鮮やかに 涼やかに − モンゴルにて −


 中央広場 > 書斎パビリオン入り口 >> 鮮やかに 涼やかに2ページ >>
     3 水曜日

 「優、優、ほれ起きろ。気の毒だがもう起床時間だ」
 またしても、夜も明けきらないうちじいちゃんに起こされた。今日はそれもしかたない。そういう予定になってるんだから。
 カーテンを開ければ、なんだよ、外は薄暗いどころかまだ真っ暗じゃないか。サマータイムで時間が繰り上がってるせいもあるだろうけど、まったく度が過ぎた早起きだ。
 味も分からないまま形だけ朝食をつまみ、昨夜の洗濯物だけ置いてあとは到着時のままの荷物を持って、僕は外に出た。夏とは思えない冷たい空気に当たっても、頭はすっきりしない。まったく、夜逃げでもあるまいし、なんで暗いうちからコソコソ出かけなきゃならないんだよ。
 ホテル前には、二台のバスが並んでいる。昨日空港から乗って来たバスだ。くすんだオレンジの丸っこい車体は、薄暗がりの中でかえってボコボコしたへこみが目立つ。同じく丸っこい窓からはぼんわりとした明かりがもれて、ますますうらぶれた雰囲気だ。
 乗り込むと、もうほとんどの人が席に着いて、じっと発車を待っている。じいちゃんは後ろの方に座る塚田を見付け、そっちへ行った。僕は乗降口の前にある席に一人で座った。
 目の前には運転席がある。運転席が左側、乗降口は右側という事は、モンゴルでは車は右側通行なのか。昨日は気付かなかったな。後ろの席に座っていたし、何よりほかの車と一度もすれ違わなかったし。
 運転席は、運転室と呼んでもいいくらい、丸く囲われて完全に孤立している。運転手は左の専用ドアから乗り込んできた。
 運転席の横から僕の席のすぐ前まで、毛布をかぶせたテーブルのような直方体が張り出している。この中はエンジンスペースらしい。しまったな、一番うるさい席らしいぞ、ここは。
 エンジンがボンネットとして外にとび出さず、こうして室内に食い込んでるのは、たぶん寒冷地対策なんだろう。けどその結果座席はたったの二十席だなんて、いかにも旧ソ連製らしいバスだよ、まったく。
 ひょっとして、これからゴビへと飛ぶ飛行機もやはり旧ソ連製で……。
 添乗員は前のバスに乗ったらしい。僕らのバスにはナツオが乗り込んできた。
 「みなさんおはようございます。今日の予定ですが、これからみなさんはチャーター便でゴビへ飛び、ツーリストキャンプで昼食をとってから、午後はバスでゴビ観光に向かいます」
 バスは静かに発車した。エンジンをかけないまま、坂道をソロソロすべり下りて行く。べつに案内を続けるナツオに気をつかってるわけでもないだろう。ただ燃料をケチッているだけさ。

 夜が明けきらないうち空港に着いた。待合室は真っ暗だ。これだってやっぱり、ケチくさく電気を節約してるせいだろう。停電のはずはない。奥のドアの上に見えるTOURIST CENTREという緑の文字が、いやに明るく浮いているから。
 あのドアの向こうは何だろう。好奇心を起こしてそっとノブをひねってみたけど、鍵がかかっていた。ならあきらめるとしよう。ヘタな所に入り込んで文句を言われるよりは、ただ暗闇の中で静かに待つ方がいい。僕も皆に混じって、柔順にベンチに座り込んだ。
 それにしても、今朝のあの早い出発に、いったい何の意味があったんだよ。空港でこうして待つくらいなら、その分ホテルで寝かしといてくれりゃあいいのに。ここの飛行機は明るくならなきゃ飛べないって事くらい、最初から分かりきってるじゃないか。
 けれど僕のこの不機嫌は、そんなに長くは続かなかった。
 太陽が昇った。するとその光を受けて、草原はこれまで見た事もない色に染まった。丘の一部は陽光に浮かび、また一部は陰影に沈み、突如として豊かな起伏を見せ始める。静止した中の躍動……。
