緑の空 − 少年のまなざし −


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     16 シーズンオフ

 約束の日曜日は曇り空で肌寒いあいにくの天気だったが、ひさしぶりの家族旅行に浮き立つ四人の心は、その程度の事で曇りはしなかった。
 「だいたいこういう天気のほうが、どこもすいてるからいいんだよね、お父さん」
 いつかの父の言葉をまねて隆史が言うと、バックミラーの中の父の目が笑った。
 「まあ、そういう事だ。なあ隆史、行き先をここに決めるのに、ずいぶん強引だったそうだな。なんでそんなに湖にこだわるんだ?」
 「べつにぼくが一人でむりやり決めたわけじゃないよ。ただほかにいい所もなかったしさあ」
 「あの水族館が目当てじゃないのか? 春には見逃したからなあ、時間がなくて」
 「まあ、そういう事だね」
 またもや隆史に口まねをされて、父は苦笑した。
 このおかしな二人の会話に母も加わった。
 「ほんとにこの子は、好きな事となると徹底して打ち込むものね。もう少し、軽い気持ちで取り組んでもいいんじゃないかと思うんだけど」
 「でもあきっぽいよりはいいでしょ」
 隆史は軽く反論した。
 「最近は、暇さえあれば河原へ行ってるそうじゃないか」
 「そうなのよ。夏休みなんて毎日のように通ってたんだから。学校が始まってからも、日曜日には欠かさず出かけて行くし」
 「ほう、そんなに。河原にいったい何があるんだ? 隆史」
 隆史は父の問いに何も答えずただ笑っていたが、母が横から口をはさんだ。
 「お友達がいるのよね、なかよしの友達が。その子に会いに行ってるんでしょ?」
 隆史は笑うばかりで、やはり何も答えずにいた。否定しなければそう認めていると、父も母も気付くと思ったからだ。ミラーを見ると、父は目を細めながら笑っている。
 「ほう、友達か……」
 母の口ぶりから、その友達というのが女の子だと、父も気付いたようだ。だが隆史はべつに恥ずかしいとは思わなかった。むしろどこかがくすぐったいような妙な楽しさを覚え、隆史はまともに父の目を見返した。
 「そうか。対象がなんであれ、夢中になるのはいい事だ。……それで、裕史の方はどうなんだ? 夢中になっている事はあるか?」
 父は助手席の裕史に向かってたずねた。裕史はカメラを胸の前でかまえたまま、ずっと外の景色に気を取られている。そのためおしゃべりには加わらずにいたが、三人の話に耳だけは傾けていたようだ。父の問いに、裕史はちょっと首をかしげてみせた。
 「裕史はなんでもやりたがるもんな。けっこう気が多いんじゃないか?」
 隆史がからかうように言った。
 「ハハ、とりあえず今は写真に夢中か。でもそれはしばらく置いといて、そろそろ道案内に気を入れてくれないか。カメラは今日一日任すから」
 「あっそうだった」
 裕史はカメラを片手に持ったまま、ひざの上に広げていたロードマップを取り上げた。
 「えーとねえ、今のところ道はまちがってないみたい」
 「的確な道案内、ありがとう」
 笑いをこらえながら父は言った。それからは裕史も会話に加わって、車内はいっそうにぎやかになった。
 やがて、車は湖のほとりの広場に着いた。
 山は紅葉も過ぎてくすんだ色にほぼ覆われ、遠い山はさらに暗く、湖も冷たい色に沈んでいる。
 そんな中で、原色の遊覧船はますます鮮やかに浮き上がっている。また船着き場の付近では、二つのスピーカーがひどく騒々しい。次第に静まりゆくこの季節に、ここだけが置き去りにされてしまったかのようだ。
 「まずはあの船だね」
 当然のように裕史が言った。隆史もまあ異論はなかった。父が言うほど水族館にこだわっているわけではないのだから。ただ、みどりと初めて出会ったこの湖に、なんとなくまた来てみたくなっただけの事だ。それにしてはずいぶん強引だったなと、その点は隆史自身も不思議に思うが。
 「どうする? 隆史」
 「水族館はあとでいいよ。どうせまたここにもどって来るんでしょ?」
 「もちろん。車をここへ置いて行くんだからな」
