鮮やかに 涼やかに − モンゴルにて −
本当なら今頃は、バスでテレルジへ向かっている頃かなあ。そう思いながら僕は今、ウランバートルの裏通りをとぼとぼ歩いている。
そう、結局今日の予定は変更になってしまったんだ。天気はそこそこ回復したけど、川の増水はまだ続いているとかで。べつにそれほど期待してたわけじゃないけど、あーあ、ダメとなると残念なものだなあ。
そういうわけで、今日一日は空白となってしまったけど、なんとウランバートル市内散歩が許可された。ホテルからバスで市街地まで出て、そこで解散。あとは集合時間まで自由行動だ。あの口うるさい添乗員が、いったいどうしたっていうんだろう。昨日の僕と塚田の見学拒否で、ヤケになってるんじゃないだろうな。
まあ、一応クギをさす事は忘れなかったけど。単独行動はひかえてください、集合時間を厳守してください、郊外の集落には近付かないでください、などいろいろと。
そういうわけで僕は今、なりゆきで同行者となった連中と一緒に、裏通りをブラブラ歩いているというわけだ。
バスの中からはロシア風の表通りを何度も見たけど、裏通りはまた全然違う雰囲気だ。ちょうど、日本の古びた団地か社宅といった感じかな。
子ども達はよそ者の僕らにまったく見向きもしないで、裏庭を駆け回って遊んでいる。バスケットゴールに向けてボールをシュートする男の子達。アパートの壁際でゴム跳びをする女の子達。僕はいつしか同行者の存在を忘れ、そんな子ども達の姿に見入っていた。
小さい頃によく遊んでいた、社宅の近くの児童公園を、僕は思い出していたんだ。あの頃はいつだって、周りに遊び仲間がいたっけ。多くの、そしていろいろな仲間が。
そう、この裏通りは、あの日の公園と同じだ。年上の子、年下の子、男の子、女の子、あらゆる顔ぶれがそろっているじゃないか。……どうして今の僕の周囲には、学校でも、塾でも、ごく限られた相手しかいないんだろう。
「ほほう、それにしてもまた、見事に独り者ばかりが集ったものだな」
突然じいちゃんが愉快そうに笑った。
「おや、倉林さんは今独身なんですか?」
塚田がじいちゃんにたずねる。
「ええ、二年ほど前から、再び独り身なんですわ」
じいちゃんは愉快そうな調子のまま答えた。
「ナツオくんも、まだ独身だと言ってなさったな」
「ええ、もうしばらくは」
おしゃべりなナツオにしては、珍しく短い返事だ。ひょっとして、テレてるな。
「ねえ、それよりこれからどこ行くの?」
話題についてこられない健人が、不満そうに言う。
「ただ歩いてるだけじゃつまんない」
「だからお父さんと一緒に、列車でも見に行きゃよかったのに」
「そんなのもっとつまんない」
健人のつぶやきに、みんなが笑った。考えてみれば、今日はよくこんなに多彩なメンバーがそろったもんだよな。僕はもう、本当なら今頃は……なんて事を考えるのはやめにした。
ウランバートルホテル前でバスを降りて解散したものの、誰もが昨日見のがしたスフバートル広場へまず向かった。けれどそこからはめいめい思い思いの方へ散って行き、気付くと僕の周りに残ったのは、この顔ぶれだったというわけだ。
僕に塚田に健人、そしてじいちゃんとナツオの五人は、おたがいどこへ行こうとも言い出さないまま、ただなんとなく歩いていた。郵便局の裏から細い歩道に入り、映画館の横を通ってアパート裏の公園を抜け、気付くとそこは昨日も寄ったデパートだった。
「そうだよな、健人の言う通り、目的地を決めなくっちゃな。おたがいえんりょしてたらいつまでたってもらちあかないから、まず俺の希望から言ってもいいか?」
みんなを見回し、反対意見がないとみると、塚田はナツオに言った。
「町はずれにザハとかいう市場があるらしいけど、見てみたいな」
「やめておいた方がいいですね。今日は日曜日だから人が多くて、あぶないです」
塚田の提案はあっさり却下。だけど……
「かわりに町のザハへ行ってみましょう。フンスニーザハ、食品市場なんてどうですか?」
「けどそういや俺達、現地の金持ってねえんだ」
「それならまずムングニーザハへ行きますか」
「ムングニー……、それなんの市場?」
「お金の市場、つまりヤミの両替所です」
