鮮やかに 涼やかに − モンゴルにて −
健人の騒ぎ立てる声で目が覚めた。
「あーほら火が消えちゃうよ。もっと木を入れようよ」
僕はわざとらしくウーンと声を上げ、寝返りをうって背を向けた。普通なら、これで気をきかせて静かにするものだけど、さすがに子どもは遠慮がない。
「あーまだねるつもりだ。ねえ、早く起きないとチコクするよ。一人だけおいてかれても知らないよ」
「ったく、うるさいなあ」
「ぼく一番に起きたんだから」
「ああそう、僕はビリでけっこう」
それでも今が何時か気になって、僕は腕時計をのぞき込んだ。あ、もう朝食十分前か。確かにもう起きなきゃやばいな。僕はのろのろと毛布からはい出した。
何か臭いと思ったら、なんとゲルの中央ではストーブが燃えている。健人はさらに薪をくべながら、得意そうに言った。
「これ、ぼくとお父さんとでつけたんだ」
「でもなあ、ストーブはオモチャじゃないんだからな」
「だって、朝はすごーく寒かったんだもん」
そうか、砂漠での朝といえば、そういうものかもしれないな。寝坊をして何も知らなかった事が、ひどくカッコ悪く思えてきた。
「ああ分かったぞ、健人くん。オネショしたのを乾かすために、早起きしてストーブたいたんだろう」
かがみ込み、顔をのぞき込むようにしてからかうと、健人も笑いながら僕の胸を軽く突いた。
食堂へ行く途中、ムンフツツクを見かけた。
「健人健人、ほらあの子だぞ。あいさつくらいしろよ」
僕が健人をせっついたのは、正直言って自分であいさつする度胸がなかったからだ。
健人もやはり、ためらっている。
「えー、ぼくモンゴル語知らないもん」
「何言ってんだよ。子ども同士にはそんなの関係ないんだよ。ほら、行ってこいよ」
「だってー」
「昨日だって一緒に遊んでたじゃないか。言葉を交わさなくたって、みつめ合えばすべて通じる。ヒューヒューゥ」
その時後ろから軽く肩を突かれた。ふり返ると塚田だった。
「なんだか健人くんにやきもち焼いてるみたいだぞ、白井くんは」
やはり僕の顔をのぞき込むように笑う塚田に対して、僕もまたてれ笑いを返すほかなかった。
ツーリストキャンプから飛行場へは、またバス一台でのピストン輸送だ。僕は二度目のバスを待つ事にした。飛行場で待つのもここで待つのも同じだし、それにまた、健人とムンフツツクとがじゃれ合うのなんか見たくもないし。
でも着いてみれば、健人を始め先に来ていた連中は、座席に着いておとなしく待っていた。僕とじいちゃんも、真ん中辺りに空席を見付けてそこに座った。
今日はこれから、北のハルホリンという町へ飛ぶ。ナツオの説明によると、ウランバートルへ戻る事なしに直接次の目的地に向かえるのも、チャーター機だからこそとか。まあ、あの機長にはそれくらいの働きをしてもらわないとな。
「どうするじいちゃん。窓側は行きが僕で帰りはじいちゃんって約束だったよね。今日のコースの中間でチェンジしようか?」
「いや、じいちゃんは昨日、優が寝ている間にゆっくり景色を楽しんだからな。今日一日、窓側をゆずろう」
僕はありがとうを言う代わりに、じいちゃんに向かってこう言った。
「でもラッキーだったよ、真ん中辺りの席で。昨日は天井からポタポタ水が落ちて来たけど、ここなら機体が上を向いても下を向いても安心だ」
じいちゃんは天井をちょっと見上げて笑うと、そのまま目をつぶった。昨日の夜更かし、やっぱりこたえたのかな。僕はそれきり静かにしてやった。
もっとも、すぐにエンジンの爆音が始まったけれど。そういえば、初日のエンジンスタート時の外部電源は、いつも必要というわけではないんだな。タイヤが砂に埋まっている事さえ問題にせず、飛行機はあっけないほど簡単に飛び立った。
連なる砂丘が眼下に見える。昨日走ったコースを思い浮かべながらたどってみると、あの小さな白い点々が、立ち寄った遊牧民のゲルになるんだろうか。けれども目をこらす暇もなく、それはすぐに流れ去ってしまった。
