星のきざし − はちみつ色の世代 3 −


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     6月23日 木曜日

 そんな自分の甘さにもこのころはまだ目をつぶったまま、ただコウイチへの反発ばかりつのらせていたよ。だからますますムキになって、帰り道にはユミコとチカコを相手に、熱心に天文台の計画を話し合った。それも後ろから来るコウイチを意識して、わざわざ聞こえよがしに大声で。おれってほんとイヤミな性格してるよなあ。
 それはそうと、この計画の起こった最初の日にも思った事だけど、ユミコやチカコもほんとにのりやすい性格みたいだ。女の子というのもやはり、実現はべつにして願望ばかりをふくらませるものなのかな。
 けれどもたった一つだけ、実現をめざしての具体的な計画が、ユミコによって提案されたんだ。おお意外。まあ、それはごくささやかな計画ではあるけれど。
 「ねえねえ、天文台とか観測ロケットとかっていうんはまだまだ先の事やけど、観測小屋みたいなもんやったら、すぐにでも作れるんとちがう?」
 「観測小屋かあ。ああ、その計画大賛成。ヨッシーも賛成やろ? やってみようや、みんなで」
 みんなでとは言っても、もちろんコウイチを除外した三人でだ。
 おれたち三人がユミコの家の前の車止めをかこんでそうだんする間、コウイチは公園の石垣を机にして、一人で宿題をやっていた。
 コウイチがすなおに関心をしめすなら、おれのほうもすなおに受け入れてやるつもりだった。なのにあいつときたら、頭をかきながらめんどうな計算に没頭するばかりだ。あんなやつ、もう知るもんか。……おたがいガンコでいじっぱりで、ほんとすなおじゃないよなあ。
 まあそれは置いといて、ユミコとチカコとのそうだんでは、まず場所をどこにするかを話し合ったよ。
 「いくらあちこちに空き地があるからって、そんなとこに勝手に小屋作るわけにはいかへんよねえ」
 「うん。だからやっぱり山ん中しかないやろな。山ならまかして。ぼくはいっつも歩き回ってるんやから」
 というわけで、おれはいくつか候補地を挙げてみせた。七丁目向こうの山、学校前の三角山、北の大山公園裏、……
 「ほかにもいくつかあるけど、道もないとこ入っていくのは女子にはむりやし。やっぱり三角山が一番やろう」
 「三角山? そこだけはやめとこ。わたしあの近くだけは行きたくないわ」
 ユミコが肩をちぢこませながらそう言う。
 「なんで?」
 「とにかく、あのへんきらいやから」
 なんだかよくわからないけど、ユミコは三角山がきらいらしい。おれも学校の近くはまずいかなと思い直し、最後は大山公園に決定したよ。

 一度家に帰って、さっそく下見に行く事にした。みんなそろって、いやもちろんユミコとチカコと三人で。
 公園のかたすみに自転車を止めて、裏山のほうに入って行く。山道にかかると、とたんにヤブカがたかって来る。ユミコがそれをパチンとやったから、おれはつい大声を出してしまった。
 「おいっ、そんな事したらかわいそうやんか!」
 「なに言うてるん? さされたらかゆいやない」
 「それくらいなんだよ。みんな産卵のために必死なんやぞ」
 「だから殺したらあかんっていうん?」
 「ああ」
 「だったらあんた、もし止まったんがハチやったらどうする気?」
 「この前じっと見ていたら、スズメバチがここをさしてった」
 「……自分と虫と、いったいどっちが大切なんよ」
 ユミコもチカコも、感心したというよりはあきれたといった顔をしている。
 どうしてだ? 生き物を殺さないというのが、そんなにおかしな事なのか? ……でも、これは家族とだってずっと前からもめている問題だし、いきなり理解してもらえるはずはないかもな。まして女の子なんかには……。
 「じゃあだまってカにさされろとまでは言わんから、せめておっぱらうだけにしといてくれな。そうしたら、あとはぼくがみんな引き受けるから」
 「……本気で虫のほうが大切みたいやね」
 なんとなくおたがい気づまりになって、おれたちは観測小屋予定地の下見もろくにしないで、急ぎ足で山道を通りぬけた。
 けれど公園にもどってから、チカコがあわてた様子でこう言うんだ。
