手の中のテントウムシ − 黒い帽子 赤いリボン 3 −


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     1

 幼稚園の帰り道、萠はいきなり駆け出したかと思うと、坂を登りきった所でしゃがみ込んだ。息をつめて何かをじっとみつめていたが、母親が追い付くとこう言った。
 「ほらほら、みて、きょうもじめんがもえてるよ」
 「ああ、かげろうね。ほんと、燃えてるみたいに見えるわねえ」
 「かげろうって、やさしいひだね。だからおはなもくさも、もえてもだいじょうぶなんだよね」
 萠は立ち上がると、また勢いよく駆け出した。スキップしたりとび跳ねたりしながら、かげろうをかき乱すように両手を大きく振り回す。
 (なんだか、からだがだんだんかーるくなるみたい。これならツバメさんにのらなくたって、おそらがとべちゃいそう。そうだ、きっと萠のからだも、はるとおんなじものからできてるんだね)
 揺れるかげろうも暖かな陽射しも、そしてそよぐ風までも、春の世界は自分のためだけにあるように今の萠は感じていた。
 ひとしきりはしゃいでから、萠は立ち止まってふり向いた。母親が追い付くのを待ちながら、両手を後ろで組んですましこんでみる。もうすっかり春の主人公気取りだ。
 「フフッ、かげろうっておもしろいねえ」
 「でもね萠ちゃん、かげろうっていっても二つあるのよ。このお日さまのかげろうのほかにもう一つ、虫にもカゲロウっていうのがいてね、それは哀しいのよ。すぐに死んでしまうの」
 「でもおひさまのかげろうはたのしいよ。とっても」
 立ちのぼるこのかげろうも、同じようにはかないものだとは、春のさなかにいる今の萠には思いもよらない。ましてカゲロウの死の哀しさなど、分かるはずもなかった。

 揺らめくかげろうをかいくぐって、一匹の小さな虫が飛んで来た。
 「いやあ」
 萠は虫を遠ざけようと手を払ったが、虫は真っすぐ飛んで来ると萠の胸に止まった。テントウムシだ。
 「あっ、テントウムシ! きれい……」
 テントウムシは名札のすぐ上に止まってじっとしている。黒い頭と七つの星とが羽のつややかな赤を引き立たせ、水色の園児服の上で浮き上がるように鮮やかに見える。
 萠は手のひらを返して、やわらかな春風からさえかばうように、片手をテントウムシにかざした。さっきは追い払おうとした事など、もうすっかり忘れている。
 「きれいねえ。ブローチみたいじゃないの。赤い色って萠ちゃんにはとっても似合うわよ」
 母親の言葉に、萠は素晴らしいアイデアを思い付いた。
 「ねえママ、萠、このテントウムシかってみる。そうしてときどきこうやって、ブローチになってもらうの」
 「でも飼うなんて難しくない?」
 「へいき。おにいちゃんにおしえてもらうから」
 弾む気持ちに萠はスキップを始めた。テントウムシを落とさないよう片手でそっと胸を押さえると、やがては母親の事も忘れて駆け出した。

