緑の空 − 少年のまなざし −


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     10 夏の一日

 翌朝には、裕史もすっかり機嫌を直していた。
 「ぼくは今日は科学館に行くんだ」
 裕史は起きぬけに隆史に向かって言った。
 「きのうお母さんに聞いたよ。去年かおと年にもいっぺん行ったじゃないか」
 「でももう一回行きたいんだ」
 嬉しそうな様子の裕史に、隆史はすっかり安心した。これで心おきなくサイクリングを楽しめると思った。
 着替えて階下へ降りるともう弁当は出来ていて、下に敷くビニールシートや雨具、傷薬やばんそうこうまでもが用意されていた。
 「おはようさーん」
 「おはよう隆史。裕史も起きた? 麦茶が冷めただろうから、水筒に入れてちょうだい」
 隆史自身のやった事はただこれだけだ。ほかはみな、母が支度をすませてしまっていた。
 玄関で靴をはく隆史に、母は矢つぎばやに注意の言葉をかけた。うるさいと思いながらも、母の心配症をよく知っている隆史は、その気づかいに一つ一つ返事をした。
 「じゃ、いってきまーす」
 玄関を出る隆史に、母も続いた。
 「わざわざ出て来なくたっていいよ」
 苦笑しながら隆史は言ったが、結局母は門の外まで出て来た。
 「雨具は持ったね?」
 「うん、入れた」
 「家の鍵は?」
 「持ってるよ。でもお母さんたちのほうが早いと思うけど」
 「念のため持っときなさい。それから絶対に遅くなるんじゃないよ。小銭は?」
 「ある」
 「お友達も一緒なんだから、自分勝手な事しないようにね。あなたの方がいろいろ気を付けてあげるのよ」
 「わかってるよ。じゃあ」
 「気を付けてね」
 早めに家を出たので時間は充分にある。隆史はのんびり自転車を走らせた。
 (ほんとにお母さんはしつっこいんだから。いろいろ気をつかってくれるのはいいけど、ちょっとおせっかいすぎるところがあるな。荷物だって、何から何まで用意しなくても、ぼくが自分でやったのに。ほんとにおせっかいだ)
 母の買い物について行くと、母が迷子を案内所へ連れて行ったり、人を呼び止めて落とし物を拾ってあげるのをたびたび見る。そのたびに隆史はあきれたような顔をするが、心の中では感心しているのだった。
 (ほんとに、細かい事まで気が付くんだよなあ。だから、ちょっとした事からなんだって見ぬいてしまうんだ。……どうもみどりの事にも気付いているみたいだ)
 母のさっきの言葉が頭に浮かんだ。
 『あなたの方がいろいろ気を付けてあげるのよ』
 (相手が女の子だって事、お母さんにはもうわかってるのかな。ぼくは小沢って名字しか言わなかったのに。ぼくが河原に通うのはその子に会うためだって事も、もう見ぬいてるのかもしれない)
 春の遠足の写真を見せた時の、一人一人を指差しながらたずねる嬉しそうな母の様子を、隆史は思い出していた。
 『この子かわいいわね。なんていう子? そう。この子は?』
 (どういうわけかお母さんは女の子にとっても興味があるみたいだから、きっとそのうち言い出すぞ。いつか家につれて来なさいよ、って)
 隆史は、みどりを会わせた時の母の反応を想像しながらほほ笑んだ。隆史の方も持ち前の洞察力で、母の性格も考えもすっかり見抜いているようだ。

 約束の時間より少し早めに河原に着いた。堤防の坂を上りつめると、みどりがかたわらに止めた自転車のハンドルを握ったまま立っていた。
 「あ、おはよう、ミドリン。早いね」
 「おはよう。楽しみでつい早めに来ちゃった。……どうしたの?」
 不自然な隆史の視線に気付いて、みどりは問いかけた。隆史はいつもと違う軽快で活動的な身なりのみどりの姿を、見知らぬ人を見るような思いでみつめていたのだった。
 「ミドリンって、かみの毛を三つあみにすると……」
