陽光・星空・子ども達 − モンゴルに見た輝き 1 −


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     8月26日 木曜日
 今朝には乾いていた靴も、ホテルの周辺を散歩するうち、朝露でまたすっかり濡れてしまった。僕は草地と見ると踏み込みたくなるし、小川と見ると飛び越えたくなる。今は特に、子どもの頃からのそんなクセが強く出るようだ。
 午前は寺院と博物館の見学。どちらも撮影が制限されていて、めんどうなので録音だけした。
 ガンダン寺院は、目にする物すべてが鮮やかだった。彩色された仏像。回るマニ車。天井から下がる五色の布。橙色の僧服。そんな中で、群れなすハトが懐かしく思える。確かにここは、お寺の境内だ。
 わずかに傾斜のついた長方形の台が、いくつも置かれている。人一人が寝そべるのにちょうどいい大きさだが、これはデッキチェアーじゃない、そんな事すりゃきっとバチが当たる。これは合わせた手を頭上にかかげてうつぶせながら拝む、五体投地のための台だそうだ。
 中央博物館はさすがに展示物も充実していたし、建物の外観も大げさすぎるくらいに立派だった。説明書きは読めなくても、展示物を見ているだけで楽しめた。鉱物。金属鉱石のほか水晶や鍾乳石もあった。隕石。大きな隕鉄が触れられるような場所に置いてある。標本。僕が見かけた虫などごく一部らしい。はく製。やはり見た事もない動物が多いが山岳地域で会えるのだろうか。そして恐竜化石。骨格だけで立ち上がる姿には復元模型にない本物の迫力がある。
 最後に売店に寄り、観覧室でホーミーの不思議な歌声やシャーマンの激しい踊りを見学した。ホーミーで歌う赤とんぼも素晴らしく、それだからなおの事、最後の「一人3ドル」が興ざめだった。
 午後は最後にコンサートに行くまで、ずっとショッピングだった。いや、その前にスフバートル広場に立ち寄った。あきれるほどに広い広場の中央には、これまた巨大な像が据えられている。スフバートルとかいう人の乗るウマの像が。というのは冗談で、主役は馬上のスフバートルさん。だからソッポ向かずに前を向いててもらいたいもんだ。
 ここで写真を撮った。地元の子ども達と一緒に。はにかむ地方の子に較べて、都会の子はやはり物おじしない。モンゴルは町だって捨てたもんじゃない。あんなに人なつっこい子ども達がいるのだから。こちらが観光客だから写真を頼んだり出来るのだし、あの子達も好奇心から近付いてくるというのは分かっている。それは承知のうえで、僕は子ども達との交流を楽しみたい。日本でさえまれな事だから。
 とうとう民族衣装を一式そろえてしまった。こないだ買った帽子だけでは物足りず、今日はデールと長靴ゴタルも買った。これで鞄は飽和状態だろうから、買い物は早めに切り上げた。
 本当に買い物はまだるっこしい。買いたい品物を店員に示すと、何か書き込んだ紙を手渡されて品物は取り上げられる。その紙を持ってレジに行き、料金を払って領収書をもらう。それをまた店員に示してから、ようやく品物は包装され手渡される。父の言うには、これは旧ソ連の方式だそうだ。一人でレジを打っては領収書を書くのだから、列はどんどん長くなり、よほど欲しい物でなければ買う気にはなれなくなる。でも考えてみれば、民主化直後で未だに残る社会主義の頃のスタイルと思えば、興味深くもある。
 今日は店に閉じ込められなかったので、一人店を出た。町を歩くのはこれが初めてだ。バスに荷物を置いて、手ぶらで歩く。こうしていれば、比較的色白(日本人にしては黒いが)なのを除けば、僕もモンゴル人に見えるんじゃないだろうか。通りを歩いていても、誰も僕を見ない。住宅街に入っても、カメラを持たなければ子ども達もしらんぷりだ。日常のひとコマのように、僕はアパートの立て込む中を歩き回った。
 ウランバートルは、大通りを一歩入るとすぐ住宅地になっている。町はずれのゲル集落を除けば一戸建ては見当たらず、すべて集合住宅だ。裏へ回っても割合人通りは多い。近道でもする人だろう。
 行き交う人達の服装は、変化に富んでいて見飽きない。洋服がほとんどだが、昔ながらのデールを着た人もその中に自然に溶け込んでいる。ちょうど車の行き交う道路を、ウマがごく当たり前に通り過ぎるように。また洋服を着た人にも、ひどく鮮やかな原色も見られ、やはり独特な感じがする。特に子どもには、はっと目を見張るような装いが多い。それにしても、モンゴルの少女は本当にかわいい。どの子も額やほほがきれいで、髪の長い子が多く、お下げが背中で揺れている。この国の少年として生まれられなかった事が、とても残念に思える。
 コンテナを並べて置いた車庫が奇妙に見えるほかは、住宅地は日本の団地にそっくりだ。公園では、いろんな年の子が一緒に遊具で遊んでいる。昇降口近くの壁際では、女の子達がゴム跳びをしている。子ども時代を過ごした東京の社宅を思い出して、懐かしくなった。
 父はこの町並みに、40年前の日本の町並みを思い出すそうだが、僕はこの子ども達の姿に、20年前の日本の子ども達の様子を思い出す。まぎれもない僕の子ども時代の世界が、ここにはあった。さて、今の日本の子ども達が20年後のウランバートルに来たとしたら、そこにかつての日本の、かつての自分のどんな世界を見るだろう。
 ひと通り見て歩いたが、警官がツアーに同行する必要があるほど物騒な町だとは、僕にはとても思えなかった。もっとも、散歩くらいで分かるはずもないが。
 今モンゴルは物不足や、それから経済の事などいろいろと深刻らしい。難しい事はよく分からないが、民主化直後の今が一番大変な時なのかもしれない。けれど広場で子ども達と騒いだりのん気に散歩したりする僕の目には、やはりそんな暗さは映らない。ただ一つ、トロリーバスだけは疑問に思うが。電力供給が不安定だというこの町で、今もトロリーバスを走らせるのは不可解だ。たぶん、燃料不足の方がより深刻なのだろう。

