緑の空 − 少年のまなざし −
中学校のベランダで、隆史は独り手すりに寄りかかり、グラウンドを見下ろしながら考え事をしていた。トラックの白いラインを目に焼き付くほどみつめながらも、隆史には何も見えていなかった。昼休みの教室のざわめきも耳に届いてはいるものの、それもまったく意識になかった。
「清水、どうした。五月病か?」
不意に背後から声をかけられ、隆史はハッとしてふり返った。
声の調子には、軽いからかいの響きが含まれている。クラスメイトが気づかいから声をかけたわけでない事は分かっていた。隆史があいまいに笑いながら首を振る間もなく、声の主は背を向けて窓から離れて行った。
新学期が始まってから、そろそろひと月半が過ぎようとしている。隆史がいつもこんな調子だとみんなはもう知っているので、こうして独りでいても今では誰も気にかけない。
クラス内では、気の合う者同士で数人ずつのグループが出来始めている。休み時間の教室も、入学当初とくらべるとかなりにぎやかになった。
考え事を中断された隆史は、手すりに背をもたせて窓越しに教室を眺めている。
だが隆史だって、いつもこうして独りでいるわけではなく、特にさっき声をかけてきた岡本とは、席が前後という事もあってよく話もするし、冗談を言ったりからかい合ったりする時もある。しかし、なぜかみんなのようにどこかのグループに加わり、その中ではしゃぐという気にはどうしてもなれなかった。
(慌てる事はないさ。きっと僕は新しい環境に慣れるのが、ひとよりちょっと遅いだけなんだ)
隆史はまた教室に背を向け、グラウンドを見下ろした。こうして独り考え事にふけるのが周囲に近寄り難い印象を与えているという事を、隆史はまだ自覚していなかった。
グラウンドでは、数人の男子生徒がサッカーボールを追っている。その中の一人が、駆け回りながらかん高い奇声を発しておどけている。
(なんだあいつ、大声張り上げて)
高い所から見下ろしていると、人はなんとなく冷淡になる。隆史も例外ではない。
(まるで小学生じゃないか)
隆史は無意識に片手をズボンのポケットに突っ込んだ。そして指に触れた丸い物を、重みを確かめるように軽く曲げた指で包み、親指で何度もひっくり返す。
(まったく、未だに小学生気分でいるんだから。あいつきっと、バスも電車もまだ小人料金だぞ。……小学生か。僕も去年はあんなふうだったのかな)
隆史は片手をポケットから出し、目の前で指をゆっくり開いた。
手のひらの上には、丸く平たい石がそっとのっている。それは川原の石のようになめらかで、くすんだ濃い緑色の中に、ところどころ細い絹雲のような白が混じっている。
ほんのしばらくの間、隆史は手の中の石をみつめていたが、小さくため息をつきながら、石をまたポケットにそっと戻した。
(……あれからちょうど一年か。もう一年にもなるんだ……)
再びグラウンドの一点に目を据えた隆史には、もう駆け回る生徒達の姿も目に入らず、教室のざわめきさえも遠のいていった。
2 みどりの日
その年のゴールデンウィークは好天にめぐまれ、行楽地はどこも大混雑していた。隆史が家族と出かけた山の湖も、例外ではなかった。
「ねえ、今度はあの船にのるんでしょ?」
弟の裕史がはしゃいだ声をあげた。
「そうよ」
