緑の空 − 少年のまなざし −


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     4 梅雨

 帰り道、自転車をこぎながら隆史は、今日の午後に起こった出来事を順番に思い返してみた。湖の少女との再会、その子の名前、そしてあの、緑の空。素晴らしい驚きの連続だった。思い返すうちに再びあの時の興奮が込み上げ、胸の中に満ちてゆく。
 (緑の空……。あんなすてきな事が、今のこの世の中にも起こりうるんだ。なんてすてきなんだろう……。あんな不思議な事が、ぼくの身の上に現実に起こったなんて。ああ、ほんとうに不思議だ……)
 『清水くんってほんとに不思議』
 みどりの最後の言葉を隆史は思い出した。
 (不思議なのはあの子のほうだ。おどろくような事ばかりで。それに、あんなにすぐともだちになれるなんて……。あの子となら話が合いそうだな。なんだかいつもぼくと同じ事を考えてるみたいだったし)
 隆史はみどりの言葉を一つ一つ思い返した。
 『わたしもこの河原が好き』
 『おんなじね、二人とも名字と名前が三文字三文字で六文字だ』
 『なんだかあの湖と似てるね』
 『そんなに緑が好きなの?』
 (ほんとうに不思議な子だ。みどり……、小沢みどり……。いったいどんな子なんだろう)
 あまりに思いがけない事がいろいろとあったので、隆史はなんだか長い旅行から帰ったような気分になっていた。

 家に着くと、もう薄暗くなりかけた家の前の道で、父と裕史がキャッチボールをしていた。ゲームに飽きた裕史が、隆史がいないものだから父を無理に引っ張り出したのだろう。
 まだ興奮のおさまりきらない隆史は、二人に向かってはずんだ声をかけた。
 「ただいま」
 「ああお帰り。おい裕史、もうおしまいにしよう」
 そう言うと、父は背を向け玄関へと歩いて行った。そっけなく、また少し疲れた様子の父の態度に、隆史はなんとなく興をそがれたような気がした。
 ボールを持った裕史が父に続いた。隆史も紙飛行機を自転車からはずすと家に入った。今度のただいまの言葉には、さっきのようなはずんだ響きはもうなかった。
 じきに夕食だった。いつもと同じように食事をすませ、いつものテレビアニメを見て、そして風呂に入り、ささいな事で裕史と口げんかをした。こうしていつも通りの日曜日の夜を過ごすうち、隆史の気持ちの昂ぶりは次第に薄らいでいった。
 隆史があらためて河原での事を思い返したのは、ベッドに入ってからだった。
 (ついさっきの事なのに、なんだかずうっと前の事のような気がする)
 日常の生活が同じ事の繰り返しになると、そこからかけ離れた事柄は遠い日の事のように感じたり、あるいは現実感を伴わなくなるという事に、隆史は漠然ながらも気が付いた。隆史は今までの自分の単調な生活を、なんとはなしに悔やんだ。
 しかし同時に、自分の生活の中に新たに加わったものがどれほど素晴らしいものかという事も、今はっきりと実感した。隆史の胸はまた高鳴り始めた。
 (小沢みどり、不思議な子だな)
 隆史はあの少女に、あえて何もたずねなかった。あの少女の事で知っているのは、小沢みどりという名前と、あの河原の近くに住んでいるという事だけだ。しかし隆史にはそれだけで充分だった。そういえば年さえ聞いていなかった。
 (もしたずねたとしたら、こんなふうに答えたさ、きっと)
 『清水くんは? そう。わたしも六年生。おんなじね』
 (いや、ひょっとしたら、何も言わなくたってぼくの年ぐらいわかってたかもしれない。名前だって知ってたくらいだし。……ほんとうに、不思議な子だ)
 隆史は、みどりがクラスメイトのような普通の少女ではなく、何か不思議な存在なのだと信じていた。そう信じていたいという気持ちから、あの時みどりに対して何もたずねられなかったのだった。家族や学校の事などをたずねて、もしも平凡な答えが返ってきたとしたら……。そんな事から失望を受けるのが、隆史はこわかったのだ。
 しかし今では、隆史はみどりが特別な少女だと確信していた。夜は不思議な時間だ。どんな現実離れした事でも、すんなり信じる事が出来る。
 (みどり……、みどりの精……、そんな気がする。みどりの精なんて聞いた事ないけど、あの子にならぴったりだ。……あるいは、風の精シルフ……、水の精ウンディーネ……。水辺のニンフはなんといったかな。池や湖、泉や川にすむというニンフ……。そうだ、たしかナイアドというんだった。水辺のニンフ、ナイアド……。あの湖のナイアドか、それともあの川辺にすむナイアドか、どちらだろう……。どちらでもいいさ。とにかくあの子はニンフなんだ。……ほんとうに、ニンフのようにきれいだったな……。水辺のニンフ……ナイアド…………ニンフ…………ナイアド……)
 夢見心地の意識の中で美しい響きの言葉を繰り返しながら、隆史はいつしか眠りについていた。

