陽光の虹 月光の虹 − アポロンとアルテミス −


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   2 二つの弓

     1

 知子からの風変わりな手紙を読み終えて、秀樹は安堵とも失望ともつかないため息をもらした。リコーダーの事で知子が怒ってはいないらしいというのには安心したが、意味不明の内容で知子の真意が判らないという不安も残る。秀樹は誰かが来てドアを叩くかもしれない事を気にしながらも、手紙をもう一度始めから読み返した。
 落ち着いてゆっくり読み返してみれば、知子の書いた物語もそれほど意味の分からないものではなかった。主人公のアルテミスというのは、知子の事に違いない。そしてアポロンというのは、やはり秀樹の事だろう。
 (それなら弓をすりかえられてもいやな気はしなかったっていうのは、リコーダーをすりかえられたモコの気持ちそのままなんだろうか)
 秀樹は思ったが、いまひとつそう確信は出来なかった。
 そもそも弓というのは何を意味するのだろう。当然リコーダーを指すのだろう。けれどもそれだけではないようだ。アルテミスの弓はほとんど透き通り、アポロンの弓は七色に光り……。
 (これはにじだ。月のにじと太陽のにじ。アルテミスの持つ弓というのは、ぼくらが見たいとねがっている、月のにじの事でもあるんだ)
 秀樹はいつかの知子からの手紙を思い出した。
 『にじのこと英語でレインボーっていうでしょ。あれは雨の弓っていう意味なんだって。そういえば弓の形ににてるもんね』
 (そうなんだ、月光のにじはアルテミスの弓なのか。……だから、同じにじにあこがれる仲間どうし、ゆるしてあげるって事、なのかなあ)
 しかしそれはあまりに虫の良すぎる解釈だと、秀樹は自分でも思った。
 (やっぱりあやまったほうがいいだろうな。せっかくおわびの手紙も書いてきたんだし、放課後残ってモコのつくえに入れていこう。……それまでは、まだモコとは顔を合わせないでいよう。ほんとは休み時間にこんなところにいたくはないけど)
 始業のチャイムが鳴り終わり、廊下のざわめきが遠ざかるのを待ってから、秀樹はようやくトイレの個室から出た。

 『ごめん。あれはちゃんとあらってから返す』
 昨夜秀樹は長い時間考えた末に、短くこれだけ書いた。長く書けば書くほど、わびる言葉は言いわけめいて知子の機嫌をそこねるばかりだと思えたし、だいいち長い文章を書くには、秀樹はあまりにも落ち着きをなくしていた。
 (ふえがぼくの物だって知ってて、それなのにあんなふうに平気で……。ひょっとして、またなにかしかえしでもたくらんでるんだろうか)
 意味不明の手紙を受け取る前から、秀樹は知子の意外な反応にとまどい、そして不安を抱いていた。
 けれども同時にその思いの対岸で、助かったとも感じていた。あの落ち着いた態度以外のどんな反応を示されても、秀樹はばつの悪い思いをしただろう。それに、衝動的にしでかしてしまったあのイタズラを、知子以外の誰にも知られずにすんだのもさいわいだった。
 (あとはモコにあやまって、リコーダーももどせば問題は解決だ。よし、早くかたずけてしまおう)
 そんな思いで、秀樹は今朝はひどく早く登校してきた。それでも知子をはじめ飼育委員がもう来ていたので、机にこっそり手紙を入れるわけにはいかなかったが。
 (しょうがないな、放課後を待とう)
 そうして秀樹は、逆に自分の机の中に知子からの手紙を見付け、ほかに一人になれる場所も思い付かなかったために、手紙を片手にトイレに駆け込んだのだった。

