星の弦 − はちみつ色の世代 1 −
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星の弦7ページ
3月21日 火曜日
つきぬける冬の空色が、日ごとにねぼけたようにゆるんできた。
今日の空も、やっぱりどこかぼんやりしている。待ちくたびれたぼくも、なんだかほんとうに眠たくなってきた。空を東から西に横たわる飛行機雲が、だんだんぼやけてうすれていくのを見上げながら、ぼくは空き地の石垣のへりにこしかけて、意味もなく足をブラブラさせていた。
「ゲーン、ほらほら」
声をかけられて、ぼくはふり返った。ミリが片手の指を立ててかけ寄って来る。すぐそばまで来ると、彼はその指をぼくの目の前につき出した。
「ほら、見て」
「なに?」
「テントウムシ」
「どこに?」
「あれっ? ……おかしいなあ、さっきまでここに止まっとったのに」
「あのなあ、そんなふうに指を立てとったら、てっぺんから飛んで行くにきまってるやんか」
笑いながらそう言うと、ミリも頭をかきながら笑った。向こうで学校のフェンスにもたれてあとの二人を待ってるヨッシーも、声を立てて笑っている。
「それで、虫ハカセ、ほかにはなんかおった?」
「うん。ハムシとかヒラタアブとか。それからわた毛虫!」
ミリは足もとにあったタンポポのわた毛を一本むしり取ると、至近距離からぼくに向けてふきつけた。
「あ、このっ! またすぐミリはそういう事をする」
ミリがにげて行く前に、ぼくは素早く反撃した。ミリはさらにその反撃をもくろんで、少しはなれたところでわた毛をいくつも集めている。ぼくもかがみこむと、白いしるが手につかないよう気をつけながら、手近なわた毛を何本もつみ取った。
もう三月も半分以上が過ぎた。辺りはすっかり春の色、春のにおいだ。夜の観測の時にはまだ手がかじかむし耳たぶもいたいけれど、冬はもう夜の中だけにおしやられてしまったみたいだ。昼間の、それもこんなに天気のいい日には、うす暗い日かげさえも春に満たされている。
一年中春といった感じのミリは、この季節になってますます陽気になった。
でもぼくは、とてもミリのようにはしゃぐ気にはなれない。
ぼくは春はそんなに好きじゃない。たしかに、春になるとわけもなく気分がうき立つというのはある。それはみとめるけど、だからといって春をよろこんでむかえる気にはやっぱりなれない。
春になると、小さい時に草の上でころげ回って遊んだ日の事を思い出す。あの時に服についた草のしるのしみ、あの青臭さとはしゃいだ事への後悔が、そのままぼくにとっての春の印象になっている。
それに、手のひらの上のテントウムシの出す黄色いしる、タンポポをつむとくきからしみ出る白いしる、手につくものといえばやっぱりみんないやなにおいを持っているし。
春には、ふれるとやっかいだというふんい気がある。あまいけれど、べとつくようないやな感じが。まるで手についたハチミツをなめているような。春には、どこか鼻につくにおいがふくまれている。まるでよく冷えていない牛乳を飲んだ時のような。
きっと、結晶のようにするどくて清潔な冬のあとにおとずれる季節だから、なおの事そんな生臭さが鼻につくのかもしれない。
「ユッコ来たよ」
ヨッシーに声をかけられて、ぼくとミリはそろって低い石垣の上から前の道路へとび降りた。
「どうだって?」
「あかんって」
「やっぱり……。ヨッシーもだめって言われたって。ぼくとゲンはゆるしが出たけど。まあしぶしぶって感じだったけどな」
「テンは?」
「まだ来てない。テンはたぶんだいじょうぶやろう。けど、ユンとヨッシーをはずして三人だけで観測してもおもしろくないしなあ」
「あ、でもね、ぜんぜんだめっていうわけでもないんやけど」
「えっ?」
「わたしもずいぶんしつこくたのんでん。そしたら配水池ではだめだけど、そこの西畑にしはた公園でするんならいいって。どうする? ミリ」