 翌日は、梅雨を飛び越えてひといきに初夏になったような天気だった。
 同じ事を考えるのに、夜と朝とではまったく感じ方が違うのはどうしてだろうか。目を覚ました隆史は、昨夜自分が考えていた事を思い出して苦笑した。
 (水辺のニンフ、ナイアドなんて、ずいぶん子どもっぽい事考えてたもんだよな)
 それでもその考えを完全に捨て去る事は、隆史にはやはり出来なかった。
 (でも、あの子がぼくに緑の空を見せてくれたのはたしかだし……。そうだ!)
 隆史は急いで着替えると庭に出た。太陽は東の空に輝き、空はすっきりと青く澄んでいる。隆史はみどりに教えられた通りに軽く目をつぶり、そのまま太陽に顔を向けた。
 (あの子がいなくても、ぼく一人でも見られるだろうか。もしかしたら……)
 あの時はこうして目をつぶっている隆史の肩に、みどりが両手を置いていた。それを思い出して、隆史は少し悲観的になった。
 やがて隆史は目をつぶったまま太陽に背を向け、顔を西空に向けた。そして、おそるおそるといった様子でゆっくりとまぶたを開いた。
 抜けるような青い色を覆って、ぼんやり光るような緑色が視野いっぱいに広がる。それはあの時見た空とまったく同じだった。隆史は安堵のため息をもらした。
 (ああ、ぼく一人でも見える……。やっぱりほんとに見えるんだ。緑の空は本物なんだ)
 やがて緑の色は薄れ、初夏を思わせるような朝の青空が戻った。隆史は満足した様子で大きく息を吸うと、朝食を食べに家に入った。
 (やっぱりあの子は……不思議な子だ)

 残念な事に、次の日曜日は一日中雨が降り続いた。天気予報を見てある程度覚悟はしていたものの、朝目を覚まして窓を見やり、ガラスをつたい流れる雨だれを認めると、隆史はいっそう落胆した。
 午前中、隆史は立ったり座ったりうろうろしたりで落ち着かず、結局何もしないまま過ごしてしまった。
 午後になると、どういうわけか無性に絵が描きたくなり、隆史は裏の白い広告を何枚も引っ張り出してきた。そして、まるで不満のはけ口を見付けたかのように、勢いよく何枚も何枚も描いては部屋中に散らした。隆史は夕方になるまで、ひたすら色鉛筆を紙の上に走らせた。
 母が部屋に入って来た。そして部屋中に散らかった絵を一枚拾い上げると、しげしげと眺めた。
 「へえ、きれいな絵ね。どこかに飾っておこうか」
 「えーっ、広告の裏に描いたただの落書きだよ」
 「せっかく描いたんじゃない。よかったらお母さん一枚もらいたいんだけど。いい?」
 「そりゃ、べつにいいけど」
 夕食の時に階下へ降りて行くと、その絵は階段の途中の壁に画びょうで留めてあった。遠くに山が連なり、その手前に森が広がる風景の絵だ。森の手前は何か描こうとした跡があるが、空白のままになっている。そして空も塗られていない。
 (これだけだとなんだかものたりない。そのうち森の手前に湖でも描いて、空にも色をぬろうか)
 そんな事を思いながら、隆史はゆっくりと階段を降りて行った。