 「自転車のカギがない! 今さっきどこかで落としたんやわ」
 おれたちはもう一度、今度はゆっくり山道を見て回るはめになったよ。それでもけっきょく、カギは見付からなかった。
 「どーしよー。かついで帰るなんてできへんし、なんとかしてカギ開けられへんかなあ」
 二人はそろっておれを見た。こういう時って、なんの理由もなく自然に男子がたよられる事になってるんだよなあ。でも、おれは笑ってそのめんどう事を引き受けたよ。もちろんかつぐほうではなく、カギを開けるほうを。とにかく、さっきのきまり悪さを吹きはらう、いいチャンスだと思ってさ。
 だけど、拾った針金を使ってなんとか開けようとがんばってみたけど、なかなかうまくいかないもんだな。それにユミコとチカコにじっと見られていると、あせってますます手元がくるう。
 おまけにナマイキな下級生がおれたちを見付け、わざわざからかいにやって来るし。
 「女なんかと遊んだりして、なにが楽しいんやろう」
 なんて事を聞こえよがしにつぶやきながら、自転車でそこらを言ったり来たり。もちろんこっちはそんなの無視だ。ひやかすようなやつなんて、どうせひがんでるだけなんだから。わかってるんだ。
 不意にチカコが立ち上がった。おっ、うるさいあいつを追いはらう気かな。
 「はあ、やっぱりあかんみたいやね。あたしちょっと家まで帰って、スペアさがしてみるわ」
 「……ああ、そう。だったらぼくの自転車使って行く?」
 「ええわ。男子の自転車乗るなんて、なんかはずかしいもん」
 声も体も大きくて、いつも元気なチカコにも、そんな面があったなんて。この子もやっぱり、しょせんは気弱な女の子だったんだな。
 あの下級生もそれを感じ取ったのか、ますます調子にのってきた。すぐそばまでやって来ると、面と向かってこんな事まで言うんだ。
 「さて、二人きりになった感想は?」
 一学年下のやつらって、どいつもこいつもほんとナマイキだよなあ。二学年下の、弟の政志の同級生なんかは、ぜんぜんそんなじゃないのに。いや、マサといっしょになってぼくの事をカズ、カズ、なんてよぶのだけは、なれなれしいともいえるけど。まったく、弟のともだちみんながみんな、オトウトみたいなものだよなあ。
 「でもいっつもそんなふうにいっしょにおるけど、ひょっとしてあんたらきょうだい?」
 「…………」
 無視するつもりでいたけれど、やつのこの一言には、おれもユミコもつい顔を見合わせてしまったよ。おれたちがきょうだいだなんて、じょうだんきついよなあ。
 だけど、それに対するユミコの返事は、さらにきつく心にこたえた。
 「ふざけた事言わんといて。こんなオトウトなんてほしくないわ」
 オトウト……、おれはオトウトかよ。言わせてもらえばおれだって、イモウトならともかくアネキなんてほしくはないね。
 やっとチカコがもどって来た。だけど手にはスペアキーではなく、ドライバーを持っている。
 「カギはすぐには見付からへんわ。もう取りはずしてしまうしかないやろね」
 「いやちょっと、それがあったらなんとかなりそうや」
 おれはドライバーを借りると、ロックのカバーを開けた。
 「こうすりゃ針金もとどくから……」
 ガシーン! はじけるようにロックがはずれる。どうだい。おれは得意げに顔を上げたよ。けれども……。
 「ほんまに針金で開けてしまうんやね」
 「なんかこの先不安になるわあ」
 手先の器用な事でもまた、二人には感心されるよりも警戒されてる感じ……。

     6月25日 土曜日

 「さあ、今日からさっそく例の計画を実行するからな」
 この日の帰り道、おれはそう宣言した。
 あの日以来、ユミコやチカコとの間には、まだなんとなくしっくりしない気持ちが横たわっている。でもコウイチを前にして、そんなそぶりはおもてに出せない。むりにはりきってみせてたよ。
 「まずはあの地点に、小屋の大きさ分だけ斜面をけずる作業からやな。ぼくはスコップ持ってくけど、ユッコやヨッシーのとこにもスコップないか?」
 「たしかあったはず。わたしも持って行くわ」
 「じゃああたしもさがしてみる」
 「そりゃ助かるけど、持って行くのは重くない? だいじょうぶ?」
 「あれくらいなんでもないって」