 「三つあみにすると、なあに?」
 「うん、首が細く見えるね」
 「何よ、それ」
 みどりは目では笑いながら口をとがらせてみせた。そんなみどりの表情は、隆史の軽い緊張感を一度に消し去った。
 「さ、もう行こうよ。せっかく早く来たんだから」
 隆史は自転車の向きを変えると、坂道を滑り降りた。みどりも後に続いた。
 真っすぐ行くと大通りに突き当たり、そこを左に折れると橋に出る。二人は橋を渡った。橋は道幅狭く、車がすぐわきを走り抜けるので横には並べない。しばらくは隆史が前を走り、みどりが後を追った。
 対岸の河原に着いて、ようやく隆史は後ろをふり返った。少し遅れたみどりが追い付くのを待って、二人は肩を並べて走り出した。
 サイクリングコースは道幅も充分あり、またすれ違う自転車もあまりなく、見通しもきくので横に並んでも危険はない。二人はおしゃべりしながらゆっくり自転車を走らせた。
 「ようやくサイクリングらしくなったね」
 「ほんと。それにいい天気。こんないい天気になるなんて運がいいよ、わたしたち」
 「それなのにうちのお母さん、雨具を持って行けって言うんだ。ミドリンの持ち物はたったそれだけ?」
 みどりの持ち物は小さなウエストポーチと、あとは紙袋が自転車のカゴの中に一つあるだけだ。
 「だって身軽なほうがらくでしょ」
 「それはそうだね」
 二人は鉄橋の下をくぐった。いつものあの河原からは、遥か遠くにかすんで見えるような鉄橋だ。
 「ぼくなんかお母さんに言われるままなんでも持って来たから、ほら、こんなになっちゃったよ」
 隆史はふくれあがった背中のバッグをゆすり上げた。
 「何が入ってるの?」
 「まず弁当だろ、それから雨具にタオルにビニールシートに、あと薬とかも入れたっけ。そしてラジオにオペラグラスに……」
 「ラジオ持って来てるの? 聞かせてよ」
 「オーケー、ちょっと待って」
 隆史はいったん自転車を止め、バッグのポケットからラジオを取り出した。ストラップをグリップにかけてラジオをぶら下げ、その上からハンドルを握った。
 「さあ、行こう」
 さえぎる物もない河原いっぱいに明るい音楽が広がり、その中を二人の自転車は滑るように軽快に走る。
 「なんだかツバメのような気分」
 みどりが言うと、隆史も陽気に言った。
 「じゃあぼくはグライダーだ」
 隆史の胸の前には、あい変わらず緑色の紙飛行機が揺れている。顔を上げふり返ると、さっきくぐった鉄橋は遥か後方に遠ざかっていた。
 二人はそれからいくつもの橋をくぐった。この河にかかる橋はどれも似かよっていて、なんだか同じ所を何度も回っているような印象を受ける。
 やがて二人は支流の一つに突き当たった。短い橋を渡りきると、急にみどりは自転車を止めた。隆史も慌ててブレーキをかけた。
 「なんだよ、急に」
 「ねえ隆くん、こっちの川のほうへ行ってみない?」
 「そうだなあ。うん、そのほうがおもしろそうだ」
 単調な河原の風景に飽きていた隆史は、すぐに同意した。二人はサイクリングコースをはずれると、支流の細い流れをたどって走り出した。
 (土手の中を走るうちに、すっかり外の景色が変わってしまったな)
 今は二人の自転車は、畑の広がる中を走っている。道のすぐかたわらはカボチャの畑らしい。一面の緑色の葉の中に、はっとするほど鮮やかな黄色の花がいくつも咲いている。その一つ一つに目を留める暇もなく、明るく暖かな黄色は後方に流れ去った。
 左側には川の流れが続いている。セキレイが一羽、自転車に驚いて飛び立った。チチチ、チチ、チチ、と硬い鳴き声を発して、波を描きながら自転車の進む方へしばらく飛んでいたが、やがて流れの向こうへ飛び去った。
 隆史は片手でラジオを切った。静寂が戻ると、鳥達の鳴き交わす声が、川のせせらぎの音が、途端に身近なものになった。