 次の日曜日もまた雨だった。この日隆史は母の買い物に付き合わされ、デパートの中で一日のほとんどを過ごす事となった。
 母は買い物にたいてい隆史を連れ出す。隆史なら何も言わずに荷物を持つからだ。これが裕史だとそうもいかず、決まって荷物持ちと交換条件に何かをねだられる事になる。だからたいていの場合、裕史の役目は留守番だ。この日も裕史は、父と二人で留守番をしていた。
 隆史の方は、留守番よりは出かける方がいいと思っているし、荷物持ちもそう苦にはならないので、気のない返事をしながらも決まって母について行く。荷物持ちは隆史にとっては苦にならないどころか、頼まれ事を引き受けるという意味から、少なからず自己満足しているようなふしもあった。
 しかし、この日ばかりは隆史も買い物に付き合った事を後悔した。
 帰りが遅くなったので混雑は予想していたものの、隆史達の乗ったバスは発車間際になって駆け込んだ人達も加えて身動きもとれなくなり、もう最悪の状態だった。
 「隆史、だいじょうぶ? こんな事ならお父さんに車で迎えに来てもらうんだったね」
 母が言ったがもう遅い。バスは中に詰まった乗客を大きく揺さぶりながら発車した。
 それでなくても雨降りの日のバスは不快だ。濡れた床、曇って露の流れる窓、なまぬるく湿気を含んでよどむ空気。そんな中で隆史はあえぐようにしながら、何か別の事を考えて気をまぎらわそうとした。
 ちょうど目の前の窓ガラスに、「非常口」と赤い文字が横書きされている。隆史はその文字を興味深くじっとみつめた。
 (おもしろいな、この文字。外からだと右から読む事になってしまうけど、文字は左右対称だからどちらからも読めるわけだ。偶然だろうけどうまくできてるなあ)
 その時バスが止まった。信号待ちらしい。隆史は赤い文字から視線をはずすと、なにげなく前を見た。しかし背の低い隆史に見えるのは、重なり合う波のような大人達の肩だけだ。
 その肩の一つに、おもむろに緑色の文字が浮かび上がった。始めぼんやりしていたその文字は見る間に鮮明さを増し、「非常口」とはっきり読みとれるまでになった。
 (見ちゃいけない!)
 隆史はわけの分からない恐ろしさに襲われ、強く目をつぶった。しかしその文字は、まぶたの裏にも鈍く光るように浮かび上がってくる。隆史は頭を振った。こんな文字見てはいけない、見えてはいけないと思いながら。思わず低いうめき声がもれた。隆史が緑色の物をこれほどまでに嫌悪したのは、初めてだった。
 「どうしたの? 酔ったの?」
 母に声をかけられ、隆史は目を開けると弱々しく笑った。
 「ちょっとね。でもだいじょうぶ」
 緑の文字はいつの間にか消えていた。