 放課後秀樹は、学級文庫を読みながら教室に誰もいなくなるのを待った。
 秀樹はまず辞書を取り、アルテミスとアポロンを引いてみた。知子の物語に出てきたこの二人は、どちらも名前だけはよく聞くように思うが、秀樹はそれがどういう人物なのかまったく知らなかった。
 アルテミス、ギリシャ神話の月の女神。アポロン、ギリシャ神話の太陽神。辞書を引いて分かったのはただそれだけだ。秀樹は物足りなく思いながら、次に星座物語という本を手に取った。
 (ギリシャ神話なら、たしかこの本にもっとくわしく……)
 秀樹は夢中でページを繰った。
 アルテミスとアポロンの事は辞書より多少くわしく説明されていたが、残念ながら二神とも星座にはなっていなかった。考えてみれば当然だろう。二神とも太陽として、月として、いつも空をめぐっているのだから。
 しかし当然星座と無関係なはずはなく、数多くの星座の成り立ちに関わっていた。たとえばカラス座のカラスは、うそを言った罰として主人のアポロンに黒くされ、空にさらされているのだとか、オリオンは乱暴者のため、それを嫌ったアルテミスの放ったサソリに倒され、星座になってもサソリから逃げている、など。
 (見せしめとかばつとか、けっこうきつい性格だな。あんまり好きになれるキャラクターじゃないけど、どちらも弓の名手で、そして太陽と月の神なんて、にじの弓の持ち主としてはピッタリだ。こんな事に気がつくなんて、モコってすごいや)
 秀樹はさらにこの二神の関わる星座を探して、ページをめくった。
 (小犬座か。この星座も、飼い主のアクタイオンがアルテミスに……)
 秀樹は夢中になって本を読み進めた。
 ページを一枚めくると、次のページは全面が挿絵になっている。アクタイオンをにらみつけるアルテミスの絵をいきなり目にした秀樹は、その形相のものすごさに思わず本を取り落としそうになった。
 「おっと」
 すると、近くで誰かが身じろぎする気配がした。横を見ると、すぐとなりに立っているのは知子だ。秀樹は今度は本当に本を取り落とした。
 ひじが触れそうなほどの場所に立ち、知子はランドセルを背負ったまま、やはり学級文庫を読んでいる。調べ物に夢中でまったく気付かなかったが、だいぶ前からそこにいたらしい。
 秀樹は息が詰まって、本を拾い上げる事さえ出来ずにいた。けれども知子の方も本にのめり込んでいるらしく、やはり秀樹の存在には気付いていない様子だ。秀樹は息を鎮めたまま、ゆっくりかがんで本を拾い上げた。
 そっとふり向いて見回すと、教室にはもう誰もいない。硬化した静けさの中で、蛍光灯のかすかな音だけが耳鳴りのように頭を覆う。
 二人きりという状況に息も詰まるほど緊張している秀樹は、もう調べ物どころではなかった。秀樹は手にした本をもう一度開く事も棚に戻す事も出来ず、知子の横顔を視野の隅に収めながらそのまま立ちつくした。
 白色の時間が、ただ何拍も流れた。
 やがて、知子はどうやら本を読み終えたらしい。肩をゆっくり上下させて、長いため息をついた。秀樹の方もわれに返ると硬直を解き、本を棚に戻すとカバンを取りに席に戻った。
 カバンを取り上げふり返ると、出口の所で知子は立ち止まっている。蛍光灯のスイッチに手をかけ、秀樹が教室を出るのを待っているらしい。秀樹が無言のままそっと首を振ると、知子は小さくうなずいて廊下へ出て行った。秀樹は明かりを消し、辺りを気にするように静かにドアを閉めると、足音をしのばせるように廊下を歩き、階段を降りた。
 いつしか小雨が降り出していた。外に出ると景色はほのかにくすんで見える。
 秀樹は校庭を横切り、門を出て道を左へ曲がった。あい変わらず知子は前を歩いて行く。秀樹は歩みをゆるめながら、知子から少しずつ距離をとっていった。そういえば知子の方も、濡れてもかまわないのか小雨の中でも急ぐ様子がない。
 (ひょっとしたら、モコはぼくの事を待っていたんじゃないだろうか)
 左側には学校のレンガべいが続いている。レンガも雨に濡れ、いつもよりずっと鮮やかに赤く見える。秀樹は意味もなく指先でへいの溝をなぞりながら歩いていたが、突然その手でこぶしを握ると駆け出した。
 この先のレンガべいの途切れる所が歩道橋の上り口、知子との別れ道だ。ふと知子がふり向くようなそぶりを見せた瞬間、秀樹は大声でさけんだ。
 「モコッ!」
 立ち止まってふり返る知子に、秀樹はぶつかりそうな勢いで駆け寄った。
 「…………」
 「……これ、……」
 秀樹は机の中にそっと入れるはずだった手紙を直接知子の手に握らせると、きびすを返して歩道橋の階段を駆け上がって行った。


