陽光の虹 月光の虹 − アポロンとアルテミス −


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     9

 『一日かけてみがきあげた弓を、アポロンは陽光にかざして高くかかげた。そうすると東の空には、信じられないくらいあざやかなにじがかかった。
 昼でも夜でもないあいまいな時にだけ、陽光の弓を持つアポロンと月光の弓を持つアルテミスとが、いっしょに狩りをする事ができる。今のにじは夕方いっしょに狩りに行こうという、アポロンからアルテミスへのさそいだ。
 けれどもアポロンがいくら待っても、アルテミスは来なかった。それどころか、夜になっても空にもあらわれない。アポロンはやっと気づいた。今日は新月、アルテミスは月に一度のお休みの日だったと。
 アポロンは弓をもっともっとみがきあげて、明日もう一度アルテミスをさそおうと思った。きっと明日の午後には、今日よりもっとあざやかなにじが空にかかるだろう』

 秀樹はあの物語を書き進める事に、知らず知らずのうちに熱中していた。そのために専用のノートを用意したほどだ。知子と文通していた頃から使っていたボールペンも、とうとう書けなくなってしまった。ボールペンのインクを最後まで使い切るなどこれが生まれて初めてだったので、秀樹はそれが嬉しくてならない。秀樹はそのボールペンをほこらしげな思いで、制服の胸ポケットにいつも差している。
 そして、物語が自分でもうまく書けたと思う時には、一人で満足するだけでなく、誰かにも読ませたいという気になった。だが誰かにとはいっても、両親や先生といった大人に読んでもらおうなどとは、決して考えられない。秀樹が思い浮かべる誰かとは、やはり知子一人だけだった。秀樹にとって気になるのは、物語に対する他人の評価というよりも、自分に対する知子の評価なのだろう。秀樹はその評価を少しでも上げたいと考えているようだ。
 そうやって好きな子の気を引こうとするのはごく自然な事なのだが、知子に対するこれまでの自分の態度を後悔している秀樹としては、物語を読んでもらいたいという欲求までもが、なんだかいけない事のように思えてしまう。やましい思いにさいなまれながら、秀樹は知子に直接手渡す事も出来ず、放課後を待って机にこっそり差し入れた。
 (なんだか一学期のころを思い出すな。考えてみたら、あんなふうに文通だけしていたころのほうが、なんだか気楽で楽しかった気もする。べつに今みたいなのがいやなわけじゃないけれど)
 手紙をやりとりしていた頃の楽しさを思い出した秀樹は、もう一度知子と文通を始めたいと思った。直接なんでも話せる今では、そんな事をする必要もないように思えるが、中には直接でない方が伝わる事だってある。それに手紙でなら、物語の感想などもてれずにたずねられるかもしれない。
 (モコのほうはどうなのかな。手紙とか書くのは大好きだって言ってたけど、文通が終わったのをものたりないとか思わないんだろうか。……それとも、今でもほかのだれかと文通しているとか……)
 秀樹はノートの切れはしなどを使うのをやめ、これからは物語を便せんに書いてきちんと封筒に入れようと思った。

