緑の空 − 少年のまなざし −


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     11 晩夏

 わりと早めに帰って来たものの、やはり母と裕史の方が先に帰っていた。隆史が帰るとじきに夕食だった。
 「やっぱり兄弟ねえ。裕
ひろくんもあなたとおんなじ。何か興味のある物を見付けたら、もうその前から動かないんだから」
 夕食の時に、母は科学館での事を話してくれた。裕史は黙ったまま、ただてれたように笑っている。隆史は科学オンチの母をからかうようなつもりでたずねてみた。
 「それで、お母さんのほうは何か興味のある物見付けたの?」
 「ええと、きれいだなと思った物が一つあったわよ。なんていったかな、ヘンコウ……写真?」
 「偏光顕微鏡写真の事?」
 「そうそう。石の写真だったけれど、いろんな色に光っていてきれいだったよ。石ってあんなにきれいな物だったのね」
 母の言葉は、隆史にはちょっと意外だった。
 「隆史の方はどうだった? サイクリングは楽しかった?」
 「まあ」
 「どこまで行ってきたの?」
 「どこかの小川まで。途中からコースをはずれてね」
 「そう。暑かったでしょう」
 「ううん。ずっと日かげにいたし」
 「疲れてるみたいだから、お風呂に入って早く寝なさいね」
 隆史が気のない返事をするのは、疲れのためだと母は思ったらしい。実際なんとなくだるかったので、言われるまま隆史は早めにベッドに入った。
 その夜隆史は夢を見た。浅い眠りの中で、短い夢を夜通し繰り返し見続けていた。そのくせ目が覚めてみると、夢の内容はまったく思い出せなかった。
 ただ一つだけ、それがみどりの夢だったという事だけは確かだ。水面の反射に照らされたみどりの横顔だけが、目覚めた後もはっきり脳裏に焼き付いている。ややうつ向き加減で、愁いを含んだようにも見える表情のみどりのほほに、ゆらめく波のオパール色の光が揺れていた。

 目覚めてもまだ熱に浮かされたような気分で、隆史はすぐには起き上がれなかった。だらだらと着替えて階下へ降りて行くと、母もいつもと違う隆史の様子にすぐ気付いた。
 「どうしたの? 顔がへんに赤いけど」
 額に当てられた母の手が、ひどく冷たく感じる。
 「熱があるじゃないの。ちょっと計ってみなさい。まったく、なかなか起きてこないと思ったら……」
 体温を計っている間中、母はあきれたような口調でしゃべり続けた。
 「昨日は川で何してたの? 水遊びでもして冷えたんでしょう」
 熱は七度九分。母はほらみなさいといった表情をして、体温計と隆史の顔を見くらべた。
 「すぐ横になりなさい。今日一日おとなしく寝とくのよ」
 「うん」
 しゃべり続ける母に対して、それまでずっと黙っていた隆史も短く返事をした。やはり少し鼻声だ。隆史は紅茶を飲んだだけでベッドに戻った。
 熱があると分かった途端に、体中にだるさが広がった。吐く息の熱いのが、自分でも分かる。静かに横になっていると、ほほの上にかげろうが立つような気さえする。
 隆史は横を向き、火照ったほほを氷枕に押し付けた。耳の下を泡が流れ、氷が触れ合って涼しげな音を立てる。やがては全身のけだるささえどこか心地良く感じられ、隆史はじきに浅い眠りについた。
 眠りの中で、隆史は眠りを自覚していた。それは妙な感覚だった。周囲の物音も聞こえ、まぶたを通して部屋の明るさも感じ取れる。時間の経過も分かり、おぼろげながら思考も働く。そんな現実の感覚と平行して、隆史は再び夢を見ていた。音もなく、動きもなく、みどりの横顔がただ浮かんでは消えてゆくだけの夢が、繰り返し繰り返しいつまでも続いた。
 「隆くん」
 開いたままのドアをノックしながら、ベッドの隆史に声をかけたのは母だった。さっきとはうって変わった優しい声だ。
 「モモ食べるでしょ?」
 母は缶詰のモモを入れたガラスの器を、枕もとまで持って来てくれた。隆史はベッドの上で上体を起こした。