母が短く答えた。どこもかしこも人だかりで、両親は早くも疲れ始めた様子だ。
「なんだ、もう元気になったのか。ロープウェイでは目をつぶって声も出なかったくせに」
はしゃぐ裕史に向かって、父がからかうように言う。
「船ならこわくはないのか。船だって安心出来ないぞ。これだけ大勢乗るんだ、重すぎて沈んだらどうする?」
そう言って笑う父に、裕史はふり返ってちょっとふくれっ面をしてみせると、もう駆け出していた。
(もしぼくがあんなふうにからかったら、けんかになるところだ)
隆史は思った。
(あいつにはじょうだんも通じないんだから。すぐむきになってかかってくる)
裕史は小学校三年生で、隆史とは三つ違いになる。
(もう少し年がはなれているか、あるいは妹だったら、けんかにはならないんだろうけどなあ……)
そんな事を考えながらも、隆史は裕史と一緒になって駆け出していた。
風に湖面はさざ波立ち、対岸の山々は映らないが、水の青の鮮やかさに隆史は満足した。
(こんな色なら、原色の遊覧船も似合うよな)
遊覧船に乗り込むと、船が動き出す前から隆史はあちこち駆け回っていた。
「下の甲板のへさきのほうに行くぞ」
隆史は裕史に声をかけると、返事も待たずに人をかき分けながら階段へ走った。
ロープウェイでもそうだったが、隆史は年下の裕史以上にはしゃいでいるようだ。それはたぶん、自分が子どもで通用するのも今年で最後だと、なんとなく感じているためだろう。
『来年は、隆史も大人料金だな』
切符を買う時に父がなにげなく口にした言葉が、ふと頭に浮かんだ。
(小学生から中学生になるのに、そんなに変わるものなのかなあ)
船のへさきが波を切り裂き、白い泡がわき起こるのをみつめながら、隆史はぼんやり思った。
隆史はもう駆け回らずに、白波の流れの見えるこの場所に落ち着いていた。裕史も隆史のわきの下にもぐり込むようにして、手すりの間から波をのぞき込んでいる。
湖を縦断した船は、対岸の船着き場に接岸した。船を降りると、そこは駐車場を兼ねた小さな広場になっており、正面にはみやげ物を売る店が軒を連ねている。
同じ船から降りた人達はみな思い思いに散って行き、下からわき起こるようなざわめきも徐々に遠のいた。これでようやく足がしっかり地に着いたようだと隆史は思った。
(そろそろ、みんな帰り始める時間なのかな)
車が数台続けて広場を出て行き、団体客を待っているらしい観光バスがいっせいにエンジンをかけた。
そのバスの向こうに、小さな水族館があるのに隆史は気付いた。
「あそこの水族館にちょっと行ってみようよ」
すると父と母が同時に答えた。
「もうそんな時間ないぞ」
「隆史のちょっとは何時間にもなるじゃないの」
「……バスの時間は?」
すでに数人が列を作っている向こうのバス停に目をやりながら、隆史は父にたずねた。
「あと十五分くらいで来るだろう」
「じゃあ、あの入り口のとこにある水槽だけ見てくるよ。それならいいね」
隆史は早口で言いながら、もう駆け出していた。
水族館の入り口前に据えられたその水槽は、湖で普通に見られる平凡な淡水魚が泳ぐだけだった。それでも隆史は、しばらくの間熱心に珍しくもない魚に見入っていた。
水槽の向こう側を、水族館から出て来た人達が横切って行く。水を透かしているために、その誰もが淡い緑色に見えた。
(そうだ!)