さらに飛行機は上昇し、地上の細かい部分はますます分からなくなった。僕ももう細部に目をこらすのはやめ、全体をぼんやりと眺めてみる。すると北へ向かうにつれ、緑が徐々に濃くなっていくのが、はっきりと感じとれた。
雲も多くなってきた。雲が流れ去る瞬間、そのぼんやりした表面に、飛行機の影が映るのが見える。そしてその影を中心として、円く虹がかかっているのも。そうか、これをブロッケン現象と呼ぶんだな。雲の過ぎるほんの一瞬だからなおの事、影と虹の円環の対比は、いっそう鮮やかに目に焼き付いた。
雲はますます多くなり、とうとう眼下をすっかり覆って雲海となってしまった。当然ブロッケンはずっと下に映ったまま、ひたすら飛行機について来る。こうなると、珍しくもなんともない感じで、かえって面白みがないな。僕はひじかけにほおづえをついて目をそらした。
その時、僕は頭のすぐ上の天井から、勢いよく煙が噴き出してるのを発見した。
「じ、じいちゃん、起きて」
「……あ、どうした」
「煙が出てるんだ、そこの天井から。今気付いたんだけど、どうしよう。知らせた方がいいよね」
僕は出来るだけ冷静に状況を説明しながらも、内心すっかり動揺していた。なのにじいちゃんときたら、じれったいくらいに落ち着き払っている。僕の指差す先を見上げると、ゆっくり立ち上がって煙に手をかざした。
「ああ、これは冷房だぞ、優」
「冷房?」
「かなり冷たいな、この風は。それで霧になって見えるわけだ」
じいちゃんは、どっこいしょと言って腰を下ろした。そういえばちっとも臭くない。僕はひどくきまり悪くて、窓に顔をそむけた。窓の外は雲のただ中で、一面灰色だ。飛行機は降下を始めたらしい。
「そろそろ着陸らしいし、じいちゃん、もう起きときなよ」
それにしても、クーラーが水をしたたらせたり霧を噴き出したり、なんてオンボロな飛行機だろう。言いわけするつもりじゃないけど、こんなボロだからちょっとした事でも心配になるんじゃないか。
でも、じいちゃん以外の人に気付かれなかっただけ良かったよ。もし塚田にでも知られていたら、またどんなにからかわれたか分からないぞ。
飛行機は脚を下ろし、さらに降下して雲の下に出た。
うわあ、なんてみずみずしい草原の色だろう。乾いたゴビを知った事で、僕はあらためてこの緑の豊かさ、そして鮮やかさに驚いた。
そして草原よりもさらに深い緑色が、山並みの北面を覆っている。あれは林だ。小さな潅木しか見られなかったゴビと違い、ここではあれだけの木々が生きていけるんだ。なんておだやかな土地だろう。とは言っても、前にナツオが説明してくれた通り、あの木々も北斜面の残雪でかろうじて命をつないでいるのだけど。
川が見える。飛行機の進行方向に沿ってずっと流れている。
「ほお、この川もまた、遥かバイカル湖へと注ぐわけだな」
声にふり向くと、じいちゃんはシートから腰を浮かせて外を見ている。
「なあじいちゃん、すぐに着陸なんだからさあ、おとなしく座ってシートベルトしめとけよな」
「おお、すまんすまん」
まったく、落ち着き払ってるのか落ち着きがないのか、わがじいちゃんながらよく分かんない人だよ。
飛行機は着陸した。土の上に直接降りても、僕はもう驚きはしない。ただ、滑走路のあちこちに水たまりがあるのには、ちょっとヒヤっとさせられたけど。何しろタイヤが水しぶきを散らし、窓一面に泥水が飛び散るんだから。いや、そんなのべつにどうって事ないさ。二度とこれくらいの事でうろたえるもんか。
降り立つと、地面はしっとりぬれている。雨が降っていたんだな。見上げれば、さっき見下ろした切れ目のない雲海が、空一面に垂れ込めている。肌寒い事もあって、僕らは迎えのバスにすぐ乗り込んだ。ああ良かった、今度はバスが二台あるよ。
さて着いた。ここがハルホリンのツーリストキャンプか。ゴビのツーリストキャンプと似たようなものだな。さくの中に、ずらりと宿泊用のゲルが並んでるところなんか。そして中央には食堂があって。ああ、でもここはその食堂も大形のゲルになってる。
