オレンジ色の夏休み − 三原色プリズム 6 −


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     1 バスに乗って

 「とまります」の赤いボタンから指をはなして、あたしはもう一度座席にこしを落とした。あーあ、また先をこされちゃった。
 あたしは今、目的地を決めないままバスに乗っている。アナウンスのたびに立ち上がり、だれより早くボタンが押せたら、その場所で降りてみようと決めている。子どもっぽいと思うけど、いいの。せめてこんな時くらいは、うわべだけでもはしゃぎたいから。
 でもほんとうは、こんな時こそはしゃいではいけないんだけど。じつは、今日は登校日。そう、あたしは生まれて初めて、ズル休みという悪い事をした。
 それをごまかすために、あたしはボタンの早押しなんかに熱中している。それを忘れるために、あたしは一人で無理にはしゃいでいる。
 ほんとに、どうしてズル休みなんかしちゃったんだろう……。

 みとめたくはないけれど、それはあたしのヒガミが原因。この夏休みの間、ニッチとサッチとは顔を合わせたくなかったから。
 夏休みに入る前、あたしは三人で共同の自由研究をしようという計画を立てていた。けれどその計画は、いつのまにかあたし一人でカラ回りしていた。
 『飼育委員の仕事もあるし』、ニッチは言った。そう、そんなに忙しいの。村井といっしょにがんばって。
 『夏休み中は塾がねえ』、とサッチはこう。ふうん、中学受験組は大変なんだ。長谷川といっしょにしっかりね。
 けっきょく二人とも、村井や長谷川といっしょの方が楽しいのよ。あたしなんかといるよりも。あたしはまた座席から立ち上がって、もう光っている降車ボタンを意味もなく押し続けた。
 もう、どうでもいいや。この次で降りよう。はしゃぐ気分でもなくなったし。あたしは座席にすわり直して外を見た。
 窓の外には、夏のしげった街路樹がならんでいる。樹々が間近に通り過ぎるたびに、その陰の中にあたしの姿が映る。鮮やかなオレンジ色のワンピースを着た、あたしの姿が。
 このオレンジ色のワンピース、あたしが生まれて初めて、自分で選んで買った服なんだ。でもなんだかはずかしくて、今までちょっと着れなかった。
 それを今日おもいきって着てみる気になったのは、それもやっぱり、無理なはしゃぎ気分のせいだったのかな。
 それに今日はほら、だれにも会わないという意味でも安心だから。
 ……でも、だれかに会ってみたいような、なんだかそんな気もする。


     2 とび石の上で

 公園前で、あたしはバスを降りた。
 どうせなら、もっと遠くへ行きたいけれど、昼前には帰らないといけないし……。
 でもいっその事、ズル休みの事なんかバレちゃって、問題にされてもいいかもしれない。あたしはなげやりな気分で、そんなふうにも考えていた。
 それより、せっかく公園に来たのに、なんかおちつかないな。
 ジョギングをする人とすれちがったりするのが、なんだかうっとおしいの。なによりも、その人達が一人きりでも楽しそうにしているのが、今のあたしには気にさわる。
 一人きりの時って、そうなんだよね。どうせなら、大勢の中に一人でいるよりも、だれもいない所に一人でいたい。
 あたしは木々の中に続いている、細い遊歩道の方へ入って行った。

 遊歩道をたどってゆくと、いきなり小川に出た。小さなとび石が、小川をななめに横切っている。
 あたしは最初の石にとび乗って、水面をのぞきこんだ。ゆらゆらと、あたしの服のオレンジ色が、まるで燃える水のようにゆれている。
 とんでは立ち止まりをくりかえしながら、あたしはゆれるオレンジ色を何度ものぞきこんだ。たった一人きりで、あたしはあざやかなその色を楽しんだ。
 左、右、左、ゆらゆら。右、左、右、ゆらゆら。左、右、あっ!
 ふと顔を上げて、あたしはびっくりした。向こうからも人が来ていた事に、それまでぜんぜん気付かなかったから。
 「ごめんなさい。ちょっとよそ見してて……」
 とび石の途中、小川の真ん中であたしと向かい合った相手は、背の高い男の子だった。男の子のほうも、あたしと同じくらいに驚いた表情をしている。やっぱり考え事でもしてたのかもしれない。
 「お、おまえ……、急にどこから……」
 でもその驚いた様子が、あんまりおおげさなものだから、あたしはますますうろたえた。よける事もできない川の中で、見知らぬ男の子とこうして向かい合ってるというだけでも、緊張するというのに。
 あたしはそのまま、しばらく動けずにいた。
 そして、男の子のほうもまた。
 ……………………。
 たまりかねて、あたしはちょっとムチャをした。相手のもう一つ向こうの石に、足をふみ出したの。
 えーと、次は左。それっ。あ、やっぱりとどかない!
 ……盛大な水しぶきのあと、ひざまで水につかったあたしを見て、男の子はますます驚いたようにこう言った。
 「な、なんだよおまえ、急にカワセミみたいなマネをして」


