緑の空 − 少年のまなざし −
次の週のある夕方、隆史が学校から帰ると、玄関には鍵が掛かっていた。
(お母さんはお出かけか。めずらしいな)
隆史は郵便受けの底をさぐって鍵を取り出すと、玄関のドアを開けて中へ入った。家の中は冷たく静まりかえっている。
テーブルの上にメモが置いてある。隆史は無意識に声に出してメモを読んだ。母は少し遠くまで買い物に行っているらしい。
「裕史のやつはどこ行ったんだ? まだ帰ってないのかな」
隆史はキーホルダーをチリチリ鳴らし、居間を歩き回りながらつぶやいた。こんな時は、自然と独り言が口をついて出る。
かつて父の部屋だった勉強部屋へ行き、隆史はカバンを机の上に投げ出した。時計の音がいやに耳につく。
「どうもおちつかないな。とても宿題なんかやる気分じゃないよ」
手持ちぶさたに鍵を指先で回しながら、隆史は二階へ上がって行った。
子ども部屋を見回すと、裕史の椅子の背もたれにはランドセルが掛かっている。
(なんだ、やっぱり裕史は一度帰って来てたんだ)
二つ並んだ勉強机のうち、隆史の机の上は教科書やノートが乱雑に積み重ねられ、すっかりふさがっている。ただしどれも裕史の物だ。覚えたばかりのローマ字で、HIROSIと名前が書き込まれている。
今では隆史は、寝る時くらいしかこの部屋へは上がって来ない。ほんのわずかのうちに、この部屋はもうすっかり自分の居場所でなくなってしまったような気がする。
「……下へ行ってテレビでも見ようかな」
隆史は静寂を嫌うように鍵をカチャカチャ鳴らしながら、階段を降りて行った。
独りきりの留守番は、それほど珍しいわけではない。ただ、誰もいない家へ帰り、自分でドアの鍵を開け、そして部屋の明かりをつけるといった事に、今の隆史には特別な感慨があった。
(今、お父さんは毎日こんな生活をしてるんだ)
テレビの画面にぼんやりと視線を据え、指先で鍵をもてあそびながら、隆史はさっきからそんな事を考えていた。
(一人で帰って来て、かぎを開けて明かりをつけて……、それから一人で夕ごはんか。ああ、その前に作らなきゃならないんだ、一人分の食事を……)
隆史は壁の時計に目をやった。いつもなら、母が台所に立って夕食の支度をしている頃だ。
「おっそいなあ。これじゃごはんもおそくなるな」
ふり返って台所を見ると、薄暗い中で炊飯器だけが動いている。赤いランプが光り、シュウシュウ音を立てて湯気が上がり、天井に広がり消えてゆく。隆史は急に空腹を覚えた。
(そうだ。お母さんが帰って来るまでに、ごはんのしたくをできるだけすませておこう)
そう思い立つとなんだか気分が明るくなり、隆史は勢いよく立ち上がった。テレビでは刑事と犯人とが派手な撃ち合いを始めていたが、隆史には最初からそんな物は目に入っていない。テレビを消し、鍵をテーブルの上に置くと、隆史は台所に立った。
「何を作ろうかなあ」
冷蔵庫をのぞき込みながら隆史はつぶやいたが、迷うほどいろいろな物が作れるわけではない。たまたまホウレンソウが目に付いたので、いつか家庭科の時間に習った、ホウレンソウのバター炒めとゆで卵を作る事にした。
まな板に包丁、ナベにフライパン。一人でこれだけの物を扱っていると、それだけでなんだか本格的な料理に取り組めるような気がしてくる。隆史はそんな気分を楽しんでいた。
(ぼくもいつか一人ぐらしをするかもしれないけど、その時のためのいい練習だ。なあんて)
隆史はすっかり楽しみながら、ホウレンソウをかき回している。小さな声でハミングしながら、フライパンの中の濃い緑色の中に、面白半分に自分とみどりのイニシャルを重ねて何度も書いてみたりした。
玄関のドアの音がした。隆史は反射的にふり返ると大きな声を上げた。
「あっ、おかえんなさーい」
「ただいま。ごめんね遅くなって」
両手に買い物袋をさげた母に続いて、裕史も荷物を持って居間に入って来た。
「あれ? 裕史も買い物行ってたのか」
「うん」
裕史は手に持っていた紙の箱を、テーブルの上に置いた。赤と白のあの箱は、裕史の大好物のフライドチキンだ。荷物を持つかわりに、ねだって買ってもらったのかもしれない。そう思うと隆史はおかしくなった。
「あら、夕食の支度してくれてたの? 隆くん」
「卵をゆでてホウレンソウをいためて、あとは今からみそしるも作ろうと思ってたんだけど」
「そう、ありがとう。遅くなっちゃってごめんねえ。でも、冷蔵庫にあったホウレンソウ全部使っちゃったの?」
「うん。……ちょっと多かったかな?」
隆史の作ったホウレンソウのバター炒めとゆで卵、そして裕史の希望で買ってきたフライドチキンをおかずに、遅めの夕食が始まった。
