緑の空 − 少年のまなざし −


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     6 日曜日

 空もすっかり暗くなった頃、隆史はようやく家に着いた。薄闇の中に、玄関灯が白々と光っている。門のきしみがひときわ大きく響いた。
 今さら急いでも仕方がないという開き直りのような気持ちから、隆史はさして急ぎもせずに帰って来たが、玄関灯の下に立った途端に気持ちが揺らいだ。やはり一分でも早く帰れば良かったと思ったが、すでに手遅れだ。
 「ただいま」
 ドアを開けて隆史は力なく言った。父の靴があるのを見て、隆史はちぢこまるように首をすくめた。
 「どこへ行ってたの、こんな時間まで」
 母が出て来て言った。だが思っていたほどきつい声ではなく、意外と静かな口調だ。
 「ちょっと河原まで……。これでも急いで帰って来たんだけど……」
 「もう少し早く帰るようにしなさい。それから、どうして出かける前に行き先を言っておかないの。それに途中で連絡だって出来るでしょ」
 「はーい……」
 「カバンもこんな所に放ったままで」
 「持ってくよ」
 隆史はカバンを取ると素早く二階へ上がりかけたが、途中で母に呼び止められた。
 「隆史、ちょっと」
 「……なーに?」
 「お父さん、転勤だって」
 「えっ? ほんとに?」
 突然そう言われても、隆史はすぐには信じられなかった。それでもやはり驚きは大きく、隆史は二三段上りかけていた階段から飛び降りた。
 「じゃあ引っ越すの?」
 「いいえ、お父さん一人だけで行くって。短い期間だそうだから」
 「そう……。それで、短い間ってどのくらいなの?」
 「三年くらいになるだろうって……」
 隆史は父の部屋の方を見た。閉じたドアの向こうから、何かを片付ける音が聞こえてくる。その音を聞いて初めて、隆史は母の話が本当なんだと実感した。

 次の日曜日は、みどりの言った通り良い天気になった。だが隆史は河原へは行かなかった。みどりに会いたい気持ちはあったが、それ以上に残り少なくなった父との時間の方が大切だった。
 父の運転する車で、家族そろっての外出。といっても、父の買い物にデパートへ行っただけの事だが。
 この日は隆史はもちろんの事、裕史までもが自分からすすんで荷物を持ったり、何かと手伝いをした。裕史も裕史なりに、父に対して何かしてあげたいと考えているのだなと、隆史は感心した。
 昼には最上階のレストランで食事をした。混み合う時間帯であいにく窓際の席はとれなかったが、そのためにかえって充分におしゃべりを楽しめた。
 父は学生時代の失敗談で三人を笑わせた。
 「……それでそのまま忘れてしまって、気付いた時にはナベの中身はカリカリだ。逆さに振っても落ちやしない」
 父の身振りをまじえた話に、隆史達は大笑いした。
 (こないだの夕食からは考えられないな。こんなに陽気に笑えるなんて)
 あの日隆史は父の単身赴任の話を突然聞かされ、どうしていいのか分からずに夕食の間中黙りこくっていた。父一人が、不自然に明るい声でしきりに何か言っていたようだが、ぼんやり考え事をしていた隆史の耳には、何も聞こえていなかった。
 (とにかく、あの時もやっぱりじょうだんばっかり言ってたな。今みたいに。遅く帰ったぼくの事を、たいしてしかりもしないで)
 隆史には、父の気持ちがいまひとつ分からなかった。
 父は普段から家族の前ではよく冗談を言うが、それにしてもここ数日の父の態度は理解出来ない。家族の手前、無理に明るくふるまっているのか、あるいは本当に単身赴任を気楽に考えているのか、隆史にはちょっと判断がつかなかった。
 「でもあんまりおかしな事しないでよ。学生ならまだしも、その年でそんな調子だと笑われますからね」
 ナベの話でひとしきり笑った後、母がクギをさした。
 「心配はいらないだろう。父さんは同じ失敗は二度と繰り返さない」
 父が解説者のようなまじめくさった口調で返すと、母もまた笑い出した。
 「うそおっしゃい。傘なんかしょっちゅうどこかに忘れてくるじゃない」
