陽光の虹 月光の虹 − アポロンとアルテミス −
1
秀樹は鉛筆を投げ出すと、机に広げた紙を荒っぽくクシャクシャと丸めた。
これまでにどれだけの紙を無駄にしただろう。始めのうちはこまめに消しゴムをかけていたが、じきにそれも面倒になった。そのうえうまく書けないいらだたしさも手伝って、書けないのは紙のせいだと言わんばかりに、秀樹は何枚もの紙を丸めてはにぎりつぶした。
紙くずを叩き付けるようにくずかごに投げ捨てた秀樹は、ひじをついた両腕で頭をかかえ、長くため息をついた。
そんな秀樹の様子を見て、義径よしみちが大きな声でからかった。
「おっ、いいなあそのポーズ」
「なにが?」
「小説家みたいだぞ」
「うるさいなあ、いちいち」
福島義径はおおらかでおおっぴらな性格で、陽気な時も不機嫌な時も、やたらと大きな声を出す。そして思った事はなんでも口にしないとすまないタチだ。だがそんな荒っぽい印象に似合わず、周囲に細かく気を向ける時もある。ただしそれは今のように、ひとをからかう材料を探しているだけだとも言えるが。
義径のそんなクセも、悪気はないうえにカラリとしているので憎めないのだが、さっきから筆がまったく進まずイライラしていた秀樹は、義径に向かって不機嫌に言い返した。
「べつにいいだろ。フックも自分の事まじめにやれよ」
「おれもう終わったもん」
「…………」
「フッフッフ」
胸を張って笑う義径には何を言ってもききそうになく、秀樹の不満はこの場にいない先生に向かってそれた。
「だいたいこんなもの宿題にするなんて、先生もどうかしてるよ、まったく。なあ」
秀樹は賢吾に同意を求めた。学習机に向かっていた賢吾はふり向くと、いらだつ秀樹を気づかうような笑いを浮かべた。
「そんなむずかしく考えなくてもいいんじゃない? かんたんに終わらせちゃいなよ。ぼくももう書き上がるよ」
服部賢吾は周囲の者にいつも同情的で、そしてとても温和な性格だ。怒る事はおろか、声を荒げる事すらめったにない。その反面、どういうわけだか格闘技や過激なマンガが大好きで、そんな事から義径とも話が合う。今も義径に、
「ハットももう終わるのか。じゃあ書き上がったら下行ってマンガ読もうぜ」
と誘われると、すぐにうなずいて机に向き直った。秀樹も仕方なく宿題に気を戻し、新しい便せんをテーブルの上に広げた。
秀樹のクラスでは三学期に入ると班替えがあり、それに伴って席替えも行われた。
この新しい席で、秀樹には気になって仕方のない事が一つあった。右ななめ前の、いつまでも空いたままの知子の席。その身近な空白に、授業中でも給食中でもついつい意識が向いてしまう。ちょうど一本抜けた歯のすき間を、しきりに舌の先で触れてしまうように。
知子とは今回初めて同じ班になったのだが、なのにまだ一度も顔を合わせていない。知子は冬休み中にケガをして、今も入院中なのだ。
病院へは仲良しの由香が、連絡帳を届けたり授業のノートを届けたりするために、たびたび見舞いに行っているが、今日の帰りの会で先生がこんな事を言い出した。
「みんなで小野にお見舞いの手紙を書かないか。本当なら全員で見舞いに行ければいいんだが、そうもいかないしな。だからみんなで手紙を書いて、誰か代表者に届けてもらおうじゃないか」
秀樹達のクラス担任は大学を出たばかりの若い男の先生で、仲間の大切さや協力する事の素晴らしさを、たびたびみんなに熱っぽい口調で語りかける。そんな先生らしいセリフだなと秀樹は面白がって聞いていたが、それが明日までの宿題だと言われると途端に嫌な気になった。一時でも面白いと感じた自分自身さえもが、いまいましく思えた。
秀樹は文章を書くのがとても苦手だ。思った事をその場その場で話すのならなんでも言えるのだが、書くとなるとへんにかまえてしまうせいか、どうしてもつっかえてしまう。作文にしても感想文にしても、思ったままを素直に書けばいいと分かってはいるのだが、書くのは話すのと違い何度でも繰り返し読まれるという事に、秀樹はひるんでしまうのだった。まして手紙となると特定の読み手がいる。しかも相手は女の子だ。そんな気詰まりな思いから、秀樹は一緒に宿題をやろうと同じ班の義径と賢吾を誘ったのだった。