     2

 「ただいま」
 勇太が家に帰ると、萠が玄関先まで飛び出して来た。手には何か小さな容器を持っている。
 「ねえねえねえ、おにいちゃん、ほらこれみてよ」
 「ちょっと待てよ、いきなりなんだよ」
 そのまくしたてるような口調から、萠は自分の帰りを待ちわびていたのだと勇太は気付いた。そんな萠をからかうつもりで、勇太はじらすようにわざと話をそらしてみる。
 「母さんは?」
 「おかいものいった」
 「いつ?」
 「んーとね、ついさっき」
 「なに買いに行ったんだろうなあ」
 「しらないよそんなの。それよりこれみてよう、おにいちゃん」
 「待て待て、おれトイレ行きたいんだよ」
 「もう」
 勇太がトイレから出て来ると、萠はドアのすぐ前で待ちかまえていた。
 「もういいでしょ。ほらみて、きれいでしょう」
 「手洗ってからだ」
 萠はほほをふくらませたが、何も言わずに素直に待った。さすがに少し意地悪すぎたかなと、勇太は笑いながら濡れた手をズボンでぬぐい、萠から容器を受け取った。
 「へえ、ナナホシテントウか」
 勇太はテントウムシの入ったフィルムの空き容器を、目の前にかざしてのぞき込んだ。萠も近寄って来ると、一緒になってそれを見上げる。
 「ねえ、きれいでしょ?」
 「まあな、なみの感覚を持つやつにすればな」
 「おにいちゃんのヘソマガリ」
 「これ、萠がつかまえたのか?」
 「ううん、テントウムシさんのほうから萠のとこにきてくれたんだよ」
 「で、来てくれたのをこんなふうに閉じこめてんのか。ひでえ話」
 「それでね、萠このテントウムシかおうとおもうの。おねがい、どうやったらいいかおしえてよ」
 「しょうがねえなあ」
 気の進まないようなそぶりを見せながらも、妹におねがいと頼られて、内心勇太も嬉しかった。学校では最高学年になってもいま一つその実感がないが、家に帰れば少なくとも一人の部下がいる。勇太にとって妹の期待に応える事は、妹をからかう事以上に楽しみなものだ。
 「まずこんな小さい入れもんじゃだめだ。だいいちこんなふうに密閉してたら、じきに窒息するぞ」
 「え?」
 「これじゃ息ができないって言ってんだよ」
 「むしもいきをしてるの? へえ……」
 「あたりまえだろ。虫の息って知らないか? それから、エサはアブラムシだ」
 「アブラムシ?」
 「ほら、去年庭のコスモスにいっぱい付いただろ。あの細かい虫を食うんだ。なあに、あんなのちょっとさがしゃどこにだっているって」
 「テントウムシが、ほかのむしをたべちゃうの?」
 「ああ」
 「……ころしちゃうの?」
 「あったりまえだろ。生きてるまんまで食えるかよ、ビフィズス菌じゃあるまいし」
 萠は笑わない。今の今まではしゃいでいたのが急にふさぎ込んでしまい、うつむいて肩を落としている。こんなにきれいなテントウムシが、ほかの虫を殺して食べるというのがショックだったのだろう。
 そんな様子を見た勇太は、ますます調子にのってさらに萠をからかった。こんな時の勇太は、兄というよりもまるで同い年の悪ガキだ。
 「なんだよ、それくらいの事で。自然界はキビシイんだぞ。前にスズムシ飼ってたろ、あれなんか共食いって言って仲間同士食い合ったりするんだぜ。あとメダカなんか、気を付けないと親が自分の子どもを食っちまうしな」
 「……こわい」
 「萠だって肉も魚も食うじゃないか。萠はからあげが好物だよな? あれだってもとはニワトリ、やっぱり生きもんだろ」
 「でも、萠はなんにもころさないもん!」
 「そんなのはよけいにズルイぜ。他人に悪事をまかせといて、自分はそのうわまえはねるようなもんだ。おまえひょっとして、悪の組織のボスの素質あるんじゃねえの?」
 「萠わるくないもん! ゆ、勇太のバカ!」
 萠は泣き声でさけびながら、容器を握ったままの手で勇太の胸をなぐりつけた。幼い手の持てる限りの力で。そして泣きながら駆けて行ってしまった。
 「クーッ、いってえなあ。なんだよ萠のやつ。ちょっとからかっただけなのにマジんなって」
 萠の示した予想外の反応に、勇太はめんくらっていた。
 勇太は萠に追いかけられたり軽く叩かれたりするのが楽しみで、それでたびたび小さな妹の事をからかってしまう。だが笑顔でポカポカ叩かれる時のなんともいえない幸福感とは違い、今の涙をこぼしながらの一撃では、苦い罪悪感だけが心に広がった。胸の痛みを覚えた勇太は、今回ばかりはやり過ぎた事を後悔した。