 食事も終わりかけた頃、裕史が遠慮がちに父にたずねた。
 「ねえ、川に泳ぎに行くの、今年はむりかなあ」
 「そうだなあ。まあ、なんとかなるだろう。父さんは月に一度くらいは帰って来ようと思っているんだ。だからその時に行けばいいだろう」
 「どこへ行くって?」
 母がたずねた。
 「ああ、母さんにはまだ言ってなかったな。夏休みになったら川へ泳ぎに行こうって、先週二人と約束したんだ」
 「川へ? 川へ泳ぎに行くの?」
 「ああ。日帰りでドライブ……そうか車がないな。父さん車を向こうへ持って行ってしまうからなあ。バスででも行くしかないか」
 「それならレンタカーでも借りればいいのよ」
 「ああ、そうか」
 「そうしようよ。ねえ、四駆でもかりてさ、山のうんとおくまで行こうよ。あっジープもいいな。ほかのひとなんかぜんぜん行かないようなとこまで行ってみたいなあ」
 裕史は身を乗り出して父に言った。
 「ああ、それもいいな」
 「よかったあ」
 裕史は嬉しくてたまらないという表情を浮かべて、クリームソーダのストローをくわえた。裕史のそんな様子を見ていると、隆史はわけもなく優しい気分になった。
 (何も言わずに荷物を持った裕史、お父さんの言葉にすなおによろこぶ裕史、おかしいな、今日はどうしたんだろう……)
 隆史は自分のクリームソーダのサクランボをつまむと、裕史のサクランボの横にそっと並べた。
 「やるよ」
 「えっ、いいの? 兄ちゃん」
 裕史はサクランボ一つの事で大げさに驚いた。父や母までが意外そうな顔をするので、隆史はきまり悪くなってつい言いわけした。
 「緑色のソーダの中にぽつんと赤があるのって、なんか気に入らないからさあ」
 とっさにおかしな事を言ってしまったと隆史は自分でも思ったが、もう気にしない事にして、ソーダを濁らせないよう上のクリームをそっとすくっては口に運んだ。

 この日一日では買い物は終わらず、結局次の日曜日も買い物に行く羽目になった。
 (あーあ、せめて雨でも降ってりゃあきらめもつくのになあ)
 晴れた空を車内から見上げながら隆史は思った。こんな天気の良い日には、さすがにみどりの事が気にかかる。
 (でも、梅雨も明けてこれからはいつだって晴れるさ。そうだ、それにもうすぐ夏休みだ。それなら毎日でも河原へ行ける)
 これからいつでも会えるからと、隆史はつとめてみどりの事を考えないようにした。
 「まったく、お父さんが急に言い出すものだから、ほんとに忙しい」
 助手席で買い物袋を抱えたままの母がぼやいた。後部座席の隆史と裕史も、やはり大きな荷物に埋もれてうんざりしている。
 「もう言うなよ。はっきり決まるまで話したくなかったんだ……。あと一週間、よろしく頼みますよ」
 なだめるような父の口調はやはり冗談めいていたが、隆史はなんとなく痛々しい印象を受けた。

 その一週間はまたたく間に過ぎた。
 出発の日、隆史達は家の前で父を見送った。荷物はすでに送ってしまったので、父の持ち物は小さなカバン一つだけだ。
 「じゃあ行ってくるよ」
 あっさり父は言った。まるでちょっと近所に出かけるような口調だ。
 (お父さんてれ屋だから、ドラマや映画のようにはならないさ。だいたい、永遠の別れでもないんだから、これでいいんだろう)
 父はカバンを助手席に投げると、車に乗り込んだ。開いた窓から父が片手を挙げるのを見て、隆史もえりを触っていた手を挙げると大きく振った。
 「行ってらっしゃーい」
 走り去る車に向かって、隆史は手を振りながら大声でさけんだ。さすがに少しじんとした。
 父の車は、交差点を曲がって見えなくなる前に、赤信号で止まってしまった。
 (まったく、さまにならない別れの場面だなあ)
 三十メートルほど向こうでいつまでも止まっている父の車を見ながら、隆史はにが笑いした。すると、父が窓から顔を出してさけんだ。
 「おーい、隆
たか、裕ひろ、その辺までちょっと一緒に来ないか」
 隆史がとまどっている間に裕史は駆け出していた。慌てて隆史も後を追った。
