鮮やかに 涼やかに − モンゴルにて −
西……。西……。東……。北……。あれは……、あれはたぶん南行き。
そう言ってみたところで、ほんとの事は分かりはしない。でもどうせただの時間つぶしさ。僕は色鮮やかな尾翼の列を見渡しながら、無意味な行き先をかたっぱしにあてはめた。
また一つ、飛び立って行く飛行機。あの速さ、あの細さ、あの白さは、いかにも涼しげだ。ああ、僕も早く飛び立ちたい。おぞましくよどむこの日本の暑さから、早く離れてしまいたい。
まったく、僕らの乗る飛行機は、いつになったら飛び立てるんだろう。エンジントラブルか……。そう、間近に見えるあの尾翼だけが、さっきからいつまでも静止したままなんだ。
パックツアーの利点って、いったいなんだよ。難しい事や面倒な事はすべてまかせて、楽な思いが出来る事だろ。けれどもそれも、添乗員にも対処できないトラブルがひとたび起これば、とたんにこのありさまだ。モンゴル旅行ってのは、つくづく大変なものらしい。……まさか出発前から思い知らされるとはね。
さっきまであちこちかけずり回っていたおばさん添乗員は、戻って来るなりこんな事を言い出した。こうして時間に余裕のあるうちに、みなさんお互いに自己紹介をしておきましょう、と。どうでもいいじゃないか、そんな事。たぶんこの人、仕事をしてますって姿勢を示してなければ、皆の前で居心地悪いんだろうな。
ツアーに参加した人達なんかに、僕はたいして興味はない。たまたま集まった人間同士という、ただそれだけの事じゃないか。それでも一応は、無視などせずに観察の眼を向けてみた。
メンバーの主な顔ぶれは、熟年夫婦が数組に、個人個人で参加している年輩男性達、そして二、三人ずつのOLらしきグループ。たぶん、今になって目新しいものにあこがれる人々、そして旅行マニアやにわか秘境マニア達、あとはさしづめ、欧米や南国リゾートに飽き足らなくなった連中、といったところだろう。
それぞれの自己紹介を聞いていて、僕のそんな予想はあながち的はずれでもないと分かった。ただ、一つだけ意外だったのは、こんないつ出発できるかも分からないような状況で、誰もが陽気で楽天的な事だ。やっぱりそれなりに、モンゴルを目指す人達だけの事はあるらしいな。
僕でさえ、こんな僕でさえ、きっと他人からはそんなふうに見えている事だろう。もちろん、意図してそんなふうに演じているわけだけど。
クラスメイトに対するように、僕はせいいっぱい陽気さを装った。
「白井優といいます。中学三年です。モンゴルへ行く理由は、このじいちゃんの付き添いっていうのもあるけど、一番の動機はヒツジなんです。僕は寝付きが悪くて、今までにヒツジを何億と数えましたけど、そしたらいつの間にか、こうしてモンゴルを目指していたってわけです」
皆が笑っている。まったくたあいのないもんさ、大人なんて。けれどある意味では、若いOLから熟年夫婦までが同じ反応を示すのは、ひどく無気味にも思えるが。
僕に続いて、このメンバーの最年長らしい僕のじいちゃんが名乗りをあげた。
「倉林清文と申します。今も孫が少し触れましたように、この蒙古行きは私の方が言い出した事でありまして……」
また始まったよ。いいかげん、その「蒙古」というのはやめてくれよ。
「えー思えば今年は一九九五年、奇しくも終戦五十年目に当たります。この記念すべき節目の年に、かねてからの念願であった蒙古訪問がかなうとは、なんという……」
もういいかげんにしてくれよ。そんな事、誰も聞いてやしないだろ。これだから大人ってのは……。
見たところ、ツアーメンバーの中には僕のほか、子どもの姿はたった一人しかいない。父親と一緒に参加している、小学生の男の子だ。
「森ケントです。小学校三年生です。しょう来、特は員になりたいです。だからモンゴルもいろいろ見て来たいと思います」
海外特派員志望ねえ。立派な事だ。まあしばらくは、そんな夢を見るのも幸せだろうよ。
