緑の空 − 少年のまなざし −
夏休みに入ってから一週間が過ぎた。今のところ雨は一度も降らず、そのまま七月は過ぎようとしていた。
隆史はラジオ体操を休む事はあっても、河原へは毎日欠かさず出かけて行き、そしてそこで半日を過ごした。
河原には何もなかったが、隆史とみどりは夏の日の午後を楽しく過ごした。歩きながら、並んで座りながら、二人はおしゃべりをし、そして緑の空を見上げた。退屈する事などまったくなく、時間はまたたく間に過ぎていった。
「こないだのさ、強い光を見たあとにしばらく残る緑の光、あれもおもしろいけど、もっと不思議な物をきのう思い出したんだ」
隆史はみどりと並んで歩きながら、熱っぽく言った。こんな時はみどりもとても熱心な目をして、時おり話の続きをうながすように隆史をみつめた。
「目をつぶってまぶたを強く押さえてると、そのうち緑色した光の輪がぼうっとうかび上がるんだ。その輪は見えだしたら、あとは目を開けても閉じても見えるんだ。ちょうど強い光を見たあとみたいにね。これって、ほかの人にも見えるのかなあ」
「さあ。でもわたしには見えるよ」
「えっ、小沢さんにも?」
「最近はやってみないけど、その緑の輪ならわたしも見た事ある」
隆史は喜んだ。こんな不思議な事をみどりと共有出来るのは、隆史にとってはこの上ない喜びだった。ただ、これが誰にでもごく当たり前に見えるものだと言われたなら、失望もしただろうが。
「そうか、小沢さんにも見えるのか。ぼくだけに見えるってわけじゃないんだな。……だれにだって見える、なんでもない物なのかなあ」
「ううん、そんな事はないと思うよ。見えない人だっているし、見ようとしない人だっているんじゃない? ぜんぜん気付いていない人だっているだろうし」
まるで隆史の心を見透かすように、みどりは答えた。
「隆史くんとわたしだけにしか見えない、なんて事も考えられない?」
(緑の空のように? ……ほんとうに、緑の空と同じようだ。この緑の輪には小さい時から気付いていたけど、どうしてもひとには言えなかった。だれにでも見えるつまらない物だと言われるのが、こわかったから。不思議な物、自分だけに見える特別な物、そう思っていたかったんだ。自分一人だけに……。でも、この子だけは別だ)
「今からちょっとためしてみようか」
隆史は立ち止まった。そして片手の親指と中指で、閉じたまぶたの上から両目を強く圧迫した。
「わたしもやってみようっと」
みどりも隆史にならって始めたようだ。
暗い視野の中で、細かい光の粒子が無数に散らばり踊っている。そしてその粒子は、次第に小さな渦をいくつも作り始めた。
やがて奥の方から煙が噴き上がり、それが目まぐるしく点滅を始めた。回転する光の球も見える。視野一面に散ったり、連なって流れたりを、何度も繰り返している。
(もしも原子とか分子とかが見えるとしたら、こんな感じかもしれない)
隆史はこの光景が目の中だけのものではなく、むしろ自分がその中に入り込んでしまったように感じた。
視野の周囲に稲妻がいくつも現れた。稲妻は静止したまま、明滅を繰り返している。
視野全体が、いつの間にか薄明るくなっている。そしてその光が凝縮するように、結晶するようにして、徐々に光の輪が形作られた。くっきりした輪郭を持った、黄緑色の光の輪だ。
「見えたよ! ほら」
隆史は指を離して目を開いた。河原の景色を背景に、緑の輪は依然としてくっきりと際立って見える。
「ほんとだ」
みどりも目を見開いて中空をみつめている。それぞれが自分の目の中の輪を見ているのだと分かっていながらも、隆史はみどりと同じ一つの輪を見ているような気がしていた。
「ほらほら、じーんと光ってる。ほら、見える?」
「あんまりきれいな形ではないけれど、こんなにもはっきり見えるものだったのね」
うかれる隆史に対して、独り言のような静かな口調でみどりは言った。
緑の輪は目を動かすと光が薄れ、視線を一点にとどめていると鮮やかさが戻ってくる。そして時間が経つにつれ、少しずつ薄れていった。