 ここは昨日、すでに目にしたはずの場所。なのに今の僕には、ここへ生まれて初めて来たように感じられた。そうか、これはモンゴルでの初めての朝なんだ。今この時が、本当の出発の時なんだ。
 その時、添乗員がやって来てこれから搭乗だと案内した。とたんに皆は色めきたって騒ぎ出す。一方僕はさっきまでの自分の興奮が不意に気恥ずかしくなり、皆から離れて一番最後に階段を降りた。
 外に出るとあらためて驚く。ここはほんとに首都の国際空港だろうか。周囲はすべて手つかずの草原だなんて、日本じゃ考えられないよ。でも逆にモンゴルでは、用地買収や騒音公害が信じられない話だろうな。日本では暴力的な飛行機も、ここではささやかな風のひと吹きだ。
 そのまま駐機場まで歩いて行った。並んでいる飛行機は、どれもみな同じ形式だ。中型の双発プロペラ機。デザインは、紺のラインと赤のラインとの二種類がある。塗装のかすれ具合から見て、たぶん赤が古いタイプだな。ところで僕らの乗るチャーター機は? ……ああ、赤い方ね。
 近寄ってノーズ部分をたたくと、なんとプラスチックの音がした。でもまあ大丈夫、リベットの列が縦横に走るところをみると、胴体や翼は金属製らしいから。
 「確かに旧共産圏では心もとない機体を使っていますが、一方でパイロットはたいてい空軍上がりのエリートだから、その分信頼がおけるというもんですよ」
 旅慣れた様子を気取る年配男が、しきりにそんな話を吹聴して回る。ありゃあよっぽどビビッてるな。
 はしごのようなステップを登り、飛行機に乗り込んだ。中は座席が二列二列、でも列車ほどの幅もない。僕は手近な席にじいちゃんと並んで座った。
 じいちゃんも窓側に座りたがったけど、今回は僕にゆずってくれた。
 「その代わり、帰りはじいちゃんが窓側をもらうぞ。せっかくこんな旧式に乗れたんだ。少しは飛行の様子を楽しませておくれ」
 大人にしては、じいちゃんはまったくのこわい物知らずだ。その事だけはすごいと思うよ。
 丸い窓に顔を寄せ、外を見る。機体上部から伸びる翼を見上げると、ぶら下がるエンジンがやたらと大きく見える。そしてその下に立つ脚もまた、むやみに太い。この飛行機は小さくても重量だけはありそうだ。四十人も乗って、ほんとに大丈夫かな。
 飛行機はけん引されて動き出した。と思うとすぐ止まり、待ちかまえていた人が二本のケーブルをエンジンにつないで去って行く。直後、爆発するような音を立ててエンジンが始動した。プロペラが回転を始める。まず左側、続いて右側も。
 さっきの人が帽子を押さえてまたやって来た。そしてエンジン始動時の電源だったらしいケーブルを、片手で下からつかんで引き抜いた。どうでもいいけど乱暴だなあ。日本では、コードを引っ張ってコンセントを抜くのは危ないって言うぞ。
 そして飛行機は自力で滑走路へと移動した。ずいぶん気をもたせたけど、ようやく離陸するらしい。
 エンジン音が高まり、ビリビリと振動が広がる。と、いきなり機体が走り出し、僕は後ろにのけぞった。なんだこの席、リクライニングが壊れてるよ。慌てて背もたれから身を起こし、また窓に張り付く。滑走路上に映る機体の影が、タイヤからはがれ落ちるように離れるのが見えた。……風になった瞬間。
 目の前で脚が収納される。機体が上を向くのが分かる。かなりの急角度だ。外の景色を見るまでもなく、この傾き具合だけで充分に上昇の実感がある。僕は傾斜と加速にあらがうように、上体に力をこめた。
 その時、いきなり首すじに冷たいものを感じた。水だ。見上げると、天井からひっきりなしにしずくが落ちてくる。まったく、なんてオンボロだよ。こんな事なら前の方に座りゃよかった。今となっては、水平飛行に移るまでガマンするしかないか。
 もうしかたのない事はあきらめて、僕はまた窓の外に目を移した。
 今、眼下に望むのは、昨日の山からも見えたあの川だ。その流れの複雑さは、中洲や三日月湖などといったなまやさしいものじゃない。まるでヒモをほぐして広げたように横たわり、草原を一面に流れている。遥かなバイカル湖に至るまで、川はこの先どんな道のりをたどるんだろう。