ところで、ケントという名前はどんな字を書くんだろう。すると、同じ疑問をOLの一人が投げかけた。ねえケントくん、ケントってどんな字を書くの? するとケントは、はにかむように答える。
「健康の健に、人っていう字」
健人と書いてケントか。最近の子どもの名前ときたら……。国内で親達が面白がってるうちはいいけど、こうして本人が外国に行く時に、恥ずかしい思いをするんじゃないのかね。
「でもぼくそんなに健康じゃない」
森健人は付け加えてそう言い、へえそうなんだ、健人なのにそれじゃ困るよね、とOLがあいづちをうつ。そしてまた、健人ははにかむように笑う。なんだよ、こいつは自分の名前について、ちっとも抵抗ないらしいや。
最後に、学生らしい一人の男が自己紹介した。ごく短くたった一言。
「塚田ユウ、高校三年です」
ユウ……。いったいどんな字を書くんだ? まさか僕と同じ、優じゃないだろうな。塚田ユウ……。フッ、男でも女でも通用するような名前だ。たぶんこいつも僕と同様、生まれる前から名付けられてしまったクチだろう。お気の毒な事だよ。
それにしても、なんとなくうっとおしい感じの奴だな。背を向けてみても、相手も自分と同じ動作をしているように思えて、なんだか気にさわる。僕と同様に腕時計を右腕に着けてるけど、まさかあいつも左利きなんだろうか。
ようやく飛び立った飛行機は、懸命に夕日を追いかけた。時差も一時間さかのぼる。それでも北京に着く前に、すっかり日は暮れていた。
バスでホテルへ向かう前に、予定では天安門広場に寄るはずだった。けれどもそれも、遅れたためにキャンセルだ。
楽天家ぞろいのツアーメンバー達は、皆あっさりとあきらめをつけた。目的はモンゴルだから中国観光などどうでもいい、とか、帰りも北京に一泊するからその時に、などと、それぞれ理由を付けて。
僕もまた、この予定変更にガッカリはしなかった。はっきりと言葉では説明できないけど、始めから気が進まなかったんだ。天安門なんて今はもう、観光客が日中ほがらかに歩き回る場所じゃないだろう。ましてやついでに行く場所でもない。
それにしても、北京もまたひどく暑い。もうたまらなく暑い。これはもう、冷房くらいでどうにかなる暑さじゃないよ。
バスの窓から眺めていると、橋の手すりに人々が鈴なりになっている。少しでも風の通る場所での、せめてもの夕涼みだというのは分かる。分かるけど、それはあまりに暑苦しい光景だ。この事だけでも、僕はもうすっかり街に出る気がうせていた。
とりあえずホテルに着いた。部屋割りと明日の予定の確認を終えて、ひとまず解散となった。するとほとんどの人が、これから外へ食事に繰り出すという。みなさん好奇心おうせいな事で。結局、あきらめきれてないんじゃないかよ。
「僕はもう出る気はないよ。機内食が遅くて、どうせそんなに腹も減ってないし」
「そうだな、もう時間も遅い事だし、下で簡単にすませるか」
珍しく僕とじいちゃんの意見が一致して、夕食はホテル内のレストランですませる事にした。
その下へ向かうエレベーターに、途中からあの塚田ユウが乗り込んできた。彼は帽子をかぶっている。
「やあ、あなたもこれから食事ですか。私と孫もこれから食事なんですが、どうです一緒に」
じいちゃんの悪いクセがまた出たよ。すぐに誰でも誘うんだから。それにしても、外出しようとする相手をわざわざ引き留めるなんて。
「はあ、それじゃあご一緒しましょうか」
塚田も塚田だ。あっさり同意するんじゃないよ。
料理を待つ間、じいちゃんは塚田に向かって、立て続けにいろいろ話しかけた。彼がじいちゃんの話し相手になってくれれば、ある意味僕としては助かる。僕は横で一人静かに、塚田とじいちゃんの会話に耳を傾けていた。
「確かあなたは塚田ユウさんとおっしゃったと思いますが、ユウとはどんな字を書きなさるのかな」