(何から何まで、緑の空とよく似ている……)
「こんな事に自分から気が付くなんて、隆史くんもすごいね」
みどりが感心したように言った。
「緑の空のほうがもっとすごいよ」
「そう? それよりねえ隆史くん、緑の輪がどうして見えるのかなんとなくわかったよ、わたし」
隆史は輪の見える理由など知りたくなかった。それでもやはり気になって、とまどい気味にみどりの顔をみつめた。みどりはクスッと小さく笑うと、先を続けた。
「脳っていうか、心が直接見ている物じゃないのかな。それが、ふだんは目から入ってくる映像のほうが強いから、そのかげにかくれてしまって見えないのよ、きっと」
「そうか。でも……、」
ゆっくり歩きながら話すみどりを追いながら、隆史はたずねた。
「でもさ、それなら目をつぶればいつでも見えるんじゃない?」
「それは、まぶたを閉じたって目は働いているからよ。目をつぶっても、目はまぶたの裏をずっと見ているでしょ。緑の輪を見るためには、目の働きを休めないといけないの。だからそのために……」
「わかった!」
隆史は大きな声で言った。
「強く押さえていると、目の感覚がなくなるんだ。正座して足がしびれるみたいに」
「そうそう、正座すると足の感覚がなくなるもんね。あれとおんなじなんだ。隆史くんっておもしろい事に気が付くね、いつだって」
そういえば、あの時に見える光の粒子や静止したまま明滅する稲妻は、まるでしびれていく様子をそのまま映像にしたようだと、隆史は大まじめに思った。
「でもそうだとしたら、緑の輪っていったいなんだろう。心がじかに見ているものって……」
口にするつもりはなかったが、隆史は無意識につぶやいていた。みどりは答えた。
「それはわたしにもわからない。隆史くんが考えてみてよ」
隆史は小さくうなずいた。
いつの間にか、二人は野球の練習場の近くまで来ていた。
そこで練習をしている少年達のユニフォームに、隆史は見憶えがあった。あれは家の近所の野球チームだ。その中に同じクラスの犬山の姿を認めると、隆史はとっさに立ち止まった。
「もどろう。向こうへ行こうよ」
「え?」
隆史がみどりをうながして引き返すより早く、犬山の方も隆史に気付いた。
「おーい、セースイ」
犬山はクラスでのあだ名で隆史に声をかけると、こちらへやって来た。
(今さらにげるわけにもいかないよな。どうしようか)
隆史はみどりと一緒にいるところを、知り合いの誰かに見られたくなかった。特にうわさ好きで詮索好きのクラスメイトに会うのが、一番嫌だった。
中でも犬山やほかの数人の男子達は、隆史がクラスのある女子とちょっと話をするだけでひやかしたり、隆史に向かってわざといやらしい事を言っては、反応を見て喜んだりする。言いたいだけ言わせて放っておけばいいと思っても、なかなかそうもいかなかった。彼らにそれほど悪意がないのは分かっていたが、迷惑である事に変わりはない。
みどりにも隆史の気持ちが分かったらしく、二人は困ったように顔を見合わせた。
「よう、セースイ。何やってんだ?」
隆史はすぐそこまで来た犬山に、片手に持っていた紙飛行機を見せた。
「これさ。こいつを飛ばしに来たんだ」
「またそれか。そんなロクに飛ばない飛行機、近くの公園ででも飛ばしてりゃいいだろ。わざわざこんなとこまで来るなんて、ヒマなやつだなあ」
「コロのほうこそ、なんでこんな遠くまで練習に来てるんだよ」
「ここしか使えない日だってあるんだ。まったくいやんなるよ。行きも帰りもチャリンコで、時間ばっかしくうからな。まあ脚力をつけるためとでも思えばいいか」
そう言いながら犬山は、ちらとみどりの方を見たようだった。隆史も気になってふり向くと、みどりは少し離れた所を所在なげな様子で、足もとを見ながらゆっくり歩いている。
「清水もチャリンコだろ?」
隆史は犬山の方に向き直ると慌てて答えた。
「ああ、そうだけど」