 「今何時ごろ?」
 「十一時を過ぎたところ」
 「えっ、もうそんなになるんだ」
 「よく寝てたみたいね。はい」
 隆史はガラスの器と小さなフォークを受け取った。とろりとしたシロップを一口すすると、乾いていた口の中がなめらかになった。ようやく食欲がわいてきて、隆史はシロップのしたたる大きなモモの実にかぶりついた。
 「朝食べてないからお腹すいたんでしょ。ヨーグルトもあるけど、持って来ようか」
 「ううん、今はいいや」
 「お昼はちゃんと食べるでしょ?」
 「うん」
 その昼食もベッドで食べ、裕史と共有の部屋も独占したような形で、隆史はすっかり病人気分でその日と次の日を過ごした。
 三日目には熱もすっかり下がり、隆史はベッドから起き出したが、隆史が何か言う前に母はクギをさした。
 「今日一日は家の中でおとなしくしとくのよ。八度も熱があったのを忘れないでね」
 あともう一日、隆史は河原へ行くのをあきらめなければならなかった。
 (八度だなんて、おおげさな事言うんだから。七度台だったじゃないか……。よし、いい機会だから宿題の残りを片付けちゃおうか。そうだ、絵をまだぜんぜん描いてなかったんだ)
 丸めた画用紙を机と本棚の間に立てかけたままにしていたのを、隆史は思い出した。
 (よし、今日は絵を描こう。描く物ももう決めた)
 ひとたびそう思うと、すぐに取りかからずにはいられない。この日一日、そして翌日の午前中いっぱい、隆史は絵を描く事に没頭した。ほかの事には目もくれず、後で思い返すと自分でも驚くほど、絵を描く事に熱中していた。
 「もうお昼よ。ちょっと休んだら?」
 すぐ後ろで母の声がして、隆史は絵筆を止めた。気付かなかったが、しばらく前から母はそこにいたようだ。
 「これはどこの景色なの?」
 「こないだ行った小川。写生だから、ほんとはその場で描かないといけないんだろうけど……。でもしかたないよね」
 「みんな憶えているの?」
 「枝の形とか石の場所まで実物通りとはいかないけど」
 「それにしてもよく描いたわね。もう少しで仕上がるじゃない」
 「うん、あとはここだけだ。続きは夜やるよ。午後はちょっと出かけてくるね」
 「どこへ行くの?」
 「……河原へ」

 河原へ行くのは三日ぶりでしかないというのに、隆史にはかなり長い間来なかったような気がした。しかしいつもの場所で、みどりは待っていてくれた。
 「隆くんがあれからちっとも来ないから、わたしここで三日も待っていたのよ」
 「またミドリンもおおげさな事言うんだから」
 「でも熱があったのならしかたないよね。かぜひいたんでしょ、あの時ぬれたから」
 「だと思う。でももう平気だ。時間がもったいなくて、寝てなんていられないよ」
 もう夏休みも残り少ない。学校が始まれば、三日どころか七日に一度しかみどりとは会えなくなる。毎日河原へ通うのが習慣となった今では、それがとてもつらい事のように隆史には思えた。
 そんな思いも表情には出さず、隆史は陽気にふるまっていた。残り少なくなった時間を、めいっぱい楽しもうとするかのように。
 ところが、隆史の気持ちを見透かしているのか、みどりもまったく同じ思いを突然口にした。
 「もうじき夏休みも終わるのね。そうなるとわたし、三日どころか七日も待たなければならない……」
 そう言うみどりの物憂げな横顔に隆史は一瞬とまどったが、気を取り直してわざと明るい声で言った。
 「それはそうと、今度家に遊びに来ない?」
 「隆くんの家へ? でも、家の人はなんて?」
 「それがさ、お母さんがひどく熱心に言うんだ。今日出かける前に河原へ行ってくるって言ったら、たまには家へつれていらっしゃいなんて言って。ぼくがどうして毎日ここへ来るのかも、もう気付いてるみたいだ」
 「……そう」
 「うるさい弟もいるけど、ほんといつかおいでよ」
 「隆くんの弟って、裕史くんっていったっけ。いくつなの?」
 「九才。いま三年生」
