陽光の虹 月光の虹 − アポロンとアルテミス −
「ゴメーン、また本わすれてきちゃった」
秀樹が教室に入るなり知子が駆け寄って来て、秀樹の持つカバンを両手で引き寄せるようにしながら言った。
「今日は持って来ようと思ってつくえの上に用意しといたのに、なんでだろう、そのまま置いて来ちゃったんだよね」
「ああ、べつにいいって。取りに帰れなんて言わないから」
「そう? じゃあカッチが家まで取りに来てくれない?」
「ええ? なんでわざわざ……」
「放課後遊びに来ないって言ってるの。今日は放送の日じゃないんでしょ? じゃあ決まり」
「でも、おれモコの家どこか知らないし」
「だったら帰りにそのまま寄ってったらいいじゃない。いっしょに帰ろうよ」
「でもなあ……」
知子の提案は秀樹にとって心弾むものだった。けれども知子と一緒に帰るとなると、一つ気に掛かる事がある。秀樹は窓辺でおしゃべりしている由香達にちょっと目をやりながら口ごもった。
「さかちゃんたち? フフッ、へいき。わたしが飼育委員で残る用があるって言えば、先に帰っちゃうから。それでOK?」
笑いながら、ささやくように知子は言った。何も言わなくても、知子は秀樹がしりごみする理由を察していたようだ。
「それならOK」
秀樹も笑いながら答えた。
それからも、授業中にも何度となく笑いが込み上げて秀樹は困った。それは何も、知子の家へ遊びに行く楽しみのためばかりではない。秀樹を誘うために親友にまでうそを言う知子のしたたかさが、秀樹を笑わせる一番の原因だった。
(酒井のやつ、モコのうそに気付いたらどんな顔するかな? いっしょに帰るとこ見られなきゃいいけど。でも見付かりゃそれもおもしろいかもな)
うそと言っても、知子の由香に対してのうそは、まゆをひそませるたぐいのうそではない。相手を傷付けない、悪意のまったくないうそだ。そんなうそをなんのためらいもなくあっけらかんと放つ知子に、秀樹はますます好感を抱いた。
「うん、だから待ってなくてもいいから」
「そう? じゃあ悪いけど先帰るね」
平然とした態度の知子に秀樹は苦笑し、何も気付いていない様子の由香に秀樹は含み笑いをもらした。
いつもの歩道橋を通り過ぎ、二人は大通りを真っすぐ東に向かった。
文房具店にさしかかると、店の前には同学年の男子が数人集まっている。彼らの何げない笑い声が、秀樹には自分に向けられたもののようにわけもなく思え、急に知子と並んで歩くのが恥ずかしくなって歩みをゆるめた。
「ちょっと急ご。今日はお母さんが出かけてて家にいないから、早く帰ってるすばんしてなきゃならないの」
「あ、じゃあ今家にはだれもいないって事? ……」
気づまりな思いに秀樹はますます歩みをゆるめると、知子はふり向いて、後ろ向きに歩きながら言った。
「ううん、弟はもう帰ってるんじゃないかな。きっと今ごろ一人でたいくつしてると思うよ」
「ああ、なんだ、弟がいるんだ」
「うん。でも弟と二人でるすばんしてても、おもしろくないんだよね」
「わかった。それでたいくつしのぎにおれをさそったんだな」
「やっぱりそう思う? エヘヘ、じつはその通りだったりして」
「こまったやつ」
気おくれをすっかりはらい落とした秀樹は、純粋なうかれ気分だけを抱えながら、自然に知子に寄りそった。
二人は大通りを左に折れ、石けりをしたりカバン持ちをしたりしながら、長い坂道を上った。その静かな坂道の上の、右側に見える緑色の屋根が知子の家だった。
「ただいまー。修ちゃん帰ってる?」
知子の弟の修平は、初対面の秀樹に少しとまどいを見せた。けれどもそれは最初のうちだけで、すぐにうちとけた笑顔を浮かべ、一緒に遊ぼうと誘ってきた。やはり留守番に退屈していたのだろう。