「ゆでたまごなんて、なんか朝ごはんみたい」
裕史が不満げに言ったが、本気でないと分かっているので隆史も冗談で返した。
「それならあしたの朝までとっといたらいい。冷蔵庫に入れてさ。あとでこっそり、ならんだ生卵の中に混ぜといてやるから」
いつにも増してにぎやかな夕食だった。特に母はひどく嬉しそうだ。
「隆くんもたいしたものねえ。ホウレンソウなんてとってもおいしく出来てるじゃない。男の子でこれだけ料理が上手だなんて、たいしたものよ。それから裕くんも今日はありがとう。荷物を持ってくれて、お母さん助かったわ」
暇つぶしというか、独りきりの留守番の気をまぎらわすくらいのつもりで作った料理をほめられて、隆史はてれくさかった。裕史の方も同じ心持ちらしく、食べるのに夢中で何も聞こえないようなふりをして、ただフライドチキンにかぶりついている。
「これから時々でも手伝ってもらえると、お母さん嬉しいんだけど。今度エプロン作ってあげようか、隆くん」
「えーっ、やめてよそんな事。エプロンつけて料理するなんてぼくはいやだよ。なあ裕史」
隆史は慌てて裕史に同意を求めた。裕史はチキンをほおばったままうなずいた。
「そう? 残念ね。……隆くんか裕くん、どちらか一人でも女の子だったらよかったんだけどねえ」
「そう?」
いかにも残念そうな母の言葉に、隆史は少し気を悪くした。
「そんなに女の子がほしかったんなら、もう一人産めばよかったのに」
「女の子が生まれるとは限らないじゃない。それに子どもが三人ともなると大変よ」
「まあそうだろうけど。でもなんで女の子がほしかったって思うの?」
「失言だったわね。べつに男の子がほしくなかったというんじゃないから、気にしないでね。ただ、女の子もいてくれたらって思っていただけだから」
「わかってるよ。だからどうして?」
「母親と娘って、なんだかいいものだと思わない? 一緒にお料理したり、買い物に行ったり、それから好きな男の子の事で相談にのったり……。そういうのにあこがれてたのよ、お母さんは」
そう言って母は笑った。母のそういう気持ちには、隆史も前からなんとなく気付いてはいた。だが、母の口から直接聞かされたのは、これが初めてだった。
(そうか……。お父さんのほうは、たとえばハムのCMに出てくるみたいな父親と息子にあこがれてるらしいから、まあ満足かもしれない。けど、その一方でお母さんはずっと、ものたりない思いでいたのかな……)
隆史は自分に向けられた母の視線にとまどい、問いかけた自分の方から話をそらせた。
「ほらほら、これだって親子だよ。ゆで卵とフライドチキン」
「あれ、ほんとだ。タマゴとニワトリだもんね」
それまで黙っていた裕史も、ゆで卵を手に取って面白そうに言った。
「なんだ裕史、今ごろ気が付いたのか」
「兄ちゃんだってそうなくせに。でもなんだかかわいそうになるな」
「何が?」
「だってこのたまご、生まれる前に食べられちゃうんだからさあ」
「なんだ。だいたいこの卵はもとから生きてやしないよ。暖めたって、どうせヒヨコはかえらないんだから」
「ああ、そうなんだっけ」
裕史は安心したようにゆで卵の殻をむき始めた。隆史もむいたゆで卵をほおばった。
「あなた達には本当はもう一人、きょうだいがいたのよ」
だしぬけに母が言った。
「生まれてくる事が出来なかったけどね」
母の言う事がすぐには理解出来ず、始め隆史は耳だけ傾けていたが、驚いて母の顔をまじまじとみつめた。裕史も卵の殻をむく手を止めた。
母はかすかにほほ笑みながら、なんでもない事のような口調で話を続けた。
「もし生まれていたら、隆くんの妹になっていたわね。裕くんにとってはお姉さんだけど」
「妹……。女の子だったの?」
隆史は少しうわずった声で聞き返した。
「そうよ」
「じゃあ、名前は?」
あまり触れてはならない事のような気がしたものの、隆史はたずねずにはいられなかった。
「あるわけないでしょう。名前というのは生まれてから付けるものよ」
「そうか……」
隆史はもうそれ以上は何も聞けなかった。裕史の方もまた黙りこくってしまい、何か考え込むような表情をしている。
(まさか、その子が生まれていたら自分は生まれてなかったんだ、なんて考えてるんじゃないだろうな)
隆史は気になったが、裕史に対してはうかつな事は言えない。隆史は母に向かって言った。
「そういう話、あんまり聞きたくなかったな。だいたい、どうしてこんな話になっちゃったんだろう」
「ごめんね、変な話をして。でも機会があれば、いつか二人にも話しておこうと思っていた事だから」
「……そう、わかったよ。ごちそうさま」