「どうするって、だったらそうしようや」
あっさりミリは言う。
「じゃあ、観測場所は西畑公園に変更な。それやったらヨッシーもおゆるしが出るんとちゃう?」
「そうやね。帰ってもう一回聞いてみるわ」
テンもやって来た。
「ああ、テン。今みんなで話してたんやけど、観測場所を西畑公園に変更しようと思って。テンもべつにかまわんやろ?」
「そりゃおれらは近くなるからええけど、ゲンにとってはかなり遠くなるで」
「そっか……。でもそこじゃないとユンはだめだって言うからさあ。あ、テンはどうだった? いいって言われた?」
「OKや」
「よかった。ぼくらもだいじょうぶ。ユンも問題なくなったし、ヨッシーももう一回たのんでみるって。場所も近くなってユンもOKとなりゃ、おゆるしが出るかもしれないから。でもゲンにはちょっと悪いなあ。へいきか?」
「いちおう聞いてみるけど、だからだめとは言われんと思う」
「悪いな」
「いいって、べつに」
とりあえず月食観測の計画が決まってひと安心すると、ユンがぼくらの手にしているものに目をとめた。
「なにそれ? 二人でなにしてたん?」
「待ってるあいだ、ゲンとタンポポ戦争してたんや」
ミリがわた毛をユンの前につき出した。ぼくも手に持ったままのわた毛を顔の前にかざした。
「戦争?」
「わた毛をふきかけ合ってな、どっちが先にねを上げるかやってたんや」
ぼくの手の中には、わた毛にまじってうっかりつんでしまった黄色い花が一本ある。ぼくは目の前にかざした手を動かして、その花をユンの横顔に重ねてみた。そうしながらぼくは、ユンがリボンや髪飾りといったものを、今まで一度もつけた事がないのに初めて気付いた。
「それでどっちが勝ったん?」
「まだ勝負ついてない。ゲンもやり出すとしつこいからな。あーかいい、首にいっぱいわた毛が入ってもうた」
ミリはわた毛を捨ててしまって、両手でえりまわりをこすったりはらったりしている。
ぼくもわた毛だけを全部捨ててしまうと、くっと息を止めながら、一本残ったタンポポの花を素早くユンの髪に差した。
「うん、やっぱり。こうするときれいに見えるよ」
早口で言ってしまってから、今のをそのまま本気にとられてもこまると思い直し、あわててこう言いそえた。
「タンポポの花が」
ほんのいっとき目を見開いたあとの三人は、すぐまた目を細めてぼくのじょうだんに笑い合った。
3月24日 金曜日
ミリとテンが来るのを待つあいだ、ぼくは今夜の観測のために用意した道具をもう一度確認した。
まずは天体望遠鏡。三日前、あれからぼくは、帰るとすぐにしまいこんであった望遠鏡を引っぱり出し、夕ごはんまでにすっかり組み立ててしまった。べつに急ぐ必要なんかなかったのに、なぜだかすぐに取りかからなくてはいけない気がして。
でも、ほんとうはただあせるような気持ちだけで組み立てたわけじゃない。あの時の事を思い返すと、自分の行動がたまらなくはずかしく思えてきて、それでとてもじっとしていられなかったんだ。
じょうだんめかしてとはいいながら、みんなの前でユンの髪に花を差すなんて事が、はずかしげもなくよくできたもんだ。ぼくはそのころになってわき起こるはずかしさと後悔の思いとで耳を熱くしながら、下くちびるをかみしめて望遠鏡の組み立てに専念しようとした。
望遠鏡は、引っ越しの時のまましまいこんであった。望遠鏡での星の観測は、今夜が初めてだ。あたりまえだろう。どこに流れるかわからない流星を見るために、望遠鏡を持ち出すやつなんていない。でも今夜は月食、望遠鏡の威力をじゅうぶん生かせるはずだ。
これこそ天体観測の最終兵器、なんて言ったら、ミリのやつどんな顔するだろうな。
アイピースに天頂プリズム。付属品もそろえた。星座早見盤はミリが用意するというし。