 しばらく行くと川はまた枝分かれした。二人はもう目を見交わしただけで、小さな流れをたどる道を選んでいた。
 しばらくしてみどりが言った。
 「きれいな水……。川に降りてみたいね。ちょっと休んでいこうか」
 「もう少し先へ行けば、もっといいところがあるよ」
 そう言いながらも隆史は、ラジオをバッグにしまうために自転車を止めた。
 「小休止だよ」
 「うん」
 みどりは小川のすぐそばまで駆け寄ると、流れをいっしんにみつめた。ほかの物はいっさい眼中にないといった様子のみどりが、隆史にはとても好ましく思えた。
 やがて二人は再び走り出した。遠くにかすんでいたなだらかな山並みも、今では間近にくっきり見える。道は林の中に続き、いつしかゆるやかな上り坂になっていた。
 木の間越しに、またたくようにちらちらと小川が輝いて見える。近付いたり離れたりを繰り返しながらも、道は小川に沿って続いている。二人は小川に近付くとせせらぎの音を聞き、林に深く入るとセミの声に包まれた。
 坂が急になってきた。自然と二人は無口になった。みどりは息をはずませながら自転車をこいでいる。隆史はみどりの自転車の後ろに付き、少し距離をおいてゆっくり走った。
 斜めに射し込む木もれ陽が、みどりの帽子や肩に落ち、背中を流れ落ちてゆく。しばらく隆史はこぼれ落ちる木もれ陽を目で追っていたが、ふと流れを逆にたどって視線を上へ向けた。
 「あっ!」
 隆史は大声を上げた。ブレーキのきしみが辺りに響いた。
 「どうしたの?」
 みどりも自転車を止め、ふり返ってたずねる。
 「……なんでもないよ。気のせいだった」
 みどりは自転車を押して戻って来ると、隆史につられて上を見た。日の光を透かして輝く緑の葉が、風にそよいでふるえている。
 「あの葉っぱが、一瞬ミドリシジミに見えたんだ」
 「ミドリシジミって、緑のシジミチョウの事?」
 「そう。森のゼフィルス、ミドリシジミ。もうまばたきを忘れてしまうくらいにきれいなんだ」
 ため息まじりに隆史は言った。
 「見た事あるの?」
 「いいや、まだ写真や標本でしか見た事ない。いつかは生きて飛んでいるのを見てみたいなあ。本物を自分の目で……。でも初夏のほんの短いあいだしか見られないんだ。それも朝のうちしか出て来ない」
 隆史の口調にはだんだんと熱がこもってきた。
 「でも見るのがむずかしいからこそ、もし見る事ができた時には感激も大きいんだ……。いつかきっと……」
 「隆くんは、虫の虫だね」
 「え?」
 「む、し、の、む、し」
 「…………」
 「ほら、本に熱中する人の事を本の虫って言うでしょ。それとおんなじで、隆くんは虫の虫っていうわけ」
 「……なんだかほめられてるのかからかわれてるのかわかんないや」
 「ほめてるのよ、もちろん」
 「ほんとに?」
 「うん」
 「でも、そういうのは長所だって言えるのかな。ほかの事忘れて何かにのめりこんだり、ひとの考えないおかしな事ばかり考えたりするのって」
 「もちろんよ。わたしいつも感心してるんだから」
 「ほんとうに?」
 「ええ」
 「……ありがと。さ、行こうか」
 表情をみどりに見られるのがてれくさくて、隆史は先を走った。
 不意に視界が開けた。林を抜けて川のほとりに出たのだ。道は小さな橋を渡って向こう岸に続いている。
 「わあ、気持ちよさそう」
 橋の上で自転車を止め、流れをのぞき込みながらみどりは歓声を上げた。
 「川に降りてみようよ。ほら、そこから降りられるよ」
 橋を渡りきった所から、川原へ降りる道が草を分けて細く通じている。二人はそこに自転車を止めると、急な斜面を降りて行った。
 川原の丸い石の感触が、靴底を通して足の裏に伝わってくる。その感触や石同士の触れ合う音を不思議に懐かしく感じながら、隆史は乾いた白い石の上を歩き回った。
 「何してるの? 隆くんも川に入ったらいいのに」