 「そう、じゃあユッコもヨッシーもたのむな。よーし、いよいよもり上がってきたぞ」
 二人が協力するそぶりを見せてくれた事で、おれはほんとにはりきる気になったよ。

 おれたちは現地集合する事にしていた。目立たないようにと考えてそうしたわけだけど、スコップなんかをかついでいれば、いやでも人目を引くよなあ。
 だけど、おれに続いてやって来たチカコは、なんにも持っていなかった。
 「スコップやっぱりなかったん?」
 「いいや、さがしてみたらあったよ」
 そう言ってチカコが差し出したのは、なんだよ、園芸用の小さな移植ゴテじゃないか。
 「なあ、そんなんで穴ほりができると思うか?」
 「花だんとかはこれでほったりするやん」
 「……タネまきといっしょに考えてるんか」
 そこへユミコもやって来た。やっぱりなんにも持たないで。
 「ユッコはスコップ持って来るって言ってたやんか」
 「うん、だからちゃんと持って来たよ。ほら」
 ユミコが取り出したのもまた、小さな移植ゴテ。
 「……潮干狩りする気で来たらしいな」
 おれはすっかり力がぬけて、スコップの柄にもたれかかった。
 「なんよ、せっかくスコップ持って来たったのに」
 「それは移植ゴテって言うんや。スコップってのは、こういう大きいやつ」
 「えー、それはシャベルでこれがスコップとちがうん?」
 「いや、その小さいのをカタカナで言うとシャベルで、スコップはやっぱりこれの事やろ」
 「うそ、あたしは鉄のがスコップでプラスチックのがシャベルと思ってた」
 「……砂場遊びするんじゃないんやぞ」
 スコップシャベル論争ですっかり頭がこんがらがったけど、とにかく早い話、穴ほりの作業はおれ一人でやるしかないって事だ。
 持ち慣れない重いスコップを一人でふり回すうちに、なんだかなさけない気分になってきたよ。おれは見ているだけの二人にグチをこぼした。
 「なあ、ユッコにヨッシー、メンバーが少ないから、しかたなしに、こんな作業もやってるけど、ぼくにはこんな仕事、向いてないよ。フウ。ほんとはぼくは、デリケートでナイーブなんやぞ」
 言ったとたんに二人は大笑い。
 「あんたねえ、性格がデリケートとかナイーブとかっていうんは、まわりから見てそう思うもんで、自分のほうから言うもんとちがうんよ。わかっとう?」
 「ああ、わかっとう、わかっとうけど、でもなあ、ぼくが自分で言わんったら、だれもわかってくれんもん」
 おれのつぶやきに、二人はまたもや大笑いだ。まったく、こっちはじょうだんのつもりじゃないんだけどなあ。
 それにしても、こんなキツイ作業を一人で引き受けるはめになるくらいなら、コウイチを仲間に引き留めておけばよかったよ。あいつがいればきっと、となりでツルハシなんかを軽々とふるってくれただろう。
 そうさ、おれはコウイチを仲間からはずした事を、じつは今になって後悔してるんだ。でも、今ごろそのコウイチは、いったいどんな思いでいるんだろう。おれにはどうもわからない。
 コウイチはあれ以来、おれたち放課後グループの中ではもちろんの事、班の中でも一人っきりの状態だ。新聞作りやそうじの時だけ班員で、あとはいつでも部外者あつかい。給食時間なんかでも、あいつの机だけ十五センチはへだてられてるよ。
 言っとくけど、それはおれがコウイチを遠ざけたせいじゃないからな。おれと同じく、ほかのみんなも自然とあいつをさけるようになったのさ。それというのも、コウイチの下品さが原因だ。あいつときたら、給食中にかぎってキタナイ話をするからな。そしてそうじの時間になれば、ほうきを片手にヤラシイ替え歌をがなり立てるし。
 コウイチ自身も、孤立の原因が自分にあるって気付いてるようだな。いくらのけ者にされたって、あたりまえのような顔をしてる。もちろん、終わりの会でうったえるようなそぶりもない。いつでも平然として、鼻歌まじりのエロ歌まじりだ。
 そんなコウイチを見ていると、おれは完全に負けているなと思うよ。
 おれは転校初日からずっと、主人公になる事ばかりを意識してきた。ユミコについても、気を引く事ばかり考えていたしな。でもコウイチはちがっていた。あいつはいつも、ありのままの自分でいる。自然体をつらぬくあいつに対して、人目を気にしてばかりのおれは、たしかに完全に負けてるよ。クヤシイけど、ほんとはやつのほうがよっぽどヒーローなのかもしれない。