すぐに部屋割り、そして昼食だろうと思っていたら、何があったのか添乗員がどこかへ行ってしまい、部屋割りが決まらない。……まあいいか。まだ時間も早いし、のんびりさせてもらおう。僕は荷物を背負ったまま、キャンプを四角く囲うさくの一番遠い角に向かって、一人で歩いて行った。
雨露を乗せた草の葉になでられて、じきにクツはびしょぬれだ。ここではたとえ敷地内でも、草刈りとかはしないんだな。
ゴビは遠い地平線は淡く緑に見えたものの、どこまで進んでも周囲は砂と小石のくすんだ茶色だった。ところがここは、足もとまでがすき間なく草に覆われている。この緑は、近付いても遠去かりはしない。色あせはしないんだ。僕にはなんとなく分かった。ここの人が草を刈らない理由が。
僕は立ち止まってかがみ込んだ。まったくすごいよここは。花だってこんなに色鮮やかなんだから。
絵の具の色そのままの原色といった黄色い花オレンジ色の花が、ポカッ、ポカッ、と音でも立てそうに開いていて、時おりいっせいに風に揺れる。これはケシの仲間かな。
アザミに似た草もある。けれど花は茎の先から全方向に広がり、完全な球形をしている。けど何よりも気を引かれるのは、その花の色だ。なんて鮮やかな青色だろう。こんな色はアサガオにもない。キキョウやリンドウにもない。日本の花には決して見られない色だ。
なんの仲間かも分からない、本当に見た事のない花もある。ピンクというか薄紅といった色の細かい花が、茎の上に寄り集まっている。とても小さい。自己主張の激しい花々の中では、こんな物静かな花も、かえって印象が強く残る。
「なにやってんの? ねえ」
ふり向くと、駆け寄って来るのは健人の奴だ。……またうるさいのが来たよ。僕は一人でいたいのに。
「ねえ、なに見てんの? なんかいるの?」
「花を見てるんだ」
僕はぶっきらぼうに答えた。
「なあんだ、めずらしい虫でもいるのかと思った。それ、なんていう花?」
「さあ、知らん」
僕は本心のままに無愛想な口調で答えた。健人みたいなチビの機嫌をとる必要なんてないし、だから大人達やクラスメイトに対してするように、無理に陽気さを装うつもりはない。とにかく、塚田や健人の相手は疲れるんだよ。もうじいちゃん以上に。
「その花の名前知りたい? だったらつうやくの人よんで来てあげよっか」
「やめとけよ。ナツオさんだって忙しいだろ」
僕はそれきり口をつぐむと、しゃがんだまま体を横に向けた。露骨な拒否の姿勢だ。これで健人も黙るだろう。
ところが……。
「ぼくがちょっと聞いてきてあげる。待ってて」
ハッと思った時にはもう、健人は目の前の小さな薄紅の花を手にしていた。
「おいっ、その花!」
摘み取った花を振り回しながら駆け去る健人を見て、僕はぞっとするほど驚いた。
考えすぎかもしれないけど、健人はああやって無邪気さを装いながら、内心では僕達年長者をあざけってるんじゃないだろうか。いつも僕がそうするように……。
とぼとぼ戻ると、部屋割りが決まっていた。ここのゲルは三人部屋で、僕とじいちゃんと塚田とが同室になっていた。
「助かった。誰かと相部屋になるとしても、きみならまあ気楽だからな」
何を言うんだよ。僕は一人になりたいのに。
食堂ゲルで昼食をとり、そのとなりの売店ゲルをちょっとひやかしてから、僕らはバスでハルホリン観光に向かった。
今このハルホリンという小さな町のある場所に、かつてカラコルムというモンゴル帝国の首都があった。もっとも、当時の物なんてもう残ってないらしいけど。日本なら、ちょうど同じ時代に幕府のあった鎌倉が、今も古都と呼ばれているというのに。栄枯盛衰とかいうものは、日本よりもモンゴルの方がずっと激しいのかもしれない。
「なあじいちゃん、あんな大帝国の都がさあ、数百年でこんなふうにすっかり消えうせてんだよ。けっこうむなしいもんだよなあ」