 みどりはもうはだしになって、流れの中で水しぶきを上げている。
 「もっと先まで行くつもりなの? もういいじゃない。ここでお昼を食べようよ」
 「だってまだ早いよ」
 「だからそれまで遊んでいようよ。ね」
 「わかったよ、そうする」
 みどりは上り坂が嫌になったのだろうと隆史は思ったが、隆史自身ここが気に入ったので、もう何も言わなかった。
 背負っていた荷物を下ろしてはだしになると、心までもが身軽になった。隆史はつま先で跳ねるようにしながら、流れの中に駆け込んだ。
 冷たい水が足の指の間をすり抜ける。なめらかな波がくるぶしの辺りをなでる。汗でシャツの張り付いた背中に受ける風も心地良い。隆史は胸まで水しぶきを跳ね上げながら、わざと乱暴に流れの中を歩き回った。
 「隆くん、石を裏返したりしないでね」
 「どうして?」
 「だって、虫がくっついてたりするじゃない」
 みどりは顔をしかめた。
 「ハハ、そんなのがこわいの? ミドリン」
 「ただ気持ちが悪いだけ。カニとかだったらへいきなんだけど」
 「カニのほうがよっぽどこわいよ。はさまれたら痛いし」
 「はさまれるような事するからいけないのよ。すぐつかまえようとするんだから、男の子って」
 「女の子のほうこそ、すぐキャーキャー言ってにげるくせに」
 「言ったでしょ、わたしはへいきよ。……虫だけはダメだけど」
 「ほーらやっぱり」
 二人ははしゃぎながら、流れをゆっくりさかのぼった。川沿いに続いていた道は離れてゆき、両岸には茂る木々が迫ってきた。
 日陰に入ると、ひんやりと空気が変わった。光の反射がなくなり、川底がはっきりと見える。
 「あっ、魚! ほら、わあ、たくさんいる」
 「向こうにだっていっぱいいたよ」
 「そう? 気が付かなかったなあ」
 「あんなふうに歩き回ってたら、にげるに決まってるでしょ」
 「そうか」
 隆史は立ち止まると、そっと水の上にかがみ込んだ。目をこらすと、小さな魚達が水のゆらめきの下をついついと泳いでいるのが、はっきり見てとれる。
 「前に家族で川に行った時、タオルで魚をすくった事があるよ。でもここは流れが速いからむりだろうね」
 隆史はいつまでも、じっと足もとの流れをみつめていた。するとそのうちに、水が流れて行くのではなく、まるで自分が川底と共に上流へ向かって滑るような気がしてきた。軽いめまいを感じ、隆史は身を起こすと頭を振った。
 「あれ? ミドリン?」
 そこにみどりはいなかった。辺りを見回すと、下流の陽射しの中にみどりは立っている。まだ頭が少しクラクラするのをこらえながら、隆史はもといた場所へ駆け戻った。
 「どうしたの? 急にもどって来たりして」
 「ううん、ただ魚を追いかけてたらここまで来ちゃっただけ」
 「なあんだ」
 「ねえ隆くん。さっきミドリシジミの事をゼフィルスって言ったけど、ゼフィルスっていうのはどういう意味なの?」
 「え? えーと……」
 突然そんな事を聞かれ、隆史は少しとまどった。
 「よくは知らないけど、風の神か精霊みたいなものだったと思う。たしか西風の」
 「西風? じゃあこの風ね」
 「ああ、ほんとうだ」
 隆史は、今まで気に留めなかった風に意識を向けた。
 (風は空気の流れだ。目には見えないけれど、これも川なんだ。ほら、流れが顔に当たる。首をかすめてゆく……)
 「ここにはゼフィルスのほかにも、何かがいるようだね」
 隆史は思いきって言った。
 「何かって、何が?」
 「……たとえばニンフ」
 「ニンフ?」
 「そう、水辺のニンフ、ナイアドが」
 「……そうね」
 みどりの表情には特に何も浮かばず、ただ水面の反射する光が、ほほの辺りでゆらゆらと揺れていた。

 それから隆史は、オペラグラスを片手に一人で上流へ向かった。みどりはあい変わらず流れをみつめていたので、あえて誘いはしなかった。