一緒に遊び始めると、修平ははしゃぎ好きの騒ぎ屋で、しかもなれなれしいくらいに遠慮がない事がよく分かった。会ったばかりの、しかも二つ年上の秀樹に向かって同い年のような口をきき、平気で水鉄砲を向ける。秀樹にとってもむしろそれは嬉しかった。遊び相手としてはその方がずっと楽しい。
羽目をはずしてはしゃぎすぎた二人は、とうとう知子に大声で注意された。
「もう、家の中でそんな事しないで! 部屋をぬらしたらわたしまでおこられるんだからね」
「じゃあ外に行こう」
姉にどなられるなんて事は、修平にとっては珍しくないようだ。ケロリとした顔で秀樹を庭に誘い出した。知子は自分を連れて来た事を後悔しているんじゃないだろうかと気にしながらも、秀樹はやっぱり修平に続いて庭に出た。
「こんどはきみにこれかすよ。うってばかりじゃヒキョウだもんな」
秀樹は修平から水鉄砲を受け取った。
修平の水鉄砲はピストル型のオモチャではなく、窓拭き洗剤の空き容器だ。吹き口を回すと霧吹きにもなる。それに気付いた秀樹は、家の中の知子も庭に誘い出した。
「なによ、水をかけたりしたらおこるからね」
「そんな事しないって。いいからもっとこっち来いよ」
秀樹は知子の目の前に霧を吹いてみせた。ゆっくり足もとに流れる霧の中に淡い虹色の光を見付けると、知子の表情も途端に明るんだ。
「ああ、アポロン、それで……」
「そう、ここにもアポロンの弓があったんだ」
事情を知らない修平が、不思議そうな顔をして秀樹と知子を見くらべる。しまいには、つまらなそうに家へ入ってしまった。修平のそんな様子もまたおかしくて、二人は顔を寄せて笑いながら、何度も霧を吹いては虹を作った。
それから三人は、居間でおやつを食べながらテレビを見た。秀樹にはテレビがそう面白く思えず、退屈さからしきりにスナック菓子の袋に手を伸ばした。
秀樹は本当は、知子の部屋を見てみたいと思っていた。けれどももちろん、そんな事を自分の方から言い出せるものではない。さんざん考えた末に、秀樹は一緒に宿題をしようという口実を思い付いた。そこへ知子が数冊のアルバムを持って来た。
「これわたしのアルバムなんだけど、見る?」
「そりゃあ」
秀樹はもう宿題の提案も忘れ、指先をズボンでぬぐうと知子からアルバムを受け取った。
「これは一才ごろ?」
「そうね。下のこの字を見てよ。ヨテヨテ歩きなんて書かれてるの。もういやになっちゃう。お父さんはヨチヨチ歩きって書いたつもりらしいけど」
「ハハッ、ヨテヨテ歩き? ナイスな表現」
「ほんとにそんな歩き方だったのかなあ」
「えーと、これは幼稚園か」
「うん。ここにいる子だれかわかる? さかちゃんだよ」
「あーわかるわかる。へえ、酒井って小さい時から大きかったんだ」
「あ、それからこれがお父さんとお母さん」
「ん? どれ?」
秀樹は顔を寄せて写真をよく見た。つられて修平までが、スナック菓子をほおばりながらアルバムをのぞき込む。
知子の両親は、秀樹の両親とはずいぶん印象が違っている。その違いが何なのか、秀樹は注意して観察し、ようやくその理由を見付けた。目じりの笑いじわだ。秀樹の両親には笑いじわなどない。初めてそんな事に気付き、秀樹はちょっと寂しい気がした。
「なんかいい感じのお父さんだな。やさしそうで」
「そう? でもごはんの時なんか、物かむのに口開けてクチャクチャやるからいやなのよね」
知子は顔をしかめた。いかにも潔癖な女の子らしい意見だが、そんな事くらいでこの温和そうな父親を悪く言うのは、気の毒だと秀樹には思えた。
「カッチのお父さんはどんな人?」
「家じゃいつも歌ばっかり歌ってるよ」
「へえ、いいねえ」
「よくないよ、うるさいばかりで。オナラやクシャミの連発だけでも耳ざわりなのに。……それにいっつもひたいにしわよせて」
そうつぶやきながら秀樹は、自分もまたそんな事くらいで父親を悪く言うのは間違いだと気付いた。
「でも歌が好きだなんていいじゃない。どんな歌を歌うの?」