「むう、確かにそうだな。ただ春の夜の夢のごとし、といったところか」
じいちゃんは深くゆっくりとうなずく。そんなおおげさな共感のそぶりに、僕は自分から話を持ちかけたもののなんだかシラけてしまった。しょせん僕らは歴史と無関係の現代人、外国人の観光客じゃないか。
その時僕らの乗ったバスが、いきなり川の中に突っ込んだ。さっきから悪路で体が跳ねるたびキャーキャー言ってたOL達が、また大声で騒ぎ立てる。
「うそっ、どうして橋を渡らないのー」
「橋がどこにあるっていうのよ」
いつもなら、僕はそんな騒ぎを内心バカにするところだ。でも結局はその僕も、連中と同類のはしゃぎ屋なんだよな。
エルデネゾーとかいう寺院の見学が、今日の午後最初の予定だ。この寺院はカラコルムが滅びた後に建てられたものだけど、それなりに古い物らしい。日本でいえば、戦国時代の頃になるかな。
真っ白なへいとその上に並ぶ仏塔は、そんな古さを感じさせずに目の前にそびえている。見上げるとその白さは、まるで青空を切り取ったように鮮やかだ。
ただしその中の様子はといえば、もうとてつもなくボロだけど。本堂は朽ちて崩れかけてるし、境内は雑草に覆われてるし。またしても僕は、じいちゃんと栄枯盛衰を語る羽目になった。
「まあ、今は困難な時期だから、文化財の修復どころではないのだろう」
「それもあるかもしれないけど、とにかくなんでも自然のままにしとくのが、モンゴル人の気質じゃないの?」
言いながら思った。これもやっぱりよそ者の視点だな。周りは参拝の人ばかりで観光客は僕らだけだし、ほんとに浮いてる感じだ。
後ろから塚田に声をかけられた。
「もうみんな行っちゃいましたよ」
そう言いながら、塚田自身もちっとも急ぐ様子がない。もちろん僕らだって、慌てて行列に戻ろうなんてつもりはないけど。
「いいじゃんべつに。居場所さえ分かってりゃ、離れてたってかまわないよ」
すると塚田は、おおげさなくらいに親しげな笑みを浮かべて僕を見た。
「へえ、意外だなあ。白井くんでも、そんな自分本位な事を言うのか」
「…………」
「僕もなあ、団体行動っていうのが、昔っからひどく苦手なんだ。遠足なんかもつい一人で行動して、よく行方不明になったっけな」
あのなあ、僕はそこまで自分勝手じゃないぞ。……まあ、自分本位というのは認めるけど。
エルデネゾーからちょっと離れた小さな丘の上に、カメの形をした石像が乗っていた。亀石、正確には亀趺きふと言って、これこそが幻のカラコルムをしのばせる唯一の痕跡らしい。以前にNHKのドキュメンタリーで見た憶えがあるよ。
僕はなんとなく、この石像は大平原の中にぽつんとあるように想像していた。そうあってほしいと空想していた。だからこうして実際の様子を知ると、シラケてしまうなあ。考えもしなかったよ、周囲にぐるりとみやげ物の露店が出ているなんて。
「優、ちょっとのぞいてみようや。こういう所にこそ、掘り出し物があるものだぞ」
「じゃあじいちゃんだけで探しなよ。なんか今は僕、観光客する気分じゃないんだ」
僕は露店の輪を抜けて、またもグループからはみ出した。本当は、ひらきなおって一緒にはしゃぎたい気持ちもあるけど、なかなかそうもいかないもんさ。
でも、そうするチャンスはまだ残っていたようだ。僕らのバスはわき道にそれると、小川を見下ろす丘の上で停まった。ここでしばらく自由時間だって? やったあ。僕はバスから飛び出すと、小川めがけて丘を駆け降りた。
クツのまま川に入って水をけ散らしていると、後ろで子どもの笑い声がした。健人だな。僕はふり向きざまにいきなり、健人に向かって水しぶきを浴びせてやった。
「つめたいなあ、もう」
「じゃあ逃げろよ。向こう行ってろよ」
「いやだ、ぜったいおかえしするから」
「なんだよ、冷たいどころか熱くなってるじゃんか」