 「ふうん、隆くんに裕くんか。よく似てるんでしょ」
 「どうなのかなあ。自分じゃそうは思わないけど、みんな似てるって言うんだよなあ。一度こんなふうに言われた事もあるよ。三つちがいのふたごのようだって」
 みどりは笑った。表情にもいつもの明るさが戻っていた。
 「こうしていると、わたしたちもきょうだいに見えるかもしれないね」
 「そんなはずないよ」
 反射的に隆史は否定したが、辺りを見回しながら、自分達がひとからはどんなふうに見えるかゆっくり考えてみた。
 今日はいつもより涼しいせいか、河原には人の姿も多い。けれどもこうして堤防の上から見渡すと、誰もがめいめい自分の事だけ考えていて、他人の事など全然見ていないように思える。
 「だいたい、だれもぼくらの事なんか気にしてないよ」
 「そう? じゃあだれかに聞いてみようか」
 「よしなよ、はずかしい。ちょっとミドリン、待てったら」
 堤防の上を駆けて行くみどりの後を、隆史は慌てて追いかけた。
 向こうから、犬を連れた男の人がやって来る。目の前でみどりが立ち止まると、その人も足を止めた。
 「ちょっと聞きますけど、わたしとあの男の子と、きょうだいに見えます?」
 いきなり妙な事を聞かれ、その男の人はめんくらっているようだ。同様に隆史も、その光景に違和感を抱いていた。
 (みどりがぼく以外のだれかと話をするのを、初めて見た……。そうだよな、だれにだってみどりの姿が見えて当然だし、話す事だってあるさ)
 そう考えてはみても、心の中に広がる対象のはっきりしないかすかな不満を、隆史はどうする事も出来なかった。
 隆史はようやくみどりに追い付いた。近くで見ると相手の人はまだ若く、どことなく親しみの持てる印象だ。隆史は少し気持ちをやわらげ、みどりの横に並んで興味深げに相手の答えを待った。
 「うーん、違うと思うな」
 青年は、二人を見くらべながらそう答えた。
 「どうしてそう思うんですか?」
 今度は隆史の方がたずねる。
 「だって本当のきょうだいだったら、そんな事ひとに聞いてみたりはしないだろ。違うかい?」
 青年はやや目を細めて好ましげに二人を見ていたが、二人が顔を見合わせると途端にふき出した。
 「じゃあ、どっちが年上に見え……」
 「もう、かんべん」
 青年は笑いをこらえながら、片手で顔を覆って二人の横を通り過ぎた。
 「ちがうと思うって」
 「おかしな事聞くから、見なよ、あの人。かたふるわせて笑ってるじゃないか」
 隆史もまた、大笑いしたいような、ひどく愉快な気分だった。
 (思いもよらない事ばかりやって、これだからみどりといると楽しい。みどりといっしょにいられるなら、それだけで最高だ)
 たとえみどりがほかの誰かと話をしようと、みどりはいつも自分の身近にいる。そしてみどりのもっとも身近にいるのもやはり自分だ。その思い付きは、さっきのかすかな不満を打ち消すには充分だった。

 いつにない充足感の中で、小学生時代最後の夏休みは過ぎていった。
 三十一日の夜、ひさしぶりに父から電話があった。受話器を取ったのは母だが、その話しぶりから隆史にはすぐに父からだと分かった。
 「……ええ、……ええ、二人とも元気よ。真っ黒に日焼けして。こないだちょっと隆史が熱出して寝込んだけど。……そうだったみたい。友達と川に行った翌日だから、その時冷えたせいでしょう」
 (またよけいな事まで言うんだから)
 それでも隆史は話に耳を傾けていた。どうやら父が帰って来るようだ。母が話を終え、隆史は受話器を受け取った。
 「もしもし、お父さん?」
 「ああ、隆史か。どうだ、宿題は終わったか?」
 「もうとっくに終わらせてるよ」
 「ほう、珍しいな。てっきり今頃は宿題に追われてると思ったから、ハッパをかけてやろうとこうして電話したんだがなあ」
 「当てがはずれて残念でした。ねえ、今度帰って来るんだって?」
 「ああ、再来週の土曜に帰るよ」
 「そう。えーと、十六日か」