隆史は何か思い付いて水槽の向こう側へ回った。もう魚は眼中にない。水槽越しに、緑色に染まった風景に見入っているらしい。
(車も向こうの店も、みんな水にしずんで緑色だ。ああ、あの船まで……)
西に傾きかけた午後の陽射しに照らされ、何もかもが明るく鮮やかに見える。一列になって広場を出て行く観光バスの窓が、次々に緑色に輝いた。
知らず知らずのうちに、隆史の額と鼻の頭は水槽のガラスに付いていた。
隆史は幼い頃から、緑という色がとても好きだった。何かを買う時でも、何かもらう時でも、緑色の物があれば迷わずそれを選んだ。
『小さい頃にね、ドロップを買ってあげたら、緑色のドロップが出るまで缶を逆さに振り続けていたのよ』
と、いつか母が笑いながら話してくれた。それはちょっと憶えていないが、今だって同じようなものだ。隆史がメロンシャーベットやクリームソーダが大好きなのは、やはり緑色をしているのが理由なのだから。
ガラクタのような物を集めるといった事は、どんな子どもにもあるものだろうが、隆史はそれも徹底して緑色にこだわっていた。緑色のビー玉、緑色のボタン、緑色のプラスチックのプッシュピン、海で拾ったガラスのかけら、ビンのふたに、古いボードゲームの駒やコイン……。
さすがに今ではガラクタ集めはしていないが、はさみやふでばこといった文房具は、やはり緑色の物ばかりをそろえている。
弟の裕史が生まれる時も、三才の隆史はこんな事を言ったそうだ。
『いもうとだったらいいな。ねえ、いもうとだったらみどりってなまえにしようね』
裕史も大きくなった頃、その事が家族の間で話題になると、ふくれっ面の裕史をよそに隆史はまた同じような事を口にした。母は黙っていたが、父は冗談口調でこう答えた。
『そうだなあ、妹より、もしお前達に姉さんがいたら、みどりって名前にしたんだがなあ。そしておまえをすすむって名前にして、裕史はわたるって名付けるんだ。緑、進、渡で交差点の横断歩道だ、ハッハッハ……』
あまり真剣になって言う事ではないと隆史も気付き、一緒になって笑った。そしてそれきり、そんな事は二度と口にしなかった。
額が冷たくなってきた。水槽に額を押し当てている事に隆史はようやく気付くと、少し身を引いて頭を上げた。
その時初めて隆史は気付いた。向こう側から同じように、水槽をのぞき込む少女がいる事に。
少女はやはり額をガラスに付け、両ひざに手をついて軽く前かがみになり、わずかにうつむいている。長めの髪が肩から腕にかかっている。年は隆史と同じくらいだろうか。水を透かして、顔も白い服も淡く緑色に染まって見えた。
不意に少女はかすかに身を引き、ガラスから額を離して顔を上げると、隆史の顔をまともに見た。少女は口もとにかすかに笑みを浮かべている。
隆史は身を起こし、とまどう時のくせで片手をえりに持っていった。すると少女の方も立ち上がり、ひざの上に置いていた手を上げてえりに触れた。口もとの笑みが顔いっぱいに広がってゆく。途端に、おかしさをこらえきれなくなったというように、声を立てて笑い出した。
(そうか。ぼくのまねをしてたんだ)
隆史はようやくそう気付いた。自然に笑みが顔に浮かんだ。初めて会ったこの少女に、隆史はずっと前からの友達であるかのような、不思議な親しみを感じた。からかわれたという不快さはまったくなかった。
やがて、ようやく笑い止んだ少女は、水槽を回ってこちらへ歩いて来た。今度は隆史がそれをまねてみせ、鏡像のように水槽をはさんで歩き出す。
水槽の西向きのガラスはまともに太陽に照らされ、鏡のように光っている。背後にある湖が、西陽に輝くさざ波が、まるで四角く切り取られて水槽の枠にはめ込まれたようだ。
隆史はほんの一瞬、水槽の面に映ったそのまばゆい光景に目を奪われた。が、すぐまた水槽の向こうに意識を戻すと、ガラスに顔を近付けた。そうして自分の影の中に水槽の向こう側を透かし見たが、そこにはもう少女の姿はなく、ただ人気のない水族館の入り口が緑色に沈んでいた。
3 五月
帰途につく頃には、隆史はその少女の顔も笑い声も忘れていた。身動きもとれないほど混雑した列車に、二時間以上も揺られていたのだから無理もない。ただ、少女の親しげな印象だけは心のどこかに残っていて、誰もが不機嫌に黙り込む満員列車の中で、隆史一人がおだやかな満ち足りた表情を浮かべていた。