わお、そりゃおもしろそうだ。これだからナツオって好きだなあ。
ナツオが僕達に同行しようと申し出た時、正直言って僕は彼をあやしんだ。添乗員に言われて監視につくつもりかと。悪かったな。ナツオはじいちゃんを気づかってくれてるだけなのに。とにかく昨日の墓参り以来、二人は意気投合してるみたいだ。たとえば結婚間近だなんて事までも、ナツオはじいちゃんに打ち明けたようだし。
ヤミの両替は屋外の広場でおおっぴらに取引がおこなわれていて、思っていたよりずっと健康的だ。その上ナツオが交渉を引き受けてくれたから、僕らにはなんの不安もなかった。
「この人が四六五で代えてくれるそうですが、みなさんそれでいいですか?」
ナツオの言葉に、僕と塚田は思わずニヤついた。昨日は公定レートが一ドル 四四〇トゥグルクだと聞かされたからな。
「俺達、トクしたな」
「これもパスポートを持たなかったおかげさ」
金額の面ばかりじゃなく、こんなめったにない経験が出来た事も、ほんとにラッキーだったと思う。
野球帽をかぶった両替屋の男は、僕らの笑顔を見ると親指を立てて笑ってみせた。そして電卓をポケットにしまいバッグを開く。すると中には札束がギッシリだ。驚きだなあ。いくらインフレで価値が下がってても、これは大金なんじゃない? なんか悪いね、全部でたった数十ドルの両替をたのむのは。
「でもナツオさん、この人達ってどうしてこんなにお金を?」
「ドルがあれば、外国に買い出しに行けます。その外国製品を売れば、またお金が入るでしょう」
へえ、国境を越えた商人というわけか。それにしても、違法なはずのヤミ両替を、こんなおおっぴらにやってていいのかな。これがモンゴル特有のおおらかさなのか、それとも、生活のためにはなりふりかまっていられないのか。
こんな所、やはり興味本位で来るべきじゃなかったのかもしれない。
僕らはもう一度デパートまで戻り、大通りを渡って食品ザハへ向かった。
食品ザハは体育館ほどの大きな建物だ。人をかき分け中へ入ると、いろんな食品が雑然と置かれた棚が、幾重にも立ちはだかる。薄暗いせいか、タイル張りのせいか、きゅうくつなのに、騒がしいのに、どこかうす寒い印象がある。
いや、そんな印象を受けるのはきっと、人々の生活の場に旅行者として入り込む自分の姿勢に、気付いてしまったせいなんだろう。
「そんなにビクビクすんなって。買い物さえすりゃ俺らも客だろ」
いつかのように、塚田がまたも僕の心を見透かすように言う。それでも僕は、今はなぜだか素直にうなずけた。
僕と健人は入り口近くの棚でアイスを買った。じいちゃんはあちこちさんざん歩き回ったすえに、結局選んだのは同じ売り場の乳製品だ。
じいちゃんがおつりを受け取ろうとしたその時、ナツオが鋭い調子で何かさけんだ。すると店の男はつっけんどんに紙幣をもう一枚突き出す。ははあ、おつりをごまかしてたな。連中もよそ者相手には要領よくやってるようだし、それならこっちもえんりょする必要なんてないか。
ところで塚田の買い物だけど、やっぱりすみずみまで歩き回ったあげく、塩を一箱買ってきた。そんな物、いったいどうする気だよ。僕にはとても、塚田の考えを見透かすなんて出来そうにない。
「さっきはどうもすみませんでした、倉林さん」
「いやいや、ナツオくんにはいつも助けてもらうばかりで、こちらこそ申しわけない」
じいちゃんとナツオはおたがい頭を下げていて、いつまでもきりがない。次はじいちゃんの希望する場所へ行こうと提案して、ようやく僕らは歩き出した。
さて目標の本屋は、また大通りを渡ってデパートのすぐとなりだ。なんだかさっきからこの辺ばかりウロウロしていて、これもまたきりがない感じだな。
本屋に入ったとたん、そこが何の店だか分からなくなった。半分以上の棚がラジカセや電子ゲームでうめつくされ、かんじんの本は奥の方に追いやられているんだから。
「今はどの店もこうなんです。すみません」
「ナツオくんの責任でもあるまいに、気になさるな。それより、ならば図書館へ行きたいものだな。わがままばかり言ってすまないが」
「とんでもありません。では近くに図書館がありますから、行きましょう」