「よくわからないけど、でもなかなかケッサクだよ。おふろの中でオーフロイデーフロイデーなんて大声張り上げてさ、外国語らしいけどダジャレとしか思えないよ」
秀樹は笑いながらアルバムを閉じた。
「それから、まだアルバムにはってない新しい写真があるの。持って来るね」
知子は大急ぎで二階から封筒を取って来た。その中から写真と便せんを取り出すと、写真だけを秀樹に渡した。
「これは夏休みにしんせきのところに遊びに行った時の写真」
その写真はどこかの海辺で写したもので、知子のほかに見知らぬ少年二人が写っている。そこには知子一人で遊びに行ったのか、修平はどこにも写っていない。
「だれこれ?」
「いとこと、そのともだち」
「名前は?」
名前など聞いてどうするのか、秀樹は自分でもばからしく思ったが、なぜだかとっさにそんな質問が口をついて出た。
「このかみの短いほうがいとこの菅原有吾くんで、長いほうが鈴木亮くん。二人とも六年生」
「ふうん。でもなんでモコは、その鈴木ってのとばかりいっしょに写ってるわけ?」
まったく、秀樹はくだらない質問ばかりする。
「だってカメラ持ってるのユウくんだもん」
もっともな理由だ。けれどもそれを知子がいかにももっともらしく答えるのが、なおさら秀樹には面白くなかった。
アニメの再放送が終わりニュースの始まる時間になると、知子と修平はテレビの前から立ち上がった。
「じゃあわたしはせんたく物をしまうから、修ちゃんはおふろのほうたのむね。あ、夕刊も来てるかな」
今度は秀樹が仲間はずれになる番だ。それぞれの仕事を片付けに行く姉弟に取り残されて、秀樹は居心地の悪さをまぎらわそうとせわしなくテレビのチャンネルを切り替えた。
秀樹が落ち着きをなくす理由はもう一つあった。そろそろ二人の母親が帰って来る頃だろう。秀樹はおばさんと顔を合わせたくなかった。留守中に上がり込んだ事が、今になってなんとなく気おくれに感じられたからだ。写真を見て優しそうな人だとは分かっていたが、だからといって一人でテレビの前に居座り、スナック菓子などほおばっている気にはなれない。
秀樹は立ち上がってテレビを消し、修平に続いて居間を出た。玄関に放り出していたカバンを拾い上げてクツに足を突っ込むと、知子が夕刊を片手に入って来た。
「じゃあおれもこれで帰るよ」
「そう。おそくまで引き留めちゃってごめんね。じゃあね」
どこか大人ぶったような知子のセリフに、秀樹は笑いを誘われた。なごんだ気分で、秀樹もわざと気取ったように片手を上げて応えた。
通りに出てふり返ると、ベランダから知子が手を振っている。秀樹はもう一度、今度は大きく手を振った。本の事は、帰って日記をつけるまですっかり忘れていた。
『9月22日 水曜日
今日初めてモコの家に遊びに行った。モコがわすれてきた本を返してもらいに行ったはずなのに、なぜかまたわすれてきた。まあいいか。いいという事にしておこう。
モコの弟はてごわいやつだった。おばさんは出かけてていなかったけど、写真を見せてもらった。おじさんのも。なんかいつもわらってばかりいるような、やさしそうな人だった。目じりのしわのせいでそんなふうに見えるのかな。うちの二人とは大ちがいだ。やっぱり子どもが男だと、親ってひたいにばかりしわをよせるんだな』
6
土曜日の午後、知子は遊びに来た麻紀と史子に外へ誘い出された。けれども二人はただ歩きながらおしゃべりするばかりで、どこへ行くとも何をしに行くともはっきり言わない。
「ねえ、どこ行くの?」
「どこ行こうか」
「ねえ、どこまで行くつもり?」
「どこまでも行くの」
「もう……」
知子は麻紀をつつくのをあきらめて、仕方なくただ並んで歩いた。するとしばらくして、いきなり後ろで史子が大声で笑い出した。
「キャッハハハハハハ、二人ともなに二人三脚してんのよう」
「え?」
「フフフフ、だってさっきからピッタリ足が合ってるんだもん。クフフフフ……」