「水筒まで持って来て、すっかりサイクリング気分だな」
「まあな」
「じゃあおれ練習があるから。またな」
そう言うと、犬山は走って行ってしまった。隆史が拍子抜けしてしまうほどあっさりと。
みどりが戻って来た。
「今の子は隆史くんの同級生?」
「ああそう、犬山っていうんだ。でもいつものあいつらしくなかったなあ」
「何が?」
「だっていつものあいつなら、ぼくが女子といっしょにいるのを見れば、ぜったいひやかしたりからかったりするはずなのに」
「きっとわたしの事を知らないからよ」
「そうか、そうかもな。もしいっしょにいたのがクラスのだれかだったら、きっといろいろ言われたかな。いや、もしかしたら……」
言いかけて、隆史は口をつぐんだ。
(もしかしたら、あいつにはこの子の姿が見えなかったのかもしれない……。まさかそんな事……、でも……)
「もしかしたら、なあに?」
みどりは隆史の言いかけた言葉の続きを促した。
「うん。もしかしたらさあ、犬山のやつ、やいてたんじゃないのかな?」
わざとふざけたように隆史が言うと、みどりもその冗談にのってきた。
「そっか、こんなかわいい子がいっしょにいるのを見たらくやしいでしょうねえ、なあんて。おれにだってガールフレンドなんかいないのに、とか」
「あーあ、野球マンガにはきまってかわいい女子マネージャーがいるのになあ。まったくいやんなるよ」
みどりに続いて、隆史も犬山の口まねをしておどけてみせた。
ひとしきり笑ってから、みどりが言った。
「たぶん、隆史くんとわたしはたまたま近くにいただけで、関係ないと思ったんじゃないかな」
「ああ、そうかもね」
不自然だと思いながらも、さっきの考えを打ち消すように隆史はうなずいた。
おしゃべりしながら歩くうち、練習場はかなり遠くなった。
「ねえ、隆史くんは学校ではセースイなんて呼ばれてるの?」
「いつもじゃないけどね。ときどきセースイとかキヨミズとか、ふざけた呼ばれ方をするけど、いつもはただ清水って呼ばれてる。べつにあだ名ってわけでもないよ」
「さっきの犬山って子はコロなんていうのね」
「ああ、犬山だからイヌコロでコロになったんだ」
「あんなに大きいのにコロなんて、なんかおかしいね」
「だからおもしろいのさ。もっとおもしろい事おしえようか。いつもはコロだけど、野球をやる時には濁点を付けて呼ぶんだ。ゴロってね」
みどりはふき出した。
「理由は説明しなくてもわかったみたいだね」
「ほかにはどんな子がいるの? 隆史くんのクラスには」
隆史は少し考えてから言った。
「小沢さんと同じ、みどりって名前の女子もいるよ」
「へえ、なんて呼ばれてるの?」
「名字が寺内だから、女子はテラっちとかおテラとか呼んでる。男子はただ寺内って呼ぶけど」
「なあんだ、名前のほうじゃなくて、名字のほうから愛称が付いてるの」
「そうだね」
隆史はこの寺内みどりというクラスメイトが、なんとなく苦手だった。女子同士では楽しそうに笑ったり、にぎやかにおしゃべりしたりしているのに、男子に対しては態度がどこか冷淡なためだ。それなら隆史の方も無視していればいいのだが、緑色に対して並ならぬ関心を持つ隆史としては、相手の名前がみどりというだけでもつい意識してしまう。目ざとい例の犬山が、隆史のそんなぎこちない態度をひやかしたりするものだから、ますます隆史は寺内に対して自然にふるまう事が出来なくなっていた。
いつかこんな事もあった。ある日隆史は前日に出された社会の宿題を忘れ、休み時間に必死になってその宿題に取り組んでいた。宿題は白地図に世界の人口密度か何かを色分けするといったもので、隆史はそれを黄緑、緑、深緑の色鉛筆で三色に塗り分けていた。
『キヨ、おまえってほんと緑が好きなんだなあ』
隆史の作業を見ていたとなりの席の村井が、大きな声で言った。その時寺内は教室の前の方で女子数人とおしゃべりしていたが、村井のその声を聞き付けてはじかれたようにふり向いた。隆史も驚くような勢いで。