     2

 あの小雨の帰り道以来、秀樹はすっかりうちとけた様子で、教室でも気軽に声をかけてくるようになった。急に仲良くなった二人をいぶかるクラスメイトもいたが、秀樹はそんな事にもおかまいなしに、人前でも平気でモコ、モコと呼びかけてくる。
 (なんだかこっちがはずかしくなってきちゃう)
 知子はよほど秀樹に注意しようと思ったが、そんなささいな事を気にしていると思われるのもしゃくな気がして、呼ばれるまま返事をしていた。
 手紙さえも、秀樹は人前でも平気で手渡してくる。こうなると、秀樹はわざとみんなから注目されようとしているのではないかとさえ思えてくる。知子は本当にとまどっていた。そしてじつのところ、少し迷惑にも感じていた。クラスメイトのひやかしや陰でのうわさの対象は、もちろん秀樹一人に限られるはずはないのだから。
 「モコ、はいこれ」
 「うん……」
 「この手紙の中にも書いたけど、アポロンやアルテミスが関係してる星座でほかにも知ってるのがあったら、モコも教えてくれよ」
 「ねえ、……そのモコってよぶの、なんとかならない?」
 「なにが?」
 「みんなの前であんまりモコモコってよばれたくないの」
 「なんで? モコってあだ名、きらいか?」
 「べつに……。ただねえ……」
 知子はよっぽど秀樹に不満をぶつけてやろうかと思ったが、無邪気そうに笑う秀樹を見ているうちにその気をなくした。
 (そうだよね。わたしのいやがる事をわざとしているはずないし、きっとまたいつもみたいに、まわりの事がぜんぜん見えてないんだろうね。それにわたしにしたって、しかめっつらで小野、なんてぶっきらぼうによばれるよりは、このほうがいいかな)
 「……ううん、なんでもない。ただちょっとね、モコなんてよばれるのに慣れてないから、気になっちゃうの、デキ」
 「デキ? それってなんかやだな」
 「でしょ。だったら……」
 「でもモコなんてのはすぐ慣れちゃうよ。おれもっともっと連発してよんでやるから、なんて。ハハッ」
 「もう。……やっぱりよけいな事言うんじゃなかった」

