風のゆくえ − この手を離れる時 −
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1
登山道の入り口までやって来て、ようやく涼は足を止めた。何度か大きく息をつき、ふり向いてのび上がるように後ろを見たが、ほかのみんなはまだ姿を見せない。
涼はここまでずっと、みんなから一人離れてひたすら先頭を歩いて来た。口をきつく結び、固く握ったこぶしをふり回すようにしながら。けれども坂道にさしかかって、さすがに少し息が切れた。涼は右に別れる道を少し進むと、ひんやりするコンクリートの壁にもたれかかった。
曲がりくねる坂の続く先は見えないが、ミンミンゼミの遠い声だけは、ここまではっきり届いてくる。町の電柱などでは決して鳴かないこのセミの声に、涼は夏山を今初めて知ったようなすがすがしさを感じた。
涼はずっと握っていたこぶしを開いた。汗ばんだ手のひらに受ける風が心地良い。汗が乾き、荒い息がおさまるにつれて、ここまでの道のりで抱え込んだ不満までもが、ふっと薄れてゆく。
けれども追い付いたみんなが別の道を選び、何も言わずに通り過ぎようとするのを見ると、涼はまた不機嫌になった。
「もう、なんでそっちに行くの」
「いつもの道じゃないの」
「いつも行くほうなんてつまんないよ。たまには別の道を行こうと思ってたのに」
「慣れた道の方が楽でしょう。あなた一人じゃないんですからね。村井さん達も一緒なんだから、そんな勝手は聞けませんよ」
母にそう言われて、涼は舌打ちした。ふだんは舌打ちなどめったにする事のない涼が、今日ばかりはしきりに不満をあらわにする。
二人の弟が駆けるように通り過ぎ、父も早足で行ってしまった。その後から母も、綾香の母や姉とおしゃべりしながら歩いて行く。
最後に綾香達が登って来た。
綾香とその弟は、家を出発した時からずっと、伯父に両側からすがりつくようにして歩いている。涼はもう一度舌打ちすると、こぶしを握って綾香達の後ろを歩き出した。ただ一人、みんなから離れて。
2
少し離れて歩いていても、伯父に話しかける綾香の声は、涼の所まで聞こえてくる。綾香の明るい笑い声は、さっきからずっと、途切れる事なく続いている。
けれども涼は、今朝からまだ一度も綾香と言葉を交わしていない。そして今も、なんとなく綾香に声をかけられないでいる。涼はいつまでも黙り込んだまま、水色の服の後ろ姿を追いながらひたすら歩いていた。
涼はいつにないそんな気おくれに、自分自身をもどかしく思った。そして何より、自分の事をかえりみない綾香に対して、強いいらだたしさを感じていた。
涼達はお寺の薄暗い木立を抜けて、乾いた山道にさしかかった。陽射しの暑さが真っすぐ突き刺さってくる。また登り坂も急になり、みんなの足取りは遅くなる。自然に涼は、綾香のすぐ後ろを歩くようになった。
それでも、こうしてすぐ近くにいながらも、涼はやはり一人きりだ。
カナブンが飛んで来た。涼が軽く身をよじるとカナブンは右肩にぶつかり、そのままそこに止まった。
こんな時、いつもなら涼はすぐに綾香やその弟に知らせるだろう。ひょっとしたら、そっと綾香の背中か帽子にカナブンを止まらせて、綾香の弟と顔を見合わせこっそり笑ったりするかもしれない。
けれども涼はやはり何も言えず、何も出来なかった。
涼はえりまではい上がって来たカナブンを取ると、近くの木に止まらせた。そしてまた、黙って三人の後ろを歩き出した。
こんな気おくれは、綾香の伯父に対してのものかもしれないと涼は思う。涼は母と一緒にたびたび綾香の家を訪れていて、村井一家とはもうすっかり顔見知りだ。けれどもこの綾香の伯父にあたる人だけはほとんど見かけないし、もちろん話をした事もない。そんな相手と一緒にいる綾香に気兼ねしてしまうのは、自然な事かもしれない。