今日は家の人が誰もいないというので、三人は賢吾の家に集まった。子ども部屋への階段を上りながら、義径が秀樹に向かって言った。
「でも同じ班どうし集まって書くんなら、なんで畠山と岡本もさそわなかったんだ?」
義径の問いは本気ではないと、秀樹にも分かっている。同じ班とはいえ、男子と女子は別グループという感覚はもう常識だった。
「あいつらはあいつらで、集まって書いてるんだろ」
(それに、にぎやかな畠山はともかく、静かな岡本はどうもにがてだし……)
知子も同様に、どこかとっつきにくい感じがする。
小野知子は肩の辺りで切りそろえられた真っすぐの髪と色白なせいとで、一見物静かでひかえめな印象を受ける。そのため男子からは敬遠されがちだが、女子同士ではかなりにぎやかに騒いでもいる。そんな対称的な面を合わせ持つとらえどころのない知子に対して、いったいどんな手紙を書けばいいのだろう。それが、何枚も便せんを無駄にするほど秀樹が頭を悩ませている原因だった。
「小野さん、足のぐあいはどうですか。なんだ? まだ一行しか書いてないのか」
義径の声を頭の上に聞き、秀樹は両手でかばうように便せんを隠した。
「勝手に見るなよ」
「さっさと書いちゃえよ、テキトーに。そんなにシンケンになる事ないだろ」
「なにが。ただにがてなだけだよ」
「ハットも終わったっていうから、おれたち下でマンガ読んでるからな」
二人は階段を降りて行った。賢吾の家は理髪店だ。月曜日の今日は休みなので、二人は店のマンガ雑誌を読もうというのだ。
二人がいなくなればのぞき込まれる心配もなく落ち着いて書けるだろうが、なんだかとり残されたような気がして、秀樹は急にやる気をなくした。
秀樹が店に降りて行くと、二人は薄暗がりの中で明かりもつけず、何冊ものマンガ雑誌をひざの上に抱えながら、その上の一冊を広げて読んでいた。
「あ、カッチも終わったのか」
「もうやめたんだ。あとは帰ってからやるよ」
「おーお、勝手な事言って。いっしょに書こうって言い出したのはだれだっけ?」
「いいだろ、かたい事言うなよ」
「おいおい、カチカチ頭のカッチがなに言ってんだ」
「でも勝手っていうんなら、フックだってひとの事言えないよ。自分の家でもないのに、下でマンガ読もうぜなんて言い出すんだから」
「ハハハハハ、ハットもっと言ってやれ」
秀樹は、知子への手紙に書く事をようやく一つ見付けた。
(小野はまだ班替えの事も知らないし、だから同じ班になったなかまの事を知らせてやろう。うん、ようやく書けそうな気がしてきた)
帰宅した秀樹は一行だけ書きかけた手紙を丸めて捨てると、新しい便せんを用意した。こないだのテストで先生に字が薄いと注意されたのを思い出し、最初からボールペンで書き直そうと考えたからだ。
そして、義径に読まれてしまった物を、なんとなくそのまま出したくないという気持ちもあった。とはいえ書き直してみても、結局書き出しの文章は変わらなかったが。
『小野さん、足のぐあいはどうですか。ぼくはした事ないから知らないけど、ギプスって重いんですか。早くとれるといいですね。
班がえがあって、ぼくは小野さんと同じ班になりました。ほかには女子が畠山さんと岡本さん、男子が服部君と福島君。ハットとフックとカッチがそろうなんておもしろいよね。
それから、この前の土曜日にたこあげ大会があった。その時すごいにじが出たんだ。かんぜんに右から左までつながっててくっきりしてるんだ。それでちょっと思いついて、ぼくのたこはビニールですきとおってるからそれでにじをなぞろうとしたんだ。それでひっしに上見ながら横に歩いてたら、フックとぶつかってどなられちゃったよ。
その時のみんなのたこがまだ教室にかざってあるから、みんなが持って帰るまでに学校に来られるといいね』
2