やがて寺内は事情が飲み込めたらしい。いつにも増してきつい目で隆史をにらんだ。そしてプイッと向こうを向いてしまった。寺内が何をかん違いしたのか気が付いて、隆史は笑いをこらえるのに苦労した。
その日から隆史は、以前にも増して寺内の事を意識しないようつとめた。実際なんとも思っていないのに、寺内にかん違いされたりクラスメイトにうわさされたりするのが嫌だったからだ。
「どうしたの? だまりこんじゃって。何考えてるの?」
みどりに肩を叩かれ、隆史はわれに返った。
「いや、ちょっとね。小沢さんになにかいいニックネームがないかなと思って」
隆史はとっさにこんな事を言ったが、でもそれは実際に以前から考えていた事だった。
「そう。でもわたし、今まであだ名とか愛称で呼ばれた事ってないよ」
「そうだろうね。小沢さんには、みどりっていう名前以上に似合った呼び名はないもんな」
隆史は思ったままを正直に言った。
「だったらどうして、隆史くんはわたしの事、みどりって呼んでくれないの? いつまでも小沢さんなんて、なんかよそよそしい感じがするな」
「そうは思うけど、どうも抵抗あるんだよなあ」
隆史はそう答えながら、みどりはいつから自分の事を「隆史くん」と呼ぶようになったのだろうと考えた。
「呼びすてがいやならみどりさんでもみどりちゃんでも……」
「よけいはずかしいよ!」
みどりの言葉をさえぎって隆史は言った。みどりの事をそんなふうに呼ぶなんて、考えただけで耳が熱くなる。
「はずかしいのは最初のうちだけだと思うんだけどな。わたしだったらぜんぜん気にしないよ。フフッ、隆史くんてれ屋だからね」
隆史はおおげさに頭をかいてみせながら笑った。
「じゃあぼく、今日はもう帰るよ」
「またね、バイバイ」
草の斜面を隆史は駆け上がり、離れた所でふり返るとみどりに手を振った。
夜、ベッドの中で隆史は、その日の河原での出来事を一つ一つ思い返していた。眠る前にみどりの事を考えるのが、最近の隆史の習慣だった。
(いつからあの子はぼくの事を、隆史くんと呼ぶようになったんだろう。清水くんから隆史くんに、いつ変わったのかぜんぜん気付かなかったな。あの子は初めからずいぶん親しげな感じだったけど。
……みどり……みどりさん……。ぼくにはだめだな。意識しすぎて、はずかしくて……。ぼくはどんな事でも、必要以上に意識しすぎてしまうんだ。自分でもそれはよくわかってる……)
それでも隆史は、それが自分の欠点だと思いたくなかった。いつも注意して物を見るから、注意して音を聞くから、隆史はひとが気付かない物まで見えるし、ひとが気に留めない音まで聞こえる。これは短所でなくむしろ長所だと、隆史は自分でも思っている。確かに、隆史は洞察力のある少年だった。
(でも、ぼくのそんな面をわかってくれるのは、やはりひとが見過ごしてしまう事にも目を留めるような、そんな人だけなのかもしれない。……だいたい、こんな事を長所だなんて思うのは、ひとりよがりの自己満足なだけかもしれないな……。ひとりよがり、か……)
暑苦しいにもかかわらず、隆史は夏がけの薄いふとんを頭までかぶった。
9 盛夏
やがて八月に入った。あれから犬山とはラジオ体操でたびたび会っているが、みどりの事は何も言わなかった。
(やっぱりコロはみどりに気付かなかったのかな。それとも見えなかったのか……。まさかとは思うけど)
登校日にも特に変わった様子はなく、あの時の事は結局話題にならなかった。心配していた黒板の落書きもなかった。
(相手の名前がわからなければ、あいあいがさなんて書けやしないか)
隆史は胸をなで下ろした。
だが別の事で、隆史はみんなに笑われる羽目になった。
「キヨ、おまえずいぶん焼けてるなあ。どこ行ってきたんだ?」
「え? そんなに焼けたかなあ」
「どこ行ったんだよ。海外旅行か?」
「いやまさか、ただちょっと河原へ行っただけだよ」
実際、隆史はすっかり日焼けしていた。毎日のように河原へ出かけ、そこで半日を過ごすのだから無理もない。