 しばらくの間、三人は無言だった。隆史は助手席で父のカバンをひざの上に抱え、裕史は後部座席の真ん中から乗り出すようにして前を見ている。
 やがて、父が最初に口を開いた。
 「行ったきりになるわけでもないし、そうだな、少し長い出張とでも思えばいい……。なあ」
 返事を求められて、二人はうなずいた。
 「月に一度くらいは帰って来るよ。そうだ、それよりも、お前達が父さんの所へ来てみないか? 夏休みになったら」
 突然また父がそんな事を言い出すので、隆史は少々あきれた。裕史の方は、すっかりのり気になってはしゃいでいるが。
 「隆史ももう六年生だし、それぐらい出来るだろう。裕史を連れて、寝台車ででも来るといい」
 「そうしようよ、兄ちゃん」
 隆史は裕史のようにははしゃげなかった。川へ泳ぎに行くという話も、寝台車で裕史と父の所へ行く事も、なんとなく実現しそうもないという気がしたからだ。どちらも魅力的な話だが、だからこそそんな気がするのかもしれない。
 それでも、声に明るさの戻った父と手放しで喜ぶ裕史の気をそぐつもりはなく、隆史はこう返事をした。
 「裕史が行きたいって言うんなら行ってもいいよ」
 「そうか。それなら手初めに、ここから二人だけで帰ってみなさい」
 父は車をわきへ寄せて止めた。
 「父さんはそこから高速に入るから、ここまでだ。バスは分かるな、隆史」
 「うん、だいじょうぶ」
 父は隆史のひざの上からカバンを取ると、中から財布を出した。
 「なんならタクシーで帰ったっていいんだぞ」
 バス代にしては多めのお金を父から受け取ると、二人は車を降りた。
 「じゃあ、いってらっしゃい」
 「隆史、こないだのように遅くまで遊んでるんじゃないぞ。もし遅くなってしまったら、せめて家に連絡くらいはする事だ。分かったな」
 隆史は深く何度もうなずいた。
 「おまえ達の通知表を見ずに行くのは残念だなあ。じゃあ、気を付けて帰るんだぞ」
 「お父さんもね……」
 走り出した父の車は流れの中にまぎれると、やがて見えなくなった。
 横断歩道を渡りながら裕史が言った。
 「兄ちゃん、バスで帰るの? タクシーにしようよ」
 隆史もそうしたいと思っていた。せっかくの機会だから、何か思いきった事をやってみたかったのだ。
 「そうしようか。子どもだけでタクシーに乗るなんて初めてだし、おもしろいもんな」
 バスになら、雨の日の塾の行き帰りにたびたび一人で乗っている。だがタクシーに乗るのは、いつだって親が一緒だった。
 「いいか、タクシーが来たらいっしょに手を挙げてくれよ」
 「うん。行き先はぼくが言うからね」
 いくらもたたないうちタクシーが通りかかった。こういう時のために、遠くからでもすぐにそうと分かるようにタクシーは派手なんだなと、隆史はささやかながら新しい発見をした。そのタクシーは空車だった。
 「はーい」
 裕史が手を挙げながら声を出すものだから、隆史はふき出してしまった。
 「返事なんかするなよ。学校じゃないんだから」
 タクシーが止まった。裕史はてれたような、それでいてちょっと得意そうな表情を浮かべて隆史の顔を見上げると、開いたドアから素早く乗り込んだ。
 「春日町三丁目まで行ってください」
 頭からもぐり込むようにしながらそう言うと、裕史はシートの上をはって奥へ進んだ。隆史もその後に続いた。
 運転手は最初に短く返事をしたきり、後はずっと無言だ。隆史は安心した。知らない人にいろいろ話しかけられるのは、どうも苦手なのだ。
 時おり無線機から声が聞こえる。料金メーターが音を立てて変わる。隆史はふとお金が気になってポケットに手を入れた。父にもらった二千円で充分足りるとは思ったが、なんとなく落ち着かない。
 (もしたりなかったら、家の前で待っててもらって取りに行けばいいんだから)
 タクシーは信号にかかって止まった。走行音が静まり、ウインカーの点滅音がカチカチといやに耳につく。運転手が小さく咳ばらいをした。隆史は急に居心地の悪さを感じた。
 (おしゃべりしないのは助かるけど、あんまり静かすぎるのもおちつかないな)