     3 カワセミたちの名前

 川べりの草の上にならんですわりながら、あたしと男の子はぬれたくつとサンダルがかわくのを待った。
 そう、どういうわけか、あのあと男の子までが水の中にとび降りてしまったの。あたしを助けようとしたとか、そこのところの理由はよくわからないけど。
 ぎこちない気持ちをかくすように、あたしは笑顔を作ると軽い口調で話しかけた。
 「でもほんと、なんであんたまで水に入んなきゃなんないの?」
 「…………」
 「あたしの事カワセミとか言って、自分のほうこそよっぽどカワセミじゃない」
 そのとたん、男の子はビクッと顔を上げ、キッとあたしを見た。なにか悪い事言っちゃった? あたしは気まずい思いでだまりこんだ。
 ……………………。
 ああ、まただ。苦しいなあ、静まりかえったこの空気。
 でもしばらくして、男の子のほうから口を開いた。かなりぶっきらぼうな口調だったけど。
 「おまえ、名前、なに?」
 「あたしは……、あ……」
 答えかけてふと気付いた。あたしは今日、登校日をズル休みしてるんだ。あたしはうしろめたさから口をつぐんだ。ああ、ますます気まずい空気。
 「なんだよ、名前ないのかよ」
 「ちがうの、その、……あたし、今日、学校ズル休みしちゃったから。自由研究の事で行きにくくって……」
 「ああ?」
 男の子はけげんな顔をして、それから急に笑い出した。
 「ハハハ、おまえなあ、名前かくすより、ズル休みの事だまっとくだろ、ふつう」
 ほんとだ、言われてみればそうかもしれない。あたしはしかたなく笑った。
 「けどそれもいいかもな。よし、おれも名前言わねえ」
 「え?」
 「おれもな、今日はズル休みしてるんだ」
 あたしはあっけにとられ、そしてまた笑った。今度は心の底から、ほんとうに。


     4 青とオレンジ

 「なあ、オレンジ」
 男の子があたしに向かって言った。
 「なによ、青くん」
 あたしも負けずに言い返す。
 「青くん、か」
 男の子は、自分の青いシャツを引っぱりながら苦笑している。
 あたしはふと思った。もしも清水くんなら、淡い空色のイメージだろうな。でもこの男の子なら、深い海の色でいい。……どうしてここで、いきなり清水くんが出てくるんだろう。
 あたしは今、清水くんとこの男の子とを、くらべているのかもしれない……。
 「それよりなあオレンジ、おまえ今日の事だれにもしゃべったりしないよな」
 「どうして?」
 「いちおう確認しときたいんだ。ズル休みしてんだから、よけいなおしゃべりはしねえよな」
 「うん」
 「だったら、秘密を教えてやってもいいぜ」
 「秘密?」
 「ああ、おまえだけにな」
 あたしだけに……。その言葉に、あたしは思いがけずときめいた。
 「わ、わたしだけに?」
 いつのまにか、「あたし」が「わたし」になっている。
 「ああ、オレンジになら、話したっていいだろう。秘密は守れるよな?」
 あたしはゆっくり大きくうなずいた。
 そして青くんの話した秘密というのは……。
 「おれな、いつだったか、赤いカワセミを見た事あるんだ。たしかに」


     5 秘密と秘密

 水にとびこんで魚をとるきれいな小鳥、カワセミ。林の中の小道をたどりながら、青くんは赤いカワセミの秘密を話してくれた。
 「赤っていってもな、真っ赤じゃない。ちょうどそんなオレンジ色だ。それがとびこむ姿といったら、まるで水につきささる火みたいだった」
 そうか、それであの時、あたしの姿にあんなに驚いたんだ。そしてあたしが水に落ちると、あたし以上にあわててたんだ。
 「そりゃな、カワセミは青いって事くらい、おれだって知ってる。けど、ありゃあほかの鳥じゃない。あの姿はまちがいなくカワセミだ。夢とか錯覚ってわけでもない。はっきり見たって記憶があるんだ」
 あたしたちは大きな道に出た。人の姿を気にして、青くんはそれきりだまってしまった。
 でも人通りがとだえた一瞬、青くんは短くこう言った。
 「この秘密をしゃべったの、おまえが初めてだ」
 あたしはドキドキした。こんなにときめいたのって、あたしも初めて。
 へんに気分がうかれたあたしは、自分からこんな事を言い出してしまった。
 「わたしにも秘密があるの? 聞いてくれる?」
 「ああ、聞くよ」
 「それじゃ教えてあげる。じつはね、わたしまだ自転車に乗れないんだ」
 「なんだそんな事かよ」
 青くんは笑った。
 「でもわたしにとっては大問題だよ」
 「かもな。秘密ってのはそういうもんか」
 ううん、あたしの大問題は、あたしにとっての一番の秘密は、ほんとはこんな事じゃない。
 そう、あたしにも、あたしだけの秘密がある。青くんと同じように、だれにも言えなかった重い秘密が。
 「……わたしのほんとうの秘密はね、目の中に糸がある事なの。フワフワうかぶすき通った糸が、わたしだけに見える事なの」