 「でもこんな山ん中やったら、木がじゃまで星なんか見えへんねえ」
 後ろでユミコがそんな事をつぶやく。……今さらなあ。
 「だからここは休けい場所にして、観測の時は公園に出ればいいやろ」
 「そんなん、めんどくさいやん」
 さすがにおれもムッときたよ。スコップをふるう手を止め、ふり返って言ってやった。
 「あのなあ、最初に観測小屋を建てようって言い出したんはユッコやぞ」
 「でもここに決めたんはわたしとちがうもん」
 「……」
 おれはあきらめて、またスコップをかまえたよ。
 あせをふり飛ばしながらスコップを一人でふり回すうち、だんだん腹が立ってきた。
 「なあ、ユッコもヨッシーも、ちょっとくらいは手伝ってくれたらどうや」
 「だって道具もないのにどうすりゃええの。シャベルじゃあかんって言うたんはあんたやない」
 「なら、ほかにはなにも持って来てないんか?」
 「わたし爪切りなら持って来とうけど」
 「…………」
 爪切りがいったいなんになる? おれはすっかり力がぬけて、スコップを投げ出した。
 「ばかにせんといてよ。こう見えても、この爪切りは特別なんやからね」
 言いながら、ユミコは爪切りを取り出した。まあ、たしかに変わってはいるな。するどいヤスリがべつについてて、それが折りたたみナイフのように起きるんだ。
 「見ときよ。それっ」
 ユミコが投げた爪切りは、おれがほった土のかべにスクッとささった。なるほど、それでナイフの代わりってわけ。
 「それじゃあそれ使って、そこらへんのヤジ馬でも追っぱらってくれるか」
 そうなんだ、作業を始めてから気付いたけど、公園裏のこの山道って、けっこう人通りが多いんだ。これじゃあ秘密にもなんにもなりやしないよ。
 中でも下級生たちは、例によっていやがらせを言うしな。たとえばこんなふうに。
 「なにをほっとんのやろう。ひょっとしてベンジョか。男女いっしょなんて気色悪う」
 まったく、コウイチにも負けずおとらずの下品なやつらだ。とにかく今日も無視するしかないな。おれは気を取り直してスコップを拾い上げた。と、ふと見ると、ヤジ馬の中には当のコウイチまでもがいるじゃないか!
 「ダクテン!」
 「ああ、いやな、まだキイチゴが残っとんのとちゃうかなと思って来てみたんや」
 キイチゴだって? そんなもの残ってるわけないだろっ。おれはなにも答えず背を向けて、またスコップを投げ捨てた。あいつの言いわけめいた言いぐさが、なんだかむしょうに気にさわったんだ。
 「ユッコ、ヨッシー、計画変更や。秘密がもれた以上場所を変えないと」
 こうしておれはまたしても、コウイチをしりぞけてしまったよ。
 後から考えれば、コウイチのあの間のぬけた言葉は、あいつなりのてれかくしだったのかもしれない。あの日たぶんコウイチは、算数の宿題よりもおれたちの話に気を向けていた。そして今日おもいきって、仲間に加わるつもりでやって来たんだ……。

     6月28日 火曜日

 これでコウイチとの事は、もうどうしようもなくなった気がするよ。もっともおれにしてみれば、どうにかしようというつもりもないけど。なにしろおれはコウイチに対して、ちょっとどころかかなりくやしい思いをいだいていたからな。いつも自分らしくいられる事ばかりでなく、体育の時間に思いもよらない活躍をして、注目を集める事とかも。それに算数でも、ときどき先生をうならせたりするしな。
 それを思うと、小さなグループの中にこもってコソコソしている自分が、ひどくちっぽけに思えてくるんだ。
 最初のうち、転校生は無条件に主役になれるものと思っていた。けど、やっぱりぼくにはその素質がないのかなあ……。いや、ぼくはぼくで、おれはおれで、自分にできる事をやり続けていくだけだ。さあ、場所を変えて計画続行だ。

 放課後ユミコの家に行ったら、ユミコは妹のケイコちゃんと留守番をしていた。
 「ヨッシーは来てないん?」
 「あの子も菜穂ちゃんと二人で留守番しとって、出られへんのやって」
 「なんか妹と留守番ってのがはやってんのかね」
 ひょっとしたら今ごろコウイチも、家で妹と留守番してるのかもな。……まあ、そのほうがいいか。あいつが外を出歩かないほうが、こっちは助かる。