「はあ、にんべんの優という字ですけど」
……チェッ、やっぱりか。
「それはそれは。うちのこの孫も同じ名前なんですわ。奇遇ですなあ」
「ああ、やっぱりそうだったんですか」
じいちゃんの言葉に同調して、塚田はおおげさに驚いてみせる。僕は天井を仰ぎながら、ため息をあくびにまぎらせた。
「自己紹介の時にもしかしたらと思ったんですけど、そうですか、白井くんもやはり同じ字の優でしたか」
塚田は僕に向かってそう言った。中学生相手に敬語を使うなんて、こいつ、どうかしてるんじゃないか? 僕は露骨にそっぽを向いてやった。
「ああ、いやあ、うちの優は人見知りがひどいんですわ」
じいちゃんがとりつくろうように言った。
「分かります。僕も人付き合いは苦手な方ですし」
とりなすように塚田も答える。
「今回の旅行でも、ホテルは個室を頼んでるんです。意外と高くつきましたよ」
「ほおそうですか。どうも最近の風潮のようですなあ。聞くところによると、学生寮でも相部屋は不評で、どこも個室に作り変えているとか。あなたの学校でも、やはりそうではないのですか」
「いや、僕の高校には寮生とかはいませんけど」
「ああそうですか」
どこかぼやけた二人の会話に耳を傾けながら、僕はさっきの事を思い返していた。
どうして僕は塚田に対して、自分の感情をありのままに表したんだろう。いつだって僕は、相手に対する嫌悪にしろ軽蔑にしろ、冗談にまぎらせながら隠し通してきたはずなのに。
やがて料理が運ばれて来て、二人の会話はとぎれた。僕はそのまま、塚田優の観察を続ける。
塚田は右手ではしを扱っている。帽子をかぶったまま食事をするほどだから、行儀を気にして無理に右手を使っているはずはない。やはり塚田は右利きなんじゃないか。
でもそれならなぜ彼は、邪魔になりそうなあんな大きな腕時計を、右の手首に着けているんだろう……。
2 火曜日
「優、優、ほれ、起きろ」
まだ暗いうちに、僕はじいちゃんに揺り起こされた。
「もう六時だぞ。支度をするうちすぐ朝食だ。遅れたらみなさんに迷惑がかかる。ただでさえ優はエンジンのかかりが遅いんだから、ほれ早く起きなさい。もう六時だぞ」
じいちゃんは耳もとでまくし立てる。僕はなんとか薄目をこじ開け、右腕に着けたままの時計をのぞき込んだ。ええ? まだ五時じゃないか。
「じいちゃんしっかりしてくれよ。まだ五時じゃないかよお。寝ぼけてんのか? まさか、時差も分からないくらいぼけちまったんじゃないよな」
「ああ、そうか時差があったのか。いやあすまんかったすまんかった。自分で承知していればよかろうと思って、時計を直さなんだのが失敗だった。うっかりうっかり、ほんとにすまんすまん」
ひたすらあやまるじいちゃんを無視して、僕は再びふとんをかぶった。
低血圧のせいで、ただでさえ朝はつらいのに、今朝はもうきわめつけに不愉快だ。しかも僕は寝起きばかりか寝付きも悪いときてるから、もう一度寝直す事も出来やしない。おまけに起き出すに起き出せなくなったじいちゃんが、いつまでもベッドの中でモソモソしてるし。僕に気をつかって起き出さないんだろうが、そんな態度はかえってうっとおしい。本当の六時までの一時間が、ひどく重く長かった。
機嫌をそこねた僕が扱いづらい事は、じいちゃんもよく承知している。むっとおし黙った僕に対して、いつもは口数の多いじいちゃんも、あえて話しかけてはこない。朝食の席で、空港へ向かうバスの中で、そして空港の待合室で、僕とじいちゃんは周囲の人達がいぶかるほど不自然に黙りこくっていた。
飛行機に乗り込んでからは、僕はふて寝を決め込んだ。その前に、無言で腕時計をじいちゃんに指し示しておいてから。
「ああそうか、蒙古は今は夏時間とかで、今度は時間が進むのだったな。親切にありがとう」
誰が。僕は自分で時間が分かるから、よけいなおせっかいで起こしたりするなって言ってんだよ!