     3

 泣きながらとなりの部屋に駆け込んだ萠は、母親の鏡台の前に座るとさらに激しく泣きじゃくった。
 ひざをすりむいたなどが理由の場合は別として、親にしかられたり兄に意地悪された時など、萠はたいていこうして鏡の中の自分と向き合って泣く。そうすると涙を流す自分のいたいけな姿にますます我が身がかわいそうに思えてきて、涙はあとからあとからあふれてくる。
 「ウワアー、ワアー、おにいぢゃんのばがー、萠わるぐないのにいー」
 自分の泣き顔を見ながらひとしきり激しく泣けば、やがては気持ちも落ち着いてくる。そうすると、下くちびるのゆがむのやあごにしわが寄るのが自分でもこっけいに見えてきて、そんな頃には自然に涙は止まっている。いつもならばそうだった。
 「ヒッ、ヒクッ、おにいちゃんのばかあ、ウッ、ヒイーン」
 ところが今回だけは、涙は容易には止まらなかった。ひとしきり不幸に浸ってもまだ気がすまないのか、ムヤムヤしたものが繰り返し込み上げてきては、涙をあとからあとからあふれさせる。鼻水が流れるのが自分でもみっともないと思いながらも、萠にはこぼれ続ける涙をどうする事も出来なかった。
 「ウウッ、お、おにいちゃんのばかあ、ウッ、ヒクッ、テントウムシのばかあ」

 萠は心の中にひっそりと、幼い女の子らしい無邪気な夢の世界を思い描いていた。あらゆる花が咲き乱れる常春のお花畑がどこかにあって、そこではおやゆびひめのような萠が、毎日楽しく暮らしている。チョウチョやテントウムシといった、良い虫達と一緒になかよく遊びながら。
 ところがそのテントウムシが、本当はクモやムカデといった悪い虫達の仲間だったという。
 「ウウッ、テントウムシのばか、グスッ、あんたなんかもうキライ。ヒッ、ヒクッ」
 萠にとっては、兄に意地悪を言われた事よりも、テントウムシに裏切られた事の方がずっとつらかった。テントウムシが見知らぬ暗い森に住むような悪い虫だとしたら、今まで自分が思い描いていた夢の世界が壊れてしまう。そんな不安が心を締め付けて、萠はいつまでも泣き止む事が出来ないのだった。子どもだましの絵本の受け売りのような夢とはいえ、それをすでに自分の世界にしてしまっている今の萠にとっては、かけがえのない大切な夢だった。

 頭の芯に鈍い痛みを覚えるほど泣きじゃくった萠は、テントウムシなどもうどうでもいいような気持ちになっていた。
 夢の世界を守るにはテントウムシを仲間からはずすしかないと、重い頭を抱える萠がそこまで考えたかどうかは分からない。とにかくもうテントウムシには興味のなくなった萠は、庭に出るとなんのためらいもなく容器のフタを開いた。
 テントウムシは容器の底でじっとしている。萠は容器を逆さに振って、テントウムシを手のひらに落とした。そして最後にもう一度だけ、じっくりと眺めてみる。
 (やっぱりきれい。わるいむしのはずなのに……)
 そして萠は突然気付いた。美しいのは羽だけで、この虫はただそれを背負っているに過ぎないのだという事に。
 萠はテントウムシをつまみ上げた。そしてもう片方の手の爪を羽に引っ掛けてこじると、持ち上がった羽をピッと引っ張った。羽はあっけなく付け根から取れ、萠の小さな指の先に残った。萠はもう一枚の羽もつまむと、まるで花びらでも摘み取るようにもぎ取った。

     4

 部屋に戻った勇太はカバンを床に投げ出すと、帽子を取るのも忘れてベッドの上に座り込んだ。
 繰り返し何度もしゃくり上げてはいつまでも続く萠の泣き声に、勇太はいたたまれない気持ちになっていた。萠を泣かせてしまった時には母親が出かけていた事をさいわいに思ったが、それも今は萠をなだめるため早く帰って来てほしいと願うほどだ。
 勇太は萠にひどい事を言ってしまったのを、心の底から後悔していた。あれは弱肉強食という自然界の厳しさを教えたというよりも、単に意地の悪いいやがらせでしかなかった事に、自分でも気付いていたせいだ。
 (どうしておれっていっつもああなんだろう。あんな小さな妹を相手に、大人げないよなあ。萠にはいつも笑っててほしいって思うのに、泣かれりゃおれのほうだってつらいのに、ついついからかったり意地悪を言ったりしてしまう。どうしておれっていっつも……)
 年長者としての自覚もなしに、妹に子どもじみた意地悪をしむける自分には兄の資格もないと、今の勇太はそこまで思い詰めていた。

