あたりまえはヒジョウシキ − 黒い帽子 赤いリボン 4 −
中央広場 >
書斎パビリオン入り口 >
あたりまえはヒジョウシキ
さいきんはそんなことってあんまりないんだけど、でも今日ばっかりはおにいちゃんもけっこうすごいなってわたしは思った。
「ねえおにいちゃん、今日みたいな日の天気って、日記にはなんて書いたらいいの? だってほら、朝は雨ふってたけどお昼にはやんじゃったでしょ?」
「だから雨のちくもりって書きゃいいだろ」
「でもそんなふうに長く書くの、わたしやなの」
「わたしやなのって言われてもなあ。ああ、なら書く事のあった時の天気を書きゃいい。たとえば今の事書くんならくもり、朝の事書くんなら雨ってな」
さすがあ。わたしはずっと前からどうしようかなって考えてたのに、それをおにいちゃんはかんたんに答えを出しちゃった。
「あ、そっかあ。なんにもまようことないんだね」
「そうさ。俺だったらそんな事くらいじゃ絶対迷ったりしないぜ」
おにいちゃんがあんまりえらそうに言うもんだから、わたしはおにいちゃんをこまらせてやろうと、もっとむずかしいもんだいを考えた。
「じゃあまた聞くけど、つゆは春になるの? 夏になるの?」
「夏だ」
「どうして?」
「どうしてって、とにかくそう決まってんだ。俺が夏だって言えば夏なんだよ」
なんかずいぶん強引だねえ。けどこんなふうに言われると、わたしもついうなずいちゃう。
「ふうん。おにいちゃんってなんにもまよわないみたいだね。どんなことでもどっちかってすぐわかるの?」
「だいたいはな」
「それじゃあねえ、おにいちゃんはおとな? こども?」
春から電車やバスがおとなのねだんになったから、これにはちょっとはまようんじゃないかなってきたいした。なのにおにいちゃんはやっぱり、ほんのちょっとも考えこまない。
「子どもだな」
「どうして?」
「歯を見りゃ分かるよ。まだ乳歯が残ってるし、それに親知らずも生えてないしな」
「へえ、そんなのでおとなとこどもを分けるなんて、萠ぜんぜん知らなかった」
「そうか? 生えそろわないうちはまだガキだって、そんなの常識だぜ」
おにいちゃんは口のあたりをなでながらニヤニヤしてる。こんなふうによゆうを見せられたら、なんかくやしくなっちゃう。おにいちゃんを考えこませるようなものって、なにかないかなあ。
「ねえねえ、あそこの水たまりはどろ? 水?」
「泥水」
「あー、そういうのはずるいよ。ぜったいどっちか一つだけ」
「んーそうだな、じゃあ足を入れて確かめてみるか? 足跡が残りゃ泥で、波が広がりゃ水だ」
「おもしろい。萠、やってみる」
わたしは走って行って水たまりの前で立ち止まった。そうしてかた足をそうっとなめらかな茶色の上にのせてみて、またすぐそうっともち上げる。足の下だったとこには、くつのあとが魚のホネみたいにのこった。
「あ、おもしろーい。おにいちゃーん、足あとついたよー。これはどろだね。どろたまりだ」
それからわたしはどろたまりをみつけるたびに、その中を歩いてフヤフヤした魚のもようをいっぱいつけた。これがずっとのこったら楽しいのになあ。そしたらこれを見た人は魚の化石とまちがえて、大はっけんだなんて思ったりして。
「萠ー、おまえはいったい男? 女?」
こんどはおにいちゃんのほうが、わたしにむかってそんなふうに聞く。
「もう、女の子だよう」
「女の子がそんなふうに泥ん中入ったりするか? 水たまりがあったらよけるのが女で、わざわざ入るのは男だぞ」
おにいちゃんは中学生になった今でも、ときどき小さなわたしにいやがらせを言うの。わたしはおこりんぼじゃないけれど、言われてばっかりもいやだからやっぱり言いかえす。