僕は川の中でさんざんはしゃいだ。苦手なはずの健人を相手に。でも苦手だなんていうのは、僕の勝手な決め付けだったんだよな。健人は大人にこびを売るような、そんなみみっちい奴じゃないのに。内面にはけっこうしたたかな部分もあるんじゃないかって、今なら思えるよ。
不意にまた、背後で子どもの笑い声が。女の子の声。振り向くまでもない。もちろんムンフツツクだ。
そう、今日のハルホリン観光には、ムンフツツクも同行している。どういう理由でついて来たのか、健人が誘ったからとか、そういう事情はよく知らないけど。
僕は急に水遊びに気のりがしなくなった。
「それより健人、昼前のあの花の名前、聞いといてくれるんじゃなかったのかよ」
「あ、わすれてた。だってあの時つうやくの人いなかったんだもん。今から聞いてくる」
「もういい、自分で聞くから。二人で遊んでろよ」
むしろ僕の方こそ、子どもにこびを売ってたみたいだ。ぐしょ濡れのクツが、今になって気持ち悪く思えてきた。
「塚田さん、ちょっといい?」
僕は自分から塚田に近付き、声をかけた。
「この辺でさ、桃色の小さい花がいっぱい固まってる草を見なかった?」
「いや、気付かなかったけど、ひょっとしてこれか?」
塚田はポケットに両手を突っ込んだまま、足先で地面を指した。
「あ、そう、それそれ」
「なんだよ、はしゃいで」
「ちょっとね。ナツオさんはどこいるかな」
「ほら、あっちだ」
塚田はあごをしゃくって向こうを指した。態度はそっけないけれど、表情には好奇心が浮かんでいる。僕はなんの抵抗もなく、塚田にわけを話す事が出来た。
「この花、さっきキャンプでも見かけたんだけど、ナツオさんに名前を聞こうと思って。日本じゃ見かけない種類だから」
「呼んできてやるよ」
塚田は笑いながら歩いて行った。
やって来たナツオも、笑いながら説明してくれた。
「私は花の事はあまり詳しくなくて。ああ、でもこれは知ってます」
「へえ、そんなに有名な花なの」
「いや、有名ではないけれど、きれいな名前だから。ムンフツツクというんです」
笑顔の二人の中で、僕一人が表情を硬くした。
「ムンフツツク……」
「日本語で言うと、永遠の花。きれいな名前でしょう」
「永遠の花……」
「ほかにも、エーデルワイスという花、あれもムンフツツクと呼ぶ事がありますけど。摘んでもしおれない事から、エーデルワイスにも永遠の花という別名が……」
「どうもありがとう。勉強になった」
僕は礼を言ってさらに丘を登っていった。こんなナツオの説明を、落ち着き払って聞いていられそうにない。
……さて、あとは何をして時間をつぶすか。もうはしゃぐ気分でもないしな。また永遠の花でも探そうか。永遠の花……。エーデルワイスか、あの花か……。ああ、もうどうでもいいよ、そんな事。もう頭がゴチャゴチャだ。もとはといえば塚田が悪いんだ。あいつが今朝僕にヘンな事を言うから……。
「よお白井くん、ヒマそうだな」
けれど当の本人は、まったく気楽なもんだ。
「ちょっとそこまで付き合えよ」
丘を登って来た塚田は、手にさげた容器の一つを僕に押し付けた。
「何これ」
「ついさっき下の川で地元の子ども達に会ったんだ。水くみに来たらしくてな、だからちょっと手伝ってやろうと思って」
見れば塚田の後ろから、四人の子ども達がめいめい容器を手にさげやって来る。僕も塚田から受け取った容器を抱えて歩き出した。こういうのって、断りきれるもんじゃないよな。
塚田は子ども達に、名前や年なんかをたずねている。でも英語が通じるわけないし、相手ははにかむように笑うばかりだ。なんとなく安心した。この調子なら、塚田はきっとムンフツツクの名前も知らずにいるだろう。
ゲルがあった。その前で、お母さんらしい人が洗濯をしている。ちょっと気おくれしたけど、僕は思いきってあいさつしてみた。
「こんにちわ、じゃない、ハロゥ、でもなくて、えーと……」
「サインバイノゥ」
洗濯中のお母さんは、顔を上げてあいさつを返してくれた。なんだ、言葉が通じなくたって、身がまえる必要なんてなかったんだ。僕はすっかり気が楽になった。