それからいく度か、外出のない日曜日が過ぎた。父も母もあの帰りの列車にこりたらしく、休日もほとんど家から出ずに過ごしていた。裕史でさえ、たまに家の前の道で一輪車の練習をするくらいで、あとはずっとゲームに熱中している。両親の出無精にすっかり感化されたようで、隆史が紙飛行機を飛ばしに河原へ行こうと誘っても、テレビの前から離れようとはしなかった。
この日は五月最後の日曜日だった。朝方の雨模様から一転して午後には青空が広がり、汗ばむくらいに強く陽が射すと、隆史はもう家の中でじっとしてはいられなかった。
(もうすぐ梅雨だし、そうなるとしばらくは飛行機を飛ばしに行けないもんな)
隆史は裕史を誘い出すのをあきらめると、紙飛行機を持って一人で家を飛び出した。
紙飛行機といっても、これは折り紙で作ったものではなく、子ども向けの雑誌にのっていた競技用紙飛行機の型を写しとり、図工の時に余った緑色の厚紙で作ったものだ。
この紙飛行機を飛ばすため、隆史は河原まで何度か出かけていた。とはいえ自転車で三十分以上もかかるので、そうたびたび行くわけにもいかなかったが。
その自転車がまた変わっている。曲がって上に突き出したハンドルの左右のグリップの間に、一本の糸が張られている。糸の真ん中には緑色のせんたくばさみが吊り下がり、糸に通した小さなボタンが、せんたくばさみを左右から押さえて中心から動かないようにしている。このボタンも濃い緑色だ。これは大切な紙飛行機を壊さないように運ぶため、隆史が自分で考案した仕掛けだ。
紙飛行機の重心の辺りをせんたくばさみではさむと、隆史は自転車をスタートさせた。紙飛行機は機首を上に向け、風を受けて揺れている。
(ひさしぶりだな、河原まで行くのは。いつもグラウンドでばかり飛ばしてたもんな)
河原まで行けない時には、近くの公園か学校のグラウンドへ行っている。だが公園は狭いうえに小さな子ども達が多いので、思いきり紙飛行機を飛ばすというわけにはいかない。学校のグラウンドは広いのはいいのだが、隆史はここもやはり気に入ってはいなかった。グライダーの形に翼がすらりと伸び、緑色をしたこの紙飛行機を飛ばすには、やはりそれが似合う場所でなくては、と考えていたからだ。
交差点を左に曲がると向かい風になった。するとそれまで機首を上に向けぶら下がっていた紙飛行機は、風になびいて前を向いた。まるで隆史の胸の前を飛ぶように。
(よし、このまま河原まで飛んで行こう)
隆史は上体を低くして、ペダルを踏む足にいっそう力をこめた。
河原に着くと、最後の勢いでなんとか堤防の坂道を上りきり、隆史は大きく息をついた。紙飛行機を取って自転車から降りると、そのまま草の斜面に座り込んだ。
(ああつかれたあ。やっぱりここまで飛び続けるってのは無理だ。飛び続けるどころか、失速してる時のほうが長いくらいだもんな。信号で止まるのはまあしかたないけど)
隆史の言う「失速」とは、風の勢いが弱まって紙飛行機が上を向いてしまう事だ。気を抜いたり疲れたりしてペダルを踏む力がゆるめば、紙飛行機はすぐに「失速」してしまう。
息切れのした隆史は、堤防の斜面に足を投げ出して座り込んだまま、まだ肩で息をしている。
時おりかん高い音が聞こえてくる。野球の練習をする人達の金属バットの音だ。少し離れた所に架かる橋からは、車のざわめきが絶えず耳に届き、クラクションも時おり聞こえてくる。
耳ざわりなようだが、隆史はこれらの音がわりと気に入っていた。河原へ来ればいつも聞こえる音でもあるし、それに遠くから届く音は河原の広がりを感じさせてくれるからだ。
隆史は自然に目をつぶり、周りの音に耳を澄ませていた。
風が吹くたび、草のそよぐ音が周囲からわき起こる。向こうの野球の練習場からは、バットの金属音に混じって間延びしたような掛け声もかすかに聞こえる。さっきまで突き上げるようにして首すじから耳に届いていた胸の早い鼓動は、いつの間にかおさまっていた。
隆史はいきなり立ち上がると、そのままの勢いで紙飛行機を空へ向けて真っすぐ投げた。紙飛行機は放物線を描いて飛ぶと、堤防の下のほど遠くない所に落ちた。