     5 夕暮れ

 その次の日曜日もまた雨降りだった。
 (六月に入って、日曜はすべて雨降りなんて。いくら梅雨でも今年はちょっとひどすぎる。それとも気にしているからそう思えるだけで、毎年こんなものだろうか)
 隆史はこの頃、天気予報をひどく熱心に見ている。そして最後には決まってため息をついた。予報官の言う「雨」「梅雨」「前線」といった言葉が、日ごとに澱のように心の底へ重く積もってゆくようだった。
 それでも平日には、青空の広がる時もあった。そんな日には、隆史は機会を見付けてはたびたび空を見上げた。あの日みどりに教えられた緑の空を。
 日が経つにつれ、隆史にはみどりの事が、あの河原での出来事が、なんだか遠い昔の事のように思えてきた。あれが現実だったという事さえも、やがては分からなくなるような気がする。
 (この緑の空だけが、あの日の事が現実だったと証明してくれるんだ)
 隆史はみどりの確かな存在を信じたい一心で、何度も何度も緑の空を仰いだ。
 しかし学校ではそんな機会はほとんどなく、朝学校へ行く前か、午後に帰宅してから見るしかなかった。ぼんやり空を見上げているのを、クラスメイトに見とがめられるのが嫌だったからだ。
 彼らはちょっとした事にも好奇心をあらわにして、何をしているのかといちいちうるさく問いかける。けれど母ならそんな隆史を見ても、いつもの事とそう気にはしない。一度だけ夕食の時にたずねられたが、隆史が適当に答えれば軽く聞き流してくれた。
 「今日はずいぶん熱心に空を見ていたけど、どうかしたの?」
 「ちょっとね。前に理科で太陽の動きを習ったから」
 「ああそうなの。ひさしぶりに晴れたものね」
 (クラスのみんなもこうだといいのに。だいたい人の事に干渉しすぎなんだよな。少しほっといてもらいたいよ)
 隆史だっていつもは仲間と一緒に遊ぶし、そんな時は人一倍騒いでいるが、時には独りになりたいとも思った。普段は一緒になって騒いでおきながら、独りになりたい時だけそっとしておいてもらいたいというのは、自分勝手な思いかもしれないが。
 隆史は緑の空の事を、誰にも話したくなかった。みどりは何も言わなかったが、なんとなく他人に話してはいけないような気がしたからだ。だいたい、他人に緑の空が見えるかどうかも疑わしい。
 『今この緑の空を見上げているのは、きっと世界中で清水くん一人だけだよ』
 (あの時あの子はこんな事を言っていなかったろうか……)
 そして何より、緑の空はみどりと自分だけのものにしておきたいという気持ちが、隆史の心のどこかにあった。

 六月最後の日曜日、雨は降ったり止んだりを繰り返していた。隆史はじらされているようで落ち着かなかったが、夕方近くなって雨が上がるととうとうがまんしきれなくなり、出かける支度を始めた。
 玄関で靴をはく隆史に母が目を留め、声をかけてきた。
 「どこに行くの? まだ降るわよ」
 「ちょっと河原まで。すぐ帰るから」
 「よしなさい」
 それを聞きつけて父が出て来た。
 「じゃあ車でちょっと行ってみるか」
 裕史も二階から駆け降りて来た。
 「ぼくもいっしょに行く。いいでしょ?」
 一人だけでそっと行くつもりが、またたく間に三人で行く事になってしまった。