 しばらくして隆史が戻って来ると、みどりは素足に靴をはいて川原の大きい石の上に座り、隆史のラジオを耳に当てて小さな音で聞いていた。
 「おなかすいたな。弁当食べようか」
 「うん。ちょっと取ってくるね」
 みどりはラジオを持ったまま、自転車の方へ駆けて行った。その間に隆史はビニールシートを川原に広げ、弁当をバッグから取り出した。
 「おーい、隆くーん」
 呼びかける声にふり返ると、みどりは片手にラジオと紙袋を持ち、もう片方の手に隆史の紙飛行機を持って立っている。
 「いくよー。それっ」
 みどりは紙飛行機を隆史に向けて勢いよく飛ばした。紙飛行機は風に乗ったのか、思いがけなく高く飛んだ。いっぱいに伸ばした隆史の手の先を越え、そのまま背後の川に突っ込んだ。
 「ああっ!」
 隆史は慌ててふり返った。流れて行く紙飛行機はすぐに見えなくなり、追いかける暇もなく、隆史はただ立ちつくした。
 「隆くん、ごめん」
 背後のみどりの声に、隆史は向き直った。
 「あんなに飛ぶなんて思わなかったものだから……」
 消え入りそうなみどりの声に、隆史はどう言っていいのか分からずくちびるをかみしめた。そのまま黙ってみどりの横を通り抜けると、バッグの方へ歩いて行った。みどりもその後を追う。
 「また作れるよね。隆くん器用だし。それよりも、あしたあの河原に行ったら流れ着いてるかもしれないよ。この川とずっとつながってるんだから」
 「そんなはずないだろ!」
 ふり向きざまに隆史はどなった。
 「だいたい、きみはいっつもひとの物を勝手に……」
 突然の感情の昂ぶりに、言葉がそれ以上続かなかった。隆史はくちびるをふるわせながら荒々しくビニールシートの上に座ると、立ちつくしているみどりの手から乱暴にラジオを取り上げた。
 みどりの手に触れた瞬間、隆史の心に後悔の思いが生じた。急速に頭が冷え、耳だけに熱が残った。今度はみどりがくちびるをかみしめている。隆史は胸の奥が剣先で突かれたように痛んだ。
 みどりは立ちつくしたまま、いつまでも黙っている。沈黙に耐えきれず、隆史は思いきって口を開いた。
 「……座りなよ。弁当食べよう」
 みどりは小さくうなずくと素直に従った。紙袋から菓子パンと紙パックのコーヒー二つを取り出すと、一つを黙って隆史に差し出した。
 「ありがとう」
 「うん」
 その短い返事はいく分ぎこちなかったが、隆史の気持ちは少しやわらいだ。隆史はラジオのスイッチを入れた。
 「ミドリンはそれだけでたりるの? たりなかったら分けてあげるよ」
 「うん」
 「そうだ、くだものもあるんだ。ほらブドウ。あとで食べよう」
 「ありがとう」
 みどりのほほ笑みに、隆史はふっと気持ちが楽になった。
 しばらくしてみどりが言った。
 「さっきは何してたの? 一人で向こうのほうに行ってたけど」
 「ああ、カワセミがいないかと思ってさ、さがしに行ってたんだ」
 「カワセミって?」
 「カワセミというのはね、すごくきれいな鳥なんだ。青と緑の羽根を持っていて、胸がオレンジ色で。水に勢いよく飛びこんで、するどいくちばしで魚をとるんだ」
 「あ、思い出した。『やまなし』の中に出てきたよね」
 「そうそう」
 宮沢賢治の「やまなし」は隆史もよく知っている。初めて読んだ時には、カニの兄弟がなんだか自分と裕史のようだと思ったりもした。
 「クラムボンはわらったよ」
 「クラムボンはかぷかぷわらったよ」
 二人は顔を見合わせて笑った。もうわだかまりは少しも残っていなかった。
 「カワセミには別の呼び名もあるんだ。ヒスイとかソニドリとか。知ってる?」
 隆史は食べるのも忘れて、熱心にカワセミの説明を始めた。こんな時の隆史は、やはりとても生き生きしている。
 「ヒスイ? ヒスイっていうと、あのきれいな石の事?」