競技用の紙飛行機を模したのならもう少し飛んでもよさそうなものだが、こんなものだと隆史はあきらめている。隆史は堤防の草の斜面を駆け下りると、紙飛行機を拾い上げた。
(飛ばす事よりも、色や形の事ばかり考えながら作ったからなあ。勝手に機体を細くしたりつばさを長くしたのが、すぐ落ちる原因だろう)
隆史は拾い上げた紙飛行機を、その場所からまた飛ばした。今度はもう少し遠くまで飛ぶと、青草の上へ滑るようにそっと降りた。空高く舞い上がって旋回するなどという事はまず無理だと分かっているので、隆史はこの程度でも充分楽しんでいた。
拾い上げたその場から飛ばすのを何度も繰り返すうち、隆史は野球の練習場の近くまで来ていた。
五十メートルほど向こうに緑色のネットが張られている。そのネットの所に、野球の練習を見ているらしい人影が一つ、緑色の中に白くぽつんと見える。隆史にはそれがなんとなく気になって、紙飛行機を手に持ったままネットの方へ近付いて行った。
(きっと、あの子だ)
河原が湖のほとりを思い出させたのか、緑色のネットに囲まれた練習場が水槽を連想させたのか、それは分からない。けれどもとにかく、白い服の後ろ姿を遠くに見付けた瞬間、隆史はあの時出会った少女の事を思い出していた。
(まちがいない、あの子だ)
こんな所で再会するという偶然はそうあるものではないと、いつもの隆史なら冷静に考えるだろう。しかし、今はありうる事だとすんなり信じる事が出来た。それどころか、これがめったにない偶然だという事にすら気付いていないほどだ。今の隆史には、あの子になんと言って声をかけようかという事しか頭にないようだ。
声の届くほどの距離まで近付いて、隆史は立ち止まった。声をかける事はさすがにためらわれた。人違いのはずはないと確信していたものの、だいいち名前も知らないのだ。
白い少女は緑色のネットの向こうで、あい変わらずこちらに背を向けている。十メートルほど距離をおいたまま、隆史はかなり長い間立ちつくしていた。
(せめてふり返ってこっちを見てくれたら声をかけやすいんだけど……)
その瞬間、少女が体ごとふり返った。突然の事に隆史は息をのんだ。間違いなく、あの時水槽越しに会った少女だった。ただ少女の方は隆史に気付いたのかどうか、距離があるうえネット越しなので、表情までは見てとれない。
最初のひと声をのみ込んでしまったようで、隆史は声が出せなかった。首すじがどきどきする。耳がかっと熱くなる。
どうしようかと考える間もなく、隆史はとっさに少女に向けて紙飛行機を投げていた。紙飛行機は少女と隆史のちょうど真ん中辺りにそっと降りた。
なぜそんな事をしたのか、隆史は自分でもよく分からなかったが、とにかく紙飛行機を拾おうと思い、ネットの方へ歩いて行った。
かがみ込んで紙飛行機を拾い上げると、隆史は少女に視線を戻した。いつの間にか、少女はネットのこちら側に立っている。
(? ……ああそうか、ネットを持ち上げてくぐったのか)
少女がこちらへ歩いて来た。見憶えのあるその顔に、あの時と同じような親しげな笑みを見てとると、隆史はふっと気が楽になった。
「やあ」
ごく自然に明るい声が出た。少女も笑みを浮かべたまま口を開いた。
「おどろいた、やっぱり半魚人くんかあ」
会ったばかりの少女にいきなりそんな事を言われ、隆史はめんくらって聞き返した。
「半魚人?」
「だってあの時、水槽にひっついてじいっと魚を見てるんだもん。わたしが反対側からのぞきこんでもぜんぜん気が付かないで」
そう言うと少女は、あの時の事を思い出したように声を立てて笑い出した。
会ったばかりの時から親しげなこの少女に、隆史もすっかりうちとけていた。こんな事は隆史にしては珍しい。
二人はごく自然に肩を並べて歩き出した。隆史はもうてれも気おくれもなく、少女に気軽に話しかけていた。
「それであの時、ぼくのまねをしてからかったりしたわけか」
「フフフ、ごめんね。でもおかしかった。目を見開いて口をポカンと開けて、水槽にぴったりくっついてるんだもん。ほんとに半魚人みたいだったよ」
「そうだったかなあ」