それからわすれてならないのがFMラジオ。月食の観測といっても、一番の目的はやっぱり流星だ。めったにない月食の観測を理由にすれば、一晩中の観測でも親はゆるしてくれるというわけだ。もちろん月食はどうでもいいってわけではないけれど。
ミリももちろんテープレコーダーを用意するだろう。でもぼくのラジオもミリのレコーダーも、この二か月のあいだ一度も役に立っていない。おかしな事に、それでがっかりしているのはテンにユン、それにヨッシーの三人のほうで、当の本人たちはやるだけの事はやっているという思いがあるせいか、わりと平然としている。
最近ぼくはわかってきた。本気でやるだけやったなら、たとえ形に残るなにかが得られなくたって、満足感は得られるという事に。大切なのは、結果じゃなくて経過。本気になる事、熱中する事。半年近く続けている観測で、まったく成果が得られなかったかわりに、ぼくはその事を身をもって知ったわけだ。
ミリたちはお昼過ぎにはやって来た。けれど電子工作なんかの話をしているうちに、ずいぶん時間がたってしまった。
「おい、そろそろ行かなおそくなるで」
テンにうながされて、ぼくらも本を置いて立ち上がった。すると、ミリがいきなり大声で歌い始めた。
「四丁目のかなたーユミコの家へー……」
「やめいっ、オンチ」
「そんなヤジらんで、キンコンカンコーンくらい言ってくれよ。望遠鏡せおいー今ー……」
「カーン。これでもんくないな? まったくやかましい」
「どうしたんやミリ。ずいぶん陽気やな」
「春の陽気のせい、なんて。ハハハハ」
「こいつここんとこちょっとおかしいな。頭のてっぺんに花が咲いたせいとちゃうか?」
テンがからかうように言った。彼の言うのは三日前のあの時の事だ。あの時、みんなでひとしきり笑ったあと、ユンは髪のタンポポを取るとミリの頭のてっぺんに差した。
『頭に花を咲かすんは、あんたのほうが似合いやわ』
ミリは頭のタンポポを、うれしそうに帰る時までずっとそのままにしていたっけ。
「もう春がすっかり頭ん中に根を張っとうんやろう」
ぼくは手を休めずテンにうなずきだけ返した。三日前に組み立てた望遠鏡を、ぼくは惜し気もなくすっかり分解した。
望遠鏡を夜になってから公園まで運ぶのは大変なので、明るいうちにユンの家まで運んでおく事になっている。そのためにミリとテンに来てもらったわけだ。
鏡筒の真ん中を小さなざぶとんでくるみ、ゴムひも二本でテンの自転車の荷台にしばりつけた。三脚は、ひもでまとめてミリの自転車の荷台へ。小さな部品や付属品は、手さげカバンに入れてぼくが持った。こうした準備にも時間がかかって、出かけるころにはすっかり日が暮れていた。
「曲がり角気をつけてな。急にハンドル切ったりすんなよ」
「わかっとう」
乗っているわけではなくて、ハンドルをしっかりにぎって歩いているのだから、たおれる心配はないだろうけど、いちおうテンにそう言って念をおした。
落としたりしたらもちろんの事、ちょっとぶつけたくらいでも光軸がくるってしまい、大変な調整が必要になる事だってある。光学器械っていうのは、それくらい繊細で微妙なものなんだ。ぼくはテンの自転車のあとにピッタリくっついて歩き、片方の手で鏡筒を支えた。
「行きはこうして下り坂やからええけど、帰る時の事考えるといやんなるな」
「いや、下り坂だってらくじゃないよ」
そう言うミリのほうをふり返ると、たしかにちょっとつらそうだ。彼は右手を荷台の三脚にそえているので、左手だけでハンドルをにぎっている。ブレーキレバーの操作がやりづらそうだ。そのうえ、自転車が反対側にかたむかないようサドルをこしの辺りにもたせかけてるものだから、しょっちゅう右足をペダルにぶつけている。
「そんな慎重にならんでも、三脚は支えてなくてもへいきやろう。なんか見てたらかえってあぶなっかしいわ」
「やっぱり?」
ミリは笑いながら、ハンドルを両手でにぎり直した。