 川を越え、街を囲んだ山を越え、その間にも飛行機はどんどん高度を上げていく。道路らしい直線が、遠く細く引き伸ばされる。ゲルと呼ばれる遊牧民の家々も、細かく散らばりもう分からない。
 雲さえ下に見る頃には、地上の細かい様子はもう分からず、ただ時おり川や池が見られるほかは、すっかり単調になってしまった。こんなふうに、何もないのがモンゴルらしさか。雲の影のまだら模様を目で追ううちに、朝が早かったせいもあって、僕はだんだん眠くなってきた。
 「寝るのなら、その間だけでも窓側をじいちゃんにゆずってくれんか」
 僕はじいちゃんと席を代わった。
 日本にいる時とくらべて、じいちゃんに対して素直だなと自分でも思う。ふだんなら、見てると言いながら目をつぶるような意地悪もするだろうけど。こっちの席の背もたれも壊れているので、僕はじいちゃんの肩に軽く頭をもたせて眠った

 「優、優、そろそろ着陸らしいぞ」
 ……この旅が始まって以来、なんだかじいちゃんに揺り起こされてばかりのような気がする。
 「まさか、まだ早いよ。着くのは昼過ぎだって言ってたろ」
 「だが車輪が出たし、高度もどんどん下がっている」
 確かに窓の向こうには、脚が突き出ているのが見える。踏みしめる物もないまま空中でふんばるようで、なんかこっけいな感じだ。
 じいちゃんとまた席を代わってもらい、窓から地面を見下ろした。いつの間にか草の緑はすっかり色あせ、見るからにほこりっぽい土色が一面に広がっている。ああ、これがゴビの色か。
 眺めている間にも、まばらな草の模様のきめが、大きくはっきりとしてきた。地上の飛行機の影もまた、拡大投影されていく。そして、前の方に座るOL達が奇声を上げ始めた。ああなるほど、機首が下を向いたから、今度は天井から前の席にしずくが落ちるんだな。
 「うん、確かに降りていってるね」
 「そうだろう」
 「でも、なんでこんなに早く降りるの」
 「さあ、それは分からんなあ」
 のん気なじいちゃんの相手をする気になれず、僕は口元を引き結んで横を向いた。
 飛行機はどんどん高度を下げてゆく。地面の起伏にゆらぎながら滑る影を、僕は表情を固めたままみつめ続けた。もうすぐ、もうすぐだ。なのにまだ滑走路は始まらない。
 とうとうタイヤが地面をこすった。土煙が舞う。振動が突き上げる。
 やがて機体は止まり、ゆっくり左に向きを変えた。すると窓のすぐ外に見えたのは、旅行者用の宿泊施設。え? 始めからここに降りるつもりだったの? なんだ、僕はてっきり不時着でもしたのかと……。そうだよな、舗装されない土の上に着陸なんて、モンゴルでは常識か。
 飛行機は宿泊施設の方に向かって、再びゆっくり走り始めた。ふと見ると、反対側のプロペラはもう止まりかけてる。あれもどうせ燃料節約のためだろう。何も知らなきゃ、ほんとにトラブルと思うところだ。
 「ここでしばらく休憩します。トイレへ行きたい人はどうぞ」
 ナツオがそう案内した。ああなるほど、トイレ休憩の着陸だったわけね。
 プロペラが止まったのを確認して、ドアが開かれた。僕とじいちゃんも、もちろんほかの人達も、全員が席を離れる。初めてゴビに降りたんだ。トイレの用がなくたって、誰だって外に出てみたいさ。
 ステップを降りると、足元にはまばらに草が生えている。細く固そうな葉と茎を、小石だらけの地面にがっきり突き立てて。そして独特の強い香気を、乾いた風に含ませている。
 周囲の人達のざわめきが、なんだか遠い。ただ静かと表現するには不自然で、音が希薄とでもいうような感じだ。今までずっとエンジン音にさらされ続けていたせいだろうか。
 いや、確かにここは何もかもが希薄だ。どれもひどく鮮明なのに、そのくせまったく存在感の主張がないんだ。
 大気も暑さを感じさせない。直射する強烈な太陽光だけが、ただ真っすぐに熱を打ちつけてくる。