 ホテルに帰り、古くからの手紙友達にハガキを出した。絵ハガキを欲しがっていたけど、喜んでもらえるかな? でも届くのはいつになるだろう。売店でふと見かけた日本の新幹線の切手が面白く、早く着くおまじないにとそれを選んだ。それにしても、どうして新幹線が赤いんだろう。真っ赤なウソの新幹線、なんて。
 それはともかくとして、これでやるべき事はみなすませたと思う。最後のパーティーにも出るだけは出たし。ほかの連中が酔って騒ぐのにはちょっと興ざめ。日本にどこにでもいるような大人達の姿で、ちょっと入っていけない感じ。大人のやる事は分からんと窓辺から眺めていたが、ふと思った。僕も一応は同年代なのか。
 ツアー客の大部分の人達を始め、二人の添乗員も、通訳も、考えてみればみな同じ年頃だ。ずっと同行してくれていた、二人の警官もそう。でもこの二人は独りでいる僕をいろいろ気づかってくれ、記念にとモンゴル警察の記章をくれた。やっぱり子ども扱いされてるなあ。当然だ。子ども達と大声あげてはしゃいでいたのを、みんなが見ている。
 草原よりも、星空よりも、子ども達の姿が今鮮やかに思い浮かぶ。エルデネ・ゾーでわんぱく達を引き連れたガキ大将は、けんめいに追い駆けて来る幼い女の子を、ごく自然に抱き上げた。スフバートル広場では4才くらいの男の子が、もっとちっちゃなよちよち歩きの子の手を引いて、転べば立たせてやってお尻をはたいてやっていた。年長者が幼い子の世話をする、モンゴルの子ども達の世界ではごく当然の事なのかもしれないが、長らくそんな情景を目にしなかった僕には、とても新鮮に見えた。
 いつの間にかずい分遠くなってしまったので僕にはよく分からないが、今の日本の子ども達の世界はどんなだろう。学校でも、放課後でも、塾でも、身近にいるのは同性の同年代ばかりではないだろうか。以前の僕も、やはりそうだった。高学年になってからはグループに異性も加わったものの、それがかえって付き合う相手を限定してしまい、交際範囲をせばめてしまったようにも思う。今の僕が独りきりでいる原因は、案外こんな所にあるのかもしれない。
 周囲に男の子も女の子も年上の子も年下の子もいたというのは、僕にとっては社宅時代だけだった。兄弟の中での自分、クラスの中での自分、近所の友達の中での自分、子どもは出来るだけ多くのグループの中に、自分の居場所を持てればいいと思う。モンゴルでは、子どもを多くもうける事が奨励されているらしい。確かにどこへ行っても多くの子ども達に出会ったし、三人兄弟四人兄弟というのもよく目にした。いろいろな年の子が一緒に遊ぶこんな世界も、きっとこの国でならいつまでも失われないだろう。
 さて、これでもう、やり残した事は何もない。停電も経験したし。ホテルではひんぱんに停電があるような事を聞いていたが、最後の夜になって初めて起こった。これで、モンゴルをひと通り経験出来たような気がする。