 秀樹の思惑とはうらはらに、それからも知子は返事をくれはしなかった。
 「今度のはおもしろかったよ」
 とか、
 「短くてちょっとものたりなかったな」
 というように、一応物語の感想を言ってくれる事はある。だが秀樹はそれだけでは満足出来なかった。ただ一言だけの感想は、宿題に押される先生のハンコのように味気ない。
 二学期最後のクラブの日、秀樹は知子と二人で温度計を理科室に取りに行った。途中、秀樹は思いきって知子に物語の感想をたずねてみようとしたが、やはり面と向かうとてれくさい。なんとか話をもっていこうと、秀樹はとりあえずこんなふうに話を切り出した。
 「モコはさあ、どんな星座が好き?」
 「うーん、やっぱりオリオンかな」
 「オリオン?」
 「そう、オリオン。なんてったって一番りっぱじゃない」
 あこがれのこもった知子の口ぶりが、秀樹には妙に気にさわった。その不快さは、返す言葉にたっぷり含まれた。
 「オリオンなんてありきたりだなあ。モコの好みもけっこうへいぼんなんだな」
 「いいでしょ、好きなものは好きなんだから」
 秀樹の頭の中で、いつか見た知子と亮とが並んだ写真がちらついた。さっきからの不快な気分の原因は、どうやらこれらしい。オリオンが好きだという、知子の言葉からの連想なのだろう。秀樹はくだらない考えをみずから嫌悪したが、それは自制にはつながらず、卑屈を伴って嫉妬はますます大きくなった。
 「オリオンって、なんで死んだか知ってるか?」
 「サソリにさされたんでしょ?」
 「そうも言われてるけどな、べつの話もあるんだ。聞かせてやろうか。アルテミスがオリオンの事を好きなのが、アポロンはゆるせなかったんだ。だからオリオンが海にいるのを見付けた時、海岸のなにも知らないアルテミスに、できるものならあのまとに矢を当ててみろって言ったんだ。
 オリオンも、まさかアルテミスに射られるとは思わなかっただろうな。それにアルテミスもどうかしてるよ。矢は放ってしまえば取り返しつかないんだから、射る前によくたしかめりゃいいんだ。不注意の当然のむくいだよ。
 ……まあ、一番悪いのは、やっぱりアポロンだろうけど」

 かんじんの物語の感想を聞きそびれたばかりでなく、後味の悪さが心にこびり付くように残ってしまった。たぶん知子も嫌な気分になっただろう。秀樹はそれをつぐなうつもりで、その夜オリオンの最期の物語を自分なりに書き変えてみた。
 『オリオンが海の上を歩いているのを、アポロンは空の上から見ていた。
 気にくわないオリオンをいつかこらしめたいと前から考えていたアポロンは、チャンスと思いオリオンに陽光を当ててから、自分は雲にかくれてアルテミスのいる海岸におりて行った。そしてアルテミスに言った。
 「きみのうでまえでも、あの水平線で光る物に矢を当てる事はできないだろう」
 アルテミスはそれがオリオンだとは気づかない。ねらいをつけると弓を引きしぼり、矢を放った。けれども矢はわずかにそれて、海にしずんだ。アルテミスの持つ月光の弓は昼間は使いものにならないのだから、はじめから当たるはずがなかった。
 ねらっていたのがオリオンとも知らないで、アルテミスはまとをはずした事をくやしがっている。もしも弓を今も取りかえたままでいたとしたら、アルテミスは陽光の弓でまちがいなくオリオンを射ぬき、とくいになっていただろう。そしてそのあと……。
 夜になると雲も晴れて、空には半月がかかった。海岸から月を見上げながら、アポロンは計画がうまくいかなかった事に、かえってほっとしていた。もしもあの矢がオリオンを射ぬいていたら、あとで悲しむアルテミスに、自分もますますつらい気持ちになっただろうから。
 西の空にかたむいた半月が、うつむくアルテミスの横顔のように悲しく見えた』


     10

 秀樹の話したオリオンの最期の物語は、知子も知っていた。秀樹が本を貸してくれたのだから当然だ。それなのに、秀樹はまるで初めて聞かせるように話す。それも知子の反応をひどく気にしながら。そんな不自然な態度や口ぶりから、知子は秀樹の心のうちをそれとなくさぐっていた。
 (前にもおんなじように、上目づかいで口をすぼめた事があったっけ。家でユウくんのとった写真を見せた時だ。亮くんを見て、なんでこいつとばかりいっしょに写ってるんだ? とか言ったりして。……ふうん、そうなんだ、やっぱり)
 知子は以前から、秀樹の亮に対する嫉妬心に、おぼろげながら気付いていた。女の子はたいてい、自分を物語のヒロインになぞらえる面があり、だから男の子のこういった気持ちも、ちょっとした態度やその時の状況から簡単に見抜いてしまうものだ。とはいえそれは単に自分をあこがれの物語に重ね合わせてみているだけだから、時には一人合点の思い込みにすぎない事もあるが。
 だが今の知子の場合、もちろん的はずれなはずはなかった。アポロンのオリオンへの嫉妬心を語る秀樹が、心の中に亮に対する嫉妬心を抱え込んでいるのを、知子は確かに感じとった。
 (だからきっと、カッチはあの話が自分の事を書いてるように思えて、たまらなくいやだったんだろうね。ああ、でもそういえばわたしも、アポロンがカラスの言葉を信じてコロニスを矢で射る話がきらいだったっけ。もしあれが、カラスのうそではなくてアルテミスのうそだったとしたら……)
 秀樹の嫉妬を内心快く思っていた知子も、もしも逆の立場ならと考えると、少し気持ちが沈んだ。今のような状況が、秀樹にとって楽しいはずはないのだから。