「自分じゃわかんないでしょうね。ほんと、ずいぶん熱中してたみたいだけど、そんなに魚が好きなの?」
「ちがうよ!」
思わず大きな声を出してしまった。隆史はちょっときまりが悪くなって、笑いながら話をそらせた。
「家はこの近くなの?」
「えっ? ええ、わりと近いけど」
「ぼくの家はちょっと遠いんだ。なんキロくらいあるかなあ。自転車で三十分以上もかかるんだ」
「自転車で? 一人で来たの?」
「うん。これを飛ばしにね」
隆史は紙飛行機を持った片手を上げて、飛ばす格好をしてみせた。
「きれいな飛行機ね」
「ぼくの自作だよ」
「ちょっと貸して」
そう言うと少女は、まるでかすめるように隆史の手から紙飛行機を取ると、真っすぐ前へ向けて飛ばした。いきなり大事な紙飛行機を取られても、隆史は不満に思わなかった。それどころか、逆にいくらか得意な気持ちにさえなっていた。
少女は駆けて行って紙飛行機を拾うと、追い付いた隆史に手渡しながら言った。
「これを飛ばすために、わざわざここまで来ているの?」
「たまにね。いつもは近所で飛ばすんだけど、家の近くにはこの飛行機に似合うところがなくってさ」
ひとに話せば笑われそうな、こんな事まで隆史は口にした。少女も小さく笑ったが、それは共感を含んだやわらかな笑いだった。隆史は安心した。
「わたしもこの河原が好き。……でも不思議。すごい偶然ね。あんな遠いところで会って、そしてこんなところでまた会うなんて。こんな事ってめったに起こらないよね。すごいと思わない?」
すごいすごいと言いながらも、少女はどこか平然としているように隆史には思えた。隆史は無言のまま、うなずくだけの返事をした。
しばらく隆史は少女の横顔をみつめていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「名前は?」
女の子に名前をたずねる事への気恥ずかしさから、いく分ぶっきらぼうな口調になった。けれど少女はそんな事は気にもしないで、明るく言った。
「当ててみてよ。あとでわたしも当ててみせるから。なんだと思う?」
隆史は思った名前をあえて口にせず、わざと平凡な名前を挙げた。そのたびに、少女は違うと首を振る。そんな事を繰り返しながら、隆史はなんとなくほっとしていた。
「あともう一回。これで当たらなかったら負けだからね」
仕方がない。隆史はためらいがちに、思っていた名前を最後に言った。
「みどり……さん?」
「ピンポーン。さすがあ」
隆史は驚き、そしてうろたえた。思わず立ち止まってしまうほどに。
隆史は心のどこかで、少女の名がみどりであってほしいと願っていた。しかしいざそれが現実となると、なんだかおそろしいような気さえした。
そんな隆史と対照的に、少女はすごいすごいと無邪気に驚いている。隆史の気持ちも、それにつられてじきにほぐれた。
「すごいね。最後によく当てたねえ。でも、あれだけたくさんの名前を言ったんだからあたりまえかな」
二人はまた歩き出した。どうしてみどりだと思ったのかと少女にたずねられる前に、隆史は急いでこう言った。
「じゃあ、今度はぼくの名前を当ててみなよ」
少女はいかにも考え込むといったポーズをとってみせると、からかうような口調で言った。
「うーん、半魚人くん」
「またあ。もうそれは言わないでくれよ」
「フフ、わかったわよ、たかしくん」
「!」
隆史は今度は息も止まるほど驚いた。再び立ち止まり、どこかに名前が書かれていたかと自分の体をあちこちさぐり始めた。そんな隆史の反応を見ながら、おかしそうに少女は言った。
「超能力よ」
「まさか。……ほんとに?」
「ほんというとね、あの時聞いてたんだ。水槽のところでたかしくん、大きな声で名前を呼ばれたじゃない」
確かにそうだった。あの時、少女が消えた後、隆史はしばらく水槽の前に立ちつくしていた。そんな隆史に、遠くから父が声をかけたのだった。
『おーい、隆史。ほらバスが来たぞ。早く来い』
それを思い出して、隆史は納得した。
「なあんだ、そうか」
隆史は安心して、また歩き出した。
(まったく、今日はこの子に何回おどろかされただろう。……そうか、お父さんがぼくを呼んだのを聞いていたのか。でも、いったいどこで?)