隆史は食べかけの卵を半分残し、皿の上に紙ナプキンをかぶせると、そそくさとテーブルを離れた。いつもなら食器を流し台まで運ぶのだが、今日はそれもしなかった。皿に残ったチキンの骨や卵の殻から、生まれてくる事が出来なかったという嬰児の姿を連想してしまいそうで、隆史にはそれが恐ろしかったのだ。
(信じられない、ぼくに妹がいたなんて……。妹がいた事も、そしていなくなった事も、今まで知らずにいたなんて……。でももう考えるのはよそう。……なんだか今夜はうなされそうだ)
後片付けを終えた母が、ゲームでもやろうとゲーム盤を持ち出してきた。こんな事は珍しい。正月以来の事だから二人もすぐのった。裕史は黄色の駒、母は赤、そしてもちろん隆史は緑の駒だ。ついているのかそれとも強いのか、黄色の裕史ばかりが何度やっても一番だった。
「ほら隆史、そこをこう跳んだらいい」
「もう。ぼくは自分で考えてやってるんだから。お母さんは赤いやつだけを考えてたらいいの」
「だって見てられないのよ。隆史があんまり要領悪いから」
「じゃあきっとお母さんに似たんだ」
三人は時間の経つのも忘れてゲームに熱中していた。
(母親と息子たちっていうのもいいものでしょ)
隆史は口に出してそう言いたかったが、言わなくても母には分かっているだろうと信じていた。目の前にあるゲーム盤の色鮮やかな六角形が、隆史にはまるで三人の結び付きを強める魔法陣のようにも思えた。
夜、ベッドに入ってしばらくすると、裕史が上から声をかけてきた。二人は二段ベッドに寝ており、下が隆史で上が裕史だ。
「ねえ、兄ちゃん」
「ん?」
「もしさあ、もう一人いたとしたら、どうなってたかなあ」
「……何が?」
「だってさ、三だんベッドなんてどこにも売ってないよ」
裕史ののんきな言葉に、隆史の緊張もふっとやわらいだ。
「ハハ、ほんとだ。それは困るよなあ。特別注文で作ってもらわないと」
「それでもまだこまるよ。一番上にねるのはやっぱりぼくだもん。三だんベッドじゃてんじょうにつかえちゃうから、ぼく起き上がれない」
「ハハハハ、だったらこの部屋も特別注文だ、ハハハ……」
夕食の時の裕史の様子がずっと気にかかっていたのだが、今の冗談に隆史はすっかり安心した。すると不思議な事に、さっきまで胸の底にわだかまっていた、生まれる事が出来なかったという嬰児に対する嫌悪と憐憫の入り混じったような複雑な感情までが、すっとほどけて薄れてゆくようだった。
裕史はもう寝入ってしまったらしい。心の安らかさを表すような静かな落ち着いた寝息が、規則正しく隆史の耳に届いてくる。
今では隆史もなんのとまどいもなく、母のあの話を素直に受け止めていた。
(どうしてさっきは、あんなにいやな気がしたんだろうな。あれじゃ、裕史よりもぼくのほうがよっぽど子どもみたいだ)
隆史は寝返りをうつと、ふとんの中で体を丸めた。もう悪夢を気にする事もなく、すっかり安らいだ気分で眠りについた。
14 秋
十月半ばのある日、隆史とみどりはいつものように、堤防の斜面に並んで腰を下ろしていた。隆史は小さな箱をバッグから取り出して、みどりから隠すようにして持っている。
「ねえ、それなあに? ひょっとしてわたしへのおみやげ?」
「ああ、やっぱりわかっちゃったか」
「そんなきれいな包装紙、すぐにわかるよ。それにこないだ隆くん、修学旅行の事をあんなに熱心に話してくれたし」
「そうかあ。もうちょっとこの箱が小さければ、いきなりポケットからでも出しておどろかせてやったのにな。はい」
隆史はみどりに小箱を手渡した。
「ありがとう。開けていい?」
「もちろん。でも中を見てがっかりしないでね。あんまりたいした物じゃないから」
箱の中には陶製の小さな蛙が入っていた。鮮やかでつややかな緑色をしたその蛙を、みどりは手の上にのせると目の高さに持っていった。
「わあかわいい」
「よかった。それ選ぶのにずいぶん時間がかかったんだ。ミドリンミドリンって思いながらお店の中を歩き回ってたらそれが目に付いて、これはミドリンにぴったりだなと思って買ってきたんだ」
「なんでわたしにカエルがぴったりなの?」
みどりはほほをふくらませたが、満足げに陶製の蛙を箱に戻した。
「でもありがと、わざわざおみやげ買ってきてくれて。何かお礼をしないとね」
「いいよ、お礼なんて。おみやげっていうほどの物じゃないし」
「どこにしようか」
「どこにって……、ええっ?」
みどりは真顔になると、かすかにくちびるをすぼめた。片手をついて腰を浮かし、そして顔を寄せてくる。隆史は息を詰めた。無意識に片手でえりの辺りを押さえる。隆史は顔をそむけるそぶりを見せながらも、さりげなくみどりの方にほほを向けていた。