 遠くを見ているうちに、なんだか距離感覚がおかしくなってきた。遠去かって行くバスが、土煙を舞い立てながらも、いつまでもはっきり見え続けている。その向こうに広々と横たわる山の稜線も、切り貼りしたように鮮やかだ。遠くはかすむという空気遠近法の常識が、ここでは成立しないんだ。
 そしてその山の稜線が地平線に接する辺りが、不自然に縦に延びて見える。ひょっとして、あれは蜃気楼だろうか。そうか、あれが蜃気楼か。
 生まれて初めて蜃気楼を見たのに、僕はどうしてこんなに落ち着いてるんだろう。まったく、何もかも鮮やかすぎると、かえって現実感がなくなるものらしい。なんていうか、まるで霊だけになって世界を見渡すような気がするよ。
 いつの間にか、付近には誰もいなくなっていた。うるさいじいちゃんや塚田も含め、全員が宿泊施設の方へ行ってしまったらしい。乗員達が積み荷を降ろすのを、たった一人残ったナツオが見守っている。
 「せっかくの休憩時間にも仕事だなんて、飛行機乗りもやっぱ大変なんだねえ」
 僕は自分からナツオに話しかけた。外国人のはずなのに、なぜだか彼といる時が一番気楽なんだ。
 「お客の方は、みんなあっちでのんびりしてるっていうのにさ。でもほんと、このトイレ休憩に危機を救われた人、けっこう多かったみたいだよ」
 「あ、いえ、これはトイレのための休憩じゃないんです」
 ナツオは小声で僕に耳打ちした。
 「あの荷物をここまで積んで来たのは、パイロットが勝手に引き受けた仕事」
 なんだって? チャーター機を使って個人的なバイトをやってるわけ? そんな事が、モンゴルじゃ許されるのかよ。
 「これ、ほかの人にはナイショです」
 ああ、ああ、そりゃ日本人が聞きゃ怒るだろうな。
 でも僕としては、笑いが止まらない。まったくお笑いぐさってもんさ。機長のそんな自分本位を、自分達への好意だったと思い込んでたなんて。僕もじいちゃんなみに、おひとよしじゃないのかよ。この苦笑いは、しばらくおさまりそうもない。
 僕はさくにもたれかかってしきりに頭を振った。そしてふと横をみると、向こうの方では一人の小さな女の子が、やはりさくにもたれて飛行機を見ている。僕はその子の近くに行ってみた。きまり悪さを吹き払うのに、いつもみたいにおどけてみたくなったんだ。
 「おじょうさん、はじめまして」
 女の子はびっくりしてふり向くと、とまどうようなはにかむような笑顔を見せた。
 「おじょうさん、お名前はなんというのですか?」
 「ムンフツツク」
 冗談めかした日本語が、まさか通じるとは思わなかった。でも考えてみれば、子どもにとってまず聞かれる事といえば、名前か年かのどちらかだもんな。僕はその子の背に合わせ、そっと身をかがめた。
 「そう。僕は白井優。シ、ラ、イ、ユ、ウ。十四才だ。きみは年はいくつなの?」
 僕が自分の年を指で示すと、ムンフツツクはすぐ質問の意味が分かったようで、小さな両手で七本の指を広げてみせた。うん、そのくらいだと思ったよ。笑うとほら、上の前歯が抜けてるし。
 僕らを呼ぶナツオの大声が、静けさの中でびっくりするくらいに響いた。僕は慌ててムンフツツクと握手をして、どさくさまぎれにそのほっぺたを軽くなでてから飛行機に走った。……ムンフツツク、いったいどういう意味だろうな。

 飛び立った飛行機は、わずか十分後にはまた着陸していた。まあ今回の着陸は、給油という避けようのない理由があるから仕方ないけど。
 それにしてもこの飛行機、気軽にどこにでも寄り道するなあ。まるでバスか何かのつもりでいるのか? なんとなく、僕ら乗客が軽く見られてるようでおもしろくない。窓から見下ろせば、ここもまたわだちで固められたような土の滑走路だ。
 三十分後にはまた離陸。飛行機はすぐに山越えにかかった。岩ばかりの茶色く荒い稜線が、重なり合いからみ合いながら、眼下を流れ去って行く。ああ、なんて雄大な山脈だろう。