 隆史は横を向いた。窓の下に、車体の色が細くわずかに見える。嫌になるくらい鮮やかなオレンジ色だ。これは中からは見えないが、ドアの所には市松模様の太いラインまで入っている。
 (いくら目立つためだからって、なにもこんなにまでしなくたって……。でも人の好きずきか。ぼくはきらいだけど)
 隆史は緑色を捜して車内をあちこち見回した。しかし気を引かれるような物は何も見当たらない。隆史は視線の置き所を求めて、また外へ目をやった。
 タクシーは再び走り出した。もう家は近い。裕史はと見ると、やはり熱心に窓の外を見ている。裕史の横顔を見ているうちにさっきの事が思い出されて、隆史は込み上げる笑いに口を押さえた。
 (学校で手を挙げる時みたいに、ハーイなんて言うんだもんな。ほんとにおかしな事するよ、裕史のやつは。でも思わずかな、わざとかな)
 こういう面は、裕史は父によく似ていると隆史は思った。父もよくまじめな口調で冗談を言ったり、反対に冗談めいた口調でふと本音を言う事がある。隆史には、未だに父の本当の気持ちがつかめない時がある。
 (お父さん、どのへんまで行ったかなあ。今ごろは高速道路を走っているんだろう……。あっと、そんな事より……)
 隆史は慌てて裕史をつついた。
 「おい、裕史が道を言うんだろ」
 「あっそうだ。えーと、次の角を曲がってください」
 「その角を左です」
 裕史の足りない言葉を隆史がおぎなった。
 「二つ目の角を右に曲がって、そのまま真っすぐ行ってください」
 結局、隆史が道順を告げる事になってしまった。
 「あの赤い郵便受けの門のとこで止めてください。はい」
 お金は充分足りた。二人はタクシーを降りると、なんとなくタクシーが見えなくなるまで見送ってから家へ入った。
 「ただいまー」
 「お帰りなさい。どこまで行ってきたの?」
 「遠くまで。タクシーで帰ったんだ」
 裕史は嬉しそうに、タクシーで帰って来た事を母に報告している。
 (ぼくはべつに楽しくなかったな。なんか緊張しちゃって。裕史はいいさ、けっきょくみんなひとまかせにして。でもぼく一人だったら、もっとくたびれただろうけど。……そのうちぼくもごくあたりまえに、まるで自転車に乗るみたいにタクシーに乗るようになるんだろうか)
 そんな事を考えながら隆史は二階へ上がりかけたが、また途中で母に呼び止められた。
 「あ、ちょっと隆史、あとでお父さんの部屋の物整理するから、手伝ってちょうだいね」
 「ええー。遊びに行こうと思ってたのに」
 「お母さん一人じゃどうにもならないのよ。もうあなたの方がお母さんより力があるんだから、お願いね」
 「はいはい」
 「それからガレージが空いたから、自転車を運んでおきなさいよ」
 「ん、わかった」
 ガレージの扉は、父が出かけた時のまま掛け金がはずれ、半分ほど開きかかっている。
 隆史は裏庭のすみから自分の自転車を持って来ると、ガレージの真ん中に置いた。しかしそれだけでは気がすまず、隆史はガレージの虚ろな空間を埋めるように、裕史と母の自転車も運んで来た。裕史の一輪車まで倉庫から引っ張り出した。
 いつものテレビ番組の音楽が、どこからか聞こえてくる。父がようやく起き出してきて、遅い朝食を食べる頃に始まる番組だ。
 (なんだ、まだ十時になったところか。そうだよな、まだお昼だって食べてないんだった)
 朝のうちにあまりにいろいろな事があったので、隆史はなんとなく、もう夕方近くになったように思っていた。


     7 初夏

 父が出発した日の四日後が、一学期の終業式だった。
 隆史は通知表だけは母に渡したものの、一緒に持ち帰った絵や作文はみな机の上に放り出したまま、昼食を食べるとすぐに家を飛び出した。
 (あれ、忘れた)
 自転車に乗ってから、隆史はまた紙飛行機を忘れている事に気付いた。だが取りに戻る事はせず、そのまま自転車をスタートさせた。
 (べつにいいさ。どうせたいして飛ばないんだから)
 顔の下で揺れるせんたくばさみを見ながら隆史は思った。いつの頃からか、隆史は紙飛行機を河原で飛ばす事に、以前ほど魅力を感じなくなっていた。