 その夜知子は白い便せんを前に、亮宛ての手紙に何を書こうか迷っていた。
 手紙を書くのに迷うなど、今までにはなかった事だ。とにかく頭に浮かぶままをおしゃべりするように書きつづるのが、知子にとっての楽しみなのだから。けれども秀樹の嫉妬心に気付いてしまうと、亮に対してへんにかまえてしまい、何を書けばいいのか分からなくなってしまう。
 (亮くんの事なんて、わたしなんとも思ってないのに。カッチったらいったいなに考えてるの? もう)
 好きな相手に意識されるのはもちろん嬉しい事だが、それが重荷に思える時だってある。秀樹に対する軽い反発感情から、知子は気の進まなくなった亮宛ての手紙をあえて書き進めた。それからこれは知子自身もはっきりとは自覚していないが、亮との思わせぶりな文通を続ける事で、秀樹にはっきりした態度をとらせたいといった思惑があるのも確かだ。
 『ハロー、亮君。もうすぐ冬休みだね。とか言って、この手紙がとどくころにはもう休みに入ってるんだろうけど。
 とつぜんだけど、亮君はなんの星座が一番好き? 私はなんといってもオリオン座。でも学校でそう言ったら、オリオンなんてありきたりだなんて、石川君にけなされ』
 ここまで書きかけて、知子はペンを止めた。亮宛ての手紙に知らず知らずのうちに、いつも秀樹の事を書いているのに気付いたせいだ。それを読みながら、亮はいつもどんな気持ちでいたのだろう。
 (もしかしたら亮くんもわたしの事を……)
 知子のこの直感が的を得ているかどうか、それは分からない。けれども知子は今、はっきりした形の不安を抱いた。引き出しを開ければそこには、毎週のように届く亮からの手紙が何通もたまっている。
 以前に知子は、本当の弓の名手なら的をはずさないばかりでなく、矢を放ってしまってから後悔するようではいけないと強く言った事があった。今にして思うと、それは手紙の場合にもそのまま当てはまる気がする。
 手紙を出すというのは、矢を放つのに似ている。目標を選んでねらいを定める必要があるだけでなく、ひとたび自分の手を離れれば、もう取り返しがつかないという意味でも。
 知子は今まではなんの気がまえもなく、ただ思うがままに手紙を書きつづってきた。まるでおしゃべりでもするように。だが手紙では、相手の返事はすぐには返らず、反応を確かめながら言葉を選ぶわけにはいかない。誤解が生じれば、それを解くにも時間がかかる。知子は今にして初めて、手紙を書くにはある程度の心がまえも必要だと感じた。
 (そうだったんだ。矢を放つ前にねらう相手を選ぶのは、やっぱり大事なんだよね)
 知子は急に気のりしなくなった亮宛ての手紙はそれきりにして、あらためて秀樹宛ての手紙をつづり始めた。
 『はろー、カッチ。ひさしぶりの手紙でおどろいてるんじゃない? べつにこれといって用はないんだけど、ちょっと早めのメリークリスマス! これが書きたかっただけ。なあんて、これはじょうだんじょうだん。
 いきなりの手紙には、ほんとにたいした意味はないの。ただちょっと聞きわすれたことがあったから。こらカッチ、ひとに好きな星座を聞いといて自分は言わないなんてズルイぞ。せっかく私もありふれてるーって言い返してやろうと思ってたのに。いい? あらためて聞くよ。カッチはいったいどんな星座が好きなの? へーえ、ありきたりだねえー。うん、これですっきりした。
 それからさっき書いたクリスマスのことだけど、クリスマスカードはほんとに用意してるの。カッチだけに特別にね。だから期待しててもいいよ。じゃね。
  T.Oより』


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