風が吹き抜け、そして止み、時間だけがそのまま流れてゆく。意識しすぎるあまり、ほほの辺りがチリチリする。隆史はいつまでも動けずにいた。
クスッと小さく笑う声に、隆史はわれに返るとみどりの方を見た。みどりは隆史の肩越しに、視線を遠くに向けている。口もとに笑みを浮かべて白い歯を見せると、いきなり大きく手を振り始めた。隆史は驚き、ふり返ってみどりの視線を追った。
堤防の上を、いつかの青年が犬を連れて歩いている。青年の方も、二人に向かって片手を挙げると笑顔を見せた。
青年は犬を散歩させるためによくこの河原へ来るらしく、たびたび姿を見かけた。あの時以来、二人は青年になんとなく親しみを覚え、見かければいつも手を振ったりしている。それに対して青年の方も、必ず何か動作で返事をしてみせた。
隆史は複雑な気持ちで笑顔を作った。青年に向かってぎこちなく笑ってみせると、すぐに真顔に戻って前に向き直った。いつの間にか、みどりも横に座り直して河の方を見ている。隆史は熱に浮かされたような気分が急速に冷めてゆくのを感じた。
(今のを見られただろうか。あの人は、いつからぼくらの事を見ていたのだろう)
羞恥と後悔の入り混じる気分に揺り動かされるように、隆史は身じろぎを繰り返した。
そんな隆史とは対称的に、みどりは落ち着いた様子で真っすぐ遠くを見ている。隆史はそんな静けさに耐えきれず、とりすましているようにすら見えるみどりの横顔に、必要以上に大きな声で話しかけた。
「もうすっかり秋だよね。ミドリンは秋は好き?」
「え? うーん、わたしはあんまり好きじゃないな。隆くんは好きなの?」
「もちろん。ぼくはどの季節も好きだけど、今は心から秋をすてきだって思えるよ」
「そうかなあ。だってこれからだんだん葉っぱが赤くなったり黄色くなったりして、そして散ってしまうのよ。緑が少しずつ色あせていくのに……」
「それでミドリンは秋がきらいだっていうのか」
「きらいとまでは言わないけれど、緑のあざやかな春や夏のほうが好きよ、やっぱり」
「そうか。でも考えてごらんよ。秋や冬だって、落葉樹が赤くなったり黄色くなったりして葉を散らすから、その中で常緑樹の緑色がますます映えるじゃないか」
「そう、そうだよね。そんなふうに考えてみた事なかった……」
「ミドリンだって、針葉樹の緑色も好きだろ? 深い緑色や濃い緑色も」
みどりは髪を揺らしてうなずいた。隆史はみどりの髪に見とれながら言った。
「だと思ったよ。ほら、いつか言ってたピアノグリーンやピチカートグリーン、やっぱりどんな緑色もきれいだもんね。そういえば、そのリボンはオーボエグリーンだったっけ。その色って、ミドリンには一番似合ってるよ」
「ありがと。隆くんのリボンも似合ってるよ。ほら、その頭のてっぺんの赤いリボン」
隆史が両手を頭にやると、指先に触れた何かがパッと頭を離れた。赤トンボだった。
「なんだ、トンボか。いつ止まったんだろう」
「ずいぶん前からいたんだけど、おもしろいからそのままだまってたの」
「ぜんぜん気付かなかったよ」
言いながら隆史は帽子を取った。するとみどりがそれを横から素早くかすめ取り、ちょっとななめにして自分の頭にのせた。野球帽をかぶっていたずらっぽく笑うみどりに、隆史も笑顔を返す。帽子をいきなり取られても気にならないどころか、かえってそんな茶目っ気が今の隆史には嬉しく思えた。
「ハハ、それも似合うよ。そのまま待っててみなよ、きっとまたトンボが止まるから。それにしても、今日はずいぶんトンボが飛んでるなあ」
隆史は空を見上げた。今日の空はツユクサよりも青く透き通っている。その青空に高い雲がところどころに白く、水底から見上げる水面のような模様で彩りを添えている。
そんな空を背景に、赤トンボはますます赤く、勢いよく飛び交った。隆史はしばらくの間、ほかの事をいっさい忘れ、飛び交うトンボ達をひたすら目で追った。
時おりすぐ近くまで来るトンボもいる。目の前へ来てしばらく宙に止まると、羽音だけ残して消えてしまうかのように、素早くどこかへ飛び去ってしまう。隆史は視線の置きどころを失うと、きょろきょろと辺りを見回した。
そして、横に座っているみどりがややうつむき気味に、じっと遠くの流れをみつめているのに気付いた。
「どうしたの?」
「え?」
「何か考え事? ……なんか最近、あんまりしゃべらなくなったね、ミドリン」
「隆くんのほうがおしゃべりになったせいじゃないの? それでそんな気がするのよ、きっと」
「ぼくそんなにおしゃべりになったかな」
「前とくらべるとね」
「ああ、そうかもしれない。だって今は一週間に一度しか会えないだろ? だから話したい事がいっぱいあるんだ」