 「そう、あの石は、カワセミのようにきれいな緑色をしているからヒスイという名前が付いたわけで、もともとはヒスイというのはカワセミの事らしいよ。翡がオスで、翠がメスなんだって」
 隆史が手のひらに難しい漢字を書いてみせると、みどりはすっかり感心した様子で何度もうなずいた。隆史は嬉しそうに続けた。
 「それからね、ソニドリという呼び名から緑という色の名前もできたらしいよ」
 「ええっ? 緑もカワセミからきているの?」
 「そういう説もあるらしい。よくは知らないけど」
 「ふうん。わたしも見てみたいなあ。カワセミ……ソニドリ……」
 まるで隆史の熱意がうつったようにみどりは遠い目をしてしていたが、ふと思い付いたように言った。
 「それで隆くんは見付けたの? カワセミ」
 「いいや、見付からなかった。こういうところならきっといると思ったんだけど。ミドリシジミとおんなじで、本物はまだ見た事ないんだ」
 「でも、いつかきっと……、でしょ?」
 「まあね」
 隆史は笑いながらうなずいた。
 「わたしのほうはいい物を見付けたよ。ほうら」
 みどりはポケットから何かを取り出すと、隆史の目の前でそっと手を開いた。
 「へえ、きれいだね。川で拾ったの?」
 みどりの手のひらの上には、くすんだ緑色の石がのっている。その石は川原の石らしく丸みを帯びていて平たく、みどりの手のひらのくぼみにしっくりと収まっている。隆史はそれをそっとつまんで自分の手に取った。
 「もう一つあるから、それは隆くんにあげる」
 「いいの? ありがとう」
 手触りはわりとすべすべしているが、ところどころが小さくくぼんでいる。隆史は緑の石をためつすがめつ眺めた。ちょっとぼやけたような濃い緑色の中に、細く小さく白い色がいくつも入っている。まるで緑の空に浮かんだ絹雲のようだと隆史は思った。
 「なんていう石? こういうのにはくわしいんでしょ?」
 ポケットから取り出した、隆史の石よりもいく分小ぶりのもう一つの石をみつめながら、みどりはたずねた。
 「どう? ヒスイの原石なんて事はない?」
 「まさかそれはないよ。うーん、なんだろうなあ。わからないや」
 「隆くんにもわからないの? 不思議な石ね」
 「火成岩にはちがいないと思うけど……」
 「ねえ、こんなふうに考えてみる事はできない?」
 みどりはひざの上の紙袋をかたわらに置き、手を伸ばしてラジオを切ると、身を乗り出すようにして話し始めた。
 「むかし、高い高い山の上に湖があったの。澄んだ深い緑色をした、小さな小さな湖が。
 さざ波一つ立てないその湖は、いつも鏡のようだった。けれどもそこはあまりに高かったから、まわりには木もなく、水を飲みに来る生き物もなく、湖はただ空を映すだけだった。
 長い年月がたつうちに湖は、空と雲を映しながら少しずつ少しずつ小さくなっていって……、そして高い山の上には、緑の石だけが残った。小さな湖の名残の、小さな緑の石が」
 隆史は、目を輝かせながら話すみどりの横顔をただみつめた。この辺りにそんな高い山などないという考えもすっかり消え、隆史はみどりの話にすっかり引き込まれていた。
 みどりは視線を手の中の石に戻した。つられて隆史も自分の石を見た。その石は確かに、深い水の色を思わせる緑色をしている。みどりの話に共感する隆史にとって、それはもうただの川原の石ではなかった。
 「それから長い時間が過ぎて、石は色あせてしまったけれど、石に湖の色を取りもどさせる方法が一つ……」
 「どんな方法?」
 隆史はかすれたような声でたずねた。
 「水の中に入れてごらんよ。そうすれば、石は湖だったころの色を思い出すから」
 「そうか!」
 隆史はひざの上から弁当箱を跳ね飛ばして立ち上がると、川へ駆けて行った。
 息を詰めて、隆史は石をゆっくりと流れに浸した。波が曇りを拭き取るように、石は鮮やかさを取り戻す。川底の赤みを帯びた小石の中で、石の緑色はいっそう引き立った。
