陽光の虹 月光の虹 − アポロンとアルテミス −


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 知子が松葉杖をついて登校してきた。秀樹にはやはり、右ななめ前の席が朝から気になってならなかった。今まで空いていた席が一つ埋まったというだけで、秀樹にはなんだか教室全体が今までとまったく違って見えたのだった。
 けれども本当は、そんな事だけが理由ではなかった。今朝から秀樹の心を覆っていたのは、知子にあの見舞いの手紙を読まれた事への、気恥ずかしさといった感情だった。
 (フックの言う通り、かんたんに書くんだった。早くなおるといいですね、だけでよかったのに、なにをあんなにながながと書いちゃったんだろう。たこあげ大会の話から、にじの話まで……。どうでもいいような事でも、ぼくは勢いづくとついのめりこんじゃうからなあ……)
 調子にのりはしゃいでしまった後に味わうようなてれくささから、秀樹は松葉杖で不自由している知子に手を貸す事も出来ずにいた。
 おもに知子の世話をするのは仲良しの由香、そして同じ班の絵美と真知子だ。何に対しても大ざっぱという感じの絵美が細かい事にも気を配り、おとなしくひかえめな真知子が積極的に手助けする。そんな様子を目の当たりにして、秀樹の心の中にはうしろめたさといった感情もふくらみ始めた。
 (ぼくだって同じ班なのに、なんにもしないでただ見ているだけだなんて……)
 手助けしたい気持ちはあっても、それを行動に移せない自分自身に対して、秀樹はひどくもどかしい思いを抱いた。やがてもどかしさはいらだちに変わり、そのいらだちは気軽に手を貸す由香達や、無邪気に補助を願う知子にさえも向けられた。
 (なんだよ。だいたいもとはといえば、小野がケガなんかするからいけないんじゃないか)
 それほどまでに秀樹は、自分の心の中にうずまく気恥ずかしさやうしろめたさ、もどかしさやいらだたしさといったいくつもの感情を、どうしようもなくもてあましているのだった。

 今週、秀樹達の班は教室の掃除当番だ。放課後になってもまだ気分がムシャクシャしていた秀樹は、荒っぽいながらもひどく熱心に掃除に取り組んでいた。
 「えらいマジになってるなあ、カッチのやつ。小野がいなくても、あいつが二人分くらいやってくれるから助かるよな」
 義径が、賢吾に向かって小声で言った。
 「あの調子で四人分がんばってくれたら、おれたちもラクできるんだけどな」
 「言えてる」
 「こら、聞こえたぞ。フックとハットもまじめにやれよ。ほら、ちりとり」
 「まじめはいいけどさ、もうちょっとそうっとできない? そんなに勢いよくやったら細かいのがみんな飛んで来るんだけど」
 「あ、悪い悪い。じゃあぼくがちりとり持つから、ハットがゴミはいてくれ」
 かがみ込んでふと顔を上げると、知子のギプスの足が目に入った。
 掃除を免除されたはずの知子が、なぜだかいつまでも教室に残っている。後ろの入り口のドアにもたれかかりながら、廊下を掃除する絵美や真知子とおしゃべりをしている。
 「もう、ともちゃん、早く帰ろうよ」
 由香に声をかけられても、知子は教室の中を気にするそぶりを見せながら、やはり帰ろうとはしなかった。
 「うん、もうちょっと……。かいだんのとこで待っててよ、すぐに行くから」
 知子はまたドアに寄りかかった。
 (一人だけ先に帰るのは悪いなんて思ってるんだろうけど、どうせなんにもできないんだろ。残ってたって目ざわりなだけだよ)
 秀樹はちりとりのゴミを、勢いよくゴミ箱にぶちまけた。
 「ほらまた。カッチ、ゴミがこぼれた」
 「……悪い」
 ぞうきんを洗いに教室を離れている間に、知子はいなくなっていた。
 掃除を終えて、帰り支度をしようと机の中をさぐった秀樹は、習字の道具の上に四つ折りの紙がのっているのに気付いた。
 (? ……小野がぼくに?)
 開いてみるまでもなく、手に取っただけで秀樹にはそうと分かった。女の子特有の丸っこい文字の列が透けて見えている。同時に秀樹は、知子がいつまでも帰ろうとしなかったわけも理解した。
 (教室にだれもいなくなる時を、ずっと待っていたんだな)
 秀樹の心の中に、知子に対する共感が新たに育ち始めていた。その感情の不思議な快さに、秀樹は穏やかな気分をようやく取り戻した。

 帰宅して知子からの手紙に目を通した秀樹は、宿題そっちのけで返事に取りかかった。
 知子からのこの手紙に対して、秀樹は返事を必ず書かなくてはならないという気持ちになっていた。内容が質問ばかりという事から、知子が返事を期待しているのも分かる。それに何より、今日一日知子を疎ましく思ってしまった事へのつぐないとして、秀樹はどうしても返事を書きたいという気になったのだった。
 (なあに、手紙っていっても、最初に書いた時ほどむずかしくはないよ)
 秀樹は知子からの手紙を参考にしながら、前回とくらべるとかなり気楽に手紙を書いた。
 『小野さん、学校に来られるようになってよかったね。あとはギプスが早くとれるといいけれど。同じ班なのになんにも手助けできなくてごめん。なにをしたらいいのかわからなくて、しょうがないんだ。だから小野さんのほうから言ってくれたとしたら、なんでもするんだけど。
 あと、たこあげ大会の時の事だけど、フックにどなられてもぼくは最後までたこでにじをなぞったよ。とにかくぼくはカッチカチの石頭だからね。それじゃあまた。
  石川秀樹
  P.S.』
 (うーん、なにを書いたらいいんだろう)
 知子の手紙を参考にしながら返事を書き進めている秀樹は、追伸も必ず書かなければならないものと思い込んでいた。
 (あっそうだ、小野はにじがすきらしいから……)
 『小野さんはにじがすきだっていうけど、それなら夜のにじを見た事はあるかな。太陽でにじが出るのと同じように、きっと月でもにじが出るとぼくは思うよ』