「ふみちゃーん、またおはしがころげたの?」
佐藤史子はクラスでもっとも騒がしい女の子だ。ささいな事でもやたらとおかしがって大笑いする。社会の授業中に、地図帳におかしな地名を見付けたといって笑い出すくらいだ。そして笑いじょうごというだけでなく、感激屋でもある。ちょっとした事でも、本人の言うには気絶しそうなほど、あるいは鼻血が出そうなほど感激してしまう。そして決まってしまいには大声で歌い出す。そんな史子の事を、クラスメイトは底抜け陽気と呼んでいる。
はしが転げてもおかしいというのは、史子に限らず女子なら誰にでもあてはまる事だ。特になかよしが三人以上集まった場合には。知子と麻紀もつられるように笑い出し、しまいにはふざけてお互い肩を組み、三人四脚のまねごとを始めた。
ひとしきりはしゃいだあと、三人はブロック塀にもたれてひと休みした。
「あーもうだめ。笑いすぎ、苦しいよう」
「フウ。でも運動会のいい練習になったじゃない」
「あーもう笑いすぎてつかれちゃった。帰ろうよ」
「だめ、行くの」
「どこに?」
「フフウ、いいとこ」
「もう……。じゃあわたしつかれちゃったからおぶってよ」
知子は伸ばした両腕を後ろから麻紀の肩にもたせかけ、背中にすがりついた。
「もうともちゃんたら重いー。自分で歩け、このナメコモノ」
「ナメコモノ?」
「あ、ちがう、ナマケモノだ」
「ナメコモノー」
三人はまた笑い出した。ひとたびこうなると、はしゃぎ気分はひたすら心を跳ね上がらせる。三人はいつまでも笑い転げた。
こんな時の女の子の心というのは、ほどける毛糸玉のようなものだ。ひとたび毛糸の端をつままれると、あとはひたすら跳ね回りながらほどけ続ける。毛糸玉がすっかりほぐれ、それぞれのほどけた毛糸が一つの色に混じり合うまで。
「あーあ、ナメコモノー」
「だってともちゃんたらくっついてくるんだもん」
「ともちゃーん、まきなんかにくっつかなくたって、ほかにくっつく人がいるじゃなーい」
「え? だれが?」
知子がけげんな顔で聞き返すと、二人はあらかじめ申し合わせていたかのように、声をそろえて言った。
「だれかさんがよ」
「…………」
「あ、そうだ、あのねふみちゃん、こないだともちゃんとそのだれかさんとの、相性調べてみたの。そしたらおどろきよ、90パーセントだってー」
「うわあ、90パーセント! んー鼻血が出そう」
「もう、二人ともだれの事言ってるの?」
知子にだってもちろん察しはついているが、いったんとぼけてしまうと、最後まで気付かぬふりを続けなければきまりが悪い。
「だれかさんってだれなのか、はっきり言いなさいよ」
「そんなに知りたい? じゃあ今から行こうか、そのだれかさんのとこへ」
「……うん」
気付かぬふりをしてしまった以上、今さらいやだとも言えない。知子ははしゃぐ二人について行くしかなかった。
勢いでとうとう秀樹の家まで来てしまった。知子はしりごみしたが、まだはしゃぎ気分でいる麻紀と史子は、平気な様子で玄関のチャイムを押した。
離れた所で待っていた知子にはよく分からなかったが、まず玄関に出たのは母親らしい。それからしばらくして、今度は秀樹が慌てたように飛び出して来た。
「なんだよ。なんか用か?」
「べつに。ただともちゃんがあんたに会いたいって言うから」
「うそよ!」
とっさに知子はさけんでしまったが、秀樹の前でそんなに強く否定するのはまずかったかもしれない。
「……わけわからん。じゃあな」
「待ちなよ、べつにいそがしいわけじゃないんでしょ? じゃあちょっと付き合いなさいよ」
麻紀に言われて、戻りかけた秀樹はもう一度ふり向くとしぶしぶうなずいた。
麻紀と史子はまた行き先も告げずにただ歩いて行く。知子も二人について歩いた。そして三人からずっと離れて、秀樹が気の進まない様子でだらだらと歩いて来る。女子の中に一人きりでいるのが、ひどく居心地悪いようだ。そんなそぶりをからかうように麻紀と史子がふり向き笑うと、今度はむきになったように速足で三人を追い抜いて行った。