 ところがガイドブックを広げると、ゴルバンサイハン山地なんてとても小さく書いてある。でも僕は拍子抜けしたというより、かえってモンゴルの大きさに感心していた。
 再び地上が小石と浅い草とにおおわれ始めた頃、目の前に車輪がとび出した。いよいよ今度こそ、本当に目的地に着陸だ。窓に顔を近付け前方を見ると、そこには白い砂山が見えた。ゴビの平原の中にただそこだけが柔らかくもり上がって、なんか奇妙な感じだな。そう、言ってみれば砂漠の箱庭っていう感じだ。
 真下をウマの群れが駆けて行く。飛行機はそのウマ達をかすめるように追い抜いて、そのまま地面に降り立った。また例によって土の上に直接の着陸だ。しかも今回は、前の飛行機のわだちすら残っていない。
 止まってからよく見ると、タイヤは四分の一ほども沈んでいる。大丈夫なんだろうな。エンジン音が静まった途端、僕は身動きがとれなくなったような不安感にかられた。
 「ほお、バスが現れたぞ。どこからともなく」
 となりのじいちゃんが、僕の肩越しに遠くを指差す。あのバスはいったいどこで僕らの着陸を知り、どうやってこんなに素早く現れたんだろう。飛行機から降り、何もない平原を見渡してみて、バスの唐突な出現が僕にはますます不思議に思えた。
 バスの前に集まると、ナツオが大きな声でしきりにあやまった。
 「みなさんすみません。ほんとにどうもすみません」
 二台来るはずのバスが一台しかなく、全員は乗りきれないから、半分はここで待たなきゃならないんだとか。さっきはあんなに頼もしく見えたバスだけど、やっぱりあてにはならないもんだな。
 「じいちゃんは先に行く? そう、僕はバスが折り返し戻って来るまで、ここでのんびり待ってるよ。べつにあせる事もないし」
 添乗員がバスに乗り込むのを見て、僕はきびすを返した。あやまる事をすべてナツオに押し付けてるようで、あの添乗員はどうも虫が好かない。同じバスに乗るくらいなら、不安感くらいがまんするさ。残った半数の人達と一緒に、僕は複雑な表情でバスを見送った。
 誰もがなんとなく飛行機の周囲に寄り集まって、じっと黙り込んでいる。集団に加わるのが嫌いな僕でさえ、距離を置きながらも飛行機の方を向いてしゃがみ込んだ。
 一人の子どもが、前輪のタイヤをペタペタたたいて遊んでいる。あの黄色い服は健人じゃないよなあ。あんな子いたっけ。え? あの子、さっきの女の子じゃないか!
 「ムンフツツク! どうしてここに?」
 立ち上がってうろたえる僕に気付き、ナツオが小走りにやって来た。
 「ちょっとナツオさん、あの子誰? いったいどういう子?」
 「ああ、あれは機長の娘です」
 平然とナツオは答える。
 「いい機会だからと、町から一緒に連れて来たようですね」
 ようやく僕にも納得がいった。なるほど、よその荷物を便乗させる機長の事だ、娘を同行させるくらい、やりかねないよ。
 「それじゃあの子、ずっと同じ飛行機に乗ってたんだ。ちっとも気付かなかった」
 さっきおわかれを言ったばかりなのにまた顔を合わせるのがきまり悪くて、僕は飛行機に背を向けた。
 しばらくして、にぎやかなはしゃぎ声が聞こえてきた。ふり向くと、ムンフツツクと健人とが、一緒になって前輪の周りを駆け回っている。七才と八才か……。無邪気なもんだよな。僕は砂の上にひっくり返って手足をのばした。なんだかもうここでこのまま、こうして一人でいたってかまわない気がする。
 二十分後、バスはあっけないほど早く引き返してきた。

 ツーリストキャンプと呼ばれる宿泊施設には、フエルトでくるまれた遊牧民の丸い家がずらりと並んでいる。ゲルという名のこの家が、今夜の僕らの寝室だ。四人で一部屋。僕とじいちゃんのほか、森親子が同室になった。
 先に着いてたじいちゃんが、すぐに昼食らしいとせかすので、僕は顔も洗わないまますぐ食堂に向かった。