 「ミドリン、ほらっ」
 腕からしずくをしたたらせながら、隆史はみどりの所へ駆け戻った。
 「その石ちょっと見せて」
 隆史は腕を伸ばし、みどりの持つ乾いたままの石に、水のしたたる自分の石を並べてみた。
 「ほら、こんなにきれいになったよ」
 「でしょ?」
 みどりは得意な様子だ。
 「うん。でもかわくとまたもとにもどっちゃうな」
 「もとにもどるんじゃないの。この色こそほんとの色なんだから」
 「ああそうだったね。うん、いい事考えた。この色をずっと残す方法があるよ」
 「どうするの?」
 「ボンドをぬるんだ。木工用の白いやつを。あれならかわくと透明なまくになるから、いつでもぬれたように……」
 「いけない、そんな事」
 みどりの厳しい口調に、隆史は言葉を途中でのみ込んだ。
 「……そうだね。べつにそうしようと思ったわけじゃなくて、ただそういう方法もあるって言っただけさ」
 そんな考えをつい口にしてしまった事を隆史は恥じた。ばつの悪さに隆史は話題を変えた。
 「ブドウがあるけど、食べる?」
 「うん。ありがとう」
 隆史は小さな容器を開けた。中のブドウは一房の三分の一ほどで、十数粒しかない。
 「なんか悪いみたい。そんなちょっぴりを分けてもらうの」
 「二人で食べるほうがおいしいし、こういうのはちょっぴりをおしみながら食べるのがいいんだ」
 「そうかもね」
 「向こうで食べよう、川の中の石の上で。ここは陽が当たって暑いよ」
 流れの中の石の上に二人は背中合わせに座り、薄緑色の実をぽつりぽつりとちぎっては、ゆっくり口に運んだ。半透明の実のやわらかな甘みとほのかな酸味を口に含みながら、そして周りの水音に耳を傾けながら、二人は幻の湖にめいめい思いを馳せていた。
 ややあって、隆史がぽつりと言った。
 「いい名前を思い付いたよ」
 「なんの名前?」
 「この石さ。これが翡、そしてそれが翠。……どう?」
 「すてきね」
 みどりは短く答えると、後はもう何も言わなかった。心安らぐ静寂を壊すまいと気づかうように。

 午後の強い陽射しを避けて、それから二人は木々の茂る上流へ向かった。
 「うわっ、こここんなに深いよ」
 「ほんと。水が緑に見えるね」
 「ミドリンも来てみなよ」
 「やだ、ぬれちゃうもん」
 「なんか泳ぎたくなってきたなあ」
 「ちょっと、本気?」
 「ああ。ミドリンもいっしょに泳がない?」
 「いやよ、水着もないのに」
 「ハハ、なに本気にしてんの。じょうだん、じょうだんに決まってるだろ」
 「もう。だって半魚人くんが言うとじょうだんに思えないんだもん」
 「あ、言ったな」
 隆史の先制攻撃で水のかけ合いが始まった。歓声をあげながら水面を叩き、水をすくい上げ、相手の水を避けて二人は走り回った。
 二人のほかには誰もいない川の中で、隆史は不思議な胸の高鳴りと、不自然な気分の昂揚を覚えた。木もれ陽に輝く水しぶきの中で、二人は思いきりはしゃぎ、笑い合った。
 「もうやめて隆くん。こうさんよ」
 みどりの声に隆史は手を止めた。まだ胸がどきどきしている。思いきり遊んだ後の充足感が、軽い疲労感と共に体中に広がってゆく。
 「あーあ、こんなにぬれちゃったじゃないの」
 「それくらい、ぼくのほうがもっとひどいさ。服着たまま泳いだのと変わんないよ。ほら」
 隆史は体に張り付くシャツをつまんで引っ張った。あごからも前髪からも、しずくがしたたり落ちている。みどりはウエストポーチから取り出したハンカチで、額や首すじを拭き始めた。
 「しまったな、ぼくもタオルを持って来るんだった。バッグに置いてきちゃったよ」
 「わたしのハンカチ、貸してあげようか?」
 「いいの?」
 「だって、わたしがそんなに水をかけたんだもん。はい。使ったあとで悪いけど」
 「そんな、べつにかまわないよ」