口をとがらせこぶしを握り、秀樹はどこへ向かうともなくただでたらめに歩いて行く。結局四人はまた秀樹の家近くに戻ってしまった。麻紀と史子だけでなく、これには知子も苦笑した。
再び秀樹の家の前まで来ると、不意に麻紀と史子が言った。
「ふみちゃん、そろそろ時間じゃない?」
「あ、そうだね。ねえともちゃん、わたしたちこれからおけいこ事あるから、これで帰るね」
「じゃあね」
二人は知子が何か言うひまも与えず、さっさと帰ってしまった。
秀樹と二人でとり残されて、これは麻紀と史子があらかじめ打ち合わせていた計画だったように知子には思えた。あの二人に振り回されて面白がられていた被害者は、秀樹一人だけではなかったらしい。秀樹にもなんとなくそんな事が分かったらしく、二人は顔を見合わせて仕方なく笑った。
「なに考えてんだ? あいつら」
「さあ、わたしにも見当つかない」
「よく言うよ。モコだっていっしょになってさわいでたくせに」
「そうなんだけどね」
「そうだ、モコに見せようと思ってたものがあったんだ。ちょっと待っててな」
そう言うと秀樹は駆けて行った。知子は街灯にもたれて待つと、秀樹はすぐに門から飛び出して来た。
「出たり入ったりいそがしいのねえ、なんて言われちゃったよ。お母さんにまでおもしろがられて、いやになるよなあ」
つっかけただけの靴をはこうとつま先を地面にけりつけ、ずり落ちた靴下を引っ張りながら秀樹は笑った。もうすっかりリラックスした様子で、さっきまで逃げ出しそうにしていたのがうそのようだ。
いつもの活発さを取り戻した秀樹に知子は安心したが、いきなり手首をつかまれて引っ張られた時にはさすがに慌てた。
「ちょっと、なに?」
「いいから来いよ。見せるものがあるって言ったろ。ここじゃまずいんだ」
知子は秀樹に引っ張られるまま、向かいの駐車場の車の陰へ行った。
「なんなのカッチ、こんなとこに来たりして」
「ここならだれにも見えないからな」
言いながら秀樹は、ポケットからシャボン玉液とストローを取り出した。プラスチックのピンクのビンに赤いキャップ、ストローの先にも赤い輪っかが付いている。
「ずっと前から取ってあったんだ。……こんなのだれかに見られたらはずかしいだろ?」
「シャボン玉飛ばして遊ぼうっていうの?」
あきれたように知子が言うと、秀樹はむしるようにキャップを取りながら、むきになって言い返した。
「ちがう! なに言ってんだよ。これにもにじがあるのを見せてやろうと思ったんだよ。ほら見てろよ」
ゆっくり大きくシャボン玉を吹いた秀樹は、ストローを口からはずすと素早く端を指でふさいだ。
「ほらな、見えるだろ。でも……、チェッ割れた。待ってな。……でもちょっと変だよな。よく見ると……、ああ飛んじゃった」
秀樹は何か説明したいらしいのだが、シャボン玉の方がじっとしていない。あせった様子で何度もシャボン玉を吹く秀樹の姿に、知子も吹き出しそうになった。
「あせるからだめなのよ。わたしが吹いてあげようか?」
「いや、ストローこれしかないから」
「それでいいよ。ちょっと貸して」
知子がそう言って手を伸ばすと、秀樹は思わず息を強めてしまったのだろう、細かいシャボン玉がいくつも散った。秀樹はためらうような表情を浮かべたが、何も言わずにストローを差し出した。
「今までおれも、そんなに注意して見てなかったから気づかなかったけど、空のにじとはずいぶんちがうよな。ほら、色の順番もなにもなくて、形もクチャクチャで、緑とむらさきばっかりだろ? おんなじ太陽の光からできてるのに、不思議だよなあ。……でもモコってシャボン玉作るのうまいな」
「そんな感心するような事? カッチがヘタすぎるんでしょ」