 「じゃあその時にね。ちょっと早めにもどって来ればいいや」
 「よし、ならまず船に乗ろう。春とは逆のコースだな」
 「でもぎゃくのコースっていってもまたもどって来るんだから、ロープウェイまでは行かないよね?」
 父の横を歩きながら、裕史はすがるように問いかけた。
 「ああ、日帰りだからそう遠くまでは行けないだろうな。その方が良いんだろう? 裕史としては」
 笑いながらそう言う父に、裕史は素直にうなずいた。裕史は父に対してだけは、いつでもそうだ。
 「うん。やっぱりロープウェイはもうやだな。それでどこまで行くの?」
 「そうだなあ、どこかいい所を見付けて弁当を食べて、少しゆっくりしてから戻って来よう。そして、最後のお楽しみは水族館だ」
 話しながら歩いて行く父と裕史の後を追いながら、隆史は自然に母と並んで歩いていた。せめて今くらいは、裕史に父を独占させてやってもいい。穏やかな気分で隆史は思った。
 思っていたより人は多かったものの、やはり春の混雑にはほど遠い。そうなると華美な遊覧船というのはどこかこっけいだ。周りが沈んだ色調のためにいっそう浮いていて、乗り込む時に隆史は少々ためらいを感じたほどだ。
 しかし乗ってしまえばもうそんな事も忘れ、隆史と裕史は人もまばらなデッキに出ると、一番前の手すりの際まで走った。
 船が動き出し、風がいきなり強まる。父と母は寒がって船内に引っ込んでしまったが、二人は向かい風を額で左右にかき分けながら、進行方向に目を凝らしていた。
 並んで同じ風の中に立つ裕史に対して、隆史はいつにない強い仲間意識を感じていた。
 「なんだか船首像みたいだな、ぼくたち。二つならんだ船首像なんて見た事ないけど」
 「なにそれ?」
 「ほら、むかしの帆船のへさきのとこに、人の形をしたのが付いてるじゃないか」
 「ああ、こういうやつだ」
 裕史は体を回すと、後ろ手で手すりにつかまり前のめりになってみせた。首にかけたカメラがブランと揺れるのを見て、隆史は笑ってしまった。
 「なんだよそれ。後ろ向きなんてのはないぞ」
 「だって前を向くのはむりだよ。手すりをこえたらあぶないもん」
 裕史はその姿勢のまま、手すりを伝って横に歩き出した。裕史のそんな子どもらしい様子を目にして、隆史はついこんな事を口にした。
 「こういうのって、子どもの特権だよな」
 隆史も裕史をまねて、後ろ手で手すりをつかみ体を前へ傾ける。
 「大人には、こんなふうにして遊んだりできないだろ?」
 「はずかしいだろうからね、やっぱり」
 「それ以前に、こんな事したっておもしろいとは思えなくなるのさ。だから遊ばなくなるんだ、大人は」
 「ふーん」
 裕史は分かるような分からないような、あいまいな返事をした。
 (こんな事、三年生くらいではまだ考えやしないか。なのにぼくは、最近そんな事ばかり考えてしまうんだ。どうしてだろう……)
 隆史も裕史にならって、手すりにつかまったまま横歩きを始めた。裕史の方は追い付かれまいとして、声を上げながら歩みを速める。隆史はもう何も考えず、裕史と同い年のようなつもりになって、手すり際の追いかけっこに熱中した。
 船を降りた四人は、湖を見渡せる静かな場所で弁当を広げた。
 空は朝よりわずかに明るくなり、時おり薄陽も射してくる。陽射しの移ろうそのたびに、地面に映る影の輪郭が、際立ったりぼやけたりを繰り返した。
 雲間からこぼれる日の光は、湖の面にも落ちている。光に照らされた一部の水面では無数のさざ波が輝き、まるで光の粒子がはじけているようだ。それは光が降りそそぐという表現が、まさにぴったりくる光景だった。
 昼食を終えても四人はどこへも行こうとせず、絵のような湖を見下ろすその場所で、静かに昼下がりを過ごした。
 やがて四人は、来た時と同じ船に乗り帰途についた。名残り惜しさのためだろうか、船足は来る時よりもかなり速く感じた。
 船を降りて初めて隆史は水族館の方を見やり、そしてあっと声を上げた。水族館は春とはすっかり様変わりしている。
 (なんだあの黄色いのは。水槽はどこにいったんだ?)
