楽器だけど、だからこそむずかしいよ。でも今の金物でできたものは、リードの先をゆびではじくしくみだからまだかんたん。むかしの竹でできたやつは、リードについたひもを勢いよく引っぱるしくみだから、音を出す事からしてむずかしかった。アイヌのムックリがそうだよね。
 この楽器はヨーロッパから日本まで、いろんな国に伝わっているんだ。もちろんここモンゴルでも、竹で作ったムックリそっくりの口琴がむかしからあって、うらないの時などに使っていたようだよ。
 この口琴をいつも練習してるんだけど、でも日本人には見せないんだ。観光客はなんでもほしがるからね。ぼくもそういう観光客の一人とごかいされて、いろいろ売りつけられそうになる事があるよ。バスの行き先をたずねられてうっかり日本語で答えたとたん、近くにいたおじさんがこう言うんだ。オオカミの毛皮を40ドルで買わないかって。その40ドルをかせぐのに2か月はたらかなきゃならない日本人もいる事を、わかってもらいたいね。
 観光シーズンの間は、モンゴル人のふりをしていたほうがよさそうだ。でもそうすると、こんどはこんな事があったりして。バスの中で黒いカバンをかかえていたら、車掌とまちがえてぼくにお金をはらおうとする人がいたよ。
 さて、こないだまたいなかに遊びに行ったんだ。もうすっかりなかよしになったマーガと、まだよちよち歩きのバーサンフーと、また楽しく遊んだよ。
 でもその日はおそくまで遊んでいないで、すぐに町に帰った。マーガの兄さんのバトジャルガルが、のどをいためて入院してるから、そのおみまいに行ったんだ。病院は信じられないくらい大きかった。だからこそ、へんに静かなせいもあってさびしい感じがしたけど。でもバトジャルガルは元気そうで安心したよ。
 病院から帰る時に大雨になってしまった。ぼくのアパートが近くだから、雨やどりによってもらったんだ。そして食事をごちそうしたら、おいしいってすごくよろこんでくれて、ぼくもうれしかったよ。そしてそのあと、かたづけをマーガが引き受けてくれた。その仕事ぶりがすごく手ぎわがよくて、感心してしまったよ。家のてつだいでなれてるんだろうな。それはマーガにかぎらず、どの子でもそうみたいだよ。
 それからもう一つ感心するのが、おかしをかならずまわりのみんなにも分ける事。バーサンフーにチョコレートをあげたら、あんな小さな子がそれを一人じめにしようとしないで、よちよち歩いてみんなにくばって回るんだ。子どもたちのそういう面は、きっと大家族の中でくらしている事から身につくんだろうね。でもぼくはぎゃくに、一人ぐらしをするようになってからやっと家事をするようになったけど。おかしをみんなに分けたりするのは、モンゴルに来てからようやくだよ。


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