隆史は夏休みが過ぎてからの日々を思い返した。
(それまで毎日通ってたのが週に一度しか来られなくなって、それからもうひと月半が過ぎたのか。そんなにもなるんだな。週に一度というのには慣れてしまったけど、そのかわり時間の過ぎるのが早くなった気がする)
日ごと夜ごとに深まりゆき、わずかの時にも大きな変化を見せる秋という季節の中で、隆史は時の過ぎる早さにあせりを感じ始めているようだ。口数が多くなったというのも、そのせいかもしれない。
「今度学校でさ、音楽会があるんだ」
「運動会が終わって、修学旅行が終わって、今度は音楽会か。学校では秋にいろんな事があるね」
「今度といっても、十一月だからまだまだ先だけどね。でももう練習は始めてるよ。それでおもしろい事があるんだ。課題曲が低学年と高学年とでちがっててさ、低学年が『まっかな秋』で、ぼくたち高学年は『グリーングリーン』を歌うんだ」
「ふうん」
「おもしろいだろ? 赤と緑なんて。家でぼくがグリーングリーンって練習を始めると、それに対抗して裕史のやつも、まっかだなーなんて歌い出すんだ。……この歌知らない? グリーングリーンって」
なんとなく気のない様子のみどりに、隆史はいぶかしげにたずねた。
「ううん、知ってるよ」
「そう?」
「歌詞はよくおぼえてないけど、曲は知ってる」
そう言うと、みどりは小さな声でハミングを始めた。かすかに首を揺らし、指先で軽くひざを叩き、それでもみどりはやはり遠くを見ている。くちびるから流れる澄んだ声も、なんだか独り言のようだ。
みどりのそんな様子がどこかよそよそしく思えて、隆史はみどりのハミングに合わせて大きな声で歌い出した。ひとに聞こえても恥ずかしいとは思わない。遠くをみつめるみどりの視線を自分へ引き戻そうとするかのように、隆史の歌声は次第に大きくなっていった。
みどりのきれいなハミングにくらべると、隆史の歌声はどこか調子はずれだ。高音になると声がかすれる。隆史は歌の下手な事に自分でも気付いていたが、おかまいなしに大きな声で歌い続けた。自分の声が音程をはずれたり高音でかすれたりするたびに、みどりの顔に笑みが浮かぶのに気付いていたからだ。隆史はますます大声を張り上げた。
背後から口笛が聞こえ、二人は同時にふり向いた。二人の歌声に合わせて口笛を吹いているのは、あの青年だった。
青年はあごを突き出し上を向き、見えないタクトをおおげさに振りながら、わざと気取ったポーズで歩いている。けれども犬の方はおかまいなしに、はしゃいで右に左にひもを引っ張っては青年をふらつかせる。そのおどけたそぶりに、隆史の彼に対して抱いていた悪感情も好感に反転した。隆史とみどりは目を見交わして顔をほころばせた。声を上げて笑いたい気分だったが、それでも歌声は絶やさなかった。
口笛は遠ざかってゆき、やがて聞こえなくなったが、二人の歌声は最後のリフレインにかかり、ますます高く大きく河原に響いた。
あれだけ大声で歌えばさすがにくたびれる。疲れたためばかりでなく、ひどく気分が浮き立って、隆史は息を弾ませていた。
「おもしろかったね、さっきの人。また来ないかな」
「それにしても長い歌ねえ。七番まであるの?」
「音楽会では四番までしか歌わないけどね。……なあミドリン、さっきぼくの事笑ったな?」
「え? 笑ったりしないよ」
「いいや、見たぞ。ぼくの声が高音でかすれるたびに、ミドリン笑ってただろ」
「あれ? バレてた?」
みどりはちょっと舌を出していたずらっぽく笑った。
「たしかに歌はヘタだけど、でも合奏では感心されたんだぞ。きれいで澄んだ音を出しているって」
「へえ、隆くんなんの楽器をやってるの?」
「トライアングル」
隆史が真顔で答えると、みどりは笑い出した。よほどおかしかったとみえて、目に涙を浮かべるほど大笑いしている。隆史の方もまた笑顔になった。
「そんなに笑う事ないだろ」
「だって、だれがやったっておんなじ音じゃない」
「そうだよな、やっぱり。いい音だなんてぼくの事からかったんだな、寺内のやつ」
「隆くんらしいね。ねえ、音楽会の時にはお父さん帰って来ないの?」
「うちのお父さんが音楽会ぐらいで帰って来やしないよ。だいたいこの歌聞かれたらなんかてれくさいし。でも、十一月の最後には帰って来るってさ。こないだ電話があったんだ」
「そう、よかったね。九月以来なんでしょ?」
「そうだね。それで、日曜にはどこかに出かける事になったんだ。家族みんなで」
「ええ? じゃあ二十六日は隆くんここへは来られないの?」
「二十六日? 十一月最後の日曜って、二十六日になるんだっけ?」
みどりは無言でうなずいた。