「そう心配すんなって。ぜったいたおしたりせんから。ぼくが責任もって、無事に運びとどけるよ」
大きな事を言う。けど、ミリの事がなんだか、いつになく心強く思えた。
そう思ったのもつかのま、角を曲がったところでミリはいつものようなすっとんきょうな声をあげた。ぼくは一瞬、三脚を落としでもしたかと思った。けど、そうじゃなかった。
「うわっ、すごい! 月月、ほら見て」
ぼくとテンもふり返り、そして思わず足を止めた。遠くの山並みのすぐ上に、ちょうど月が昇りきったのを目にしたせいだ。マンホールのふたほどもある、大きな赤い月。ミリみたいに声はあげなかったものの、ぼくとテンもやっぱり息をのんだ。
「二年四か月ぶりの月食まで、あと数時間だ」
ミリが静かに言った。
月食という特別な事を前にしているせいだろうけど、月がいつもとはまったくちがって見えた。色にしても大きさにしても、初めて目にしたような気がして、ぼくらは通りかかった車にクラクションを鳴らされるまで、じっと立ちつくしていた。
「ずいぶんおそかったけど、いったいなにしてたん?」
短気なユンにふくれっつらでたずねられ、ぼくらは笑いながら顔を見合わせた。ユンの不機嫌も、三人だったらこわくない。
「ちょっとお月見してたもんだから」
ミリが言った。
「その前に、ゲンの家でしばらく話しこんどったしな」
テンが続けた。
「望遠鏡をばらしたり自転車に積んだりするにも、けっこう手間取ったしなあ」
ぼくもそう言うと、ユンは小さくため息をついた。
「組み立てるのも時間がかかるん?」
「だいじょうぶ。まあ見とけや、十分以内に終わらせてみせるから」
ぼくらはさっそく望遠鏡の組み立てに取りかかった。
「あ、もうちょっと上のほうを支えて。テンも。ネジとめるまでそのまま動かさんとってな」
ユンの家のげんかんで、少しずつ望遠鏡が組み上がっていく。
「おいミリ、そのネジばっかり先にしめたらだめやんか。三つとも平均してしめなきゃ。もういいから、テンと鏡筒を運んで来て」
ふと顔を上げると、作業を見守ってくれているとばかり思っていたユンは、いつのまにかいなくなっていた。かわりにユンの小さな妹が、口をちょっととがらせておこったようなまじめ顔で、ぼくの作業をじっと見ている。ひょうしぬけしたぼくは、なんとなくだまったままではいられないような気持ちになって、好奇心の強そうなこの子に声をかけてみた。
「おもしろい?」
この子はなにも答えないでただはにかむように笑うと、そのまま奥にかけて行ってしまった。ユンによく似てる、どことなく。
鏡筒を鏡筒バンドで固定して、組み立てが終わった。
「さ、これで完成」
大きな声でそう言うと、奥からユンが出て来た。
「けっこう早かったね。へえ、大きいんやねえ」
「口径六十ミリの焦点距離が千ミリ。じゃまになるかもしれんけど、ちょっとのあいだ置かしてな」
「かまわへんよ。わたしだって見せてもらうんやから。使い方とか、教えてね」
「いいよ」
外に出ると、空はもう夜の色だった。月明かりの中、ぼくは軽くなった手さげカバンをふり回しながら、はずむような早足で家に帰った。
3月25日 土曜日
それから数時間後、ぼくは再びうき立つ早足で公園に向かっていた。満月が信じられないくらいに明るい。白々とした光の中にいると、なんだか体がふうっとうかんでしまいそうな気さえする。
「やあ」
「来たな、望遠鏡のオーナー」
まずは三人がかりで望遠鏡を公園まで運び出した。そしていつものようにミリはレコーダーをセットして、ぼくはFMラジオのイヤホンを耳に入れた。ラジオの係は日によってちがうけど、今夜は時間が長いから、一時間交替でみんなでやる事にした。最初の一時間はもちろんぼくだ。
「あしたっから春休みで、ほんとラッキーだったな」
「うん。心おきなく夜ふかしできるもんねえ」