 こんな人里離れた土地で、昨日のホテルとそう変わらない料理が出た。誰もがため息まじりに感心している。だけど、添乗員の言いわけが料理をまずくした。
 何やらぐちぐち言ってるけど、要はこういう事だろ。ウランバートルの契約相手とは連絡ついたが、これからもう一台手配しても間に合わない。今ある一台のバスで二度に分けて観光するしかないってわけだ。みなさんどうしましょうかって、だったらそうするしかないじゃないかよ。
 慌ただしく先発後発の組分けが始まった。こんなのにいちいち付き合ってられないよ。僕は無関心に言った。
 「希望者の少ない方でいいです。そう、それじゃ後発で」
 スケジュールも決まった。先発は十五時出発十九時帰着、折り返しすぐに後発が出発して、帰着は二十三時か……。もう勝手にしろ。
 先発のバスを見送って、やっとひと心地ついた気がした。でも落ち着いて考えたら、夜の早いじいちゃんを後発に引き入れたのは悪かったかな。それに、同室の森親子の事も考えるべきだったかもしれない。やはり早く寝る健人のために、あの親子は先発を選んだんだし。
 今になって後悔してもしょうがない。夜ふかしに備えてこれから昼寝をするというじいちゃんを、せめて静かにさせてやろう。僕はそっとゲルを出ると、あてもないままそこらをブラブラ歩き回った。
 「おい白井くん。そうかきみも後発にしたんだな」
 塚田だ。なんだこいつも後発なのか。
 「人数の少ない方にしようと思って、僕も後発にしたよ」
 塚田はなれなれしく話しかけてくる。ヒマつぶしにいい話し相手を見付けたつもりか、それとも同じ人付き合いの苦手な者同士、仲間のつもりでいるのか。
 「追加料金まで払ってホテルは個室を頼んだけど、それもここじゃ通用しなかったな。見知らぬ三人と相部屋さ」
 はっきり言って、僕は塚田が気にくわない。相手なんてしたくはない。でも何か秘密を抱えた人物らしくて、その事はとても気になるし……。僕もこいつに対してだけは、あからさまに背を向ける事も、うわべだけ同調して内心あざけってやる事も、出来そうにない。
 「その相部屋のもう一人がやっぱり後発でな、今部屋で寝てるんだ。なんか居場所がない感じで、困るよなあ」
 「へえそう、同じだね。僕んとこでも今、じいちゃんが一人で昼寝中」
 僕と塚田はゲル裏の日陰に並んで座った。こんな手持ちぶさたの時くらいなら、退屈しのぎの話し相手になってやるのもいいさ。そう、あまり考えすぎないで、自然に自然に。
 ……どうして日本にいる時は、その自然にというのがあんなにも難しいんだろう。
 ふと視線を感じて、僕はふり向いた。すると向こうのゲルの扉の陰から、ムンフツツクがこっちを見ている。
 僕は笑顔を準備して立ち上がりかけた。けど、すぐまた思い直して腰を下ろした。
 僕は健人とは違うんだ。言葉も通じないのに親しくなんてなれるわけない。モンゴルにいてもやっぱり、すべて自然にとはいかないよ。
 僕の動作を不審に思って、塚田もふり返った。
 「ああ、あの子か。誰かスタッフの家族らしいけど、なかなかかわいい子だよな」
 「うん」
 ただうなずくだけの事さえ、なんだか恥ずかしい気がした。

 夕食もすませた。出かける準備も整った。なのにバスはまだ戻って来ない。いや、来た。砂丘の手前にごく小さく、バスとその砂煙とが見える。二十分遅れか。このくらいなら許してやろう。と思ったけど、到着はそれからさらに二十分も後だった。
 でも降りて来た添乗員の言いわけに、僕はつい笑ってしまったよ。オーバーヒートだって? そりゃそうだ。寒冷地仕様のバスを砂漠で走らせりゃあな。
 僕はもう、遅くなった事の不愉快さを忘れていた。日が暮れればそんな心配もないだろうし、ほんと後発を選んだのは正解だったよ。バスは砂丘を目指し、西日の中を疾走した。
 悪路のせいで、車体はかなり揺れるし、中の僕らは跳ね上がる。けどまあ、舌さえかまなきゃ大丈夫。じいちゃんはちょっとバテてるようだけど。