というわけで、僕らはまたまた大通りを渡った。
そして入った図書館にもまた、家具に電化製品に、衣類に雑貨そして洋画のビデオまで……。やっぱり越境商人が持ち込む商品のオンパレードだ。まさか公共の施設にまで入り込んでるとはね。財政が苦しいので少しでも収入を得るために場所を貸すのだと、ナツオが説明してくれた。
「さて、塚田さんに倉林さんの希望の場所を回ったわけですけど、続いて私の希望を言ってもいいでしょうか」
「いいけど、どこに行くつもり?」
「もうお昼だし、おなかもすいたし、食堂に行きましょう」
「賛成!」
いたずらっぽい笑顔の戻ったナツオにつられて、僕も思わずはしゃぎ声をあげていた。
「おや、ホテルで用意してくれたハンバーガーが、よっぽど気に入らなかったようですねえ」
「あれは夜食にでもするから、かんべんしてよ」
図書館の食堂の素朴な野菜煮込みと揚げ物料理は、観光客の顔色をうかがうようなホテルの料理よりずっとうまかった。
「次は白井の番だな。どこ行くか早く決めろよ」
「べつにいいよ僕は。健人の希望を先にしても」
「なんだ、行きたい場所ないのかよ」
「ないわけでもないけど……。僕、ただバスに乗ってみたいんだ。できればトロリーバスに」
塚田は笑い出した。もちろん僕も笑った。こんな素朴な望みを他人に対して素直に示した事が、自分でもおかしくて。
「よし、そんならバスに乗って健人の希望へ行くとしようぜ。さあ健人、どこ行きたい?」
「遊園地!」
「でも、遊園地ならここから歩いてすぐですけど」
そんなナツオの指摘にも、塚田はめげない。
「なら距離をかせぎゃいい。まず逆方向に歩いて行って、それからバスだ。あ、倉林さんはお疲れじゃありませんか。そうですか、それじゃ行きましょう」
じいちゃんにだけは今も敬語を使うなんて、そんな塚田もけっこうおかしい。
僕らは大通りを歩いた。歩きながら塚田は、しきりにナツオに質問をする。最初の頃とはうって変わって、ほんとおしゃべりになったよな。
「確かさっき言ったよな、ザハはあぶないって。それって、外国人はからまれたりするって事?」
「そういう事もありますけど、それでなくても人が多いとはぐれる心配もあるし、スリもいるし……」
「スリくらいなんだよ。人混みん中じゃ日本だって同じようなもんだぜ」
「ナイフでカバンを切られるような事も?」
「ナイフか。そりゃ確かにやべえな」
「ほら、認識不足だったね。そういうのが一番あぶない」
「認識って、なんでそんな難しい日本語知ってんだよ。ナツオって、思った以上の秀才だなあ」
「いやいや、これくらいはあたりまえ。今は日本語を話せる人なんて大勢いるよ」
「へーえ、モンゴル人って意外とすげえんだな」
何がすごいもんかよ。昔はロシア語、今なら英語か日本語、しょせん外国に頼るために身に付けた技能じゃないか。
感心してうなずきながら歩く塚田をさえぎって、わき道からトラックが現れた。日本製の中古車らしいそのトラックは、ウインカーを光らせながらこう言った。ピピーッ、ヒダリヘ、マガリマス。あまりのタイミングの良さに、僕は笑ってしまった。
僕はもう、さっきの皮肉な考えを捨てていた。自分は特別だと誇るのでなく、自分は普通だと誇ったナツオは、確かに立派だと気付いたから。
もうここから乗ろう、とナツオが言った。ただの露店の集まりかと思ったら、なんだ、ここがバス停か。
低いテーブルの新聞スタンドがあって、その周囲にはアイスやジュースや何かのナッツが路上に並べられている。ジュースを売っているのは、昨日のクツみがき少年よりもさらに幼い、小学四年生くらいの男の子だ。
「働いている子をほんとよく見るね。夏休みだからかな」
ナツオはあいまいに笑うだけで、答えてはくれなかった。
僕と塚田は男の子からジュースを買った。その子はビンを持って道端へ行くと、鉄さくの角に引っ掛けてセンを抜いてみせた。おお、すごい。……なんて感心してる場合じゃなかった。あれを飲むのは僕らじゃないかよ。
ちょっとためらったけど、手でぬぐってから僕はビンを口にした。うっ、モロに人工甘味料的な味。しかも生ぬるい。せめても少し冷えてりゃなあと、飲みながら塚田もぼやく。