その隆史以上に日焼けしているのが裕史だった。隆史が河原へ出かけるのを日課にしているように、裕史も午後になると決まって学校のプールへ泳ぎに行った。夏休みの間は小学校のプールは開放されていて、自由に泳ぎに行けるのだ。
(裕史のプール通いは、お父さんと川へ泳ぎに行く時のための練習だろうか)
隆史は裕史が気の毒に思えた。
(この夏にはお父さんは帰って来ない。ぼくにはそんな気がする)
父からは何度か電話があった。そのたび隆史も電話に出たが、いつ帰るかという話を父はまったく口にしなかった。隆史もすっかりあきらめてるので、自分からその話を持ち出すような事はしない。
(裕史だって、なんにも言わないって事は、もうあきらめてるのかもしれないな。だから学校のプールでがまんしているのかもしれない)
裕史がどう思っているのか隆史には分からなかったが、その事にはあまり触れたくないので、あえてたずねてみようとはしなかった。
学校は午前中で終わった。隆史はいったん家に帰って昼食を食べると、この日もまたいつものように河原へ出かけた。
みどりが堤防の斜面に座っているのを見付けると、隆史はその背中に声をかけた。
「やあ、ミドリン。早いんだね」
みどりがふり返って言った。
「隆たかくんがおそいんじゃない。わたしはいつもとおんなじ時間に来たよ」
隆史は自転車を立てると、斜面を降りた。
「今日はお昼まで学校に行ってたから。登校日だったんだ。急いで来たからのどがカラカラだ」
「あの時の野球の男の子に、何か言われなかった? わたしの事でひやかされたりとか、からかわれたりとか」
「ぜんぜん。ぼくも気にしながら行ったんだけど、なんにもなかったよ」
隆史はみどりの横に座った。そして背負っていたバッグを下ろすと、中から水筒を取り出した。
「ただ、別の事でみんなに笑われたけどね」
「どんな事で?」
隆史は水筒を口へ持っていったところで、みどりの問いかけに答えられなかった。のどを鳴らして一度に半分ほども麦茶を飲むと、手の甲で口をぬぐう。みどりが手を出したので、隆史はそのまま水筒を渡した。
「ねえ、なんで笑われたの?」
「となりの村井がさあ、ぼくを見て日に焼けたなあって言うんだ。それで、海外旅行でも行ったのかなんて聞くから、河原へ行っただけだって答えたら笑われちゃった。よく焼けた清水きよみず焼きだなんて言われて」
隆史と同じようにして、水筒からじかに麦茶を飲んでいたみどりはむせてしまった。
「もう。お茶飲んでる時に笑わせないでよ」
「ハハハ、ごめんごめん。でも、ぼくそんなに焼けたかなあ」
「焼けてるよ。うでなんか真っ黒じゃない」
みどりは水筒を受け取る隆史の腕を見ながら言った。
「そうかなあ。でもミドリンはそんなに焼けてないね」
「うん。そういう体質なんじゃないかな」
そう言ってみどりは、半袖から伸びた細い腕を反対の手でそっとなでた。たわむれに隆史は、自分の腕を伸ばしてみどりの腕に並べてみた。
「ハハ、こんなにちがうよ。やっぱり黒いや」
ひじが軽くみどりの腕に触れた。隆史は素早く腕を引っ込めた。
(みどりの姿がほかの人には見えないんじゃないかなんて、どうして思ったんだろう。そんな事があるわけないのに。こうして触れる事だってできるし、麦茶を飲んでむせたりもするんだ)
それでも隆史は今も、みどりが平凡な普通の少女であるはずはないと信じていた。すっかり親しくなった今でも、時おりみどりに対してわけの分からない気おくれを感じる事があるためだ。
二人は立ち上がると斜面を降りて行った。そしていつものように、河原をゆっくり並んで歩きながらおしゃべりをした。
「ねえ、隆くんはこの夏休み、どこへも行かないの?」
「うん。だいたいお父さんが帰って来ないもんだから」
「そっか、隆くんのお父さん、単身赴任してたんだったね」