月のくっきりした丸い輪郭の一部が、ほんのちょっと黒くぼやけた。ミリは二年四か月ぶりなんて言っていたけど、ぼくにとっては生まれて初めて見る月食だ。
望遠鏡を五人でかわるがわるのぞいていると、自分の番が回ってくるたびに、黒いぼやけは広がっている。欠けるのは思っていたよりかなり早く感じた。
ほんのわずかのあいだに、月は半分ほども欠けてしまった。
ただ半分とはいっても、半月とはちがったみょうな欠け方だ。見慣れない形でなんかおちつかなくなる。割り取られたというか、溶け落ちたというか、もう回復不能というように思えてしまう。
影になった黒い部分が、もううっすらと赤みを帯びてきた。
「なんで欠けたとこが赤くなりよるん?」
質問するヨッシーに、ハカセが説明をした。
「だからこないだ言ったやろ。かげの中に入っても、地球の大気で回りこむ光があるから、真っ暗にはならないって」
「だったらなんで赤くなるん? 地球は青いんやから、青くなってもええんとちがう?」
「そりゃ、うーん……。そうだ、こう考えたらいいんだ。月から月食を見たらどんなかって考えてみ。空に太陽があって、地球が大きくあって、その地球に太陽がかくれるわけや。わかるな? 地球の地平線に太陽がしずんで、そのあとに夕焼けが広がるわけや。あれは夕焼けにそまってるんやな」
なあるほど。いかにもミリらしい説明だけど、思わずぼくもすんなり納得してしまうくらい説得力がある。
「ただの夜ならしょっちゅうあるけど、大気のない月面で夕焼けなんていったら、こんな時くらいなもんやぞ」
「そうやね……。いつか、月面から月食を見てみたいわあ」
ユンがあこがれるようにつぶやいた。
「だったらそれを流れ星にお願いしたらどう?」
からかうようなミリの言葉にも、ユンはまじめな面持ちでうなずいた。
やがて、月はすっかり地球の影におおわれた。
それにしても不気味な色だ。何色って言えばいいんだろう。赤と茶色とオレンジと、それに肌色とあずき色とがまざったような色だ。もし百色そろった絵の具があったとしても、この色そのままの色はその中にもぜったいないと思う。
月の白々とした光が失せたせいで、星々がするどいかがやきを取りもどした。
その細かくふるえる光を見ていると、なんだか音が聞こえてきそうだ。星の音はかたくてかん高くて金属的で、それに対してボンヤリした月は、低くうなりながらうかぶようだ。キャリリリリ……。ウォーン……。そんな事を思いながら見上げていると、なんだか月がアドバルーンくらいのところにうかんでいるようにも見えてきた。
ラジオの係はテンの番になり、手の空いたミリはさっきから望遠鏡を独占している。
ぼくはその気になればいつでも見られるし、ヨッシーもそれほど強いきょうみはないようなのでなにも言わないけど、ユンだけはだまっていない。
「一人でいつまで見てるんよ。少しはひとの事も考えたら?」
「もうちょっと待ってくれ。ようやく操作のコツをつかんできたとこなんやから」
「もうちょっともうちょっとって、さっきからずうっとやんか。わたしだって見たいんやからね」
「じゃあ双眼鏡貸したるわ」
「いらん。あんたがそれ使い」
「いや、望遠鏡のほうがおもしろい」
「もう……。ええもんね、それやったらわたし、この小さいほうで見るから」
そう言うとユンは、ファインダーのほうをのぞきこんだ。望遠鏡をのぞくミリに顔を寄せて。
「これでもわりと見えるねえ」
ユンとミリは、そうやっていつまでも月を見ている。まるでほほをすり寄せるようにしながら……。まあいいや。二人ともそんな事にはちっとも気付いていないようだし、それにぼくは、あの時ジャンケンでミリに負けたんだから……。
夜は次第にふけていき、張りつめたような静寂に、小さな公園はすっかり囲われた。今ではこの公園の外は完全に静止している。
ここはまるで孤島だ。ここだけを残して周囲の時間はすべて止まり、今この世界にいるのはぼくたち五人だけだ。そんな気さえしてくる。