それを聞いてナツオが笑った。
「自動販売機なら冷えてるけどね」
「え、自販機なんてあんの?」
「もちろん。今はあまり使われていないけど。物価が上がって硬貨が使えなくなったから、人が付いていなければならなくてね」
「それじゃ自動の意味ねえじゃん」
へえ知らなかったな、昔はコインもあったんだ。今は区別のつきにくいお札ばかりで、ほんと面倒だけど。しかもこうしてジュース一本買うのにも、お札を何枚も払わなきゃならないんだから。
オレンジ色のトロリーバスが来るのが見えた。ナツオにうながされて、僕らは慌ててジュースを飲みほした。
「あ、森クンと白井クンはいいんだ。中学生までの子どもはタダだから」
ナツオにそう言われて、僕は財布をウエストポーチに戻した。じいちゃん達は、水色の服を着た中年女性の車掌にお金を渡し、引き換えにペラペラのチケットを受け取っている。
「大人はいくらなの?」
「一人三〇トゥグルク。どこまで乗ってもね」
「へえ、安いねえ。ジュースより安いくらいなら、僕もそのチケットもらえばよかった」
「でも昔はもっと安かったよ。硬貨一枚で乗れたんだから。ほら、ここに五〇ムングと書いてある」
ナツオは破れかけたチケットを見せてくれた。五〇ムングって? 一トゥグルクの半分か。そう、やっぱり自販機のジュースと同じで、バス運賃も六十倍に値上がりしたんだ。
ぼんやり考え込む僕に向かって、ナツオがたしなめた。
「ほら、手荷物に注意して。スリにあったらタダではすまなくなるよ」
ほんと、確かにナツオは日本語うまいよ。
ナイラムダルパールク、友好遊園地という意味だとか。健人と塚田はすぐにどこかへ消えてしまった。僕はいろいろ考えたせいで少しくたびれたから、じいちゃんとは別のベンチに座り込んだ。しばらくの間ぼうっとして頭を休ませたいよ。
この遊園地は、ハルホリンのエルデネゾー寺院を思い起こさせる。つまり草ぼうぼうの荒れ放題って意味さ。目の前にある噴水の池も、水は涸れ石に埋もれかけてる。
けれどそんな風景の中を行き交う人々の姿は、なんて華やかなんだろう。もちろん、町の人すべてがこんなふうに暮らしているわけではない事を、僕はもう知っている。この人達もきっと、特別におしゃれをして出かけているんだ。でもそれだからなおの事、荒れ果てた風景の中で人々の姿はますます映えて見えるんだろう。
中でも特に女の子なんて、思わずはっとさせられるよ。たとえば背中で揺れる長いお下げ、風にふくらむ大きなリボン……。
「どう? 白井クン。やっぱり日本とくらべたら物足りないでしょう」
塚田達を案内していたナツオが、いつの間にか戻って来ていた。
「うん? いやあ、そりゃ正直言って洗練されてはいないけど、でもかえってそんな素朴さがいい感じなんだなあ」
ナツオは満足そうにうなずきながら僕の横に座った。ところで今ナツオがたずねたのは、ひょっとしてこの遊園地についてだったの? 僕はてっきり……。
「それじゃナツオさんはどっちが好みなのさ。日本とモンゴルと」
「そう言われても、僕は日本を知らないから」
うまくはぐらかされたな。
「だから白井クンが日本の事を教えてくれないか」
「日本の事って、たとえば日本のどんな事を?」
僕もちょっととぼけてみたりして。
「うーん、たとえば今はやっている音楽とか、テレビとか」
なんだ、そんな事か。僕はちょっとナツオをからかってみたくなって、古い話を持ち出した。
「昔の戦艦が宇宙船に生まれ変わって活躍するアニメが、今ものすごい人気だよ」
「ああ、それはヤマトでしょう。もう二十年も昔のテレビだね」
「なんだ知ってたのか」
「日本に関心を持つ人なら、たいてい知ってるよ」
「チェッ、ガッカリ」
「逆に日本の人達が、何も分かってなかったんですね」
ナツオは以前のようなあらたまった口調で言った。
「日本海軍の戦艦を主人公にして、ナチスドイツを悪役にして、そして日本は核兵器の被害ばかりを強調して……」
「ちょっとちょっと待ってよ、あれは未来の話で、第二次大戦の話じゃないんだよ」
「でも関連は明らかじゃないですか。たとえば戦艦大和に、ヒトラー総統に、それに原子爆弾も」
