陽光の虹 月光の虹 − アポロンとアルテミス −


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     9

 何がなんだか分からずに、秀樹はボンヤリ廊下に突っ立っていた。放課後残るようにと知子に言われるまま残っていると、今度は準備が出来るまで外にいてと言う。秀樹は由香と麻紀に押しやられるように、廊下へ追い出されてしまった。
 それでも秀樹は怒りもせずに、その準備というのがすむのをじっと待った。事情が分からないうちは、とまどうばかりで腹の立てようもないものだ。
 知子に紙きれを手渡されても、三人がからかうように笑いながら帰って行っても、秀樹は黙って立ちつくしていた。何しろ秀樹には、知子に対して負い目がある。秀樹はただ、三人の姿が見えなくなってから小さくため息をつくだけだった。
 知子に手渡された紙きれを広げると、それには『花びんの下を見なさい』とだけ書かれている。
 「なんだこれ? 花びんの下になにがあるんだ?」
 どんな意味があるのか疑問に思いながらも、そしてその一言の命令的な調子が少々気にさわりながらも、秀樹はやはり知子の指示通りに行動するほかなかった。
 花びんの下にはまた紙があった。広げると、それには『そうじ用具入れの中を見なさい』と書かれている。
 「……まったく、どうなってるんだ?」
 秀樹は教室の後ろへ行き、掃除用具入れを開けた。同じような紙がまたある。広げると、今度は『教卓の中を見なさい』とある。秀樹はようやく事情を察した。
 「こうやってぼくをあちこち歩き回らせて、それでおもしろがってるんだな。これがマーガリンのしかえしか。それにしてもやってくれるよ。わざわざ次は遠いところをしめして、すみからすみまで歩かせるんだから」
 つぶやきながら秀樹が教卓の中をさぐると、やはりまた紙があった。今度の指令は『うしろの黒板のチョーク入れの中を見なさい』だ。
 とうとう秀樹は笑い出した。自分が知子にからかわれているのは分かっていたが、秀樹にはそれが仕返しといった陰湿な悪意のとげを持つものではなく、綿毛のような親しみのこもった軽い冗談というように感じられた。
 秀樹の心の中で、教室のとりすました態度の「小野」と、文通相手の親しみのもてる「モコ」とが、ようやく一つに重なった。知子のよそよそしい印象も、手紙の親しみのこもった文章も、それが相手のすべてなのではなくほんの一面に過ぎないのだと、今初めて秀樹は気付いた。
 (たとえばこの紙にしたってそうだ。言葉だけ見れば命令調で一方的でそっけないけど、でも書かれた文字は見なれた丸っこいかわいい字だから、ちっともいやな気がしないんだ。そんなところは、そのままあの子にもいえるのかもしれない)
 知子の示す物が何なのか、それはまだ分からない。分からないからなおの事、秀樹ははやる気持ちからますます熱心に紙を集めて回った。時間割り表の裏、ロッカーの中、鉛筆削り機とセロハンテープ台の間、ゴミ箱の下、前の黒板のチョーク入れの中、給食の献立表の裏……。
 そして自分の席に最後の手紙を見付けた秀樹は、それを読みながら声を立てて笑い出した。
 「なにがこれでゆるしてあげる、だよ。三人でおもしろがってただけのくせに。よーし見てろ、しかえしのしかえしだ」
 うかれ気分も手伝って、こりない秀樹はもう一度イタズラをたくらんだ。
 (こんな紙、みんなモコに返してやろう。まったく同じ事をやり返して。フフッ、今度はモコが集めて回る番だ)
 秀樹は不満をつぶやきながら教室を回る知子の姿を楽しく想像しながら、まず最後の手紙を書いた。
 そしてその手紙を入れようと知子の席へ行った時、不意に帰りの放送が流れ始めた。
 「下校時間になりました。まだ学校に残っている人は、早く下校しましょう」
 秀樹は舌打ちした。
 「チェッ、もうそんな時間か。今から紙をしかけるひまはないし……、よし!」
 秀樹は何の考えもなく、たまたま目に付いた知子のリコーダーを取り、代わりに自分のリコーダーをその場に残した。そして急いで教室を出た。
 教室を離れ、学校を離れ、イタズラをたくらむ時の気持ちの昂ぶりが冷めるにつれ、秀樹はとっさの自分の行動に対して腹が立ってきた。
 (あとの事も考えないで、なんであんな事したんだ? まったく、モコのきげんをそこねるような事ばっかりして。あしたさっそく音楽があるっていうのに、いったいどうする気だよ。バカヤロウ)
 歩道橋を大またで渡りながらポケットに手を突っ込むと、紙きれに手が触れた。さっき知子の机に入れようとして書いた手紙だ。
 『三人がかりでしかえしなんてひきょうだぞ。だからこれでおあいこな。それからぼくはこりないよ。なにしろぼくは石頭だし、それにモコのびっくり顔もやっぱり見てみたいしな。
  カチカチ頭のカッチより』
 (なんの考えもなしにただ同じ事をくり返すぼくは、やっぱりバカだ)
 秀樹はその手紙を細かく引きちぎり、ひと固まりに丸めた。それでも気がすまない秀樹は、ちょうど通りかかったトラックの荷台に向けて、その紙くずを歩道橋の上から思いきり投げつけた。