 水族館の入り口前には、くすんだ真鍮色をした妙な形のオブジェが据えられている。春にはその場所にあったはずの水槽は、跡形もなかった。
 (気付かなかった……。さっきはどうして見えなかったんだろう)
 「何してるの? 早く行ってきなさいよ」
 立ち止まったまま動かない隆史を、母がせかして背中をつついた。
 「はい、お金」
 「え? お母さんは行かないの?」
 「名前も知らない魚なんて見ても面白くないもの」
 「またみやげ物屋に行く気?」
 「見終わったら車に戻って来なさいね」
 「お父さんはどうするの?」
 「そうだな、昼寝でもして待ってるよ。車の中で」
 三人はあきれ顔を見合わせたが、内心では仕方がないと思った。父の休暇は明日までで、また遠くまで帰っていかなければならないのだから。そう考えると無理に誘う気も失せ、隆史は裕史だけを連れて水族館へ向かった。
 「なにこれ、兄ちゃん」
 「さあ」
 たずねる裕史に、隆史は不機嫌そうに答えた。
 近くで見ると、そのオブジェはまったく奇妙な形をしている。魚をデフォルメしたものらしく、頭ばかりの体に尾が付いたような格好で、ひれだか骨だか分からない物がいくつも突き出している。
 (こんな変な物を入り口に置くなんて。たしかに人目は引くかもしれないけれど……)
 隆史は片手を伸ばしてその表面に触れてみた。金属の冷たさが、じんと手のひらに染み通ってくる。隆史の困惑は徐々に落胆へと変わっていった。
 (どうしてここへ来たかったのか、やっとわかったよ。ぼくはあの水槽が見たかったんだ。水を透かして何が見えるか、もう一度たしかめたかったんだ。それなのに……)
 不意の閃光がオブジェの面に強い陰影を刻み、隆史はとっさに手を引っ込めた。ふり返ると裕史がカメラをかまえている。もう一度フラッシュが光り、隆史の視野は緑色に染まった。
 「あと一まいか二まいくらいのこってたんだ。だから使い切っちゃおうと思って……」
 抗議めいたまなざしを向ける隆史に、裕史は弁解口調で言った。
 「でもまだのこってるみたい」
 「なら貸してくれよ。最後の一枚だろ? 写しておきたい物があるんだ」
 隆史はカメラを受け取ると、オブジェを背にして西を向いた。目の前には湖が間近に広がっている。あの時、水槽の面に四角く切り取られてはめ込まれたように映った湖だ。
 (だけどあの時は、まぶしいくらいにかがやいていたっけ。まるで溶けた金属のように。それが今は、こんなに暗くにぶくくすんでいる。冷えてすっかり固まってしまったようだ)
 隆史は湖面を四角くファインダーに収めると、ゆっくりとシャッターボタンを押した。
 水族館に入っても、羅列する水槽に隆史はさして興味を覚えなかった。説明をいちいち読むのも面倒で、しまいには通過する列車から駅の広告でも眺めるように、立ち止まりもしないで水槽を見流した。
 三十分ほどで水族館を出ると、少し離れた所を父が歩いているのが見えた。持てあました時間を散歩でつぶしているようだ。
 「お父さーん、なにしてんのー」
 裕史が声をかけると、父は二人に気付いてこちらへ歩いて来た。
 「わりと早かったな。どうだ、満足したか? 隆史」
 「まあね。小さな水族館だし、たいして見るものなかったよ」
 隆史は、落胆の思いを父に対して特に隠そうとはしなかった。
 「そうか。でも入り口の所に何か変わった物があったな」
 「ああ、あれねえ。なんか夜に見たらこわそうだなあ」
 裕史が言うと父は笑い出した。
 「ハハハ、そうか。父さんには尾頭だけの鯛という感じに見えたな。面白そうでつい見に来てしまったよ。入り口の像だけを」
 (昼寝よりも興味があったというわけか)
 父は今日の旅行を心の底から楽しんでいるらしい。そう思うと隆史は、あんなに熱心にここへ来たいと言っておきながら何も得られなかった自分が、だんだんとみじめに思えてきた。
 「あの場所に、この前来た時には水槽があったのに。あの水槽の魚たち、どこへ行ったんだろう」
 「中にはその水槽はなかったのか」
 「うん。魚たちは湖に帰ったのかな」
 「中にないんなら、たぶんそうだろう」
 隆史の気落ちした様子に、父の口調にもなんとはなしに気づかいが表れていた。
 母はまだ買い物をしているというので、三人の足は自然にみやげ物屋の方へ向いていた。
 「もう見て来たの? 早かったわねえ。悪いけどもうちょっと待っててね。それとも車に戻ってる?」
 母の問いかけに、隆史は返事をしなかった。店内に流れる音楽が気になって、母の声など耳に入っていないのだ。