放射能に汚染された地球という設定は……。ああ、そうだったんだ。それにあの敵のデスラーとかいうのも……。今まで気付かずにいた。無意識のうちにナチスだけを悪役に仕立て、自分達は要領よく核兵器の被害者を気取っていたなんて。僕は顔を熱くした。じいちゃん達年寄りばかりじゃなく、戦後世代の僕らだって、自分をかえりみる事を忘れていたんじゃないか。
そこへ塚田達が大声を上げながら戻って来て、僕は気詰まりな思いから救われた。
「やっぱスリルじゃブランコがダントツだよな。なあ白井、おまえもちょっと試してこいよ。あの回転ブランコはかなりスリリングだぜ。鎖がサビててすり減って」
「やだね、誰が遊びのために命かけるかよ」
言った後でこの遊園地をけなしてしまった事に気付き、僕はナツオの顔色をうかがった。けれどナツオはもう、さっきまでの気さくな表情を取り戻していた。
「ちょうどよかった。塚田クンにも聞こうと思っていたんだけど、日本では今どんなものがはやっているのかな」
「さあ、俺、流行とは無縁に生きてっからなあ」
「それじゃ森クンに聞いた方がいいかな」
「うん。映画がね、最近わりとおもしろいよ。ぼくガメラ見に行ったんだ」
「そういや最近、ガメラとかゴジラとか、昔の怪獣映画のリメイクって多いよな」
仲間はずれじゃ悪いから、僕らはじいちゃんのベンチに場所を移した。もっともガメラにゴジラでは、どうせ話題に入れやしないけど。
「けど怪獣映画なんて、やっぱ俺は興味ねえな。アクションもああデカいと現実感なくてよ」
「かいじゅうが強すぎるって事? ちがうよ、人間が弱すぎるんだよ。じえいたいなんて、新へいき持っててもぜんぜん役に立たないもんね」
自衛隊の話が出て、僕は思わず塚田の顔を見た。健人に向き合う塚田の横顔は僕の視線にまったく無関心なようで、そのくせ口調は明らかに僕を意識していた。
「その役立たずって事にも、一応は理由があんだよ。もし日本の自衛隊が大活躍してヒーローにでもなってみろ、絶対よそから批判が来るぜ。ドラマでもコミックでもすぐにアジアに出てく時代だし、今はそんだけ気いつかわなくちゃなんねえんだ」
塚田でさえ、自分なりにそれだけの事を考えているんだな。意外だったよ。あいつがこんなふうにさめた視線を向けていたなんて。周囲に、そして自分自身にも。
「そうそう森クン、この町の名前ウランバートルの意味を知ってる? 赤いヒーローという意味なんだよ」
少し重くなった空気をやわらげるようにナツオが言った。
「赤いヒーロー? わかった、ウルトラマンだ」
今は無邪気なこの健人も、やがてはいろんな事に思いをめぐらすようになるんだろうか。だったらその時まで忘れるなよ、問い続けろよ、この旅を。
もしかしたら、今回の旅をここで完結させる事が出来るのは、ベンチでうたた寝しているこのじいちゃんただ一人なのかもしれない。
でも、じいちゃんは少しはりきりすぎたようだ。ホテルに帰った時にはもうすっかりくたびれはてて、夕食も食べずに部屋で横になってる。
「倉林さんはどうだ? 悪かったよなあ今日は。俺らのペースであちこち引っ張り回しちまって」
塚田はガラにもなくすっかり恐縮している。
「へいきへいき、うちのじいちゃんってなぜか若い相手と気が合うだろ? それで一緒になってはしゃぎ回って、あとでダウンなんてしょっちゅうだから」
「ハハッ、そういや確かにそんな感じだな、あの人は」
それでも塚田は気をつかい、自分の部屋をじいちゃんに提供した。
「気になさらないで倉林さん。個室の方がゆっくり休めるでしょう」
そんなわけで、じいちゃんに代わり塚田が僕の部屋に来た。
「悪りいな、おまえの意見も聞かずに押しかけちまって」
言いながらも、塚田は僕に対してはちっともえんりょがないんだから。まあ、べつにどうでもいいけどさ。
部屋に来るなり塚田は歯を磨き始めた。食品ザハで買ったあの塩を使って。
「クーッ、ひさびさに歯グキスッキリだぜ。おい白井、おまえもこれ使ってみろよ。外国製の塩なんて、帰国したら絶対味わえねえぞ」
なるほどそういうわけだったのか。知れば知るほど退屈しない相手だなあ、塚田という奴は。