 「でもヨッシーが来られんってのは残念やなあ。せっかく第2地点の調査に行こうと思って、巻き尺まで用意して来たのに」
 「えっ? 新しい場所が見付かったん?」
 「ああ、ユッコにこないだ借りた本のおかげでな、最高の場所を思いついたんや」
 「あの本? あの本から思いついた場所なん? それってどこ? いや、今からその場所じかに教えて」
 「でも留守番なのに出かけていいんか?」
 「へいきへいき、恵子もいっしょにつれて行くから。雨はもう上がっとう? ならええから今すぐ行ってみよ」
 本がかかわるとなると、ユミコは急に熱心になるんだなあ。こないだはあまり協力的じゃなかったから、びっくりした。でももちろんうれしかったよ。ユミコが関心をしめしてくれた事ばかりじゃなく、ユミコといっしょに出かけられる事も。
 なかばむりやり引っぱり出されたケイコちゃんは、ちょっと口をとがらせてずっとだまったままだ。そしてユミコもまた、山道にさしかかったとたんに表情をかたくする。
 「また山の中なん? ……なんか気が進まへんわあ」
 どうしてユミコは、そんなに山をいやがるんだろう。雨でぬかるんでるからとか、そんな理由でもないようだし。こないだから、どうもユミコはへんなんだ。
 「じゃあ、ここで二人で待っとくか?」
 「ううん、今日はだいじょうぶ、行ってみるわ。そんなに遠くとちがうね?」
 「ああ、もうすぐそこや。ほら、ここからでも見えるやんか」
 おれは指をさしたんだけど、ユミコは顔も上げやしない。
 おれが二人を引っぱって行ったのは、山道をちょっと入ったところに立つ、一本の鉄塔の下だ。立ち止まって見上げるおれにつられて、ユミコもようやく顔を上げた。おれは勢いこんで新しい計画を話したよ。
 「なあ、大きいやろう。この鉄塔を、このままぼくらの観測小屋にしようや」
 「ようそんな事考えついたもんやねえ」
 「ユッコが先週貸してくれた、あの本のおかげや。ほらな、こんなふうに霧の中に消えかけている鉄塔、まったくあの物語そのものやろう」
 「そうやねえ」
 ちょうど雨上がりのこの時、町全体を深い霧がおおっていた。なにしろここは、山の上の町だからな。真下から見上げる鉄塔は、まるでにじませすぎた水彩のように、白くかき消えている。
 「知ってる? 今は霧で見えんけど、鉄塔の一番上には黄色いプレートがあってな、ナンバーが書かれているんや。15ってな。この鉄塔は、15号鉄塔なんだ」
 「15号鉄塔? それって、まるっきりあの本そのままやないの。へえ、ここにもこんなところがあったんやねえ。なんかほんまに本の中の物語みたい……」
 ケイコちゃんはすみっこにしゃがみこんでしまったけど、ユミコはがぜんのり気を見せて、おれの作業を手伝ってくれる事になった。
 「じゃあぼくが巻き尺持って登るから、ユッコは下ではしっこ持っといて」
 「こんなんに登ってへいきなん? ちょっとこわいわあ」
 「登るったって下のほうだけやし、それに高圧線はガイシではなしてあるもん、感電なんかするはずないって」
 「でも、気をつけるんよ」
 「まかせとけって」
 ユミコの言葉に元気付けられて、おれは大はりきりで鉄骨を登っていったよ。
 この鉄塔の足の部分、ねずみ返しみたいな網より下の登れる場所に、竹の棒を渡してシートをかけるというのがおれのアイデア。今日はその設計図を描く準備として、鉄塔の寸法を測りに来たってわけさ。
 下ではユミコが、巻き尺のはしを引っぱったりメモをとったりしてくれる。作業を進めながらおれは、ずっとユミコに話しかけていたよ。教室にも放課後にもありえない二人きりの機会が、いつにもましておれの口をなめらかにしたんだろう。いやむしろ、ケイコちゃんがいてまるっきり二人きりでもない事に、気が軽かったせいかもしれないな。
 「雨のたびにこんな霧が出るなんて、ほんとここっていいとこやなあ。こんな時にもし鉄塔のてっぺんまで登ったら、どんなやろう。きっとまわりはみんな、足もとまで真っ白にとけて、自分だけが浮いてるような感じやろうなあ。