隆史がそれをたずねるより先に、少女の方がたずねた。
「たかしくん、なにたかしっていうの?」
「清水隆史」
「わたしは小沢みどり。おんなじね、二人とも名字と名前が三文字三文字で六文字だ」
「ほんとだ」
こんなささいな共通点を見付けただけで、二人は顔を見合わせて笑った。
いつの間にか、二人は堤防の上まで来ていた。ふり返れば河の流れが、眼下にゆったりと広がって見える。
「なんだかあの湖と似てるね」
隆史が思ったそのまま同じ事を、みどりが言った。
太陽は早くも西に傾きかけ、その光を浴びて川面が輝いている。短い日曜日の午後が暮れようとしていた。
「そろそろ帰らないと」
気は進まないが、もう帰らなければならない時間だ。隆史は時計を持っていないが、帰る時間は分かっていた。
「土手の上から見て、河が光り始めたら帰る事にしてるんだ。そうすれば、日が暮れる前に家に着くから」
「おもしろい。清水くんらしいね」
会ったばかりだというのに、みどりはこんな事を言う。
二人は向こうに止めてある隆史の自転車の方へと、堤防の上を歩いた。
「ねえ、さっきはどうして、急に大きな声でちがうなんて言ったの?」
「えっ?」
「ほら、さっきわたしが聞いたじゃない。そんなに魚が好きなのって。そしたら清水くん、ちがうよって大きな声で言ったでしょ」
「ああ、あれか」
隆史は頭をかきながら笑った。
「魚がきらいってはずはないよね。あんなに熱心に見てて」
みどりは首をかしげる。
「それとも、わたしが清水くんの事を半魚人なんてからかったからおこったの?」
「そういうわけじゃないんだけど……」
隆史はちょっと迷ったが、みどりには素直に打ち明ける気になった。
「あの時はさ、魚を見てたっていうより、遠くの景色を見ていたんだ。水槽越しに見るとなんでも緑色に見えるから。それがすごくきれいだったからさ、だから思わず見とれていたんだ」
「ふうん」
みどりは感心したように隆史をみつめながらうなずいた。
「そんなに緑が好きなの?」
「え? ……う、うん」
どぎまぎして、隆史は口ごもった。そんな事などまったく気にしない様子で、みどりは続けた。
「そう。じゃあ、緑の空を見た事ある?」
「緑の空?」
けげんな顔で隆史は聞き返した。
「うーん、セロファンとかを通してなら見た事あるかな。あとは、たとえば池に映すとか……」
「ちがうちがう。そんなんじゃなくて、何も使わないで自分の目だけで見るの。こう緑に大きく広がる空を」
そう言いながらみどりは立ち止まり、伸ばした両腕を大きく回した。隆史はあらためて空を仰いだ。
朝方の雨が信じられないような青い空だ。わずかに残る雲も真っ白なわた雲で、雨の名残はみられない。河原の草もすっかり乾き、かすかな風にもそよいでいる。
「緑の空、見たい?」
みどりにそうたずねられ、隆史は何かをのみ込むように大きくうなずいた。
「うん。でもどうやって……」
「かんたんよ。まず軽く目をつぶって」
隆史は言われるまま目をつぶった。みどりが何を考えているのか見当もつかなかったが、そのためいっそう真剣な気持ちになった。みどりは両手を後ろから隆史の肩に置き、体を西に向けさせた。
「そのまま太陽に顔を向けて。目開けちゃだめよ。うす目もね」
まぶたを突き抜けて目に届く光が、真っ赤に見える。まるで目の底に染み付いてしまいそうな赤だ。隆史は何も考えず、ただ目の中を赤く染めながら、みどりの次の指示を待って耳を澄ませた。
しばらくの間、みどりは隆史の肩に両手を置いたまま、ずっと無言だった。