     8月27日 金曜日
 出発時刻の6時を過ぎたが、飛行機はまだ飛ぶ様子がない。手続きはすべてすませ、今は薄暗い空港建物の中でじっと立ちつくしている。僕は未だ、モンゴルのゆっくり時間の中にいる。
 初めての海外旅行、そして初めての団体旅行だったが、たいした失敗もなく無難にこなせた。いや、ただ無事だったというだけではない。考えていた以上に得られるものがあり、本当に満足のいく旅だった。モンゴルを知って、こんな世界も残っている事をささやかながらも感じ取って、地球もまだまだ捨てたもんじゃないと今は思える。
 一時間ほど遅れて飛行機に乗り込み、ひと心地ついてまどろんでいると、珍しく日本語のアナウンスがあって目が覚めた。エンジン修理中? もう一度空港建物に逆戻り……。乗り込む時は歩いたのに、戻る時にはバスが迎えに来た。
 今は9時過ぎ。飛行機はいっこうに出発する気配を見せない。おまけに日本には台風上陸との情報もあるし、こりゃ当分帰れそうもないや。もう少しモンゴルにいたい気分なので、こんな状況もなんだか楽しい。これでいい。僕の旅が、なんのハプニングもなしに終わるはずなどないんだから。
 モンゴル人乗客は国内線でみな飛んで行ってしまい、今空港にいるのは日本人ばかり。荷物の検査を受けたゲートには係員ももうおらず、勝手に通り抜けては売店からトイレまで好き放題に歩き回っている。空港にとっても、これは不測の事態だろう。
 飛行機は10時30分にウランバートルを飛び立った。翼の下に広がる町は、ありきたりの町のようにかすんで見えて寂しかった。
 砂漠を越え、山脈を越え、濁った河をいくつも過ぎ、やがて茶色い海へ出た。その海はいつしか青く変わっている。もうじき、日本が見える。

     8月28日 土曜日
 昨日は日本列島は大荒れだったらしい。帰った時には天候は回復していたものの、新幹線の運行が再開したばかりで、名古屋駅も騒然としていた。たとえ飛行機が予定通り着いたところで、結局足止めだっただろう。
 とにかくもう日本へ帰って来たのだし、後はどうにでもなる。いったん遅れるともう開き直ってしまい、いくら遅くなってもかまわない気がしてくる。混み合う車内での立ちづめはきつかったが、モンゴルの切手にあった赤い新幹線を思い出すと愉快になった。
 走っては止まりを繰り返し、東京まで4時間かかった。総武線もまた同様。ひょっとするとこれは、僕がどれだけゆったり過ごせるかの試練だったのかもしれない。僕は舌打ちもため息もつかずに、モンゴリアン気分で長い待ち時間をのんびり過ごした。
 市原の家に着くと、もう今日になっていた。寝たのは2時過ぎ。前日はウランバートルで、今頃起き出して帰り支度を始めたなと思い返しながら寝付いた。当然今朝は寝坊して、午後はずっと荷物の整理。なんだか短く過ぎた一日だった。

     8月29日 日曜日
 ベランダにぶら下がる洗濯物、水色の服はすっかり色あせている。初日のうちに白くなったきり、もう戻らない。まあいい、それもいい記念だ。それが強烈なゴビの陽射しの色だ。