 「なんだ、ずいぶんそっけない返事だな。感激が薄いぞ」
 「そんな事ないよ。お父さんが帰って来るのはうれしいよ。きっと夕ごはんがごちそうになるからね」
 「ハッハッハ、それが楽しみかあ」
 夏休みの最終日を、明日から学校が始まるという夜を、隆史は意外なほど満ち足りた気分で過ごし、そしておだやかな眠りについた。


     12 二学期

 二学期が始まって半月が過ぎた。七日に一度しかみどりと会えないという事も、学校が始まって三日目には最初の日曜日が巡ってきたせいもあってか、思っていたほどつらいものにはならなかった。
 そして三週目の土曜日、隆史は丸めた絵を片手に上機嫌で帰宅した。すると父はもう帰って来ていて、勢いよくしぶきを散らしながら庭にホースで水をまいていた。
 「あれっ、お父さん。お帰りなさい」
 「ああ隆史か、お帰り」
 「早かったんだね。ほら、ちょっとこれ見てよ」
 隆史は絵を広げて父に見せた。絵には金色のリボンが付いたままになっている。
 「ほう、金賞か」
 「クラスの中でだけどね」
 その場で写生したのでなく、家で思い出しながら描いたこの絵が金賞に選ばれた事に、始めのうち隆史はうしろめたさを感じていた。しかし今ではそんな事はすっかり忘れている。家に入って母にも得意げに見せた。母は絵を手に取ってしばらく眺めると、どこかに飾っておかないとね、と言いながら持って行ってしまった。
 昼食を食べ終えると、父は部屋の本棚の整理を始めた。隆史と裕史も邪魔にならない程度に手伝いをした。
 「だいぶゴミが出たな。庭で燃やすか」
 「なんでわざわざもやすの? ゴミの日に出したらいいのに」
 「いいか裕史、これはいらなくなったとはいえ、元は重要な書類だ。だから持ち出したりしないで、家で焼いてしまった方がいいんだよ」
 父が作ったような真顔で言うので、隆史も裕史も笑ってしまった。本棚から出たゴミは古本や雑誌がほとんどで、会社の物といえばせいぜい社内報の類いがあるくらいだから。
 ゴミは古い石油缶の中で燃やした。加減が分からず最初に隆史がゴミを入れ過ぎ、炎は見る間に大きくなった。熱いのを嫌がって裕史は家に入ったが、隆史は額に汗をにじませながらも、ひざの上に手をついて炎に見入っていた。
 父が雑誌を一冊丸め、素早く缶の中へ押し込んだ。雑誌はみずからの弾力で平らになると、あとは炎がページを繰る。グラビアのカラー写真のページが一枚、そしてまた一枚、端から変色しつつしわになってゆく。
 その時、紙の縁から噴き出す炎が、一瞬緑色に染まって見えた。
 「あれっ? お父さん」
 「どうした」
 「今火が緑色になったよ。ほらまた。ほら、このへん、見える?」
 「そりゃ隆史に見えるんだから父さんにだって見えるさ」
 「そう。おもしろいね、なんでだろう」
 「そうだなあ、インクに含まれる成分の炎色反応じゃないか? はっきりとは分からんが、たぶんそんなもんだろう」
 「炎色反応……」
 隆史は小さな声でつぶやきながら、そういった類いの理由付けが一番聞きたくないと思った。隆史は炎から目をそらして話題を変えた。
 「七月のおつり、あとで返すね」
 「なんだ? おつりって」
 「ほら、あの時裕史と二人で帰るお金って、二千円くれたじゃない。あれからタクシーで帰ったんだけど、千円ちょっとしかかからなかったから」
 「なんだ、そんな事か。そんな小さな事をいちいち気にするなって」
 そう言いながら父は、手に持っていた最後の一冊を炎の中に放り込み、ゴミ箱に残った紙くずを勢いよくぶちまけた。炎は一瞬大きくふくれ上がり、そして急速に小さくなった。
 父は庭の隅にあった竹の棒で灰をかき回しながら、少しあらたまった口調で言った。
 「なあ隆史、父さんがいない間、あの部屋を使ったらどうだ?」
 「どうして?」
 「裕史と一緒の部屋では、勉強に身が入らないだろう」
 「そんな事ないよ」
 「そうか? でも隆史も来年は中学生だろう。もっとしっかり勉強してもらわないとな。だから勉強部屋として使うといい」