 堤防のいつもの場所に自転車を止めると、隆史は河原を見渡した。だがみどりらしい人影は見当たらない。
 (さがし回るのはあとにして、しばらくここで待っててみよう)
 隆史は草の斜面に腰を下ろした。
 こうして静かに座っていると、周りの変化がはっきりと感じとれる。
 (草の手ざわりも、風の肌ざわりも、この前来た時とまるでちがっている)
 見上げると夏の雲がわき立っている。そのまま下に目を移すと、河の流れがなんだか涼しげに見えた。わずかの間にすっかり季節が変わってしまった事に、隆史は今さらながら驚いていた。
 (梅雨のあいだにおさえられていた何かが、今になって急にふくらんでいるんだな。……また何か飛んで来た。これで三度目だ)
 さっきから小さな物が周りに落ちるのに気付いていたが、隆史は気にしなかった。だが三度も続くとやはり気になってくる。また飛んで来た。今度は右手の甲に当たった。
 (なんだ小石か。……あの子だな)
 みどりがどこからか小石を投げているのだと隆史は思ったが、もうしばらく気付かないふりを続ける事にした。
 (どこから飛んで来るのか確かめて、それから大声でおどかしてやろう)
 小石は今度は後頭部に当たった。
 (真後ろだな)
 勢いよくふり向こうとした瞬間、隆史は顔を両側から押さえ付けられた。ほほを押さえられているのでうまく声も出せない。
 (ほんのちょっと、おそかったか)
 ほほに触れた手の感触はやわらかい。長い髪が隆史の耳たぶをなでた。間違いなくみどりだ。頭のすぐ上から聞き憶えのある声がした。
 「ずいぶん熱心に河をみつめてるのね。もうじゅうぶん見た? それならはなしてあげよう」
 首が自由になると、隆史はふり向きざまみどりを見上げた。
 「どうやって足音もさせないでこんな近くまで?」
 「清水くんが気付かなかっただけよ。ほんとに、こんな近くから小石を落としていたのに」
 「……小石には気付いてたさ」
 みどりは草の斜面を滑り降り、隆史の前へ回った。
 「それで、ずいぶんここに来なかったみたいだけど、いつもどこに行ってたの?」
 「どこにって……」
 「さては半魚人くん、湖の底に里帰りしてたな。いい天気が続いてうろこがかわいたんでしょ」
 みどりの声がいつになく意地悪さを含んでいるように聞こえ、隆史は反発した。
 「お父さんが引っ越して行ったんだよ!」
 「……そうだったの」
 途端にみどりはしゅんとしてしまった。返す言葉にも元気がない。隆史は大きな声を出した事を後悔した。
 「急にさ、転勤が決まったんだ。それで、お父さんが単身赴任する事になってしまって……」
 「そう……」
 話しているうちに、隆史は気持ちが沈んできた。みどりもうつ向いたきり、黙り込んでいる。そんなみどりの横顔を見て、隆史はつとめて明るい口調で言った。
 「でも、みんなで引っ越しっていうんじゃないだけよかった。引っ越しはいやなもんだよな。ぼくはぜったいどこにも行きたくないんだ、今は」
 「…………」
 「ねえ、あのさあ、あしたから夏休みだね。これからはいつだって来られるよ。天気さえよければ毎日だって」
 「べつにむりする事ないよ」
 「むりなんかじゃないよ。ぼくはここに来たいんだ。この河原に来るのが楽しみなんだから」
 「今日は飛行機は? また忘れたの?」
 「……いいや、持って来なかったんだ」
 「そう」
 それきりみどりは口をつぐむと、何か考え込むように遠くをみつめた。しばらく沈黙が続いた。
 やがて、ふとみどりは立ち上がると、隆史の肩を軽くポンポンと叩いてから斜面を降りて行った。隆史は座ったまま、なにげないそぶりでゆっくりと歩いて行くみどりの後ろ姿を、ただぼんやりと眺めていた。
 西向きの堤防の斜面はまともに陽が照りつけるが、風が吹き抜けるのでさほど暑くはない。隆史はひざを抱えていた両腕を伸ばし、草の上に手を付いて空を仰いだ。
 (そうさ、こんな天気の日なら、いつだってここへ来られる。そうだ、これからは水筒を持って来ようか。向こうに水飲み場もあるけど、麦茶でも持って来るほうがよっぽどいい。コップも二つ用意して)