そしていつものように寝つかれない夜、僕はとなりの塚田にそっと声をかけた。でも、単なる退屈しのぎのつもりだったのに、なぜこんな話を口にしてしまったんだろう。
「ねえ塚田さん、時々他人がバカに見える事ってない?」
薄闇の中で塚田は笑った。
「いきなり何言うんだよ。まったく白井らしいな。けど俺も分かるぜ。あん時は後頭部にケリくらわしてやろうかって一瞬思ったもんな」
「いや、僕が言いたいのは昨日の事ばかりじゃないんだ。……たとえば、自分を理解してくれない相手に対して、理解しようとさえしない相手に対して、いったいどんな態度をとればいいのか、僕には分からなくて」
「つまり白井は、自分が周囲から不当に過小評価されてると思ってんだな」
「実際そうなんだ。そんな奴ばかりなんだよ。見る目のない奴、それどころか見ようとすらしない奴。そういった俗物に対しては、こっちも本気で相手をする価値もないって気がするから……」
「俗物、か。なるほどな、孤高をきどるのは俺ばかりじゃなかったわけか」
塚田は寝返りをうった。口元を枕に押し付けているらしく、声がくぐもって聞こえる。
「俺もなかなか周囲と折り合えねえタチでよ、中学ん頃はやっぱ苦労してたっけ。協調性なんてまったくねえし、とにかく短気で衝動的で。たとえばこの傷、いったいどうしたと思う?」
塚田はもう一度寝返りをうってこっちを向いた。そして右腕を突き出してみせる。薄闇の中では何も見えないけど、彼の右手首に大きな傷あとがある事は、僕ももう知っている。
「中学三年の時だから、今の白井と同じ頃だな。親の離婚で俺の姓が変わったのを知らない新任教師がいてな、旧姓のままの俺の体操服に難クセつけやがったんだ。まあガンコに古い名札を残してた俺も悪りいんだけど、他人のを着てると決めつけた口調にアタマきちまってな、それでつい……」
「後頭部にケリを?」
「いや、気付いたら体育館入り口のガラスぶち破ってた。この手でな」
「ああ、それで手首にケガしたのか。その傷には前から気付いてたけど、僕はてっきり……」
「てっきりなんだ? ……バカ、自分で切るとしたら左手首だろ。俺は右利きだぜ」
「そうだったね、僕の観察力もまだまだだな。どうしても自分を基準に考えてしまうから」
「とにかくな、その事件から俺もすっかりコリたわけよ。もともとはその教師が悪かったはずが、ハデな事したばっかりに俺の方が悪役だもんな」
「それで今は、バカていねいな言葉を使って行儀よくしてるわけ?」
「ああ。くだらないと思うか?」
「そうだね。悪いけど」
「フッ、おまえってほんと正直だな。けど今は俺自身そう思ってんだ。集団に無理に溶け込み、感情を殺しながら調和を保って、それでいったい何になるんだって」
「このツアーに参加した時も?」
「いや、最初は期待もあったさ。自分が見知らぬ他人とどれだけ協調出来るか、試してみようとな。外国の異質な環境でなら、日本人同士で一体感も得られると思ったし。けどその結果こんな疑問にぶち当たるんだから、まったく皮肉なもんだぜ」
「だったら僕も同じだよ。他人を軽蔑してばかりいる自分の事がほんとは嫌いで、もっとお人よしになろうといつも思ってた。だけど、たとえバカどもを笑って許せたとしても、やっぱり何も変わらないんだよな。それどころか、なんでも無条件に許してしまうのは、かえってよくないんじゃないかとも思えてきた。自分のためにも、相手のためにも」
「…………」
ややあって、塚田はまたくぐもった声を出した。
「ただ一つ言える事は、今夜は俺達安眠出来そうにないって事だ。この続きは明日に持ち越して、もうちょっと明るい話をしようぜ」
しばらく考えてから、僕は言った。
「じつは僕、絵を描いてるんだ」
「ヘェ、そりゃ初耳だなあ」
「今んとこ秘密だからね。他人には」
「けどよ、この旅の最中に何か描いたか? 写真だってロクに撮らなかったろ」
「絵なんて視覚で描くもんじゃない。時間をおいても鮮やかに残るものを、その印象のままに僕は描くんだ」
「そうか。じゃあ白井にとって今回の旅で一番鮮やかに残るものって、いったい何だ?」
「もちろん塚田さん、あんただよ」
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