     8月30日 月曜日
 外貨を再両替した。ラッキーにも、円はこないだよりほんの少し安い。まあ手数料があるので得はしないが。
 午後はモンゴルの本をいくつか読み返していて、読み落としていた新しい発見をした。僕が買ってきたゴタル、あの伝統的なブーツのつま先がそり返り上を向いている理由について。あれは土を掘り返す事をタブーとする、チベット仏教の影響によるものらしい。後から知った意外な事実だった。

     8月31日 火曜日
 今日もモンゴル関係の本を読み返していたが、あの帽子に書かれた「730」というのが疑わしくなった。チンギスハーン生誕800年の祭典が、1962年にあったという。調べてみると、彼は1162年生まれで、それだと去年が830年目になる。たぶんそれの間違いだ。ちなみに没後730年目がいつになるか計算してみると、1957年。……まさかその時のではないだろう。
 それからもう一つ、ハーンに皇帝という意味があるのだから、「皇帝チンギスハーン」では重複しておかしい気がする。まあそれはともかくとして、この帽子は新生モンゴルを象徴するものだといえる。チンギスハーンの名前に、古来からのモンゴル文字。旧ソ連の影響下にあった頃は、彼の名前を口にするのもはばかられたそうだから。今では通りの名前にもお酒の名前にもチンギスハーン、はてはチンギスハーンホテルまで新築されたとか。それにつけても、次は市街地のホテルに泊まりたい。
 午後はうたた寝していた。ぼんやりと外の音を聞きながら、けだるく汗ばみながら。通り過ぎる豆腐屋のラッパ。つかえながら続くどこかのピアノ。絶え間ないのはセミの声。……やはり僕は日本にいるらしい。

     9月1日 水曜日
 今朝新聞を開いて、七三一部隊展というのが開かれるのを知り、千葉まで出かけた。夜には旭川に帰らなくてはならず、かなり慌ただしかったが。
 日本軍初の細菌戦は、ノモンハン事件だという。モンゴル領ノモンハンで起こった、日本軍とソ連モンゴル連合軍との衝突。モンゴルではハルハ川戦争と呼ばれるが、そのハルハ川に日本軍は1939年8月、3回にわたって腸チフス菌を流す作戦を行ったらしい。まだ実験的なもので成果を期待しての作戦ではなかったようだが、日本最初の生物兵器がモンゴルに対して使用されたのは事実だ。そして、3000人を越す生体解剖の被験者の中には、やはりモンゴル人も含まれていた。
 旅は終わったようでも、モンゴルに関するいろいろな事が、未だ尾を引いている。快い思いや息苦しい思い、自分には見えない無意識の場所に青いあざとなって残り、これから先事あるごとにそれを自覚するのかもしれない。
 19時3分、僕を乗せた北斗星5号は上野のホームをすべり出た。外はもう真っ暗だ。今頃モンゴルでは、西日がまぶしいだろうか。また行きたい。今も無性にそう思う。
 僕は日本人である前に、まず僕であるはずだ。自分がいさぎよく生きているなら、国の汚点を事実として知っていなくてはならないとしても、それを強くひけ目に思ったり、罪悪感を負い続ける必要もないだろう。ザイサントルゴイの丘の上、日本の旗を踏みつける兵士のモザイク画の下で、僕はモンゴルの子ども達と無邪気に思いきりはしゃぎ回った。これからだって、きっとそんな事は可能だと思う。

     9月2日 木曜日
 レールの継ぎ目の音が消えた。気圧が耳を圧迫する。青函トンネルに潜ったようだ。目は覚めていたが、起き出したのは北海道に上陸してから。
 いつかも見たような上天気。海が輝いている。江差線。ゆかちゃんとゆうたくんに出会ったのは、もう半月近くも前の事だ。今思い返してみると、どういうわけかあの二人の姿も、モンゴルの風景に重なる。
 僕のモンゴルへの旅は、飛行機で飛び立った時から始まったのではなく、あの日二人が手を振ってくれた時から始まったような気がする。それならやはり、旅の終わりは今日なのだろう。迎えてくれる人はいないけど。
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