     4

 ギプスも取れ、足もすっかり治ったある日の放課後、知子は嬉しさのあまりひどくはしゃいでいた。階段を一段とばしで駆け降り、グラウンドをスキップでひと回りした。鉄棒で足かけ回りをし、転がってきたサッカーボールを思いきりけとばした。花だんの縁のブロックをバランスを取りながら伝い歩き、飛び上がるようにして上った朝礼台から、校庭じゅうに響くような大声で由香に声をかけた。
 「さかちゃーん、いっしょに帰ろー。ほら早くー」
 ランドセルを取りに教室へ戻る途中も、知子はわざと足音を大きく響かせながら、やはり一段とばしで階段を駆け上がった。
 スキップで廊下を駆け抜け、そのまま教室へ駆け込もうとした知子は、あやうく秀樹とぶつかりそうになった。
 「あっと」
 「うわっ」
 秀樹はせわしなく何度もまばたきを繰り返すと、知子があやまろうとするひまもなく、落ち着かない様子で小走りに行ってしまった。
 「しっぱいしっぱい、ろうかは走っちゃいけないんだっけ。フフッ、でもビックリしたな。フフフフ」
 はしゃいだ気分の今の知子には、ささいな事でもひどくおかしく思えた。知子は声を立てて笑いながら自分の席に戻った。
 机の上に置いてあったランドセルを取り上げたひょうしに、何かがいすの上に落ちた。手に取って見ると、それは白い封筒だった。手紙らしい。差し出し人は石川秀樹となっている。
 「フフフ、そっか、石川くん、わたしとおんなじ事をしたんだあ。アハハハハ」
 封筒の表を見ると、クラスや班がまるで住所のように書かれている。秀樹が遊び心で書いたのだろう。左上には切手も描かれ、ていねいにも消印まで書き込まれている。その日付けからすると、この手紙はずいぶん前に書かれた物らしい。それがまた知子にはおかしかった。
 (きっと石川くん、ずーっとチャンスを待ってそわそわしてたんだろうね。それに今も、わたしの足音に大あわてしたんだ)
 知子はていねいに封筒を開けると、慌てて逃げ出したらしいさっきの秀樹の様子を思い返しながら、愉快な思いで時期遅れの手紙を読んだ。
 「もう、ともちゃーん。ともちゃんから帰ろうって言っててなにしてんの? ずっと下で待ってたのに」
 由香が教室に入って来たので知子は手紙を封筒に戻し、ランドセルにしまった。
 「なにうれしそうにしてんの? ねえ、今のなに?」
 「ううん、べつに」
 「手紙でしょー。だれから? ひょっとして男の子?」
 由香は目ざというえに、こういう事にかけてはカンも鋭い。知子は由香に対しては隠す気がせず、聞かれるままついうなずいていた。ただ秀樹が困ると思ったので、相手が誰かは明かさなかったが。
 並んで帰るいつもの道で、由香は妙に楽しそうに文通相手の事を知子にたずねた。
 「ねえねえねえ、どんな人なの? 名前までは聞かないから、それくらい聞かせてよ」
 「どんな人って言われても……」
 「背は高い? カッコイイ?」
 「背は高くはないけど……」
 「カッコはいいの?」
 「……どちらかといえばね」
 「ヒカク的?」
 「まあ、そうね。75パーセントってとこかなあ」
 「なに言ってんのよ。同い年の人?」
 「うん」
 「いいなあ……。わたしボーイフレンドなんてぜーんぜんいないよ」
 「ボーイフレンドじゃないってば。ただのペンフレンド」
 「でも男の子じゃない。いいよねえ」
 少女マンガや恋愛小説の世界にあこがれる由香は、質問を重ねながら勝手にドラマティックな状況を想像しているらしい。
 「ねえ、どういうきっかけでその人と文通するようになったの?」
 「えー、きっかけって言われても……」
 「いいじゃない、聞かせてよ」
 「うーん、最初はね、おちこんでるわたしの事を、その子が手紙で元気付けてくれたの。それがうれしくってわたしも返事を書いて、それで……」
 「ふうん、そうなんだあ。ねえともちゃん、そんなふうに遠くから心配してくれる人がいるって、すごいステキな事だよ。ただのペンフレンドなんて言わないで、大切にしなきゃ」
 「うん。そうだね」
 由香の空想につられるように、いつしか知子も遠くに素敵なペンフレンドがいるような気持ちになっていた。

 その夜知子は、クラスメイトの秀樹にというより、遠くのペンフレンドに宛てたつもりで手紙を書いた。
 『手紙ありがとう。でもとどくまでにずいぶん時間がかかったよ。まあ遠いからしかたないけどね。できたら今度は速達でちょうだいよ。なんてね、これはじょうだん。
 月のにじなんて、私考えたこともなかった。もしもほんとにあるのなら、私も見てみたいなあ。カッチは見たことあるの? 月の光は弱いから、月のにじもきっと気がつかないくらいうすくて、だから今まで知られていないのかな。きっと夜空の中でかすかに光って、とてもふしぎに見えるんだろうね。それじゃ、おやすみなさい。
  知子よりカッチへ』


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