 でもそのじいちゃんも、バスを降りて砂丘を仰いだ途端に元気になった。
 「ほお、これはまたなんと雄大な」
 砂丘は今や砂の山脈となって、眼前にそびえている。本当に、これが飛行機から見下ろしたあの箱庭だろうか。
 山肌は逆光に半ばシルエットとなり、砂のはかなさを感じさせない重々しさを見せる。その山影に対するように、手前を流れる小川が軽やかに輝いている。そのきらめく水の存在が、見知らぬ砂漠の風景をとても親しく感じさせた。
 ここでこのまま、この情景をいつまでも眺めていたい。でもいつだって、団体行動はそれを許してはくれないんだ。ナツオの案内で、近くに住む遊牧民を訪ねる事になった。僕も仕方なく行列の後に続いた。
 アポなしで押しかけるのかと思って緊張したけど、あらかじめ話はついてたようだ。表にラクダが二頭用意され、乳製品も山盛りに並べられていた。
 でもそれにしても、他人の生活の場に大勢で踏み込む事には変わりないんだよな。この人達の日常を、無関係の人間が物珍しそうに面白がってもいいんだろうか。そんなうしろめたさから、僕はラクダ乗りも乳製品も味わう事ができなかった。
 「はいみなさん、それでは何か質問があったらどうぞ」
 好奇心おうせいな日本人団体にナツオが気をきかせて、遊牧民一家への質問の場を設けてくれた。今の憂うつな気分を他人にさとられたくなかった僕は、わざとふざけた質問をしてやった。
 「ナツオさん、このゲルでの生活について聞きたいんだけど」
 「はいどうぞ」
 「夫婦のベッドまでみんなと一緒の部屋なのに、どうしてこんなに大勢子どもが作れるんですか?」
 日本人はそろって大笑いした。ああ、好きなだけ笑えばいい。おまえらだって内心は、こっそり同じ事を思い浮かべていたくせに。いつまでも団体に溶け込んで健全ぶるのは、いいかげんやめろよな。
 ナツオもあいまいに笑ったまま、その質問はとうとう通訳してくれなかった。

 日が沈む。西空が燃える。そろそろ二十一時、ゴビの遅い夜も間近だ。次の目的地の泉には、なんとか明るいうちに着くそうだけど。運転手も気楽に、口笛なんか吹いている。疲れも見せず、タフな人だ。僕ら乗客の方は、ひどい揺さぶりの連続でそろそろまいってきてるというのに。
 その時、今までにない大きな衝撃がバスを襲った。沈み込み、そして停止する車体。僕らはそろって跳ね上がり、そしてつんのめった。
 降りてみると、あーこりゃひどい、バスの後部が砂のくぼ地にすっかりはまり込んでる。運転手も、ケチッてないで早めにライトつけろよな。口笛なんて吹いてる場合じゃないだろ。
 乗客を降ろして軽くなったバスは、めいっぱいエンジンをふかして脱出を試みた。けれど、崩れる砂にかえってバスは埋まってゆく。
 「よし、押してやる」
 そうさけんで飛び出したのは、なんと塚田だった。驚いている暇もなく、無意識に僕もバスの後部に取り付いていた。ほかにも数人の男達が僕らに続いた。
 後輪のけ立てる砂が、容赦なく口に飛び込む。でも塚田なんかに負けてたまるか。僕は砂をかみしめ歯をくいしばった。
 バスの方が先にねを上げた。エンジン音が静まってわれに返れば、ほとんど埋まってしまったバスと、砂まみれでたたずむ自分達。でもそんなみじめな状況の中で、僕は自然に塚田と顔を見合わせ笑っていた。
 「向こうでしばらく休もうぜ」
 「そうだね」
 僕と塚田は、バスから少し離れた所に並んで座った。
 塚田は運転手がスコップをふるうのを眺めるばかりで、昼過ぎのようにいろいろ話しかけてはこない。また僕としても、人が変わったような塚田に対して、なんだか声がかけづらい。気詰まりな思いで、僕は遠くに目をやった。
 するとやがて道の向こうに、二騎のシルエットが浮かび上がった。誰かがウマでやって来る! 助けてもらえるかもしれない。僕は塚田を揺さぶって、助っ人の登場を知らせた。