 なあユッコ、ぼくな、霧の出る夜がすごく好きなんや。そんな夜にはな、決まって一度は外に出てみて、道の向こうをじっと見てみるんや。一列にならんだ街灯が、遠いものほどうすれていって、そんなのを見てたらな、星の生まれるガス雲の中にいるみたいな気がするよ。それに暗い中で霧につつまれながらじっとしていると、なんだか自分がまさに物質として安定したばかりの感じで、まるで宇宙の始まりの時にいるみたいな気分にもなるんだ」
 こんな事をひとに話して聞かせたのは、この時が初めてだった。聞いてもらいたいと思ったのも、ユミコが初めてだったかもしれない。
 そして、測量を終えて帰るころになって、今度はユミコが長い話を聞かせてくれたんだ。
 「ねえミリ、わたしこないだから山に入るんをいやがってたやんか。それってわけがあったんよ。いつかの校長先生の話をおぼえとう? ほら、朝礼の時のあの話。子どもに声をかけてどこかへ連れて行こうとする人がおるから、気をつけるようにっていう。その声をかけられた子っていうんがね、じつは、わたしの事やってん。
 カメラと大きな銀色のケースを持った、カメラマンっぽい人やったんやけど、写真をとらせてほしいって言うから、わたしちょっとだけ協力してあげようと思って。そうしたらそのうちに、今度は森をバックにとりたいとか言うて、山の中に入って行こうとするわけ。それでわたしへんやなと思って、そのまま走ってにげて来てん」
 ……なんだかびっくりするような話で、どう返事をすればいいのかわからなかった。ただ一つ、最近ユミコがするどいヤスリのついた爪切りを持ち歩く理由だけは、なんだかわかったような気がする。
 「それで、今はもう山もへいきになったん?」
 「うん、今日はそんなにいやな感じはせえへんかったわ。たぶんミリがいてくれたからやろうね。それに恵子もおるし」
 幼稚園児といっしょのあつかいは不満だけど、でもいちおうはたよりにされてるんだな。
 「さ、そろそろ帰ろうや。あ、そこの斜面すべるから気をつけて。ほらこっちに」
 おれはこの日、初めて手をつないだよ。小さなケイコちゃんと。
 その時突然、前から人の声がした。たよりにされたのもつかの間、おれはつい二人を置いてかけ出してしまった。いっしょにいるところをだれかに見られるのが、不意にはずかしくなったんだ。
 すれちがったのは、三人の女子中学生だった。やり過ごしてからもと来たほうをうかがうと、ケイコちゃんの泣き声とユミコの話し声とが聞こえた。
 「ううん、べつにちょっと、ただチビつれて散歩に来ただけ」
 どうやら、ユミコとは顔見知りの人たちだったみたいだ。きまりの悪い思いが、むやみにわき上がってくる。
 ぐずるケイコちゃんの手を引いて、ユミコはすぐに追いついてきた。一人でにげ出した事をなにか言われると思い、おれはうつ向いていたけど……、
 「秘密を守るっていうんも、おたがいなかなか大変やね」
 ……ユミコの言葉におれはただ、あいまいにうなずくばかりだったよ。
 そしてユミコは、続いてひとりごとみたいにこんな事を言い出したんだ。
 「これからわたし、旅人の木の事を調べてみようかな」
 いきなりなんだろう。旅人の木の物語は、おれの一番のお気に入りだけど。その事に、ユミコは気付いてたのか? とにかくおれは反射的に、今度ははっきり返事をしたよ。
 「だったらぼくも調べてみよう」
 「ええよ。いっしょに調べてみよ。あの本また貸したげようか? もう一度うちに寄って行きよ」
 「ありがとう」
 ……やっぱり、気付かれていたらしい。
 「そういやな、引っ越しのあとずっと行方不明になってるんやけど、ぼく旅人の木がのった植物の本を持ってたんや。もう一度ちゃんとさがしてみるかな」
 「その本見付かったらわたしにも見せてね」
 「うん。でも、見付かるんは次の引っ越しの時だったりして」
 おれとユミコは、顔を見合わせて笑い合ったよ。
 そしてそのあとユミコは、さっきおれが一人でにげた事をちょっととがめた。
 「さっき恵子が泣いたんは、ミリが急に手をふりはらったからなんよ」
 ユミコの軽い非難には、なぜだかかえってほっとさせられたよ。おかしなもんだな。
 「ほんとごめん。またいつかみたいに、きょうだい? なんて聞かれたくなかったからさあ」

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