とはいえ涼は、それだけで不愉快な思いにまでなるはずはないと、自分でも気付いていた。
綾香の寄り添う相手に対して、この白髪まじりの伯父さんに対して、どうやら涼は嫉妬をしているらしい。
3
山道は、流れに沿って続いている。川の水音は激しくなり、穏やかになり、道を進むにつれてそれを何度も繰り返す。
それに対して涼の気持ちは、激しく高まっていく一方だった。嫉妬なんて見苦しいと自分でも思いながらも、涼はどうしても気を静める事が出来ずにいた。
(もう最後なんだから、いつでも会えるそんなおじさんなんかほっといて、ぼくのほうを見てくれたって……。もう最後なんだから)
涼の一家は、来週引っ越す事になっている。そうなれば、もう綾香とは会えないだろう。今日が最後のハイキングだから、涼は綾香と心おきなくおしゃべりし、そしていつも以上に大はしゃぎして一緒に遊びたかった。悔いのないように、そしていつまでも忘れられない思い出として残るように。
しかしそんな思いが強くなればなるほど、空回りした時の落胆は大きくなるばかりだ。涼は身にしみてそれを思い知った。
「ねえお母さん、飲み物はなにを持って来たの?」
涼は綾香を飛び越えて、その前にいる母に声をかけた。
「麦茶だけ?」
「そうよ。ジュースも欲しかった?」
「いや、ただビールでもあったらなあとか思ったりして」
涼の冗談に笑ったのは、大人達ばかりだ。後ろから見る限り、綾香はなんの反応も見せない。
「川の水で冷やしたらきっとサイコーだよ」
「何言ってんの。あんまりとっぴょうしもない事言わないでよね」
「いいじゃない。色付きサイダーとでも思えばさ」
「こないだみたいな事したら、お母さん嫌ですよ」
「ヘヘッ」
「コーヒーなら、後でうまいのを飲ませてやろう」
先頭の父が振り返って言った。
「うん、ブラックで飲ませてもらうよ」
涼の言葉は、やはり綾香を通り過ぎるだけだった。
4
先週、涼の一家は綾香の家に夕食に呼ばれた。
その日も涼はやはり、綾香の事ばかりを気にかけていた。それでも今日のように孤立するような事はなく、食事前には弟達も一緒になって大騒ぎをした。
子ども部屋でぬいぐるみを投げ合い、廊下を転げ回り、そしてテーブルの周りを駆け回りながら、すきを見てつまみ食いをする。人前で母がきつく叱れないのをいい事に、涼はおおっぴらにはしゃぎ回った。そうしてはしゃいでみせながら、涼は綾香の視線を絶えず意識していた。
はめをはずした涼は悪ふざけを繰り返し、しまいにはコップのビールを飲み干してしまった。そしておどけてグルグル回り、おおげさに倒れてみせた。
大人達はもちろんあきれかえったし、年下の弟達までがあざけるように笑った。涼はようやくうかれ気分から冷め、気分の悪さも手伝って、やり過ぎた事を後悔した。
あお向いてじっと横になっていると、天井がゆるやかに波打って見える。なんだか水槽の底に横たわるようだ。涼は目を閉じた。すると今度は、床ごと体が横すべりするような気がする。
わきばらをつつかれて、涼は目を開けた。間近に綾香の顔がある。涼は綾香の同情的な言葉を期待して、いかにも具合悪そうに顔をしかめて目を細めた。
けれども綾香はいつまでも、ただ笑いながら涼を見下ろすだけだった。涼の方も起きるに起きられず、いつまでも気分の悪いふりを続けていた。
5
あの時涼ははっきり気付いた。同い年の綾香にまで、自分は子ども扱いされていると。だからこそ、今日は弟達とはしゃぐわけにはいかないと考えていた。たとえそのために孤立する事になったとしても。
間近に滝の見える小さな広場で、ひと休みする事になった。
大人達は滝を見上げている。子ども達は崖の大きなハチの巣に気を取られている。涼は滝にもハチの巣にも背を向けて、貧弱な桜の木々の間を歩き回った。
クマゼミが一匹、顔の高さほどの所でやかましく鳴きたてている。これなら素手でも簡単につかまえられそうだ。