「ちがうよー、そんな分けかたしないもん。水たまりに入るのはこどもで、よけるのはおとなっていうふうに分けるんだよー」
「萠太、萠太、長谷川萠太くーん」
「もう。それだったらおにいちゃんこそ女じゃない。さっきっから水たまりよけてばっかり。勇子、勇子、長谷川勇子おねえちゃーん」
おにいちゃんはわたしとちがっておこりんぼだ。からかうといつだって本気でおこるの。今もやっぱり、ムキになって水たまりに入っちゃった。あーあ、中学生がみっともなーい。
「どーだ、これで文句あるか」
「そんなことしてもだめだよー。ただこどもだっていうだけだもん。勇子、勇子、萠のいもうとの長谷川勇子ちゃーん」
わたしとおにいちゃんはそのあとも、水たまりをみつけるたびぜんぶに足をつっこんでいった。アスファルトの道に出るまでずうっと。ついでに口げんかもつづけながら。
おうちに帰って足もとを見たら、くつもくつ下もどろだらけだった。
「……ねえおにいちゃん、もし萠とママとがけんかになったら、おにいちゃんは萠のみかたになる? てきになる?」
「時と場合によるな。……なんて答えじゃだめなんだろ? だったら交互に味方になったり敵になったりしてやるよ」
「じゃあさいしょはどっち?」
「敵だな」
「もう」
わたしはほっぺたをふくらませておにいちゃんをにらみつけた。
「じゃあこれを持ってくぐらいしてよね。わたしこっちのほうからコッソリ入るんだから」
わたしは買い物のふくろをみんなおにいちゃんにおしつけた。おにいちゃんはまだてきじゃないみたいで、わらってふくろをうけとった。
それからわたしはおにわのほうにまわって、くつをぬいでぬれ縁に上がると、そこでくつ下もぬいでくつの中におしこんだ。どうせこんなことしたって、いつかはママにみつかるんだけどね。でも、今しかられるのとあとでしかられるのとじゃ、やっぱりちがうもん。できたらパパが帰るまで、時間かせぎができたらいいんだけどな。
わたしはそうっとまどからおうちに入った。そのままおにいちゃんがげんかんでしかられてるあいだに、コッソリ二かいに上がっちゃおうと思ったんだけど、ママにはあんがい早くみつかっちゃった。
「萠。もう、あなたはいったいどこから入って来てるの」
わたしはだまってまどをゆびさした。
「あなたも靴泥だらけにしたんでしょう。あなた達はどうして、そうやってママの仕事を増やすの。それにそこの濡れ縁はホコリだらけだから、はだしで歩いちゃいけないって言わなかった? そんな足で部屋に入ったらダメじゃないの」
「くつとくつ下はきたないけど、足はきれいだもん」
「汚れてるんだったら」
「きれいだもん。萠がきれいだって言ったらきれいなの!」
おにいちゃん式のりくつも、ママにはきかなかった。それどころか……
「ほらまた、その自分の事を萠って言うのはやめなさいって言ったでしょ。わたしって言うようにしなさいね。もう小学生なんだから」
ずるい、こういうのってぜーったいにずるい。ぜんぜんかんけいない話までもってきて。ママにすればわたしをおこるりゆうってことでいっしょかもしれないけど、だからってついでにまとめたりするなんて、ちょっと強引すぎる。
「靴下はどうしたの」
「くつといっしょ……」
ママはためいきをついた。
「汚れるって分かってるのにわざわざ水たまりに入るなんて、自分で非常識だとは思わない?」
「ヒジョウシキって?」
「当たり前じゃないっていう事。水たまりがあったら、汚れないように避けて通るのが当たり前でしょ」
そうかなあ。ママのあたりまえならそうかもしれないけど、わたしやおにいちゃんのあたりまえはそうじゃないと思う。