翌日の午後、病室の知子は何もする事がなく、そのせいでかえってくたびれてしまうほど退屈していた。待ち遠しさにたびたび時計に目をやるが、面会時間までまだ三十分以上もある。時計の針というものは、ひんぱんに見れば見るほど遅くなるものらしい。
四人部屋の病室には、窓際に二人のおばあさん、向かいには年配のおばさんがいる。
(同じくらいの年の子がいてくれたら、こんなたいくつもしなくていいのに……)
活発でおしゃべり好きな知子にすれば、ろくに動く事の出来ない今のような時こそ、せめて心ゆくまでおしゃべり出来る相手がほしいのだった。
二人のおばあさん達は、たまにお互い声をかけ合うくらいで、あとは静かに窓の外を眺めるばかりだ。となりのおばさんはおしゃべり好きなようでよく話しかけてはくるのだが、母親より年上では話が合うはずもない。
「知子ちゃんは、大きくなったら何になりたいとかいうのはある?」
「あ、いいえ」
「そういうような事は考えたりしないの?」
「まだはっきりとは……」
「うちの娘はねえ、……」
この人はいつでもこのように、まず質問を投げかけてくる。けれどもそれは知子に関心があるというわけでもなく、ただ単に話のきっかけ作りに過ぎない。知子が一言二事短く返事をすると、あとは一方的にしゃべり続けるばかりだ。大学に通う娘の話を、よっぽどひとに聞いてもらいたいらしい。
「……それで忙しいらしくて、お正月なんて二日しかいられなかったのよ。とにかく大変らしいわ。それに遠い所だから見舞いにも来られないようね」
いつもいつもこんな話ばかりで、知子はウンザリしていた。だが人のよさそうなこのおばさん相手には、興味のないそぶりを見せる事さえなんだか悪い気がして、知子は話しかけられるたびに困っていた。
面会時間の三時になると、母はいつものようにすぐに来てくれた。
「マロンとチョコと、どっちがいいか分からなくて両方買って来ちゃった。よかったら二つとも食べて」
お菓子の差し入れもいつもの事だった。四年生ともなれば当然太る事だって気になるが、母の気持ちが嬉しい知子は、少しもためらわずにクレープを二つともたいらげた。
夕方になり母が帰ってしまうと、入れ違いに由香がやって来た。いつもは一人で来る由香に、今日は二人の連れがいた。
「もう、ともちゃんたらいつもろうかのほうばかり見てるんだもん、急に来てビックリさせようとしてもできないじゃない」
「フフッ、でも今日はちょっとビックリしたよ。えみとまちこちゃんまで来てくれるなんて思わなかったもん」
「じゃあもっとビックリした顔してちょうだいよー」
「わざとそうするの?」
「だって、そんなじゃものたりないんだもん」
酒井由香は大人びた外見や声に似合わず、親しい友達相手には、いつもこんなふうに子どもっぽくはしゃぐ。夢のような世界へのあこがれも人一倍強く、テレビドラマや少女マンガの話題になると、誰よりも騒ぐのもこの子だ。
にぎやかという事では、畠山絵美もいい勝負だ。活発すぎるためか、知らない人には男の子に間違えられたりもする。とにかく大勢で騒ぐのが大好きで、何をするにもすぐに誰かを誘いたがる。今日は誘い屋の絵美が反対に由香に誘われて来たのだと思うと、知子はちょっとおかしくなった。
そんな由香や絵美とは対称的に、岡本真知子はおとなしくておっとりした感じの子だ。それでもやはりおしゃべりするのは大好きで、そしてよく笑う。女の子同士集まっておしゃべりしている時には、たいていその中にこの子の姿もある。
初めて病室を訪れた絵美と真知子の二人は、始めのうちは気おくれからかうつ向きがちに静かにしていたが、知子と由香のにぎやかな会話につられるように、次第にいつもの調子を取り戻した。元気な様子の知子に安心もしたのだろう。
「ねえねえ聞いて、ともちゃん。わたしまた男の子にまちがえられちゃった」
「へえ、またなの? いつ?」
「ついさっき。そこで看護婦さんに会ってね、さかちゃんといっしょにこんにちわってあいさつしたの。そうしたらその看護婦さん、わたしを見て、『きみ、知子ちゃんのボーイフレンド?』なんて聞くんだよ」