涼はクマゼミにそっと手を伸ばしかけたが、ふとばからしくなって手を止めた。
(そんな事を得意がったりするから、だめなんじゃないか)
そう考えると、無警戒なクマゼミさえむやみに腹立たしく思えてきて、涼は桜の木をけとばしてやりたい衝動にかられた。
「そろそろ行きますよ」
母に声をかけられて、涼は不満を抱え込んだままその場を離れた。
ここから山道は階段となり、滝を右に見ながらその上へと続いている。左側には大きくダムがそびえている。
階段を登りつめても、道は急な登り坂となってさらに続く。貯水池はまだまだ上だ。誰もが息をはずませて、母達のおしゃべりもとぎれがちになった。
そんな苦しい登り坂で、涼はいきなり駆け出した。綾香と伯父を追い越し、母達を、父と弟達も追い越して、涼は一人で坂道を駆け登って行った。
背後から、弟達の声が追いかけて来る。登り坂は幾重にも折れ曲がりながら、まだまだ続く。苦しいのもかまわず、涼は駆け続けた。自分が先頭を走っている事に満足しながら。
とうとう坂道を登りつめ、ようやく涼は足を止めた。息が切れ、せきこみもしたが、激しい鼓動はむしろ心地良かった。涼はふり返り、はずんだ息でみんなが追いかけて来るのを待った。
けれども駆け足で追いかけて来たのは、弟達だけだ。涼は伸び上がるようにして、坂の下に綾香の姿を探した。
父が来て、母達が来て、綾香は少し遅れて一番最後に登って来た。息を切らした伯父の背中を後押ししながら。
6
貯水池には、パンくずを投げている人達がいた。身を乗り出してのぞき込むと、しなやかな刃のような魚達が、深緑の水の中で無数に光っている。涼はその涼しげなきらめきに、しばらくの間見入っていた。
ここまで登って来ると、さえぎる物もなく風は勢いよく吹き抜ける。貯水池を渡って届く涼しい風に、涼はさっきまでしたたるほどに汗を流していた事を忘れた。
対岸までは長い橋が続いている。
再び歩き出した涼は、やはり最後尾を一人で歩いていたが、それでもさっきまでとは違い、その表情には水や風になだめられた後のおだやかさがあった。
綾香の後ろを歩きながらも、涼はもうその後ろ姿ばかりを気にかけたりはしなかった。風が吹けば、その風に招かれるように遠い山に目を向け、水音が聞こえれば、その水音に誘われるように足元の流れに目をやった。すると不思議な事に、そうしている方がかえって、綾香と共にいるという実感が心に鮮やかに湧いてくるのだった。
「あー、ハチがいる!」
前の方で、綾香の弟がいきなりさけんだ。涼の弟達も、一緒になって騒ぎ出した。
みんなは橋を渡り切った所で、そろって立ち止まってしまった。涼がみんなの肩越しに前の方を見ると、確かに大きな虫が飛んでいる。
弟達三人は、すきを見て勢いよく走り抜けると、向こうのカエデの木の陰に隠れた。けれども綾香はためらったまま、いつまでも駆け出せずにいる。
涼は綾香の前に進み、ハチを追い払ってやろうと野球帽をかまえたが、すぐに笑い出した。
「なんだ、ハチじゃないよ、あれ。ただのウシアブじゃないか」
涼はなんの気なしに綾香に片手を伸ばしかけ、慌ててまたその手を引き戻した。
無意識のうちに涼は、綾香の手を取って進もうとしたらしい。涼は野球帽をいじりながら、そんな自分のとっさの行動に、一人でうろたえていた。
「ウシアブなんてへいきだから……」
「でも、アブもやっぱりさすんじゃないの?」
「そうだけど……」
「牛じゃなければ平気だろう。人間様なら心配ないって」
そう言って笑ったのは綾香の伯父だ。その気安い口調に、涼の気詰まりな思いも途端にやわらいだ。
「行こう」
涼は野球帽をかぶり直すと、うちとけた気分で綾香や伯父と並んで歩き出した。
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