「お父さんもちょっとひどいよ。月に一ぺんくらいは帰って来るなんて言っててさ、ぜんぜん帰って来ないんだから。それにさ、泳ぎにつれて行ってやるとか、裕史と二人で遊びに来いとか、自分から言い出したくせに、それっきりなんにも言わないんだ」
隆史は今まで誰にもこぼさなかったぐちを、みどりに話した。みどりはただ黙って聞いてくれたが、隆史が話し終えるのを待ってからこう言った。
「きっといそがしいのよ。一人でなんでもやらなきゃならないんだし」
「それはわかってるけど。こないだも電話でそんな事言ってた。でも、だったら始めっから約束なんてしなけりゃいいんだ。期待だけさせといてあとでがっかりさせるなんて、一番よくないよ」
そう言いながらも、父に対する不満は少しずつ薄れてきていた。言いたかった事を残らずみどりに聞いてもらったせいだろう。
「でも、お父さんが一人で行ってくれたから、隆くんはここに残る事ができたのよ」
隆史は黙ってうなずいた。確かにその通りだと思った。
「引っ越ししたくはなかったんでしょ? ……ねえ隆くん、今までに引っ越しした事ってある?」
「あるよ、一度だけ」
「どうだった? やっぱりつらかった?」
「つらいなんて、だってまだ小さい時の事だよ。幼稚園に入る前だし、なんにも考えてなかったよ」
「でも、ともだちと別れるのって、やっぱりいやだったでしょう?」
どうしてみどりは引っ越しの事ばかり聞きたがるのだろうと思いながら、隆史は答えた。
「さあ、よくおぼえてないな。とにかくまだ小さかったから」
「そう」
みどりはそれきりしばらく黙っていたが、急に話題を変えた。
「隆くん、今度サイクリングに行こうか」
「サイクリングって、あの道を?」
隆史は河の向こうを指差した。向こう岸には、河に沿ってサイクリングコースが続いている。
「そう。あの道を、川上へ向かってずうっと行ってみようよ」
「いいなあ。でも、どこまで行く?」
「どこでもいいの。行けるとこまで行って、おべんとう食べて帰って来るの。ねえ、あした行こうか」
「賛成!」
間を置かずに隆史は答えた。楽しみを先に延ばす理由はない。またたく間に話は決まった。
「じゃあ、あしたの朝八時にここで待ち合わせをしよう。ミドリン、自転車は?」
「あるにきまってるでしょ」
みどりは笑いながら答えた。隆史は頭をかいた。
「そうか、そうだよね。何色の自転車?」
「赤い色。緑じゃなくってガッカリしたでしょ」
隆史はおどけておおげさにうなだれてみせる。
「ほんとに隆くんって不思議。どうしてそんなに緑が好きなの? いつごろから?」
「さあ、いつごろからだろう。とにかくずいぶん小さい時からだよ。緑色したいろんな物を集めてたのは、こっちに引っ越して来る前だから」
「そう」
「それで、引っ越しの時にお母さんともめたんだ。捨てていこうなんて言われて。でもけっきょくみんな持って来たけどね。今でも押し入れをさがしたら出てくるかもしれないな、……あのガラクタ」
知らず知らずのうちに、隆史は遠い目をしていた。あの引っ越しの日、いつも一緒に遊んでいた幼い友達との別れよりも、緑色のガラクタの事をずっと気にかけていたのを思い出し、今になって後悔の思いが生じたのだ。
「それじゃ、緑の物できらいな物って何かないの?」
みどりの問いに、隆史は身を硬くした。いつかバスの中で、目の前に浮かんだ緑の文字。ずっと思い出さないようにしていた、あのじんわりぼんやりとした文字。その気味悪さが、まざまざと思い出されたからだ。
「……あるよ、一つだけ」
「そう? なあに?」
みどりは興味深そうに身を寄せてくる。
隆史は迷った。みどりなら、緑の文字の見えた理由を知っているかもしれない。たちどころに謎を解いてしまうかもしれない。だが、どういうわけかそれが不安だった。ためらっているうちに、謎を解いて安心するよりも、知らないままでいる方がいいという気持ちの方が、徐々に強まっていった。
結局隆史は、緑の文字の事を言い出せなかった。
「ねえ、なんなの? 隆くん」
「あの、あのさ、白い食パンに生える、くすんだ緑色のもわもわっとした……」