「少しはママの事も考えてちょうだい。朝から晩まで掃除や洗濯ばかりしているわけにはいかないのよ。ちょっとぞうきん持って来るから、それまでこの部屋から出たらダメよ。いいわね」
わたしははだしのまま、うすぐらいへやにとりのこされた。
おにいちゃんはどこ行っちゃったんだろう。じてんしゃで出て行ったみたいだけど。……でももしいてくれたって、さいしょはどうせてきなんだっけ。
だけどそんなおにいちゃんだって、やっぱりわたしとおんなじじゃない。きゅうにまた出て行ったのも、しかられるのを先にのばしたつもりだろうし。でもわたし思うけど、おにいちゃんはわたしとははんたいに、パパが帰って来るまでにすませちゃったほうがいいんじゃないのかなあ。
ぞうきんを持ってもどって来たママは、おへやの向こうがわからぞうきんがけをはじめた。ブツブツひとりごとを言いながら。
「一つ用事を頼んだら、また一つ用事を増やすんだから。ほんとに次から次へと、どうして仕事を増やしてくれるのかしらねえ」
そうじばっかりしてるわけにいかないっていうのなら、ねる前に一回だけすればいいのに。わたし思うんだけど、おふろに入るまでは足もおへやもべつによごれたままでもいいんじゃないのかな。それにこの前テレビで見たけど、外国じゃおうちの中でもくつをはいてるんだよ。でもママは、それもきっとヒジョウシキって言うんだろうな。どうしていっつも、そんなふうにきめつけちゃうの?
「梅雨時で乾かないっていうのに、洗濯物も増やしてくれて……」
ママのぐちはまだつづいてる。今のママはすっごくきげんがわるそう。きっと、わたしやおにいちゃんのあたりまえがママのジョウシキじゃわからなくて、それでママはさっきからイライラしてるんだと思う。
こどもの「あたりまえ」と、おとなの「ジョウシキ」と、どうしてこんなにちがってるんだろう。わかんないなあ。
それでも、ただちがってるだけだったらそんなにこまらないの。おとなは「ジョウシキ」のほうがほんとうで、こどもの「あたりまえ」はおかしいなんてきめつけるから、それがこまっちゃうんだよね。ほんとうだとかおかしいとかじゃなくって、ちょっと分けかたやえらびかたがちがうだけなのに、どうしてわかってくれないのかなあ。
ぞうきんをあらいに行ってたママがもどって来た。そうしてつづきのところから、またぞうきんがけをはじめる。
ママはもうなんにも言わない。だまりこんでただぞうきんだけうごかしながら、なんにも見えないみたいにどんどんせまってくる。わたしはこのままきえちゃいたい気持ちになった。
わたしはしらないうちに、ちょっとずつあとずさりしてた。なんだかママが、わたしには入れない陣地を広げてるみたいに思えたから。ママの「ジョウシキ」の陣地がどんどん広がって、わたしの「あたりまえ」の陣地がせまくなっていくみたいに。おへやのすみまでおいつめられちゃったら、あとはどうしよう。あ、ママが手を止めて顔を上げた。
「ほら、早く足を拭いてこっち来なさいよ」
ママの声は、思ってたのとちがうやさしい声だった。わたしはきゅうにうれしくなって、ぞうきんの上でとびはねるみたいに足ぶみした。
「キッチンにマドレーヌがあるから食べなさい。手を洗ってね」
「はあい」
おにいちゃんにはわるいけど、わたしはあっさりママのみかたになった。
でもだからって、わたしはわたしの持ってる「あたりまえ」をすてちゃったわけじゃないからね。ただおうちの中じゃママの「ジョウシキ」のほうが強いから、こうするのもしょうがないんだ。それにおやつだって食べたいし。
だけどいったんおもてに出たら、わたしだってママなんかにはまけてないんだから。あーあ、つゆのあけるのがまちどおしいなあ。
次の作品へ
パビリオン入り口へ