 (なんていったかな、この曲。たしかグリーンなんとかというんだ。グリーン……、これも緑か……。どうしてぼくのまわりには、こうも緑ばかりがあふれているのだろう。それにしてもこの曲は……)
 せつないくらいにひどく懐かしい旋律に、隆史は目をつぶって店の入り口に立ちつくし、そのなめらかな波に心を浮かべた。
 帰る道すがらも、ここまで来ながら何も得られなかったという空虚感を忘れるために、隆史はあの曲の題名を思い出す事に没頭していた。せつないようなオーボエの音は、今も虚ろな頭の中に残響音となって繰り返されている。
 (グリーン……、グリーン……)
 いつしか雨が降り出した。雨のしずくは音を立てて窓に取り付き、ふるえながらしばらくとどまった末に、ななめに滑り落ちてゆく。
 (グリーン…………、…………)
 隆史はだんだん眠くなってきた。後部座席の裕史も、いかにも遊び疲れたという様子で首をかしげて寝入っている。隆史も首の力を抜いてうつむくと、静かな満ち潮のような眠気に身をゆだねた。


     17 冬

 冬の最初の夕日を、隆史は独りきりで見送っていた。
 (とうとうみどりは来なかった。……どうしたんだろう、こんな事初めてだ。まあ、ぼくのほうは熱出してすっぽかした事もあったけど。……みどりも今日は体のぐあいが良くないのか、ただ何か用でもあったか……。でも、あともう少しだけ待ってみよう)
 今の時期は日没が早いので、日が暮れてから帰ってもそう遅い時間にはならない。水面の輝きが失せ、夕日が雲に隠れても、隆史は風に吹かれながらみどりの来るのを待ち続けた。
 そんな夕暮れが、それから二度も続いた。隆史はもう落ち着いて座ってはいられず、堤防の上を自転車で何度となく行ったり来たりした。
 (どこにいるのだろう……。どうして来ないのだろう……)
 胸騒ぎに突き動かされるように、隆史は自転車の速度を上げていった。
 あの青年が、前から犬を連れて歩いて来る。几帳面にいつも同じ時刻に通りかかるので、彼とは毎週顔を合わせている。
 隆史はすれ違いざまに軽く頭を下げた。青年は口もとに笑みを浮かべながら、気づかわしげなまなざしを向ける。だが隆史はそのまま横を走り抜けた。
 通り過ぎてしまってから隆史は思い直し、自転車を止めてふり返った。
 (……やっぱり、やっぱりたずねてみよう。もしかしたらみどりの事を見かけてるかもしれないし、何もわからなくてもともとだ)
 隆史は自転車を押して青年を追いかけ、その背中に思いきって声をかけた。
 「あのう、ちょっと……」
 青年が足を止めて肩越しにふり向くと、隆史はせきを切ったように早口でたずねた。
 「あの、最近見かけませんか? あの子の事を。毎週ぼくは来てるんだけど、いつも会えなくて……」
 青年は気の毒そうな表情で、ゆっくりと首を振った。
 「そう……、やっぱり……」
 隆史はすっかり意気消沈して、独りつぶやく言葉さえ後が続かなかった。
 青年は体ごと隆史の方へ向き直ると、歩み寄って来た。そばまで来て青年が立ち止まると、犬も彼の足もとにおとなしく座り込んだ。
 「最近いつもきみ一人だから、気になっていたんだ。……そうか、けんかしたとか、そんな単純な事ではなかったんだね」
 隆史はうなずいた。そしてうつむいたまま小声でつぶやいた。
 「そうなんです。だからどうしたらいいのかわからなくって……」
 「あの子の家は知らないの?」
 「この近くらしいけど、それ以上は……」
 「それじゃ待つか捜すかするしかないか。最後に会った時、あの子は何か言ってなかった?」
 「……べつになんにも」
 隆史はかがみ込むと、犬の頭をそっとなでた。犬は鼻先を上に向けながら耳を寝かせて目を細め、されるままになっている。
 「来ない理由で思い当たる事は? ……それもないんだね」
 「うん」
 「きっとあの子は来ないんじゃなくて来られないんだよ。きみと同じで、今頃どうしていいのか分からず困ってるんじゃないか? ……ごめん、力になってやれなくて」
 そんなふうにあやまられると、隆史は心苦しさにいっそういたたまれない気分になった。
 「なんとか力になってやりたいけど、どうする事も出来ないみたいだ。でも楽になれる方法を一つ、教えてあげようか」
 隆史は顔を上げた。青年の言おうとする事はだいたい見当がつくが、そのまま黙って話を聞いた。
 「冷めてしまえばいい。そうすれば、つらくもなんともなくなるよ。あるいは、別の事により以上に熱くなるか……。でも、そんなつもりはないんだろう?」