ドリンクサービスにも背を向け、機内食にも手を付けず、そうしているうちに、いつの間にか僕は本当に寝入ってしまっていた。
軽く突き上げる着陸の振動に、僕は目を覚ました。
ウランバートルに着いたらしい。そうか、いよいよモンゴルか。けれどいまひとつ実感がわかない。二時間にも満たない飛行のあっけなさのせいか、それとも寝起きのぼやけた頭のせいか。
そうだ入国カードを……、と思ったら、じいちゃんが僕の分も記入してくれていた。
「さあ優、とうとう蒙古までやって来たな」
……うん。僕はじいちゃんにただうなずいてみせた。
ドアが開かれたらしい。鋭いエンジン音が、直接機内に差し込んでくる。
タラップへ足を踏み出す瞬間、僕はふと足を止めた。吹き上げてくるのは、初めて触れるモンゴルの風……。
ああ、ここの風はやはり違う。日本の風とも、中国の風とも、まったく違った流れがある。それは単に、涼しいとか心地良いとかだけじゃない。もっと深くに含まれている何か、たとえばおとろえる事のない鮮やかさ、若々しさといったものが触れるように思える。僕は今初めて、モンゴルに降り立った事を実感した。
「なあじいちゃん、同じ階段でも、降りる時の足取りだけは若いじゃない」
もちろん、今朝からの不機嫌さもすっかり直ってしまっていた。
モンゴルの事だからさぞや……、という覚悟とはうらはらに、入国手続きも荷物の受け取りも、スピーディーかつスムーズに片付いた。これは嬉しい誤算だったな。僕らはすぐに迎えのバスに乗り込めた。
ところが皮肉な事に、ほっと安心したところでトラブル発生だ。添乗員とバスの運転手とが、外で何やらもめている。原因は知らないけど、ただ一つ、これだけは思い知らされたよ。スムーズにしろトラブるにしろ、とにかくいかなる予測も裏切られるのが、モンゴルなんだと。
添乗員と運転手は空港ビルの中に消えてしまった。長びきそうだな。まあどうでもいいか。ケンカの見物も飽きたところだし、いなくなってせいせいした。
四十分くらい過ぎた頃、さっき添乗員と運転手との通訳をしていた、派手なシャツの青年が一人で現れた。そしてバスに乗り込んで来ると自己紹介を始めた。少し硬いけど、まったくよどみのない上手な日本語で。
「みなさんどうもはじめまして。ガイドのナツオです。これからみなさんのご案内をさせていただきます。私にはほんとはモンゴル語の名前がありますが、みなさんには難しいでしょうから、ナツオと呼んでくださればけっこうです。年は二十三です。ほんとは二十三ではないんですけど、二十三という事にしておきます。私は学生ですが、今は夏休みなのでこうしてガイドや通訳などを……」
ヘンな人だ。案内するとか言いながら、自分の本名も年も明かさないなんて。でも、年輩者や女性ばかりのグループに新たに加わった若者という理由から、なんとなく親近感がわいた。
「あの、ナツオさんちょっと質問。ナツオっていったいどう書くの?」
「ナと書いてツと書いてオと書きます」
「はあ、なるほど」
それになかなか愉快な人じゃないか。少なくとも、森や塚田よりはずっと親しめるよ。
そう、あの二人ときたら、もうまるっきり僕の相手になんてなりそうにないんだ。
森健人は甘ったれの性格らしく、大人に対してひたすら無邪気で柔順だ。普通なら子どもって、もう少し身勝手だったり生意気だったりするもんだろう。大人達の中に子どもが一人きりで居心地よさそうにしているなんて、ちょっと異常じゃないか。
逆に塚田優の方は、無理に大人ぶって対等気分でいるようだし。それにしても年下の僕にまで敬語を使うなんて、ちょっと度が過ぎてやしないか? どちらにしても、大人達に迎合するようなこの二人を、僕はどうも好きになれない。
やがて運転手がやって来て、黙って運転席に着いた。しばらくして添乗員も戻って来た。添乗員おばさんがトラブルの説明というか言いわけを長々と言い立てるのを待たずに、バスは騒々しいエンジン音を立てて走り出した。