 隆史は遠慮がちにみどりからハンカチを受け取ると、額やほほの辺りをさっと拭いただけですぐに返した。
 「どうもありがとう」
 「フフ、どういたしまして」
 その時不意に、ヒグラシが間近で鳴き出した。いつもなら、われを忘れて聞き入ってしまうほど美しい哀調を帯びたその声にも、今の隆史は慌てるだけだった。
 「たいへんだ。早く帰らないと」
 「どうしたの? 急に」
 「ほら、ヒグラシが鳴き出した。暗くなる前に帰らないと」
 「へいきよ、まだそんな時間じゃないよ。林の中だから、早くうす暗くなっただけ」
 「そうかな」
 隆史は少し落ち着きを取り戻すと、しばらくヒグラシの声に聞き入った。
 「でも、やっぱりもう帰ろう」
 二人は来る時よりもいく分早足で、川の流れの中を戻って行った。
 両岸の林では、ヒグラシの声がいちだんと高まった。どういうわけか、ヒグラシは左側の声がとぎれてから右側が鳴き出し、そしてまた左側というように、左右交互に鳴き交わしている。
 「こだまみたいだ」
 「ううん、これは二重唱よ」
 あかがね色に輝くような響きの中で、隆史とみどりはごく自然に手を取り合っていた。
 「楽しかったね」
 「うん。あんなに思いっきり遊んだのって、ひさしぶり」
 「ほんと。またいつかここに来ようよ」
 「その時は水着も持ってね」
 林を抜けると、川原は西陽に照らされて白く明るかった。みどりの言う通り太陽はまだ高い。これなら明るいうちに帰れそうだと隆史は安心した。
 辺りには誰もいないのだから恥ずかしがる理由もないのに、陽射しの中へ出ると二人はつないでいた手をどちらからともなくほどいた。
 川原に上がると隆史は荷物を片付け始めた。
 「やっぱりもう帰るの?」
 「だってぼくの家は遠いんだよ。あの河原からまだずっと時間がかかるんだから」
 名残惜しいのは隆史だって同じだ。だが母にいろいろ言われるのが嫌なので、暗くなって帰るのだけは避けたかった。気にしすぎだとも思うが、早く帰るに越した事はない。
 二人は荷物を片付けると、素足にそのまま靴をはいて自転車の所へ戻った。
 隆史の自転車のハンドルには、むなしくせんたくばさみだけがぶら下がっている。目の前にあるので、乗れば嫌でも目に入ってしまう。みどりに対する憤りはもうないが、落胆の気持ちだけは隠しようもなかった。
 「…………」
 「ごめんね隆くん」
 「ミドリンはもう気にしなくていいよ。また同じ物を作るから。型の写しも残ってるし、まったく同じ物だって作り直せるよ」
 「……隆くん、あのねえ……」
 みどりは始め遠慮がちに、だがやがてはっきりした口調で言った。
 「わたしが悪かったんだからあまり言えないけど、あんまり一つの物にこだわらないほうがいいよ。何かに夢中になるのはいい事だけど、一つの物に執着するとほかの物が見えなくなるから。隆くんはせっかくいろんな物を見付け出す才能があるんだし、それじゃもったいないよ」
 隆史は神妙な表情でうなずいた。
 「だから、たとえばあの石の事も、あんまり本気にしないでね。大事にはしてほしいけど、いつも持ち歩いたりしてちゃだめ。どこかにしまっておいて、ときどきながめては今日のわたしや川での事を思い出すようにしてよ。ね」
 「わかったよ、そうする。どこかに大事にしまっておくよ」
 「ありがとう」
 (熱中と執着とはちがう、か……)
 隆史は心の中でつぶやくと、せんたくばさみをつかんで力まかせに糸を引きちぎった。その乱暴な行動にみどりは一瞬驚いたようだったが、隆史のおだやかな表情を見てとると緊張を解いた。せんたくばさみを無造作にポケットに押し込みながら笑いかける隆史に、みどりは明るい声でもう一度ごめんねと言った。


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