「フフフ、失礼な看護婦さんねえ」
「もちろんわたし、すぐにちがいますって言ったよ。そしたら横からまちこちゃんが、『ただのクラスメイトです』なんて言い方するんだもん、看護婦さん笑いながらそのまま行っちゃった。きっとまだ誤解してるよ」
「でも、えみくんの事女の子だって言っても、きっと信じないんじゃないかなあ」
「もう。看護婦さんよりともちゃんのほうがずっと失礼じゃない」
「ゴメーン。ねえまちこちゃん、後ろに持ってるそれなあに?」
「これはね、ともちゃんへのおみやげ」
またお菓子かと知子は一瞬心配になるが、クラスのみんなからの手紙と聞いて安心した。
「わあうれしい。ありがとう」
「はずかしいから、読むのはわたしたちが帰ってからにしてね」
「うん」
「それから声に出して読んだりするのもやめてよ。ほかの人に聞こえるから」
「そんな事するわけないでしょ」
ふと知子はとなりを見た。あのおばさんはいつの間にかどこかへ行ってしまい、ベッドは空だった。知子はすっかりくつろいだ気分になり、窓辺のおばあさん達の事もすっかり忘れて、大きな声で三人とおしゃべりを楽しんだ。
面会時間も終わって由香達も帰ってしまい、そろそろ夕食という頃になって、おしゃべりおばさんは戻って来た。
「まあ、たくさんの手紙ねえ。学校の友達から?」
「ええ」
それだけ答えるとまたすぐ手紙に目を戻す知子に、おばさんはもう何も言わなかった。おしゃべりに付き合わない口実が出来た事を喜びながら、知子はゆっくりと手紙を読んだ。
(みんな読み終えてしまったら、今度は返事を書こうかな)
就寝時間が過ぎても、閉じたカ−テンの中で知子はまだ手紙の返事を書いていた。由香達への返事はもう書き上げてしまい、今書きかけているのは秀樹への返事だった。
(うーん、やっぱりむずかしいな、あんまりしゃべった事もない男の子が相手だと。でも、ちょっとたずねたい事もあるし……)
知子はペンを置くと、もう一度秀樹からの手紙を読み返した。
知子にとって、その手紙は意外な物だった。どちらかというと無愛想な印象の秀樹が、ほかの男子達の義務的でおざなりな手紙と違い、まるで語りかけてくるような手紙を書いている。ボールペンで書かれているのも変わっているし、たこあげ大会の話からいきなり虹の話になるのもなんだかおかしい。
(にじにこんなふうにむちゅうになるなんて、なんだか石川くんの印象変わっちゃったな)
知子は小さく笑うと、すっかりほぐれた気分でペンを走らせ始めた。
『石川君、おみまいの手紙ありがとう。ちょっと聞きたいことがあって返事を書いたんだけど、石川君ってそんなににじが好きなの? それとも、ひょっとして私がにじを大好きだって知ってたの? そんなはずないよね。
でもにじってなんだかステキよね。雨と日の光で見えるってわかってても、どこかふしぎに見えるしね。私もそのにじ見たかったな。
それからたこでにじをなぞってて福島君とぶつかったらしいけど、それで最後までなぞれたの? ほんとに石川君っていつもおかしなことにむちゅうになるんだね。それじゃ、今度学校で。
小野知子より』
ペンを置き、知子は秀樹の事を思い浮かべた。
石川秀樹は小柄で細い体をしているが、冬でもよく日に焼けて活発そうに見える。ふだんは割合ひかえめなくせに、ひとたび熱中した事にはとことんのめり込み、そうなるとひとの言う事にも耳を貸さず、自分の思うままに行動する。
(そんなところから石川くんは、カッチカチの石頭なんてよばれてるのよね。それにときどき神経質そうに顔をしかめたりもするから、なんとなくにがてだなあ。でも、手紙だったらなんでも気楽にたずねられそう)
知子は再びペンを取った。
『P.S. ちょっと思ったんだけど、石川君の名ふだはみんなのとちがって少し色が明るいし、それにちょっと大きいみたいだけど、どうして?』
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