こうして静かに立っていると、それまで意識しなかった遠い車のざわめきが、それまで気付かなかったかすかに吹く風が、はっきりと感じとれる。太陽の暖かみも、陽射しを顔に受けて今初めて気付いた。隆史は意識をはっきり持ったまま眠っているような、ゆったりとおだやかな気分になっていた。そのうちに隆史は、自分の体が立っているのか横になっているのかさえ分からなくなった。
「もうそろそろいいかな」
みどりがくるりと隆史の体の向きを変えた。隆史にはかなり長く感じられたが、実際には一分ほどしか経っていない。
「さ、目を開けて」
みどりが肩を軽く叩いたのを合図に、隆史は目を開いた。すると間近にいるみどりと視線が合い、隆史は何度かまばたきをして視線を空へ向けた。
始めのうち青く見えた空に、にじむように、わき出すように、緑色が広がってゆく……。確かに、視野いっぱいに広がる空は緑色だった。隆史は長いため息をもらした。まばたきを忘れていた。
「すごいでしょ。今この緑の空を見上げているのは、きっと世界中で清水くん一人だけだよ」
みどりの言葉にも、隆史はうわの空だ。
空から浮き出すように、ぼんやり光るように見えていた緑色も、やがて薄れた。いつそうなったのかはっきり分からないうちに、空はもとの青い色に戻っていた。隆史はまた長いため息をついて、ゆっくりとみどりに視線を戻した。
「あれ……、あんなに緑で……。ほんとうに見えたよ、緑の空」
うまく言葉が出てこない。隆史はすっかり圧倒された様子だ。みどりはそんな隆史を見ながら、ただ嬉しそうに笑っている。
「でも、どうしてあんなふうに空が……」
言いかけて、慌てて隆史は口をつぐんだ。なんだか聞いてはいけない事のような気がしたからだ。隆史は質問を変えた。
「小沢さんには、緑の空が見えるの?」
「あたりまえじゃない。だから清水くんに教えてあげられたのよ。でももしかしたら、わたしよりも清水くんのほうが、緑の空をはっきり見ているのかもしれないね」
「そう?」
「清水くんがどんな空を見ているのかわたしにはわからないけど、そんな気がするな」
「見ようと思えばいつでも見れるの?」
「太陽が出ていればね。それから、やっぱり青空じゃないと」
「どうして?」
隆史はうっかり聞いてしまった。
「青は緑のなかまだからよ。もちろん赤も大事ね」
みどりはこんな不思議な答えを返した。しかしそれで充分だった。それ以上の事を隆史は聞きたくなかった。目の錯覚だとか、そういった類いの理由で、ただそう見えるだけだと言われるのがこわかったからだ。
まだぼんやりと立ちつくしている隆史の背中を、みどりがポンと押した。
「ほら、もう帰るんじゃなかったの? 家に着くまでに暗くなっちゃうよ」
「あっそうだった。……また会えるかな」
ためらいがちに、隆史は一番の気がかりを口にした。
「もちろんよ」
事もなげにみどりは答える。
「ここへ来ればね。天気がよければ、休みの日はたいていここに遊びに来るから」
それを聞いて隆史は安心した。
「よかった。それじゃ、またね」
「ちょっと待ってよ。自転車のとこまで行くわよ」
みどりも隆史と並んで歩き出した。堤防の上の二人の影が長く伸び、驚くほど遠くに落ちている。
隆史が自転車のせんたくばさみに、来る時と同じように紙飛行機を留めるのを見て、みどりは笑った。
「変わった事するのね。清水くんってほんとに不思議」
隆史は笑いを返すと、いつでも会えるという気楽さから簡単に別れを告げた。
「じゃあ、また」
「またね、バイバイ」
堤防の下に続く下り坂を、隆史は一気に滑り降りて行った。
次の章へ