「そう。ほんとは十一月始めの祭日に帰るとか言ってたんだけどだめになって、でも出かけるのならそのころのほうが、どこもすいていていいだろう、なんて言うんだ。ほんとに都合のいい事ばかり言うんだから、うちのお父さんは」
「そうね……」
「どこへ行くかはまだ決めてないけど、ぼくはもう一度、あの湖に行きたいと思ってるんだ。でもたぶんみんな反対するだろうな。春に行ったところにまた行ってもおもしろくないって。……ミドリン?」
いつの間にか、みどりはまた何か考え込むように黙って遠くを見ている。手には隆史の帽子を固くにぎりしめ、さっきまでほがらかに笑っていたみどりとは、まるで別人のようだ。
隆史は組んだ両手にあごをのせると、再びみどりを笑わせる話題が何かないだろうかと、考えを巡らせた。
15 霜月
「うん、わかった。じゃあ待ってるからね。おやすみなさーい」
隆史が受話器を置くと、母は待ちかまえていたように早口で言った。
「ほんとにまた行く気? 何も春に行った所にもう一度行かなくても……」
「どうして? 同じところに続けて行ったらいけない理由なんてないでしょ」
「そりゃそうだけどさあ、ほかにもいいとこあるんじゃないの?」
裕史も不満げに言う。
「だったら言ってみろよ、ほかにどんないいとこがあるか。とにかくぼくはあの湖に行きたい。裕史はどこに行きたいんだ? お母さんは? ほら、ほかに行きたいところがあるわけじゃないのに、反対するなんておかしいよ、ぜったい」
隆史の勢いに、二人は反論出来なかった。二対一でも隆史の熱意、というか強引さにはかなわないようだ。隆史もそれを感じ取ると、口調をやわらげ今度は説得するように言った。
「同じところっていっても、季節がちがえばぜんぜんちがうよ。そう時間をおかないで行ってみて、春と秋とをくらべてみるのもおもしろいと思うけどな。お父さんにもそう言ったら、同感だって」
隆史は電話機の上に掛かるカレンダーを一枚めくった。来月二十五日の所には母の字で、「お父さん帰宅」と書かれている。
「お父さん、今度は車で帰って来るんでしょ。春は渋滞があるから湖には電車で行ったけど、今度は車で行けるなって言ってたよ。ドライブするにはいいところだと思わない?」
隆史はボールペンを取ると二十六日に印を付け、「湖ドライブ」と書き込んだ。さすがに強引すぎたかなと隆史は思ったが、二人はもう何も言わなかった。
父の帰りを指折り数えて待つうちに、十月は過ぎていった。
十一月に入ると、秋の終わりを告げるような冷たい雨が、いく日も降った。雨の降るたび、木々は色あせた葉を散らす。また虫達の声も静まりゆき、やがて絶えた。
雨上がりの夜空では、星々が目まぐるしくまたたきつつ、細く冷たい光を放つ。まるで静寂の中に金属音を響かせるように。星々の輝きに秋空の闇はいっそう深みを増し、大気の冴えはさらに鋭さを増した。
そしてその翌日には、素晴らしい青空が広がった。じっと見上げていると吸い上げられてしまいそうな青空だ。隆史とみどりは何度も立ち止まり、この空を緑色に染めてみた。
この日二人はみどりの提案でいつもの河原を離れ、自転車で十五分ほどの所にある大きな公園に来ていた。
「でもよかった、こんなにいい天気になってくれて。きのうおとといと雨降りだったでしょ。だから今日はどうなるかヒヤヒヤしてたんだ」
自転車を押して、隆史と並んでゆっくり歩きながらみどりは言った。
「でもきのうの夜にはもうすっかり晴れてたよ。星がものすごくきれいだった……」
歩きながら隆史はもう一度空を見上げた。二人は並木の続く小道を歩いている。葉をすっかり散らせた木々の細い枝々が、からみ合うようにして青空を細かく区切り、不思議なパターンを描きながら後ろへ流れてゆく。
「木の実なんてどこにも落ちてなかったね。だいたい実を付ける木はないみたいだよ」
「そうね、わたしの思いちがいだったみたい。ごめんね。でも来てみてよかったと思うでしょ?」
「うん。ここには何度か来た事あるけど、こういう木立ちの中を歩くのは、やっぱり今ごろの季節が一番だ。……なあミドリン、今でも秋はあんまり好きじゃない?」
「ううん、今では秋はとてもすてきだって思えるよ。日ごとに何かが少しずつ変わっていく、そのグラデーションの美しさにようやくわたしも気付いたみたい」
隆史は立ち止まり、あこがれるようなまなざしでみどりをみつめた。
「季節のグラデーション……。ミドリンって、ときどきすばらしい表現をするんだね。いつかも夕日の色をオーボエの音色だなんて……」
隆史の言葉にみどりはにっこりした。そのほほに、口もとのえくぼに、思わずそっと触れてみたくなるような笑顔だった。