空港をちょっと離れれば、そこはもう一面の草原だ。僕はカーテンをかきのけ、開いた窓から顔を出した。
なだらかな丘を登りきると、道がはるか向こうまで直線を描いている。そしてその先に遠く遠く見えるあの街が、あれが首都ウランバートルの街並みだ。
このままあの街目指して一直線に……、とそうスムーズにはいかなかった。いきなりヒツジの群れにはばまれて、僕らのバスは立ち往生だ。ああ、またも予測の裏切りか。
クラクションを鳴らそうが、かまわずヒツジ達は道路を横切って行く。悠々と、そして延々と。ここはモンゴル、気長に待とう……とは思うけど、それにしても飼い主は何やってんだ。と、最後にその飼い主がウマに乗って横切って行った。
再び走り出したバスは、今度はいきなり角を右に折れる。そしてそのまま山の奥へ奥へと……。おいおい、いったいどこへ連れてく気だよ。
「みなさんの泊まるホテルは、この先の、街から離れた静かな所にあります。あと十五分くらいで着きます」
ナツオから説明があった。なんだそうか。僕は安心して、また車窓からの風景に気を戻した。
山はますますけわしくそびえ、岩が所々に荒い表情を見せている。針葉樹林の深い緑も広がってきた。
木々に覆われた山々というのは、日本でもごくありふれた情景だけど、ついさっきまで一面の草原を見てきた目には、どうも違和感がある。しかもその木の茂り方が一様ではないから、ますます妙な感じがする。
「ナツオさん、なんであんなふうに、木が山の片側だけに寄ってんの?」
「春まで雪が残る場所だけに、木は生える事ができます。モンゴルはとても乾燥していますから」
そうか。あの木々はそういった極限の地で、ギリギリの状態で生きているのか。そう考えると、山の様相はますますけわしく見えてくる。
「それはそうとナツオさん、ナツオさんって冬でもナツオって名乗ってんの?」
「いえ、今の間だけ。日本人は夏にしか来ませんから」
そうかもな。そんな片面だけしか見ない僕らには、この世界の本当の姿など決して見えはしないのかもしれない。
谷間の細道の行き止まりに建つ、古びたコンクリートの建物。それが僕らの泊まるホテルだ。確かに周囲の自然環境は素晴らしいけど、その中に置かれた建物はまるで、隔離病棟とでもいうような感じになる。とにかくやたらと陰気な雰囲気。
「ほお、こんな自然の豊かな所に滞在できるとは、恵まれた事だ」
そう言ってじいちゃんは喜んでいる。ほんとにおめでたい人だよ。はっきり言って、へき地の安ホテルに追いやられただけじゃないか。観光シーズンで街のホテルがふさがってるからこうなったと考えると、僕はじいちゃんのように素直には喜べない。
重いガラスの扉を押し開けロビーへ入ると、そこには冷たい空気が不思議な匂いを含んで固まっている。自然に誰もが声をひそめがちになる。ますますうらぶれた雰囲気だ。
でもまあ、部屋の方は意外と明るく清潔だったのでほっとしたけど。ポットがある。テレビもある。電気もちゃんとつくし、トイレには紙もある。あたりまえの事に、なぜだかいちいち感心してしまうよ。
針金に掛けてあるだけのカーテンを注意して寄せ、ペンキを塗り重ねた二重扉をこじ開けて、僕はコンクリートのバルコニーへ出てみた。
そこにはやはり風が吹いている。飛行場のタラップに吹き上げたのと同じ、バスの窓から吹き込んだのと同じ風が。僕はその風を首筋でかき分けながら、じいちゃんがさっき言ったのと同じ気持ちを、一人ひそかに味わった。
そこにいきなり無粋なノックの音が。じいちゃん出てくれ……、チェッ、まだトイレの中か。仕方なく、僕は部屋に戻ってドアを開けた。ナツオだった。
「遅くなってしまいましたが、これから昼食になります」
なんだって? もう十五時になるってのに、今さら昼食を出してどうするんだよ。僕はつい舌打ちをして横を向いた。