 「…………」
 「せっかく部屋が空いているんだ。そうしなさい」
 隆史は考え込んでいた。父の提案の事ではなく、中学生になるという事を。今までは、まだずっと先の事だと気にもしないでいたのだが、父の一言でいきなり身近な事に思えてきた。隆史は気が滅入った。
 「机は父さんのをそのまま使うといい。本棚は片付いたし、引き出しの中も後で片付けておこう」
 もうすっかりそう決まってしまったようだ。特に反対する理由も見付からず、隆史はただ黙ってうなずいた。
 「それはそうと、学校や塾の勉強で分からない事はないか? あったら今のうちに言っておけよ、教えてやるから」
 「べつに何もないよ」
 「そうか……。頼もしいな」
 そう言うと父は笑顔を見せた。
 背後でカラカラとアルミサッシの窓が開く音がした。ふり返ると、母が紙袋を持って立っている。
 「もう火は消えちゃったの? ついでにこれも燃やしてほしいんだけど」
 「ああいいよ。父さん火を燃やすの好きだから」
 この暑い時に物好きだなと思いながらも、自分だってけっこう面白がっているのだからひとの事は言えないな、と隆史は一人苦笑した。
 缶の中にはもう灰しか残っていないが、棒でつついてみると、折り重なった灰の下ではまだ赤い火がおこっている。
 ためしにそのまま紙切れを入れると、息を吹きかけるまでもなく簡単に発火した。隆史は少ししかない紙切れを惜しむように、一枚一枚燃え尽きるのを待ってから、次の紙を残り火の上にそっと置いていった。
 最後の一枚を火の上に置いてしまってから、隆史はハッとして声を上げた。
 「ああっ! ぼくの絵じゃないか、これ」
 缶の中で燃えているのは、階段の壁に飾られていたあの絵だった。隆史はとっさに手を出しかけたが、すでに縁から燃え上がり、もうつまみ上げる事も出来ない。
 (きっとお母さん、さっきの絵をあの場所に持ってったんだ。それでもう古い絵はいらないって……。まったく、ぼくにことわりもなしに)
 すっかり黒くなってしまった絵をみつめながら、隆史は舌打ちした。
 「なんだ、いる物だったのか。後で母さんに抗議しないとなあ。……大事な物か?」
 「ううん、いいんだ」
 父に聞かれて、隆史は反射的にそう答えていた。なぜだか不意に、いつかのみどりの言葉が頭に浮かんだためだ。一つの物に執着するとほかの物が見えなくなる。そんな言葉が、鮮明に意識の面に表れたのだった。
 「どうせ落書きみたいなものだから。勝手にゴミにされたんでおどろいただけ」
 隆史はなんのこだわりもなく、さっぱりとそう言う事が出来た。母に対する憤りも消えていた。
 缶の中ではすでに炎も消え、薄い煙の下では黒い灰が乾いた音を立てながら、かすかに揺れていた。

 翌日の午前中に父は帰っていった。今度はいつ帰って来るのと裕史がたずねると、父は近いうちにとだけ答えた。
 父がいなくなってしまえば、後はもういつもの日曜日とまったく変わりない。昼食をすませると隆史はすぐに家を飛び出し、河原へ向かった。
 今日は隆史の方が早かった。堤防の上で十分ほど待っただろうか、みどりは自転車に乗ってやって来た。
 「隆くーん」
 「やあ、また自転車で来たの」
 サイクリングのあの日以来、みどりは時々自転車で河原へ来るようになった。そんな時二人は、堤防の上の道を並んでゆっくり走りながらおしゃべりをした。
 隆史は肩が触れ合うくらいに近付いて、みどりに話しかけた。
 「きのうはお父さんが帰って来たんだ」
 「この前そう言ってたっけね。だから今日は隆くん、来ないんじゃないかと思ってた」
 「もう午前中にお父さんは行っちゃったから。それでさ、きのうお父さんとゴミを燃やしてたんだけど、その時にまた不思議な事があったんだ」
 隆史はもったいぶるようにいったん言葉を切った。二人は自転車を止めた。
 「不思議な事? 何があったの?」