 玄関のドアの音が聞こえ、そしてそれきり静かになった。母親が帰って来たのではなく、萠が外へ出て行ったらしい。勇太はハッとしてベランダに飛び出したが、すぐに安堵の息をついた。見下ろすと、萠は庭にしゃがみ込んでいる。
 萠はもう泣き止んでいるが、それでも勇太はさっきの意地悪をつぐなう必要があると感じた。
 (おれの事をきらうくらいはまだいいとしても、もし萠が肉も魚ももう食べない、なんて言い出したりしたら、それもおれの責任だ。早い事言い聞かせておかないと)
 勇太が庭に出て行くと、萠は立ち上がってふり向いた。右手を握りしめているので叩いてくるつもりかと思ったが、萠はただふくれっ面を向けるだけだ。
 「テントウムシ、どうした?」
 「バイバイした」
 「そっか、放しちまったか……」
 萠は泣いたままの顔をしている。勇太は自分の服の袖で萠の涙をふいてやり、鼻もぬぐってやった。にわか仕立ての親切が自分でもてれくさく、そのそぶりは少々荒っぽかったが、それでも萠の表情は少しなごんだ。
 「テントウムシなんてもうきらいか?」
 「うん」
 「まあな、たしかにほかの虫を食べるって事だけ見りゃ、ひどいようにも思えるけどな、でも萠、もしテントウムシがアブラムシを食べなかったらどうなると思う? アブラムシってのはものすごく増えるんだ。増えすぎて草も花もみんな枯らすかもしれないぞ。そうならないように、テントウムシはアブラムシを食べてるんだ」
 「じゃあおはなたちのためにやってるの?」
 「んーそういうわけでもないけどな、けど自然界のバランスを保つのに役立ってるってのはたしかだな。だから、たとえば萠が肉や魚を食べる事だって、ちっとも悪くないんだからな。べつに気にする事ないぞ」
 言い聞かせながら勇太は、今自分は兄として萠に接しているという事を自覚していた。そして同時に、そのように接すれば萠はききわけのよい素直な妹だという事にも、今初めて気付いた。
 「それだって意味のある事なんだから。もし萠やほかのみんなが肉や魚を食べなくなってみろ、やっぱり困る事になるんだぞ」
 「ニワトリがふえすぎる?」
 「いやいや、そりゃちょっとちがう。ニワトリを育てたり売ったりする人がいるだろ? そういう人が困るんだ」
 「ふうん」
 「生産とか消費とか、萠にはまだむずかしいか。あのな、売る人がいて、そして買う人がいて、人間社会もそういうバランスが大切なんだ。わかるか?」
 「うん。萠がからあげをたべるのもなにかのやくにたってて、だからわるくはないんだね」
 「そうそう、そうだよ。そりゃあな、生き物を意味もなく殺したりしちゃ困るぞ。みんな一生けんめい生きてて、だから、食べるにも命をもらう事に感謝して、……ヘッ、なんて言やいいんだ? まあわかるよな? 萠」
 「うん。萠、こんどからはニワトリさんありがとうっていってたべる」
 萠は左手で勇太の服の袖を引っ張ると、それで目の周りをぬぐった。萠のそんなずうずうしいしぐさにも、ものわかりのよい兄となった今の勇太は怒らない。勇太は親しみをこめて、妹の頭に自分の野球帽をかぶせてやった。
 「それでね、おにいちゃん、おねがいがあるの」
 「うん?」
 「これで萠にブローチつくってよ」
 萠はそれまで握っていた右手を開いて見せた。手のひらにはテントウムシの丸い羽だけがのっている。勇太はギョッとした。
 「なんだよこれ! 羽をむしり取っちまったのかよ! おい、本体はどうした?」
 「むしのほうはねえ、アリのすにおっことした」
 「アリの巣に? なんて事すんだ」
 「でも、アリさんたちがありがとうっていってたべたら、萠はやくにたつことしたんでしょ?」
 「…………」
 勇太には返す言葉がなかった。萠に何一つ理解させられなかった事を思い知った勇太は、再び兄としての自信を失いかけていた。
 「おねがーい、きれいなのつくってよね。そしたら萠、テントウムシさんありがとう、おにいちゃんありがとうっていってつけるから」
 「…………」
 「ママがねえ、萠にはあかいいろがとってもにあうって。フフフ」
 大きな野球帽のひさしがかぶさり、萠の表情は見てとれない。勇太には、萠が口もとだけで笑うようにも思えた。

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