「どうもすみません」
ナツオがあやまる。
「あ、いや、べつにナツオさんのせいで遅れたんじゃないし、それに食いっぱぐれるよりはマシさ」
僕はすぐにいつものように、気さくな性格を装った。
ナツオの言うには、ホテル到着の遅れですべての予定がずれ込んで、夕食もまた二十一時過ぎになるとか。
「でも平気ですよ。モンゴルは夜が遅くて、その頃まで明るいから」
「だからって、それが夜ふかしスケジュールの理由になるの?」
ナツオにそう言い返しながらも、僕は肩をすくめて笑ってみせた。
僕はもう、ナツオに対して悪感情を向けるつもりはない。考えてみれば、この人が一番大変なんだ。これからすべての部屋を回り、説明と謝罪とを繰り返さなきゃならないんだから。
ああそういえば、僕だけ機内食を食べてないんだ。おかげでほかの人よりはおいしく料理を食べられた。
逆につらそうなのはじいちゃんだ。どうやらじいちゃんは、無駄にしては申しわけないとか考えて、僕の分まで機内食を食べたらしい。
「あれ、じいちゃんあんまし食欲ないね。やっぱモンゴルの料理は口に合わない?」
僕はとぼけてそんなふうに言ってみる。
「でも、残したりしたら悪いしね」
じいちゃんは目をつぶってうなずきながら、肉をのみ込んだ。
まったく、どこまでお人よしでバカ正直なんだろう。ある意味では立派な事かもしれないけど、それならどうして最後はいつも、こういう皮肉な結果になるわけ? やっぱりありがたいももったいないも、時によりけりなんだよな。
あとはもう、夕食まで自由時間だそうだ。でもこんな何もない所で、いったい何をしろというんだろう。まったく、環境の良い所だなんて、安易に喜ぶんじゃなかったよ。
「どうする優。散歩にでも行くか」
「散歩? それならさ、裏の山に登ってみようよ。腹ごなしにちょうどいいじゃない。夕食の時間まで、のんびり行って帰ってくりゃいい」
僕とじいちゃんは、ホテルのすぐ裏から続く山道を登りにかかった。
でも、自分の方から誘いかけたものの、僕はじいちゃんのスローペースに付き合うつもりはなかった。
「じいちゃんはゆっくり登ってくりゃいいよ。僕は上でゆっくりしてるから。もちろん、べつに上まで来なくたっていいんだけどさ」
僕はそれだけ言い置くと、あとは一人でただひたすら足を進めた。
一頭のシカが、道先からじっと僕を見下ろしている。僕が進むにつれて、シカは数メートル逃げては立ち止まり、そのたび振り向いて僕を見る。……なんて非難がましい目つきをするんだ。
ああそうさ、その通りさ。確かに僕は、冷淡で陰険な人間だよ。
何もじいちゃんに対してだけじゃない。周囲のすべての人達を、僕はいつも嫌悪し軽蔑している。誰も僕の事を認めてくれなくて、だからそうしていないと、自分への自信を保ち続けていられないんだ。
でもだからといって、その感情ありのままに、他人を攻撃するような度胸もない。だから陽気さを演じ、軽薄さを装い、うわべだけなごやかに付き合っている。本当に、自分でもイヤな奴だと思うよ。
だから、この夏モンゴルへ行くとじいちゃんが言い出した時、僕は誘われるのを待たずに自分から同行を申し出た。モンゴルに限らず、とにかく外国へ出る事で、これまでの自分の生活を変えてしまえるきっかけが、きっとつかめかると思ったんだ。
それなのに、僕はここでもやはり……。僕は足元の石を力まかせにけり上げた。シカははねるように駆け出すと岩の向こうに回り、それっきり姿を見せなかった。
でも、いいわけするつもりはないけど、本当の自分を隠して表向きだけうまくやってる連中なんて、ほかにもいくらでもいるじゃないか。しかも僕よりずっとタチの悪い連中が。
クラスのある連中は、万引き程度の事はもちろん、暴行や恐喝まがいの事でさえ、冗談めかして遊びの一種にしてしまう。また大人達もそろって嘘つきぞろいだ。奴らのそんな行為を、意地悪やいやがらせと同列にみなして単にいじめとしか呼ばず、それが刑事事件にもなりうる犯罪だとは、決して認めようとしないのだから。