「水はここへ置いとけばいいですか? いやいやどういたしまして」
水の容器をたらいの横に置くと、一番年上の男の子が、僕と塚田のシャツのわき腹を引っ張って、ゲルの中へと招いた。手ぶりですすめられてイスに座ると、男の子は大きな器に真っ白な馬乳酒を注いで持ってきてくれた。
「どうもありがとう。うーんスッパイ、けどウマイよ」
男の子も、そしてほかの子達も、めいめい器に馬乳酒を注いで飲み始めた。並んでベッドに座り、僕らと向き合いながら。
「ナツオさんも連れて来りゃよかったかな」
「俺達だけの方が気楽だろ」
「そうかもね」
確かに、言葉は通じなくても全然困らない。鼻の下を白くして、目が合うたびにクスクス笑ったりしながら、僕らはたあいのないささやかな交流の時を楽しんだ。
その時突然、外でバスのクラクションが鳴り響いた。
「やっべぇ。帰らなきゃ」
塚田はさけぶと、立ち上がって器をあおった。僕も慌てて残った馬乳酒をイッキ飲みすると、子ども達にろくにあいさつもできないままゲルを飛び出した。
バスに駆け込み、荒い息づかいが静まってから、塚田は僕にそっと言った。
「昔の遠足ん時そのままだ。勝手な事して迷惑かけちまってさ」
顔が熱くなってきた。結局は僕も、塚田と同様に自分勝手だったわけじゃないか。
「あれを飲んだ事だけは、黙っていよう」
「でもおまえ、もう顔真っ赤だぞ」
「これは……、今走ってきたからさ」
塚田を相手にとぼけてみたって、ムダだよな。
ツーリストキャンプに帰り着いたのは、十八時過ぎ。ふだんなら、夜の早いじいちゃんのために、家では今頃が夕食時だ。けど夏のモンゴルではまだ日も高くて、とても今から部屋に引きこもる気になんてなれない。スケジュールを見ても、これから乗馬体験があって、二十時に夕食、そのあと今夜は野外演奏会まであるらしい。
「蒙古へやって来て以来、すっかり夜更かしぐせがついてしまった」
じいちゃんの独り言に、僕はつい吹き出した。その分機内で昼寝してるくせに。
「これではウマがたりないかもしれないなあ。とりあえずウシにでも乗っていてもらうかな」
これはナツオの聞こえよがしのつぶやき。なんでこの人、こんなに冗談がうまいんだろう。ほんと笑わせてくれるよ。
もちろんちゃんと、順番にウマに乗る事になった。昨日はとうとうラクダ乗りをしなかったし、せめてウマくらいは乗っておくかな。僕も長い行列の後ろについた。
係の人に補助してもらい、くらにまたがった。そして引き綱を引いてもらいながら、そこらをゆっくりゆっくりひと回り。なんだ、ただこれだけの事か。これじゃ小さい頃観光牧場でポニーに乗ったのと変わらないよ。
それにしても、モンゴルのウマって小さいもんだな。なのに頭や足は大きくて、長いしっぽが地面に届いている。こんなウマに大人がまたがってひと回り、ほんとにこっけいだ。僕も乗ってみたりせず、いつものようにただ冷笑的に眺めているべきだったのかもしれない。
逆にじいちゃんは、乗りたくて乗りたくてたまらないのに乗れなくて、しきりに残念がっている。
「蒙古高原、もっと早くに訪れたかった……。なあ優、古くからの意志は変わらなくとも、なぜ人は体ばかりが年老いるのかのう」
僕はまた吹き出しかけて、でもじいちゃんの表情があまりに悲痛だったので笑えなかった。
「乗馬が出来ないくらいで、そんな落ち込むなよ。たいしてカッコイイもんでもないじゃない。ほら見なよあのウマ、そのうち自分のしっぽ踏んづけてころぶから」
僕はこんな形でしか、なぐさめを言葉にできない。
夕食後、演奏会のために町からジープでやって来た演奏家が、馬頭琴を持って現れた。へえ、あれがあの有名な馬頭琴か。
小学校低学年の頃に、教科書で読んだ憶えがある。スーホの白い馬という物語だった。あの楽器は昔ある若者が、失った愛馬の形見に作ったものだという。