「ああ、青カビね」
みどりは笑って言った。
「わかるわかる。でもあのカビは薬にだってなるんだよ」
「それぐらい知ってるよ。でもきらいなものはきらいだ。いくらなんでも、あの緑色はきれいだとは思わないな」
「そうかもね」
「でも、どうして緑色なのに青カビなんて言うんだろ」
「そういうのってほかにもあるよ。たとえば青信号とか青葉とか」
「えーと、ほかには……」
「青リンゴも」
「そうそう、それにくっつく青虫も」
「やだ、虫食いにしないでよ」
二人は顔を見合わせ大笑いした。緑の文字の不快さなど、隆史はもうすっかり忘れていた。
「むかしは緑も青もいっしょで、そうはっきりとは区別してなかったみたいね」
「そうかもしれない」
「それで思い出したんだけど、隆くんこんな話知ってる? チンパンジーとヒトとでは、色の見え方がちがうんだって」
「どういう事?」
「あのね、まずチンパンジーに青い色と緑色とをおぼえさせるの。そして、青と緑の間のいろんな色を見せるとね、ヒトにはほとんど青に見える色も、チンパンジーは緑に区別するんだって」
「へーえ、おもしろい」
「だからヒトとチンパンジーとでは、ちがった景色を見てるのね」
「虫には紫外線が見えるって話は聞いた事あるけど、そんなのは初めて聞いたよ。でもさあ、なんでミドリンはそんな事知ってんの? もしかしてチンパンジーに知り合いでもいるのかな?」
「もう」
隆史がからかうと、みどりはほほをプッとふくらませた。会ったばかりの頃に半魚人なんてからかわれたお返しというわけでもないが、みどりがちょっとすねたりふくれたりするのがかわいく思えて、隆史はついそんなふうにみどりをからかってしまう時がある。
「そんなはずないでしょ。テレビで見たの、この前」
「そう、ミドリンもテレビとか見るんだ」
「それで思ったんだけど、隆くんも色の見え方が、ほかの人とちょっとちがうんじゃないの?」
「ええ?」
「だってそんなに緑が好きっていうのは、隆くんには緑がひとよりずっときれいに、ずっとあざやかに見えるからじゃないのかな」
「ああ、それならあるかもしれない。そういやぼくも、おんなじような事考えた時があったっけ」
隆史は小さい頃、テレビの画質調整のツマミをいたずらするのが好きで、何度母に注意されてもこりずにツマミをいじった。そうなると機械に弱い母には再調整もままならず、父が帰るまで妙な色あいの画面を見る羽目になった。
そんな時、ふと隆史は思った。
(ひとのめにも、こんなしくみがどこかにあるんじゃないのかなあ)
小さい頃のそんな考えを隆史は思い出し、みどりにそのまま話した。
「うーん」
みどりは考え込んでしまった。
「ちょっと考えが奇抜すぎたかなあ……。あのさあ、電気屋さんに行ったらいろんなテレビが並んでるだろ? そこで同じ番組を映してても、テレビの種類によって微妙に絵の感じがちがったりするじゃないか。あれと同じような感じで……」
「人によって見え方が少しずつちがうっていうの? なるほどね」
「どんな感じに見えるかなんて、他人の事はわからないから気付かないだけなんだ。視力なんかとちがって、こういうのは調べようがないしね」
隆史は今までは、そんな事もあるかもしれないというくらいに思っていたのだが、みどりに話しているうちに、そんな事もあるに違いないと自信を持って考えるまでになっていた。みどりを相手にしていると、どんな奇抜な事でも確信出来そうだった。
隆史はみどりと一緒にいると、思っている事を知らず知らずのうちになんでも口にしていた。笑われたりあきれられたりしそうで、ほかの人が相手なら言うのがためらわれるような事でも、みどりにだけはなんの抵抗もなく話す事が出来た。みどりはどんな奇抜な話でも、まじめに、熱心に聞いてくれる。そんなみどりは隆史にとって、申し分のない話し相手だった。
話は尽きなくても時間は過ぎてゆく。太陽は西の空に回ると、後は見る間に低くなる。隆史は西陽と水面の輝きに目を細めながら言った。