     6 流れの向こうへ

 「今この時も見えてるの。ずっと、ずっと、小さい時から。今までだれにも言えなかったのは、こわかったから。病気だなんて言われるのはいやだったし、そんな理由だと思いたくもなかったし」
 あたしは生まれて初めて、あたしだけに見えるすき通った糸の事をひとに話した。青くんになら、話してもいいような気がしたから。青くんになら、わかってもらえるような気がしたから。
 「青くんにも、ひょっとしたら同じようなものが見えるんじゃない?」
 思わず、こんな質問が自然に口をついて出た。清水くんには、これまで聞きたくてもどうしても聞けなかったのに。冷たい答えが返ってくるかもしれないのが、ひどくこわかったから。
 「さあ、見た事ねえなあ」
 青くんもそっけない返事をしたけど、それでも素直に不思議がってくれた。
 いつしかあたしたちは、公園を抜けて交差点に出ていた。信号が点滅して、今赤に変わった。
 「ねえ青くん、あの信号、なに色に見える?」
 あたしはふと思った事があって、青くんにたしかめてみた。でもあたしのその思いつきを、青くんはびんかんに見抜いてしまったみたい。青くんの表情に、みるみる怒りがうかんだ。
 「おれは色覚異常じゃねえよ! 赤と緑の区別くらいつく!」
 「ごめんなさい……、でも……」
 「普通のカワセミが、おれの目のせいで赤く見えたと思ったか。そんな単純な事なら、おれも苦労しねえよ」
 それっきり、青くんはだまりこんでしまった。
 信号が青に変わり、点滅を始め、赤に変わった。
 ……………………。
 そしてもう一度信号が青に変わった時、青くんは静かに言った。
 「こう見えても、おれだってマジに考えてきたんだぜ。だれにも言えない分、一人でな。おまえだってその糸の事、自分一人だけで考えてきたんじゃないのか?」
 青くんにみつめられて、あたしはうつ向いた。あたしは今まで、それほどしんけんにすき通る糸の事を考えた事はなかった。
 「そういや、自由研究がどうとか言ってたよな。だったらそれを研究するとかしてみりゃいい」
 信号が点滅を始めた。
 「じゃあな」
 青くんが、横断歩道を歩き出す。急ぎ足の大またで、とび石をわたるように白いラインをふみながら。あたしがそれを追うのをためらううちに、信号は赤に変わり、車が流れ始めた。
 あたしはそれきり、青くんの姿を見失った。
 でも車の流れの向こうから、青くんの声がとどいた。
 「またな」
 あたしも思わずさけび返す。
 「またっていつなの?」
 「自由研究の提出日は、決まってるだろ」
 そうか、それならその日に……。
 青くんとはまた会える。じゃあね。またね。


     7 ほんとうの自由研究

 夏休みの残りの日々、あたしは図書館に通った。学校に提出するつもりのない、ほんとうの自由研究のために。
 飛蚊
ひぶん症、それがあたしのすき通った糸の正体だった。なんて事はない、やっぱり目の中のゴミが原因だったの。そのゴミが、周囲を飛び回って見えるのがカのようなので、飛ぶカの症状、飛蚊症と名付けられたそうだ。
 でもあたしはこれまで一度だって、この糸を目ざわりだと感じた事はなかった。それどころか、いつもこの糸にかこまれ守られていると、そう信じて喜んでいたのに……。
 すき通った糸の正体が、こんなくだらない事だったのはショックだったけど、あたしは強気でこう考えた。これであの男の子に胸を張って会える、と。
 青くんは、きっとまた公園に来る。だからその時に伝えよう。あたしのすき通った糸の秘密を。そして、青くんの赤いカワセミの秘密も。……ううん、きっと今ごろは、青くん自身でその正体を調べ上げてるかもしれない。
 「ようオレンジ、赤いカワセミの正体、おれとうとうつきとめたぜ」
 そんなふうに、胸を張って言うんじゃないかな、きっと。
 そう、青くんはきっとまた公園に来る。自由研究を提出する日、つまり始業式の日に。
 だからあたしも、公園へ行こう。また学校を休んで。そしてもちろん、オレンジ色のワンピースを着て。


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