「さっきはあわててたからだよ。見てろよ」
知子がくわえようとしていたストローは、むきになった秀樹に奪い取られた。
「あーしずくがついてるからこわれるよ。ほーら」
「うるさいな、だまって見てろよ」
二人はもう虹の事などすっかり忘れ、一本のストローをかわるがわる吹きながら、シャボン玉遊びにすっかり夢中になっていた。
知子には、秀樹のはしゃいだ気持ちが手に取るように感じ取れた。さっきは大まじめな顔でストローをくわえていたのが、今は大きなシャボン玉を作ろうと真剣になりながらも、どこかうかれた表情をしている。シャボン玉が壊れるとさっきは舌打ちをしていたが、今ではそのたびに口もとをほころばせる。
男の子でも、やはり心の中で毛糸玉が跳ね回る時はあるのだと、知子は確信した。たとえ大声で笑ったりおおげさな身ぶりをしなくても、今の秀樹の心境はさっきの史子達と同じに違いない。
「カッチのシャボン玉どうしてすぐこわれるかわかった。鼻息があらいんだよ」
「そうそう、思わず力入っちゃって……、なんてウソだよ。口で吹きながら鼻から息が出るもんか」
「じゃあもう一回やってみせてよ」
「よーし、よーく見てろよ」
秀樹がストローをくわえると、知子は素早く顔を寄せて舌を出した。思わず秀樹はプッと吹き出し、その細かいシャボン玉を知子はみな舌で受けてしまった。
「うー。もう、わざとやったなあ」
「ハハハッ、ひとの事笑わすからだろ。そういうのを自業自得って言うんだ」
二人はビンがすっかり空になるまで、舞い上がってはじけるシャボン玉のようにはしゃぎ、そして笑い合った。
楽しさにいまだ波立つ気分にうながされ、その夜知子は手紙を書いた。
嬉しい時、あるいは逆につらい時、心の針が左右に大きく振れた時に、知子は決まってペンを取る。誰かに今の気持ちを伝える事で、知子は喜びの余韻をさらに楽しみ、あるいは悲しみのささくれをそっと癒す。
『亮君、手紙ありがとう。すぐに返事をくれるなんて意外だったな。男の子って、みんなふでぶしょうだと思ってたから。ユウ君とはえらいちがいだね。あ、ユウ君の写真見せてもらった? 私の所にもこないだとどいたけど、意外とみんなきれいに写ってたね。モデルがよかったからかな、なあんて。
今日すっごくおかしな事があったの。クラスのともだちの、マキとふみちゃんと遊んでたんだけどね、さんざん歩いてつかれたから、私ふざけてマキにおぶってよって言ったの。そしたらマキはなんて言ったと思う? 私にむかって「このナメコモノ!」だって。ナマケモノって言うつもりだったらしいけど、私おこるのわすれて大笑いしちゃった。
でも私よりもっと笑ってたのがふみちゃん。ほんとこの子は明るい子でね、クラスで一番うるさいの。二位の座は、私とさかちゃんとがあらそってる、ってとこかな。さかちゃんの事はこないだ書いたよね。
そうそう、男子にもうるさいのがいるんだ。福島君っていう大声がいて、その子とさかちゃんが口げんかばかりするから、クラスはいつもすごいさわぎよ。
それから、石川君っていうのがいるんだ。この子はうるさくはなくて、どっちかっていうと口数少ないほうだけど、やっぱりおもしろいの。私やほかの女子にはやたらとぶっきらぼうになったり、なんかむりして大人ぶってるみたいなの。そんなのかえって子どもっぽいのにね。そう思わない? じっさい子どもっぽいんだよ。おかしなことに熱中したり、ちょっとしたことにむきなったりして。まあ、クラスの男子なんて、ほとんどみんながそんなだけどね。
なんかくだらないことばっかり書いちゃったけど、そろそろ書くこともなくなったからこれでやめるね。それじゃ。
小野知子より』
手紙を書きながら秀樹の姿を思い浮かべていた知子は、ぶっきらぼうな口をきいたり顔をしかめたりする秀樹より、今日のあのシャボン玉に熱中していた無邪気な秀樹の姿の方が、ずっと自然だと感じた。
次の章へ