     10

 翌日の音楽の時間、リコーダーを手にした知子は、すぐにそれが自分の物ではない事に気付いた。
 (だれかのと取りちがえたのかな。でもいつ?)
 知子は丹念にリコーダーを調べてみた。けれども持ち主を示すようなものは何もない。ただ、先の方に知子の物にはない小さなキズがいくつも付いている。
 (やだ、これひょっとして男子のじゃないの?)
 リコーダーを習い始めたばかりの三年生の頃、男子達はいつもリコーダーを振り回して遊んでいたのを思い出した。これはそんなふうにして付いたキズだろう。
 ふと相手に思い当たり、知子は顔を上げるとすばやくふり向いた。すると不意をつかれて目が合った秀樹は、慌てたようにまばたきすると目をそらせた。
 (やっぱり。ほんとにこりないんだから)
 知子は、これもまた秀樹のイタズラだと確信した。
 (ショウコはないけど、まちがいないね。ニンイドウコウをもとめてジジョウチョウシュしちゃおうかな。キョドウフシン、ほんととぼけるのがヘタなんだから)
 この状況を、知子は楽しんでいた。これでまた秀樹に貸しができ、自分がますます優位に立つといった考えが、胸の中で泡のようにふくらみ踊った。
 (今のでカッチにもわかっただろうね、わたしがもう気付いてるって事は)
 それならこんなイタズラくらい平気だという態度を見せなくては、と知子は考えた。自分の優位を保つために。そして何より、もっと秀樹をまごつかせてやろうというからかい気分から。
 斜め後ろからの視線を意識しながら、知子は無関心なそぶりを見せつけた。授業が始まると、知子は平然と秀樹のリコーダーにくちびるを当てた。
 時おり裏返ったように高くふるえる音が、斜め後ろから聞こえてくる。
 「ほらほら、吹く調子が硬すぎるよ。低音はもっと静かに吹くように」
 先生に注意されると、その音は消え入るように小さくなった。
 知子には、秀樹のそのうろたえぶりが妙に小気味よく思えた。
 (自分のほうから取りかえたくせに)
 思わず込み上げる笑いに音をふるわせた知子もまた、先生に注意された。
 「息はもっとゆるやかに。タンギングもトートーとやわらかく」
 知子はくちびるからリコーダーを離すと、口もとをほころばせながらちょっと舌を出した。

 この日はずっと、知子は秀樹とほとんど顔を合わせなかった。秀樹の方で知子を避けていたためだ。秀樹は休み時間になるとすぐに教室を出て行き、始業のチャイムが鳴っても先生が来るギリギリまで戻って来ない。帰りの会の時も、最後の礼をして顔を上げた時には、秀樹の姿はもうなかった。
 「ねえねえ、ともちゃん」
 梓が声をかけてきた。
 「マーガリンのしかえしって、きのうはなにをしたの?」
 「どうして?」
 「だって石川くん、ともちゃんにおびえてるみたいに見えるよ」
 「フフフフ、そうじゃないの、あれはね……」
 知子はリコーダーの事を話そうかと思ったが、他人にまで笑われてはさすがに秀樹が気の毒なので、黙っている事にした。あの事は自分一人で、あとで手紙ででもからかってやればいい。
 「……ううん、なんでもない」
 「あー、いったん言いかけてずるーい。聞かせてよう」
 「べつに、そんなたいした事じゃないんだってば」
 「わたしも知りたいよう。ねえ、なにをぶつけたら男の子ってあんなふうになるの?」

 家へ帰って落ち着いて考えるうちに、なぜだか秀樹をからかう気持ちの失せた知子は、秀樹への手紙にこんな物語を書いた。
 『ある日の夕ぐれ、アルテミスは目をさますと、いつものように狩りにでかけようとしました。すると、近くの木に立てかけておいたはずの弓が、自分の物とはちがっているのに気がつきました。アルテミスの弓は、ほとんどすきとおったうすい白い色をしていて、月の光にかざすとほのかに赤と青に光るのです。手ざわりはひんやりと冷たくてかたく、六角形をしています。それなのにここにある弓はあざやかな七色をしていて、手ざわりもふんわりとあたたかくて丸いのです。
 これはアポロンの弓にちがいないと、アルテミスは思いました。きっとアルテミスがねむっているあいだにアポロンがやって来て、こっそり弓をすりかえていったのでしょう。ずっと前からアポロンは、アルテミスの使っているその不思議な弓に、きょうみをもっていたようですから。それでもアルテミスは、そんなにいやな気がしませんでした。同じようにアルテミスのほうも、アポロンの持つきれいな弓を一度使ってみたいと思っていたからです。
 アルテミスは、アポロンが弓を返す気になるまでしばらくこのまま取りかえっこしていてもいいなと思いながら、アポロンの弓を持って狩りにでかけました』


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