そうやって表面的な体裁ばかりをつくろうような奴らこそ、一度は外国にでも出て、自分達の日常を考え直したらどうなんだ。
……やめよう。こんな事考えるのは、もうやめにしよう。モンゴルに来てまで日本のつまらない思いを引きずるなんて、それこそほんとバカげているよ。
「やあ白井くん、きみもですか」
いきなりそう声をかけられ、僕はギクッと立ち止まった。顔を上げると、岩の上には塚田が立っている。なんだ、奴も登ってきていたのか。
「この先は林になるし、向こうへは行かない方がいいですよ。入り込むと迷うかもしれません」
「あ、はい」
僕は反射的に、自分でも意外なほど素直な返事をした。そして、何か彼としゃべる話題がないかと、考えをめぐらせさえした。こうして山で一緒にいる時、あまり無愛想にするのも不自然だから、だろうか。
「そこ、景色いいですか?」
「ええ、まあ」
「ウランバートルの街は、ここから見えるのかなあ」
「いえ、それはちょっと」
けれど今度は塚田の方が、そっけない返事をするだけになった。僕に場所をゆずるように岩から降りると、近くの草の上に座り込み、一人静かに空を眺めている。僕はふと、そこに自分の姿のありのままを見たような気がした。
塚田優の、あのばかていねいな敬語の真意が、今始めて僕にも分かった。よそよそしい言葉づかいをする事で、相手から距離を置こうとしていたんだ。そうか、彼もやはり、他人とそういうふうにしか向き合えない人間だったのか。
僕ももう何も言わずに岩の上に立ち、黙ったまま遠くへ目をやった。近くにいてもお互い一人きりであるかのようにふるまう、それが自然な事なんだ。僕にとっても、塚田にとっても。
雲が流れ、陽がかげった。見上げると、雲はかなりの速さで流れている。背後の木立もかすかに騒ぎ始めた。長い坂を登った体に脈うつ熱を、はぎ取るように風は吹き抜ける。その荒々しさが、今はむしろ心地良い。
遠くにはまだ陽光が射している。雲間から太い光の筒が斜めに突き立ち、そしてその下では、さらに明るく川が輝く。
日差しをはね返す白く細い流れが、いく筋もよじれ合いからみ合うようにして、その光の川は形作られている。流れるままに流れる川のあの姿は、間違いなく今この時だけのものだろう。
「へえ、よくこんな所まで登ってきましたねえ」
その声を耳にするまで、僕は本当に塚田の存在を忘れきっていた。ところで、新たにここまで登って来たのは誰だろう。
「大変だったでしょう、倉林さん」
ふーっと長い息をつきながら塚田の横に座り込んだのは、なんとじいちゃんだった。
「ほんとによくこんな所まで」
「いやあ、誘った当人が下で待ちぼうけでは、きまりが悪くてしょうがない」
……やはり、僕が無理をさせてしまったんだろうか。僕はいつになく真剣に反省して、だからこそなおの事気恥ずかしくて、冗談めかしてあやまった。
「じいちゃんゴメンゴメン。僕の方こそじいちゃんに抜かれたらカッコ悪いから、ついマジんなっちゃったんだ」
じいちゃんは笑いながら手を振った。
「倉林さんは、若い頃何かスポーツでもやってたんですか?」
「ああ、何もかもひと通りはやってみましたなあ。若い頃に限らず、今でもやれる事はやれる範囲でやっとりますわ」
「はあ、すごいですね」
「きみは何かの競技に打ち込むなどしていますか」
「いえ、体動かすのは好きだけど、とくにこれってもんは何も。ほら、体育会系って独特の雰囲気あるじゃないですか。ああいうのってどうも苦手で」
「ほおなるほど。しかし塚田くんには、意外とバンカラも似合いそうだがなあ」
「ハハ、まさか」
どういうわけだろう。塚田はじいちゃんを相手にする時は、こんなにも快活に話が出来るなんて。二人は僕の事などすっかり忘れたように話し込んでいる。