 いつものように四人一緒の帰り道、秀樹の事が話題に上ったのをきっかけに、知子は文通相手が秀樹だった事を自分から由香達に打ち明けてしまった。
 「前に話した文通相手の男の子の事だけどね、もうちょっとないしょにしとこうかなと思ったけど、もういいや、言っちゃお。あのねえ、じつはね、相手はカッチだったの」
 知子はべつにひけらかすつもりで話したわけではない。ただせめてこの三人にだけは、陰でのうわさ話や勝手な推測をしてもらいたくなかっただけだ。
 「わあ、やっぱりー?」
 「フフフフフ」
 「なあに? その笑い方。言いたい事あったらはっきり言えば?」
 「わかった、さかちゃんたら、うらやましいんでしょー」
 「なに言ってんの。まきこそいいなあとか思ってるんじゃないの?」
 「よしてよ、わたしあんな子ぜんぜんいいなんて思わないもん」
 「あー、それ言ったらともちゃんに失礼よ。ともちゃんはカッチの事ステキだなあって思ってるんだから。ねえ」
 「べつにそんなんじゃないんだってば。ただちょっと気が合うだけよ」
 「今さらかくす事ないじゃない。ねえ」
 知子は安心した。ひやかされはしたものの、それは悪意のまったくない、親しみのこもったからかいだったから。それにいく分うらやみも含まれているように思え、知子はちょっといい気になってよけいな事まで言った。
 「でもねえ、遠くにいる男の子と文通してるっていうのも、ほんとなんだ」
 「えーっ、うそでしょ?」
 「ほんとだって。ただ相手はいとこだけどね」
 「なあんだあ」
 「けどさあ、こういう話になると、あずさちゃんっていつもおとなしいと思わない?」
 「男の子の話なんて、あずさちゃんには早すぎるもん。ねえ」
 「そんな事ないもん。わたしにだってチビマルがいるもん」
 「えっ? えっ? だれそれ? チビマルってだれ?」
 「うちの名犬。……でもオスだよ」
 梓と麻紀は、手を振りながら次の角を曲がって行った。
 二人きりになると、由香はいきなり真顔になった。表情から笑みが消えると、そこには好奇心だけがあらわになっている。知子ははぐらかすつもりで、はしゃいだ口調のまま由香に話しかけた。
 「あずさちゃんもあんな事ばっかり言ってるけどさ、ほんとの事はわかんないよ。意外とクラスに気になる男の子でもいたりして」
 「そうそう、けっこうそういう事ってありうるよね」
 「まきだって、いっつも男子たちと口ゲンカしてるじゃない。あれも相手の事気にしてるしょうこだよ」
 「言えてる。ケンカするほど仲がいいとか言うもんねー」
 「フフッ、それならさかちゃんだってそうじゃない。だれかさんとケンカばっかり。けっこう気にしてるんじゃないの? 福島くんの事」
 「ヨシがあ? やめてよ、あいつはただのケンカ相手。わたしにとっては一番の宿敵なんだから」
 「フックが宿敵? へえ、さかちゃんってピーターパンだったんだ」

 ひやかされたおかえしも兼ねて、知子は由香のそんな態度を手紙で秀樹に伝えた。
 『ハロー、カッチ。ねえ聞いてよ。今私カッチのことで、さかちゃんたちによってたかってからかわれてるんだから。それで、おかえしに私もさかちゃんに言ってやったの。福島君といっつもケンカしててなかよさそうだねって。そしたらさかちゃん、ただのけんか相手だ、私にとっては宿敵だ、なんていやに強く言うの。こんなふうにムキになればなるほど、かえってアヤしいと思わない?
 それからねえ、カッチも私のことあんまりモコなんてよばないほうがいいよ。あ、べつに私はかまわないんだけど、でも笑われるのはカッチだよ。男の子たちのあいだでは、ひやかされるとかってないの? 私なんか帰り道でずっと言われてるんだから。これもカッチのせいだぞ。
 今日はとうとう、文通相手がカッチだって話しちゃった。前から男の子と文通してるっていうのは言ってたんだけど、相手がじつはカッチだってうちあけたらね、みんななんだかガッカリしてた。もっとステキな人が相手だと、勝手に思ってたみたい。カッチとしてはこういう反応どう思う?
 でも安心して。ひやかすっていうのは、うらやましい部分もちょっとはあるってことだから。それじゃ、カッチもみんなにいろいろ言われないように気をつけようね。
  ともこ』
 手紙にはこんなふうに書いておきながら、知子はその手紙をわざとみんなの前で秀樹に手渡してみた。周囲の男子達や、その中での秀樹がどんな反応を見せるか、少々興味があったから。


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