「じゃあ、ぼくもう帰るよ。あしたは八時にここで待ち合わせ、忘れないようにね」
「うん。隆くんもおべんと忘れないようにね」
「ハハ、どうかなあ。じゃ、またあした」
「バイバイ」
帰途についた隆史の足取りは、明日のサイクリングへの期待で、いつにも増して軽やかだった。
夕食の時に、隆史は母にサイクリングの話を切り出した。
「あしたサイクリングに行くんだけど。朝から出かけるから弁当を作ってよ」
「どこまで行くの?」
「さあ、まだはっきり決めてないけど、サイクリングコースを行けるとこまで行ってみるよ」
「そう。あんまり遠くまで行きなさんなよ。あなたは引き返すって事を知らないんだから。行き着く所まで行かないと気がすまないで……。それで、誰と行くの?」
「ともだちと……」
「村井君達と?」
「あ、いいや、小沢っていうのが、河原の近くに住んでるんだけど……」
「その子とあなたと、二人だけで行くの?」
「うん、そう」
あまり詮索しないでほしいと隆史は思ったが、これくらいの事は聞かれて当然だろう。
「そう。一人じゃないんだから、あんまり勝手な事しないようにね」
「わかってる」
「ぼくもいっしょに行く」
裕史が突然そんな事を言い出し、隆史はめんくらった。
「だめだよ。だいたい裕史にはついて来られやしないよ」
「だったらゆっくり走ってよ」
「むり言うな」
母が助け船を出してくれた。
「裕ひろくん、お兄ちゃんは友達同士で行きたいんだから、そんな事言わないの。それよりプールはどうするの? プールに行けば、裕くんの友達もみんないるでしょう」
母にそう言われると、裕史はいきなり大声を張り上げた。
「学校のプールは休みなんだよ!」
そうだった。明日から一週間、学校のプール開放もラジオ体操も休みになるのを隆史は思い出した。まずい時にサイクリングの話を持ち出してしまったようだ。
「夏休みになって、まだどこにも行ってないんだよ。まだなんにもしてないのに……」
「じゃあ明日お母さんとどこかへ行く?」
「いいよ! もう。川に泳ぎに行きたかったのに。やくそくだってしてたのにい!」
裕史は席を立つと、足を踏み鳴らしながら階段を上がって行ってしまった。バタン、と乱暴にドアが閉められ、続いて重い物を引きずる音が聞こえる。隆史は困ったように母と顔を見合わせた。
(……また部屋に入れないや)
裕史が部屋に閉じ込もり、小さな本棚をドアの内側に移動させたのだ。
母は夕食の後片付けを残し、二階へ上がって行った。
胸につかえるような食事を終えて、隆史はテレビをつけてみた。しかしどのチャンネルも盆の帰省ラッシュのニュースばかりで、隆史は嫌になってスイッチを切った。そしてそのまま二階へ上がりかけたが部屋に入れない事を思い出し、階段を五六段上がった所で足を止めた。
二階からは、なだめるような母の声と、時おりしゃくり上げる裕史のなみだ声とが、かわるがわる聞こえてくる。隆史は二階へ上がるのがますますためらわれ、階段の途中に腰を下ろした。
目の前の白い壁には、小さな絵が画びょうで留めてある。いつか隆史が暇にまかせて描いた絵だ。
(この絵を描いた時には、お父さんが行ってしまう事もまだ知らなかったんだ)
隆史は立ち上がると、絵に顔を近付けた。遠い山並み、深い森、そして空白。
(ここには何を描こうとしていたんだろう、あの時のぼくは。自分の事なのにわからないや……)
母が二階から降りて来た。
「あ、隆史。明日はお母さんも裕史を連れて出かけてくるから。隆史は何も気にしないでサイクリングに行ってらっしゃいね」
「うん。それでどこに行くの?」
「科学館に行きたいって」
「そう。まったく、お父さんが安うけあいするからこうなるんだ」
「本当ね」
母は隆史の見ていた絵にちょっと目をやると、階下に降りて行った。
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