ぼくらは取り残されてしまったような思いをいだきながらも、それだからなおの事、自分自身や仲間の存在のたしかさを、ふだんよりもはっきりと自覚していた。かすかな音さえはね返すような静寂の下で、ぼくらはささやき声で言葉を交わしながら、いつにも増して陽気に過ごした。
「あ、しまったな。おれ目印灯持って来ようと思っとったのに、わすれてもうた」
「なに? 目印灯って」
「おれたちゲンにさそわれて電子工作しとうやろ。それでおれの作ったんが目印灯でな、まわりが明るい時は消えとって、暗くなるとLEDが点滅するんや」
「ふーん。でもそんなん持って来てなにするん?」
「なにするって、おもろいやんか。なあ」
「うん。ぼくも持って来るんだった」
「ミリはなに作ったん?」
「水位警報機」
「え?」
「おふろに水入れる時にな、水がいっぱいになったらブザーが鳴るんや」
「あんねえ、それこそいったいなんの意味があるんよ」
「だからコップにお茶を入れる時に使うんや。暗いからあふれんように」
「アホ」
今夜は、熱いお茶をユンが用意してくれていた。すぐとなりにユンの家があると、たとえばトイレなんかも助かる。もし一晩中の観測を予定通り配水池でやっていたら、きっとこまっただろうな。
お茶を飲んだり夜食のおにぎりをぱくついたりするうちに、なんかあっけなく月食は終わってしまった。
けれどももちろんこれでおしまいじゃない。夜半から明け方にかけて、今からが流星の多い時間帯だ。むしろこれからが本番といってもいい。
慣れてしまったせいか、もう寒さも感じない。眠気もとうにふき飛んだ。みんなも流星が必ず流れると信じているかのように、かたときも星空から目をはなさない。
再びラジオがぼくに回ってきた。片方の耳にイヤホンを入れると、とたんに気持ちが静まった。ぼくはまるで瞑想でもするように、おごそかに夜空をあおいだ。
「ねえ、ゲン」
十分もしないうちにじゃまが入った。声をかけてきたのは例によってユンだ。
「ゲンが見た十五の流れ星って、ずいぶんゆっくり流れたって言ってたよね。たしか六秒か七秒くらいって」
「ああ」
「そんなに時間があって、その時願い事をとなえようとか思わなかったん?」
「…………」
「そんなあきれたような顔せんといてよ。ねえ、どうやった?」
「そんな事考えもしなかった。音におどろいて気が動転しとったし」
知らず知らずのうちに、ぼくはユンの質問にまじめに答えていた。
「だいたい、あの時は願い事なんてなかったからな」
「あの時は? って事は、今は願い事あるんやね?」
まったく、さすがに女の子だ。ささいな事も決して聞きのがさないんだから。
「まあ……」
「なに? ……なんて聞いたらあかんか」
「……ああ」
「じゃあさ、もしまたそんな流れ星が流れたら、その願い事をとなえる?」
「いいや」
「そう。そうやね、自分の力で実現させるのが男の子やもんね。さすが」
そう思ってくれるのはうれしいけど、あまりかいかぶられるのもてれくさいので、ぼくは一言つけ加えた。
「まあそれもあるけどな、願いがかなうかかなわないかなんて、二の次だと思うんだ。自分がほんとうになにをしたいのか、なにが望みなのか、それに気付いただけでもめぐまれてると思わない? そしてそれに熱中できたら、それでもうじゅうぶんやんか」
「……でも、やっぱり願いはかなうのが一番やと思うけどな」
ユンの最後の一言は、立ち去りながらつぶやいたひとりごとだった。……まあいいや、わかってもらえなくたって。とにかくぼくは、熱くなれただけでもじゅうぶん満足だった。
やがて、空の色が少しずつうすくなった。
夜明けだ。鳥の声が聞こえる。新聞配達のバイクの音も聞こえる。潮が引いて浅瀬があらわれるように、孤島だったぼくらの公園は周囲と陸続きになった。