 隆史はみどりの事を思い出し、河原へ視線を戻した。みどりはかなり遠い所にいる。かがみ込んで何かしているようだ。
 (何してるんだろう)
 隆史は気になって立ち上がると、みどりの方へ歩いて行った。
 近くまで行かないうちに、みどりの方で隆史に気付き、跳ねるような足取りで駆け寄って来た。
 「隆史くーん」
 いつも通りの明るい声だ。何かを隠し持つように、みどりは両手を後ろに回している。少し首をすくめるようにして、みどりはいたずらっぽく言った。
 「ねえ隆史くん、緑の光の玉、見たいとは思わない?」
 「光の玉?」
 とまどう隆史の返事も待たずに、みどりは両手を自分の顔の前にかまえた。手の中に黒い四角い物があるのを認めた瞬間、強い閃光が隆史の目を射った。
 (なあんだ、カメラか)
 フィルムを巻き上げる音が聞こえ、隆史はすぐにそう気付いた。
 「どうしたの? そのカメラ」
 みどりはその質問には答えず、たたみかけるように隆史に言った。
 「ね、見えるでしょ、緑の光が。どう?」
 「そりゃ見えるけどさ、あたりまえだよ、フラッシュなんかまともに見たら。車のヘッドライトとかでもこんなふうになるじゃないか」
 隆史は何度もまばたきをした。さっきのフラッシュの光が焼き付いたように、目を開けても閉じても視野の中央が緑色に光っている。
 「それはそうだけど……」
 みどりは少し不満げだ。
 「それよりどうしたの? そのカメラ」
 「あそこに置いてあったの。ほら、あのカバンのとこ」
 みどりの指差す方を隆史は見た。草の上にビニールシートが広げられ、その上にバッグと大きな水筒が置かれている。バッグの開いた口の上にはタオルがかかっている。持ち主は散歩でもしているのか、付近には誰もいなかった。
 「だめだよそんな、ひとの物を勝手に持って来るなんて!」
 隆史は慌てた。みどりの手からカメラをもぎ取るとバッグに駆け寄った。そしてタオルの下に隠すようにカメラを入れると、急いでその場を離れた。
 みどりはそんな隆史の様子を面白そうに見ながら、無邪気に笑っている。
 「持ち主がもどって来たらどうするんだよ。ほら」
 隆史はみどりの手を引っ張った。隆史にうながされ、ようやくみどりも駆け出した。
 「まったく、信じられないような事するんだから」
 みどりの手を取って走りながら隆史は言ったが、みどりはちっとも悪びれた様子もなく、ただ笑っている。そのうちに隆史もおかしくなってきた。
 「ハハハハ、でもびっくりしたなあ。アハハハハハハ……」
 込み上げる笑いをおさえきれず、隆史は立ち止まると声をあげて笑った。みどりもほがらかな笑い声を立てた。体のどこからか噴き上がってくるような笑いは、いつまでもおさまらなかった。
 
 家へ帰ってからも、隆史はたびたび思い出し笑いをした。
 (ぼくもびっくりしたけど、あのカメラの持ち主はもっとおどろくだろうな。現像して写真を見たら、どんな顔するだろう)
 「さっきから何をにやにやしてるのよ、気持ちの悪い」
 食事中にはしを動かすのも忘れて笑っている隆史に、母がいぶかしげに言った。
 「ううん、べつになんでもないよ。ただ夏休みに入ったと思うとうれしくってね。あっそうだ。お母さん、あしたから水筒に麦茶入れてよ。河原に持って行くんだ」
 「明日からって、そんなに何度も行くの?」
 「天気がよければ毎日だって行くつもりだよ。行くのは午後からにして、午前中はちゃんと宿題やるからさ。そうだ、水曜と土曜は当分塾があるからだめか。でもそれ以外の日ならいいね」
 「それはかまわないけど、あなたも物好きね。河原に何があるのよ」
 母があきれたように言っても、隆史は気にしなかった。
 「水筒のコップ、予備にもう一つ持ってくから出しといてね」
 隆史は遠足を明日にひかえた小さな子どものように浮かれていた。


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