僕はクラスでいつもそうするように、陽気なそぶりで話の中に加わっていく事が、なぜだかどうしても出来なかった。まあ、もともとあんな話題に興味はないけど。そうさ、モンゴルに来てまで、わざわざ日本の世俗的な話題にまみれる必要なんてないんだ。僕は黙ってそのまま岩の上に腰を下ろした。
「ああそうか、それに塚田くんは高校三年でしたなあ。受験生の身では、確かに運動にいそしむ余裕などないでしょうな」
「いや、それはあんまし関係ないですけど」
「しかし大事な時期には違いないでしょう。こんなふうにのんびり旅行などしていて、大丈夫なのかね」
「僕、受験はしませんから。就職組なんです」
へえ、気楽な人だ。
「そうですか。もっとも昨今は就職もまた難儀なようですなあ」
「けど、親戚の関係でつてがあるんで、まあのん気にかまえてます」
ほんと、気楽な奴だよ。
「もしそこも駄目ならその時はその時で、しばらく自衛隊にでも入ってみようかと思ってますけど」
なんだって? いったいどこからそういう発想が出てくるんだよ。
「自衛隊とは、またどういうわけで。やはり親戚の方でもおられるのですか」
困惑するじいちゃんを前に、塚田もまごつきながら説明する。
「あ、いや、そういうわけでもなくて……。とにかくただ、ああいった規律のある環境に身を置いてみるのも、自分のためになるんじゃないかと思うんです」
「ほお、なるほど」
「しばらくフリーターでもやるさ、なんて言う連中もいますけど、これまでずっと勝手をやってきて、今さらまた自由気ままもないでしょう。だいたい、そういうのがいつまでも世間に通用するはずありませんよ」
塚田の言葉には妙な説得力がある。ただ、わざとらしい敬語で語られるその理屈には、自分自身を納得させるための、こじつけめいたものも感じられるけど。
「ふうむ、なかなか立派な考えを持っていなさる」
「いえ、まさか」
素直に感心するじいちゃんに、塚田は首を振った。おおげさすぎるほどに勢いよく。
「そんな、ちっとも立派な事なんてないんです。この旅行に参加した理由にしたって……」
そう言いかけて、塚田は口をつぐんだ。
塚田にとって、この旅にはいったいどんな意味があるというんだろう。まさかPKOで発展途上国へ行く時のための予行演習、なんてわけでもないだろうし……。僕には彼の正体が、いまだにつかみきれない。
いつもは根掘り葉掘りなんでもたずねるじいちゃんも、こんな時だけは遠慮をわきまえている。途切れた塚田の言葉を問い重ねもしないで、一緒になって黙り込んでしまった。塚田の旅の動機も、これではいつまでも謎のままだ。
しばらくして、塚田の方が口を開いた。
「そういえば、白井くんこそ受験生でしょう。余裕ですね」
僕は岩の上から飛び降りた。
「先帰ってるよ。ちょっとテレビを見てみたいから」
じいちゃんにそれだけ言い残して、僕は一人で山を下った。塚田には何も言わなかった。余裕、かよ。ああ、気楽な奴とでも勝手に思ってりゃいいさ。
来る時とは違う道に入ってしまったらしい。見憶えのないシカの骨に行き当たった。その骨は、四肢も頭もバラバラに散らばっている。
生き物にとって死が避けられないのはもちろんだけど、ここでは穏やかな死すら求められないものなのか。植物も、動物も、ギリギリの状況で日々を生きているんだ。さっき出会ったあのシカだって、あるいは近いうちにこうなってしまう事も……。
あの時のシカの視線の意味が、今なら僕にも分かる気がした。
遠くで雷が鳴った。顔を上げると、黒く雨の帯を垂らしながら、重い雲が流れてくる。じいちゃん達、じきに戻って来るだろうか。僕はシカの骨の散らばる中に腰を下ろした。
雨が降るのなら、僕もあの二人と一緒に濡れるべきなのかもしれない。
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