隆史はふと伸ばしかけた腕をぎこちなく引き戻すと、自分の耳の後ろに手をやった。耳たぶの熱さと、首すじの鼓動が指先に伝わってくる。なぜだか胸の奥がかすかに疼いた。
「オーボエの音色か……」
隆史は伏し目がちに、みどりの口もとを見ながら繰り返し言った。
「秋を音色にたとえるとしたら、やっぱりオーボエだろうか、ミドリン」
「ええ。でも秋は少しずつ変わっていくから……。今ごろ聞こえてくるのは、これはたぶん、ファゴットの音」
「ファゴットか。うん、わかるよ」
「低く、小さく、デクレッシェンド……。聞こえるのも今日が最後ね」
「最後?」
「今日で秋も終わりなのよ。あとは無音の全休符」
「……?」
隆史は視線を上げてみどりの目を見た。すると今度はみどりが目を伏せた。
「だって隆くん、来週は来ないんでしょ。お父さんと出かけるって……」
「ああそうか、再来週はもう十二月なんだ。今日で十一月は最後って意味か」
みどりはかすかにうなずいた。
「そうか。じゃあそろそろ河原にもどろうよ。秋の最後の夕日を見送らなくちゃ」
隆史は素早く自転車に乗ると、ペダルを踏み出した。
「ミドリン、さ、早く」
隆史にうながされて、ようやくみどりも自転車をこぎ出した。
堤防の斜面を覆う芝はもう薄茶色に枯れているが、暖かな陽射しにすっかり乾いて心地良い。今日は風がまったくない。はためくようなヘリコプターの音だけが、遥か遠くからかすかに聞こえてくる。
干し草のような芝の上に腰を下ろすと隆史は言った。
「あったかいなあ。なんか冬を飛びこえてもう春が近いみたいだ。こういうのを小春日和って言うんだろうな」
言ってしまってから、今のセリフはなんだか年寄りじみていたような気がして、隆史は恥ずかしくなった。みどりはうなずいているが、てれて隆史は話をそらせた。
「ほら見なよミドリン。なんだかあの雲、雪山みたいに見えない?」
隆史の指差す方に、みどりも目をこらした。遥か遠くに低く横たわる白い雲は、そう言われれば確かに雪を頂いた遠い山並みにも見える。
「いつもそんな事ばかり考えてるみたいね、隆くんって」
「まあね。できたら本物の雪山が、あんなふうに見えたらいいんだけど。北に行けば、今ごろはもう山は雪をかぶっているかな。一生に一度でいいから、あんな白い雪山が間近に見えるところに住んでみたいなあ」
「じゃあどこか雪の降るところへ引っ越したいって思ってるわけ?」
勢い込んでたずねるみどりに、隆史はちょっとたじろいだ。
「いや、そこまで本気で思ってるわけじゃなくてさ、なんていうのかな、いいだろうなってただあこがれてるだけさ。そういうのってミドリンにもわかるだろ?」
みどりは静かにうなずいた。
「な、だからせめてあんな雲が出たら、そびえる雪山だと想像してみるんだ」
隆史はまた遠い雲に目を向けた。
「隆くんがこだわるのって緑の物だけかと思ってたけど、意外だったな」
「そう? ぼくだって緑色ばかりに執着してるわけじゃないよ」
「わたしも、小さいころは北国にあこがれてたけど……」
「そう。どうして?」
今度は隆史が聞き役にまわった。
「どうしてだと思う? 霜の鳥の羽根を見たかったからなの」
みどりはいったん言葉を切ると隆史の方を見た。隆史は黙ったまま、目でみどりに話の続きを催促した。霜の鳥の羽根というただその一言だけで、隆史はもうすっかりみどりの話に引き込まれていた。
「人が眠っている時、寝息の中には一羽の鳥がいるの。というより、寝息の中からその鳥は生まれるのだけれど」
「その鳥が、霜の鳥?」
「ううん。ふだんはその鳥は風のように見えないの。人の寝息は見えないでしょ。でも、寒い冬の夜には寝息も白くなるよね。するとその鳥の羽根も霧のようになるの。そしてさらに寒い夜、寝息も凍るような夜には、鳥は霜の羽根をまとい、人の寝息に満たされた部屋の中を飛び回る……」
「そう……」
隆史は低い声で短く答えた。
隆史には、みどりが自分の事をからかったり子ども扱いしているのではなく、みどり自身がその鳥の存在を今も信じているのだという事が分かっていた。そういった思いは隆史にもあるからだ。隆史は今まで以上に、みどりに対して深い共感を覚えた。
「その鳥は、人が安らかな夢を見ている時はゆったりと飛び回るし、激しい夢を見ている時には強く激しくはばたくの。そしてつらい夢、悲しい夢を見ると……」
「どうなるの?」
「散ってしまうの」
「えっ? 散る? 鳥が?」
「そう、散ってしまうのよ。羽根をパアッと散らせるの。寒い朝には、その羽根が窓のガラスに残っているのが見られるらしいわ。夢の名残のように、時がたてば消えて流れてしまうけれど」
「そうか、それが霜の鳥の羽根か」