 もっと驚いた事に、それはさっきの遊牧民一家の、ラクダを引いていた人達だった。彼らも僕らに気付くと、親しげに笑いながらウマから降りた。そして並んで腰を下ろすと、ふところからキセルを取り出し、それをゆっくりふかし始める。……なんだ、ただのヤジウマかよ。
 でも僕は、この事にかえってほっとさせられた。日本人が一方的に、モンゴル人を見物しているわけじゃなかったんだな。モンゴル人の方だって、日本人を見て楽しんでるんじゃないか。変化のとぼしい生活の中では、訪れる観光客を逆に観察する事が、絶好の娯楽になっているのかもしれない。
 塚田が立ち上がった。そうだ、僕らは見物してるわけにはいかないんだ。
 「石を探せ。なるたけデカくて平たいやつを」
 「わかった」
 そうして塚田と僕とで集めた石を、運転手が掘り出した後輪の下に突っ込む。あとはまた、そろってバスの後押しだ。
 何度も砂をかき出し、石を敷き直し、繰り返し後押しをしては砂を浴びた。僕は二人の遊牧民が行ってしまった事にも、周囲がすっかり闇に沈んだ事にも気付かずにいた。
 バスがようやく脱出に成功したのは、それから三十分もたってからだった。

 バスは予定を変更して、真っすぐツーリストキャンプに向かっている。こんなに暗くなってしまっては、観光どころじゃないからな。それにさっきの作業でくたびれはてて、もうどうでもいいって気分だし。
 ただ一人、じいちゃんだけはひどく興奮している。
 「力を合わせて困難を克服する姿、何よりも素晴らしい事じゃないか、なあ。いやあ、まったく感動的だった」
 ……まあ、いいんじゃない? それなりに満足してるようだから。
 ゆったり気分でまどろみかけたその時、突然運転手が何かさけんだ。ブレーキがきしみ、僕らはまたつんのめる。またトラブルか! いや違った。運転手の指差す先に目をやると、ヘッドライトの光の中を奇妙な動物が逃げて行く。チェッ、あんまりあせらすなよ。
 「今度はどうした!」
 塚田が後ろの席から駆けて来た。
 「べつになんでもない。ほらあれ、なんか珍しい動物らしいけど」
 その途端、塚田の目の色が変わった。ドアに駆け寄ると大声でさけび出す。
 「ちょっとドア開けてくれ! おい開けろったら!」
 そして外へ飛び出した塚田は、ヘッドライトの光の中で帽子を振り回している。あっけにとられながらも、僕も気になって外へ出た。
 「やったぜ、つかまえた。おい見ろよ白井、ハリネズミだぞ。モンゴルのハリネズミなんて、テレビでも見た事ねえよ」
 今日の塚田は何か違う……。これがあの、敬語で身構えていた昨日までのあいつと、ほんとに同一人物だろうか。
 塚田は僕に帽子を突き出した。帽子ごと塚田の手に包まれて、ハリネズミはとまどった目をしている。たぶんハリネズミにも、今の僕の表情は同じように映っただろう。

 今夜は最初で最後のゴビでの夜だ。疲れて帰っても、そう考えるとすぐに眠る気にはなれない。僕はじいちゃんにカギを開けといてとだけ言い置くと、キャンプのさくを乗り越えて平原のただ中にさまよい出た。
 話に聞いていた以上の、すさまじい星空。ひしめいている。騒いでいる。はじけている。夜気の静寂の中に立ちながら僕は、音を、熱を、動きを感じた。知らなかった、星空がこんなにもダイナミックなものだったとは。
 天の川も氾濫している。一等星さえ押し流してしまいそうだ。激流の中ではかなげに見えるあの三つの星が、日本では堂々と空を覆う夏の大三角だなんて。
 星の光に射すくめられたような気分も、見憶えのある星座の姿を拾い上げるにつれ、徐々にやわらいできた。
 西の砂丘の上には、うしかいが立ち上がる。北の空高くから、北斗七星が急降下する。東の地平からは、ペガサスが飛び立つ。そして南の地平には、サソリが低く横たわる。
 そのサソリ座を背景に、一人の人影が立っている。あれは塚田優だ。一人で星を見上げるその姿を見て、僕はなんの根拠もないままそう確信した。


次の章へ