 「ひさしぶりだなあ、日曜に外出するのは」
 運転しながら父が言った。父の横で裕史もうなずく。隆史は後部座席に一人で座って黙っている。
 「でもどうして河原なんかに行くんだ?」
 バックミラー越しに父がたずねた。隆史はミラーの中の父の目を見ずに答えた。
 「ちょっとね。しばらく行ってないから、ちょっと行ってみたいんだ」
 それ以上は父も聞かなかった。
 河原に着いた。隆史は車から飛び出すと堤防の斜面を駆け上がった。裕史も走って追いかけて来る。後ろで裕史が何か言っているのにも気付かず、隆史はみどりの姿を求めて辺りに視線を走らせた。
 「……たの? 兄ちゃん」
 「え? 何?」
 「どうしてひこうき持って来なかったのって聞いてるの!」
 裕史は大声で言った。隆史は紙飛行機の事など、それまですっかり忘れていた。
 「どうしてって、こんなに地面がぬれてたら飛ばせやしないだろ」
 「じゃあなにしにここまで来たの?」
 あきれたように裕史は言うと、ようやく堤防の上まで来た父の所へ駆け戻った。隆史はかまわず河の方へと降りて行く。しかし河原には、みどりどころか人影は一人も見当たらない。
 (やっぱりこんな天気の日には来ないのか。……それとも、お父さんと裕史がいっしょにいるから?)
 自分でも気付かないうちに、隆史は河べりの低い石垣の際まで来ていた。隆史のすぐ足もとを、茶色く濁った水がしぶきをあげながら流れている。
 父と裕史も追い付いてきて、隆史の横に並んだ。父は両腕を振り上げて一度大きくのびをすると、誰に言うともなくつぶやいた。
 「ほう、かなり水量増えてるなあ。こんな激流をボートで下ってみるのも面白いだろうなあ。なあ隆史、カヌーなんてやってみようとは思わないか?」
 「カヌー? うーん、ボートだったらまだこわくないけど、カヌーはねえ……。ひっくり返ったりするでしょ? それにこの河、ちょっときたないよ」
 「もちろんもっと上流に行くのさ」
 隆史は父が本気でこんな事を言い出したとは思っていなかったが、つい真剣になってたずねていた。
 「でも許可とか取らないと、勝手に川下りなんてできないんじゃないの?」
 「まあ、そうかもしれないなあ……。いや、そんな事はないんじゃないか。エンジンがないから免許も要らないし。父さんも詳しい事はよく分からん」
 「それよりぼく、川で泳いでみたいな」
 裕史がそう言うと、父の言葉にはまた熱がこもってきた。
 「それもいいな。よし、それなら夏になったらみんなで行ってみるか、上流の流れのきれいな所へ。なあ隆史、泳ぐのなら許可も免許も要らないぞ」
 そう言って父は笑った。隆史も沈んでいた気持ちが少し明るくなった。
 「おっ、ぽつぽつ落ちてきたぞ。降り出す前に帰ろう」
 父は河に背を向けると足早に歩き出した。裕史が父にまつわりつくようにしてたずねている。
 「ねえ、いつごろ行く?」
 「そうだなあ。まあ、とにかく夏休みに入ってからだ」
 隆史はもう一度河をふり返った。
 (……あの子に会えなかったのはしかたがない。今日はもう帰ろう)
 隆史は足もとの小石を拾い上げ、思いきり水面めがけて投げつけると、二人の後を追って駆け出した。