ぼくたちはこの日常の世界に、まるで別の次元から帰って来たみたいだ。数時間前の孤島の公園での出来事が、はるかむかしの事のように遠く感じる。
星もみんな消えてしまった。これで観測もおしまいだ。流星の音の謎の解明どころか、とうとう流星の一つも見る事なしに。
けどまあそれでもいいや。たしかにざんねんな思いはあるけれど、これだけの事ができただけでもうれしかった。みんなといっしょに一つの事に取り組んで、そしてこんな夜明けをいっしょにむかえる事ができるなんて、転校して来たばかりのころには考えられなかったんだから。そしてそのきっかけをあたえてくれたのが、あの流星だったんだ。
また三人がかりで、望遠鏡をユンの家のげんかんに運びこんだ。けれどもそのまま解散してしまうのが惜しい気がして、だれ言うともなく日の出を待つ事になった。
ぼくたち五人は公園の低い鉄さくの上にならんですわり、次第にかがやきを増す東の空に目をこらした。
もうあとわずかで太陽があらわれるという時になって、ぼくの頭の中にある考えがひらめいた。
「ゲン、どうしたんや」
さくをとびこえてかけ出すぼくに、テンが声をかけてきた。けれど返事をするよゆうはない。ぼくは観測の記録をしようと用意していたレポート用紙をつかむと、急いでみんなのところにもどった。
「ミリ、これで紙でっぽう作ってくれ。早く」
ぼくは用紙を五まい取ると、ミリに手わたした。
「なんで?」
「なんでもいいから早く」
「でももったいないな、こんな紙で」
「いいからっ」
ぶつぶつ言いながらも、ミリは紙でっぽうを手ぎわよく折り始めた。ぼくはミリの作業を見守り、時おり東の空に目をやりながら、とっさの思いつきをみんなに話した。
「日が昇るのと同時にな、みんなでいっせいに紙でっぽうを鳴らそうと思うんや。クラッカーみたいに」
「ええー」
「だいじょうぶか? 大きな音出したりして。近所めいわくやぞ」
「へいきへいき、もう朝や。それに今までずっと静かにしてたんやもん、最後に一回くらいかまわんやろ」
「ゲンもむちゃ言うようになったなあ。おれは知らんで」
そう言いながらも、テンものり気になっているのは表情からわかる。ユンやヨッシーにしたって同じだ。
「景気付け景気付け」
ミリの言葉に、テンはせきこむようにごまかしながら小さく笑った。
なんとか間に合った。みんなは片手に紙でっぽうをかまえた。もういつ太陽が出たってかまわない。東の空は、もう目を細めずにはいられないくらいまぶしい。
「なあ、ちょっと関係ない話だけど、こんなふうに考えてみた事ない?」
左どなりにすわっているミリが、東の空をみつめたまま話しかけてきた。
「人の一生を四等分してな、一年や一日にあてはめてみるんや。五十年を四等分して、十二才半までが朝、二十五才までが昼、それから夕方夜って続くわけ。一年だったら春夏秋冬な。ほら、なんかピッタリとこない?」
ミリのこの一言で、ささやかな緊張感はいっぺんにふき飛んだ。
「あんたはいつも、いったいなにを考えとうん」
右どなりにすわっているユンは、かたを上下させながら笑っている。ミリの向こうではテンも、うなずきながらも口の辺りをなでて笑いをごまかしている。ユンの向こうにいるヨッシーが、ミリにたずねた。
「でもなんで一生が五十年なん?」
「ほら、むかしからよく言うやんか。人生わずか五十年って」
「ふっるー」
「まあな、たしかに今は八十年くらいだろうけど。でも五十年が八十年になったところで、そう変わらんのや。ただ夜が長くなるだけでな。朝はやっぱりぼくらの年代までで……、あっ、出た出た、ほら!」
太陽が山ぎわにあらわれた。ぼくは息をすいこみながらかけ声をかけた。
「せーのっ!」
パシーン! 五つの音は奇跡のように一つに重なり、はちみつ色の光に満ちた朝の空気をすがすがしくふるわせた。
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