そんな物語を読んでいたせいで、僕は小さい頃、モンゴルは草原に弦楽器の音が響く、どこかもの哀しい国だと思っていた。そんな古くからのイメージを、今夜はひさしぶりに思い出してしまったよ。夕暮れに響く馬頭琴の音色の中で。
けれどそんな感傷は、最初のうちだけだった。
形式ばらない気さくな演奏会にしたいというのは、まあ分かる。でもいくらなんでも、これはやり過ぎじゃないのかよ。夕食時に酒を飲んだらしい大人達は、手拍子から始まってやがては一緒に歌い出し、しまいには自分達だけで大合唱だ。聞いた事もない古い歌ばかりをがなり立て、とてもついていけない感じ。
こんな時に孤立するのは、いつも決まって僕と塚田の二人だ。今朝ひやかされたおかえしというわけでもないけど、僕はちょっと塚田をからかった。
「ほら、今みたいな時こそチャンスじゃない? あのOLグループの中の誰かに、声でもかけてみなよ」
「バカ言うな。モンゴルに来てまでトレンディドラマしか話題にできねえような白痴女、誰が相手にするか」
「…………」
何もそんなにむきになる事ないだろ。ちょっとからかっただけなのに。それにしても、今の塚田の侮蔑的な言葉、まるで僕の言いそうなセリフじゃないか。
演奏家が町へ帰ってしまっても、日本人達の狂乱はしばらく続いた。
ひと足早くゲルに戻っていた僕は、あの騒がしい連中が解散した頃をみはからって、もう一度外に出てみた。
やはりここはゴビより冷える。どのゲルでもストーブをたいているらしく、それぞれの煙突の先から煙がたなびき、時おり火の粉も舞い上がる。
静かだな。天窓や扉のすき間からもれる明かりも、ただおだやかに人の気配を感じさせるだけだ。いつもこんなふうでいてくれるなら、僕もそんなに周囲の人間を嫌ったりはしないんだけど。
今夜はくもっていて、残念ながら星空は望めない。僕はひとしきり宵の静けさを楽しんでから、ゲルに戻った。たまにはじいちゃんを見習って、早寝してみるのもいいだろう。
ストーブのぬくみの中でウトウトしかけた頃、同室の塚田が戻って来た。薄目を開けて塚田の姿を見た僕は、びっくりしてベッドの上に身を起こした。
「起こしちまったか? 悪りい。おっ、いい具合にストーブ燃えてるな。待ってろ、今もっとあったかくしてやっから」
おいおい、馬糞なんかいっぱい抱えて、いったい何をする気だよ。塚田がストーブの前に座り込むのを見て、僕は慌てて駆け寄った。
「さっき乗馬した場所で拾ったんだ。暗い中でこんだけ集めんのは苦労したぜ」
言いながら塚田は、馬糞をストーブにポンポン放り込み始めた。
「ちょっと、何するんだよ」
「知らねえのか? ここじゃ家畜のフンを燃料にすんだぜ」
「でもそれは乾いたやつだよ。もうやめてくれよ、臭いから」
「あ、そうか?」
塚田は手に持った馬糞の一つを半分に割った。中は黄緑色で、おまけにプンとにおう。
「あー、まだ新鮮だな。やっぱこれじゃ燃えねえか。いや、悪りい悪りい。ヘヘッ、エコロジーも楽じゃねえや」
塚田は残った馬糞を両手に持って立ち上がると、ドアをけ飛ばして外へ出て行った。僕はあっけにとられてその後ろ姿を見送った。
塚田優、ますますつかみきれないやつだ。今のあの行動、そしてあの言葉づかい、最初の頃の印象とはあまりにかけ離れている。いったいあいつの本性は、どこにどんな形で隠されているんだろう。
塚田が戻って来た。
「全部さくの向こうに捨ててきたぜ」
「手は洗ってきた?」
「かまわねえだろべつに、めんどくせえ」
「じゃあ、この水でいいからちょっと洗いなよ」
僕はテーブルの上の水差しを取ると、塚田をうながして外に出た。そして塚田の両手に水をかけてやった。
「なんか今日は悪りいな、面倒ばっかりかけちまって」
塚田は笑いながら、右手首の腕時計をずり上げた。
その時僕は見た。いつも時計に隠されているその白い手首に、大きな傷あとがあるのを。
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