 それから二日たった火曜日、隆史はまたこの河原に来ていた。
 この日は梅雨明けを思わせるような素晴らしい天気だった。
 (日曜でなくたって、こんな日ならあの子に会えるかもしれない)
 学校でふとそんな事を思うと、隆史はもういても立ってもいられなくなった。放課後急いで家に帰ると、カバンを放り出してすぐに自転車で飛び出した。始めはふとそんな気がしただけだったのが、その頃には行けば必ず会えると確信するまでになっていた。
 堤防を上りきった所で隆史は自転車を止めた。ハンドルを握る両腕の間に頭を沈めるようにして、しばらく荒い息をついた。
 やがて顔を上げて西空を見ると、太陽は早くも傾きかけ、水面もすでに輝いている。
 隆史はそのまま視線を左へ流した。はるか向こう、堤防の上に続く道を、明るい水色の服の少女が歩いて行く。その後ろ姿を認めた時には、隆史はもうつんのめるようにしてペダルを踏み出していた。そして息をはずませながら追い付くと、少女の背中に向かって声をかけた。
 「おーい」
 立ち止まってふり向いたのは、やはりみどりだ。隆史はその横に自転車を止めると、荒い息にとぎれながら言った。
 「ハア……ひさしぶりだね……今日ならきっと……いると思った」
 「清水くん、どうしたの?」
 隆史は言葉を続けられず、自転車を立てて堤防の斜面に座り込んだ。みどりも隆史の横の草の上に腰を下ろした。
 「今日は飛行機は?」
 隆史の荒い息がおさまるのを待って、みどりはたずねた。
 「急いでたから忘れてきた」
 「え? じゃあ何しにここまで来たの?」
 裕史と同じような事を聞くんだなと思いながら、隆史はとまどい気味に答えた。
 「そりゃ、小沢さんに会いたかったから……。だってさ、ほら、ひさしぶりじゃない。日曜は雨ばっかりで」
 「そうねえ。日曜はいつも雨だったね。でも半魚人くんとしてはうれしかったんじゃないの?」
 みどりは隆史の顔をのぞき込むようにして笑った。隆史も顔をしかめてはみたものの、目だけは笑っている。みどりが相手だと、からかわれてもなんだか楽しい気分になってくる。しまいに隆史はふき出した。
 「うれしくないよ、ぜんぜんここへ来れなくて。……でも、今日は会えてよかった」
 今度はてれもせずに、自然に言葉が出た。
 「学校が終わってから来たの?」
 「うん、大急ぎでね。今日は塾がなかったし」
 みどりは西空に向き直った。隆史も遠くに目を向けた。傾きかけた太陽は、見る間に低くなってゆく。細く引き伸ばされたような薄紫の雲の縁が、まぶしいくらいに明るい朱色に輝いている。
 「もうすぐに帰らないと……」
 隆史は小さな声でつぶやいた。そうは言ったものの、どうしても帰る気になれない。隆史の声が聞こえなかったのか、みどりも夕空をみつめたまま黙り込んでいる。
 平日の夕方は、河原の人影もまばらだ。野球の練習も今日はやっていないらしく、いつもの金属バットの音も響かない。橋を渡る車さえも、音をひそめながら通り過ぎて行くようだ。静寂の中で二人は無言のまま、沈みゆく太陽を見送っていた。
 やがて、みどりが放心したように言った。
 「すてきなたそがれねえ。まるでオーボエの音が聞こえてくるよう……」
 隆史は驚いて、夕映えに染まったみどりの横顔をみつめた。オーボエの音、なんて素敵な、なんて美しい夕日の表現だろう。隆史は感嘆の長いため息をついた。
 「オーボエの音色の夕日か……」
 隆史が思わずつぶやくと、みどりが嬉しそうに言った。
 「ね、ぴったりだと思わない? あの色にオーボエの音って」
 「そうだね。夕日の朱色はオーボエの音色、そんな気がする」
 「ねえ清水くん、緑だったらなんの音色?」
 「えっ、えーと……」
 突然そんな事を聞かれて隆史はまごついた。色を音にたとえるなど、隆史は今まで考えてみた事もなかった。
 「緑色っていってもさ、いろいろあるからなあ」
 「だったら思い付く物から順番に言ってみてよ」
 「そうだなあ。……たとえば、針葉樹の林のような濃い緑色は、チェロの音かなあ」
 「なるほどね」
 「それから、菜の花ばたけのような明るい黄緑、これはピッコロの音」
 「うんうん」
 隆史は自分でも驚いていた。考えもしなかったような言葉が、どこからか次々に浮かび上がってくる。
 「それから?」
 みどりも楽しそうに先をうながす。
 「それから、えーと、海草のしげみのような黒い緑色、あれはピアノの低い音」
 「うん、わかる」
 「あとオリーブのような緑色は、コントラバスっていったっけ、ほら、チェロよりも大きいやつ。あれのピチカートの音だ」
 隆史は手振りをまじえながら言った。なんだか本当にその音が聞こえてくるような気がした。
 「それから、砂浜の海のような白く明るい緑色は、リコーダーだ」
 隆史はリコーダーを吹くまねをしてみせた。さまざまな音色が次々に頭に浮かんでくるのが楽しくてたまらず、隆史はすっかり愉快な気分になっていた。
 「だったら、ごくふつうの緑は? 葉っぱのような、このリボンのような緑からは、なんの音が聞こえてくる?」
 みどりは頭に手をやると、リボンをちょっと引っ張ってみせた。隆史はちょっとためらったが、思ったままを言った。
 「うーん、なんだかこの色も、オーボエみたいな音が聞こえるように思うなあ。朱色と同じっていうのはおかしい気もするけど」
 「おかしくなんかないよ。わたしも木管楽器の音にちがいないって思うもの。朱色とこの緑色と、きっとどこか共通するところがあるのよ」
 二人は西の空に視線を戻した。太陽は雲に隠れ、朱色に輝く雲の縁からは、同じ色の淡い光が扇のように広がり、真っすぐ空に伸びている。
 「ほんとにもう帰らないと」
 思いきって隆史は立ち上がった。
 「すっかりおそくなっちゃった」
 「帰ったらしかられるんじゃない?」
 「たぶんね。しかたないよ」
 東の空はもう夜の色だ。隆史が自転車に乗ると、みどりも立ち上がった。
 「わたしも帰ろ。じゃあまた、今度の日曜にね。バイバイ」
 「日曜にったって、晴れるかどうかわかんないよ」
 「晴れるわよ」
 当然のようにそう言うと、みどりは堤防の上の道を歩いて行った。
 隆史はみどりの後ろ姿をしばらく見送った。みどりが不意に消える様子もなく、普通に遠ざかって小さくなってゆくのを見届けると、隆史は向き直って自転車をスタートさせた。


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