 「うん。そんなのはいやだ、ぜったいに」
 「だと思ったよ。……きっとあの子も同じ思いでいるよ。だからさ、……」
 青年はもう何も言わず、立ち上がった隆史の肩をポンと軽く叩くと、背を向けて歩いて行った。
 (みどりも同じ思いでいる、か。それがどれほどのなぐさめになる? 会えなければ意味がないじゃないか……)
 鼻の奥がツンとして、思わず隆史は上を向いた。雲一つない冬の空が、視野いっぱいに広がる。
 (今あらためて気付いたよ。ソラという字とカラという字は同じなんだ。いくら青くたって、空は空っぽだ。ただスカンと気がぬけたように広がってるだけじゃないか)
 見上げる隆史の目も、空を映してどこか虚ろだった。
 しばらく隆史は虚空をみつめていたが、やがて地上に視線を戻した。犬を連れた青年は、もう遠ざかり見えなくなっていた。
 (でも、そのうちまたこの道をもどって来るだろう。もう帰ろうか。まだ早いけれど、今日はもうあの人と顔を合わせたくない。それに、……もうみどりも来ないだろう)
 隆史は自転車に乗ると、堤防の坂道を滑り降りた。そしてそのままの勢いで河原から離れた。
 (あの人に話したのは、やっぱりまちがいだったかな。でもだからといって、親になんかなおの事言えない)
 数日前の夕食時の母の態度を、隆史は思い出していた。
 『もう再来週には冬休みに入るのね。冬休みになったら隆くんは、また毎日河原に通うんでしょう?』
 隆史の反応を楽しむように、ちょっとひやかすような明るい口調で母は言った。それが気にさわり、隆史はこわばった表情で激しく首を振った。すると触れてはならない事だと考えたのか、それっきり母は何も言わなくなった。
 重く垂れ込めた気まずい沈黙の中で、隆史は思った。
 (お母さんのほうから話を切り出してくれたら、そして今ここに裕史がいなかったら、相談を持ちかける事もできるだろうけど……)
 だが母はあの青年と同じように、気づかうような表情を浮かべるだけだ。隆史はいつまでも、みどりの事を言い出しあぐねていた。
 (ついこないだまでは、ちょっとしたきっかけでなんでも話せるような気がしたのに……。だいたい、そうだんしてどうにかなる事でもないんだ。あの人の言う通り、待つかさがすかするしかない。ぼく一人で……)
 隆史は自転車をこぎながら、しきりにくちびるをかみしめていた。

 隆史は物思いにふける事が多くなったが、それでも毎日を暗く沈んで過ごしているわけでもなかった。特に正月には父も帰って来て、隆史も家族と一緒に祝いのひと時を陽気に過ごした。母に向かって首を振った手前、半ば意地になって休み中は一度も河原へ行かなかった事も、かえって良かったのかもしれない。
 父が帰って来ると、裕史は出来るようになったばかりの二重跳びを披露したり、凧を揚げに公園へ引っ張って行ったりと、たいへんな喜びようだった。
 隆史の方も、自転車のサドルの高さを調節してもらって上機嫌だった。以前から低くなったと感じてはいたものの、隆史の力ではいくら頑張っても全然動かなかったのだ。
 父のいる生活の良さを、二人はあらためて実感していた。正月をどこへも出かけずに過ごすのは初めての事だが、これほど充実した正月というのも、今までになかった事だと隆史は思った。
 「五日もの間隆史と裕史が一度もケンカをしないなんて、父さん驚いたよ」
 別れ際に父は言った。そんな事はまったく自覚していなかった二人は、意外そうに顔を見合わせた。

 やがて短い冬休みも終わり、三学期に入った。父がいなくなり、学校が始まり、以前の生活そのままを再び繰り返すようになると、冬休みはいきなり遠い過去の出来事となってしまったような気がした。
 そして隆史は再び、日曜日ごとに河原へ通うようになっていた。
 「ちょっと河原まで行ってくるね」
 隆史は母に、いつも浮かない声でそう告げてから出かけた。それでも母は、隆史の行動を気にかけるそぶりを見せるばかりで、結局何も言わなかった。
 隆史には、あえて距離を置いて見ているようなそんな母の態度が、時にはありがたく思え、また時にはもどかしくも思えた。隆史は自分の方から話を切り出す必要があるとうすうす悟ってはいたものの、それでもふんぎりはつかず、そのままいく度も日曜日は過ぎていった。
 とうとう隆史は、母にも、そしてほかの誰にも、みどりの事を話す事は出来なかった。


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