 みどりは目を大きく見開いて隆史をみつめた。興味深げなみどりの表情に、隆史は満足して先を続けた。
 「お父さんの古い本なんかを焼いてたんだけど、そしたら炎の色が一瞬緑色になったんだ。オレンジ色の炎が急に緑色に。どうしてだろう」
 「ほんと、不思議ねえ。どうして?」
 「ぼくが聞いてるんだよ。ミドリンならわかると思ったから」
 「そうねえ……。うん、それはきっと、炎が裏返ったのよ」
 「裏返った?」
 「そう。オレンジの炎が緑になったのなら、そうとしか考えられないよ。隆くんは炎の裏側を見たんだね」
 裏返った炎。こんな現実感のない答えを隆史は望んでいた。満足感が心の中に広がる。
 「そうだったのか……。ああ、わかるよ。炎はいつもあんなにおどっているんだ。裏返ってしまう事だってあるにちがいないよ。……よかった。お父さんなんか、炎色反応だとかつまんない事言うんだ。そんなのよりも、炎が裏返るというほうがよっぽど説得力あるよ」
 「じゃあ隆くんはそう信じるのね。ほんとに炎が裏返ったんだって」
 「ああ、もちろん……」
 隆史の返事は歯切れが悪く、力もなかった。真っすぐ自分をみつめるみどりのまなざしに気圧されただけでなく、自分のそういった考え方に、現実逃避といった形のうしろめたさを感じたからだった。
 ややあって、隆史は独り言のように小さな声でつぶやいた。
 「そういうふうに考えるのは、ずるい事かな。ほんとうの事を知ろうとしないで、自分の好きなように信じるなんて……」
 「さあ、よくわからないけど、それはべつにいいんじゃないかな。そこが隆くんの隆くんらしいところだし。でも一番いいのは、ほんとの事をちゃんと知りながら、自分の考えを持つ事だろうけどね」
 「うん。でも、ほんとうの事がくだらない、ぜんぜんおもしろくない事だとしたら、失望すると思うんだ。炎だけじゃなくて、こないだの石とか、それから、あの空にしても……。そうなってしまうのが、なんだか少しこわくって……」
 みどりは考え込むように黙ってしまった。
 何を考えているのかは、隆史にもよく分かっている。夢と現実との両立、それが出来ないからといって現実から目をそらしていればどうなるか、隆史も以前からそういった不安は抱いていた。
 しかしだからといって、夢を見る事をやめようなどとは絶対に考えられない。
 「……そうだね。ミドリンの言う通り、ほんとうの事を知りながらも自分なりの考えを持っていられれば、それが一番いい」
 「うん。やっぱりほんとの事から目をそらすのはよくないよね。ねえ隆くん、こんな事言ったら悪いかもしれないけど、隆くんってピーターパンなんじゃないの? 大人になんかなりたくないっていう」
 「ああ、そんなところはたしかにあるね」
 隆史は素直に認めた。こうはっきり言われると、不思議と腹も立たない。みどりの口調がどことなく説教めいていても、隆史はうるさく思うどころかかえってさっぱりした気分になっていた。
 「それもあんまり……」
 「よくないって言うんだろ。わかってるさ。でもやっぱり、いつまでも今のままでいたいっていう気持ちはあるな。とくにこうしてミドリンといっしょにいる時にはね」
 今まで言いたくても言えなかった一言をおどけたように言うと、隆史は笑いながら逃げるように自転車をスタートさせた。
 ベルの音にふり返ると、みどりも明るい表情で追って来る。
 「もう。本気で言ってんのよ、わたしは」
 「ぼくだって本気だよ」
 隆史もベルを鳴らすと、さらに速度を上げた。道の続く限り、どこまでもこうして追いかけっこをしていたいと隆史は思った。
 (でもいつか、たとえばみどりがぼくに、緑の空の秘密を話す時もくるかもしれない。たとえみどりが話さなくても、やがては何もかも知る日がくるんだろう……)
 いつまでも逃げ続けられるものではないと、隆史は今はっきり自覚していた。


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