「風の鳥は何も残さない。霧の鳥は露になるだけ。凍った寝息の霜の鳥だけが、散ってしまったあと窓に美しい羽根を残すの」
「凍った寝息の霜の鳥……。でもなんだか悲しい話だね、夢に散って羽根を残すなんて」
「そうだけど、だからきれいなんじゃない。悲しいものは、例外なしに美しいものよ」
平然とした口調のみどりの言葉に、隆史は少なからず衝撃を受けた。美しさが得られるのなら悲しみもいとわない、そんなニュアンスがその言葉には含まれるような気がしたからだ。
「ふーん」
隆史はあいまいなあいづちを打った。みどりに対して抱いていた深い共感が、ほんの少し薄らいだ気がする。みどりのように悲しみを美化して考える事が、隆史にはどうしても理解出来なかったのだ。
みどりと自分との決定的な違いを思い知りながら、それでも隆史は茶化すような口調でこう言うだけだった。
「そうかあ、それで女の子っていうのは悲しい話が好きなんだな。そういうのって、男にはやっぱりわかんないよなあ」
「そうね、これは女の子だけの特権なのかもしれないね。ニブイ男の子ってかわいそう」
そう言ってみどりは不思議な笑みを浮かべた。隆史の視線はまたみどりの口もとに釘付けになった。
みどりの笑みは、そういった感覚を持たない男の子への哀れみを示すのか、感性豊かな女の子としての優越感の表れなのか、それともこれは軽い気持ちの冗談だという意味なのか、隆史には判断がつかなかった。みどりに対する複雑な思いを持てあまし、隆史は考えをわきへそらせた。
(悲しい話か。そういえば、いつかみどりが聞かせてくれた湖の話も、どこか悲しげだったな。さざ波一つ立てる事なく、鏡のようにただ空を映しながら消えていったという、高い山の上の湖……)
隆史はふと緑の石の事を思い出し、ささやくようにみどりに言った。
「そうだ、あの時の緑の石、大事にとってあるよ」
「そう、ありがと」
みどりも顔を寄せると小声で言った。
「ミドリンに言われた通り、持ち歩いたりしないで大事にしまってあるよ。アイスクリームの空き容器に入れてね」
「アイスクリームの容器?」
「うん。こんな大きさのがあるじゃない。それに入れてて、ときどきそのまま水を注いでみるんだ」
言いながら隆史は、空の向こうへ視線を戻した。雲は未だ雪山を描いているが、その稜線は漠としていて、わずかに形を変えている。
(やはり実在しない山なんだ、あれは。それなら緑の湖はあの山にあったと考えてみるのもいいな。雲の雪山は水のみなもとにはちがいないのだから、緑の石もあの山から……)
不意に左のほほにやわらかな感触を受け、隆史の思考は一瞬にして止まった。まるでブレーカーが切れたように。無音の中で、電気的な耳鳴りだけがかすかに残っている。
みどりのくちびるが隆史のほほに触れていたのはほんの一瞬だったが、二人の時間はそのまましばらく止まっていた。ただ隆史の頭の中は今も迷走電流が駆け巡るようで、耳鳴りもいつまでも止まらなかった。
最初に口を開いたのは、みどりの方だった。
「お礼よ。左のほほでよかったのよね」
なんでもないような口ぶりだったが、その声はどこかはずんだ感じに聞こえる。隆史は思いきってみどりの方を見た。みどりは隆史と目が合うとニッコリした。紅潮したほほがとてもきれいだ。
みどりのその笑顔の意味は明らかだ。今この時、みどりと自分の思いは完全に同じなのだと、隆史ははっきり悟った。
隆史はてれもためらいもなく、みどりにほほ笑みを返した。みどりの気持ちが分かれば、顔の火照りも恥ずかしくはない。二人はお互いの想いをすっかり相手に打ち明けるように、目を見交わしてほほ笑み合った。
ややあって、みどりは勢いよく立ち上がると、一度大きく息を吸い込んだ。
「ああ、今日はとっても楽しかった。じゃあね、さよなら」
はずんだ声で別れを告げると、みどりは身をひるがえして斜面を登り、自転車を置いた所へ跳ねるように駆けて行った。
隆史は立ち上がってみどりの姿を見送っていたが、自転車が遠ざかって見えなくなるとフーッと大きく息をつき、再び草の上に腰を下ろした。
まだ胸がトクトク鳴っている。そのリズムに合わせて何かが胸の中でふくらみ、のど元まで込み上げて息も詰まるようだ。だがその感覚は、なぜだかひどく心地良いものだった。
隆史は大きく息を吸い込むと、声に出さずに呼気だけで思いきりさけんでみた。どういうわけか、そうせずにはいられなかった。
呼気だけの透明な歓喜と昂揚のさけび声は、誰の耳にも届く事のないまま、澄んだ大気の中に溶けて広がっていった。
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