最近、アマチュア無線を始めました。まだ慣れなくて、交信のたびにやたら緊張しています。
 同じくホームページもこれが初めての開設で、なんだか不安です。殺風景なページと思われるでしょうが、なにぶんビギナーなので大目に見てください。内容も少しずつ充実させていきますので、お楽しみに。いつかは無線のパビリオンも開けるかもしれません。
 新しい趣味の話はおいといて、今回は最も古い趣味について書きます。
 ボックスシートパビリオンで紹介している駅弁包装紙のコレクションが、僕の最も古くからの趣味になります。きっかけは、家族で見ていたテレビ番組でした。
 ある日、その番組に駅弁包装紙コレクターが登場すると、小学校四年生だった僕に向かい、両親がそろってこう言いました。シンイチもくだらない物ばかりためこまないで、こういった意味のある物をコレクションしたらどうかと。
 親としては、当時の僕のガラクタ集めをやめさせたいという思いがあったのでしょう。が、結果は収集ジャンルが新たに一つ増えただけでした。
 ちなみにその番組は、土居まさる司会の「本物は誰だ」。年がバレるなあ。
     99年10月23日
 日本一周の旅から帰って、そろそろ二ヶ月になります。旅を終えればすぐにも退屈が襲ってくるかと思いきや、退屈どころか大忙しの二ヶ月間でした。このホームページを開設する準備のせいで。
 ろくな知識もなく、パソコンすらなく、まったくのゼロからのスタートでしたが、あきらめさえしなければ、意外となんとかなるものですね。確かにいろいろ障害も多かったけれど、何人かにページ開設を宣言してしまった以上、実現させなきゃカッコ悪いし……。僕の努力の動機なんて、結局はそんなもんです。
 さて、ホームページ開設という苦難の目標を達成して、今度こそ退屈が訪れたかというと、これがそうでもないんです。これから先は、ページ更新の作業がひかえているので。
     99年11月02日
 「四つの標」にも書いたように、僕は旅の途中のちょっとした思いつきから、自分の星を持つ事になりました。僕の星「Green Sheep」は、あまりに暗く肉眼では見えないけれど、それでもたびたび夜空を眺めています。公的に所有権が通用しないのは承知の上で、気分を楽しめればそれでいいんです。
 そしてこないだはとうとう、月の土地を買ってしまいました。アメリカの「Lunar Embassy」というホームページで売っていたのを、思わず衝動買い。インターネットでの初めての買い物が、まさか月の土地になるとは。
 1777.58エーカーという広大さは、にわかには信じられないけれど、それでもたびたび月を眺める事になるでしょう。
     99年11月12日
 古い旅の記録を整理していて、ちょうど10年前の記録を見付けました。
 その日、平成1年11月11日、当時別府に住んでいた僕は、1並びの日付の入った駅弁包装紙を目当てに、「荒城の月」で有名な豊後竹田まで出かけています。駅弁が目当てなら別府市内でも用が足りるだろうけど、たぶんそれを口実にしてどこかへ行きたかったんでしょう。
 そして今年、平成11年11月11日、やはり1並びの日付の入った駅弁包装紙を目当てに、僕は神戸から姫路まで行ってきました。もちろん、それを口実に少し遠出がしたかったから。
 ただ今回は、列車ではなく自転車で出かけましたけど。
     99年11月21日
 しし座流星群の夜は、今年も曇ってしまいましたね。念のため前夜にも観測したけれど、流れるのはなぜか散在流星ばかりで、かんじんのしし座群はまったく見られませんでした。ああ、去年は450個も見られたというのに。
 でも、まったくのムダでもありませんでした。地平線上にわずかに浮かぶ、カノープスが見られたのだから。
 りゅうこつ座の一等星カノープスは、南の地平線からわずか一度ほどの高度までしか昇らず、見るのはかなり困難です。中国では古くから「南極老人星」と呼ばれ、一目見るだけで長生きの御利益があるとか。そんな縁起はどうでもいいけど、見えた時はやっぱり感激ものです。
 じつは、カノープスを見たのはこれが初めてではありません。去年沖縄では、毎晩のように見上げてました。でも当たり前に見えるとなると、その分感激は薄れてしまうもので。
 しし座流星群も、簡単には見られないくらいでちょうどいいのかな。次のチャンスを、気長に待つ事にしましょう。それまでには、星のページも追加して。
     99年12月01日
 神戸では毎年11月に、六甲全山縦走という催しがあります。須磨から宝塚まで、六甲山系を縦断する56キロの登山道を15時間ほどかけて踏破するもので、なかなかハードなハイキングです。
 2年前には僕も参加しました。ただ、1000人もの参加者と一緒に歩くというのは大変なものです。山道の途中で渋滞にかかってしまい、六甲山頂に着く頃にはすでに日が暮れていました。まだ暗いうちに須磨をスタートしながらも、終盤はまた闇の山道を歩く羽目に。
 そういうわけで、今年は会には参加せず、同じコースを個人的に歩いてみました。それもわざわざ、開催前日に。この静かな道も明日は登山者で大渋滞だろうなと思いながら、愉快にハイキングを楽しみました。
 ところが、六甲山頂に着いたのはやはり日暮れ時。途中、コースが市街地を抜ける所で道に迷い、かなり時間をロスしてしまったので。
 そうか、うっとおしかったあの大行列も、道案内としては役立っていたわけか。
 そこから先、闇の山道を単独で歩く自信もなくなったので、もうロープウェイで帰ってきました。
     99年12月11日
 また星の話です。
 今月始めに発見されたわし座新星、まだ見えていますね。双眼鏡でも見える明るさなので、天気さえ良ければ毎晩見上げています。ベランダから。新星がこれほど身近な物になるとは、意外でした。
 そうそう、ほかにも意外なほど身近な星がありました。10月に、近所の住宅に隕石が落ちたんです。周囲にカケラでも落ちてないかと、翌日にはひとしきり自転車で捜し回ったりもしました。
 残念ながらカケラは拾えなかったので、展示された隕石をそのうち科学館へ見に行こうかな。
     99年12月21日
  こないだ、ヘンな夢を見ました。
 僕はなぜか空母に乗っています。もうじき入港らしいので、着岸の様子を見ようと甲板に出てみました。ところがその港は、ひどく狭いのです。大丈夫かなと思ううち、ついに艦は岸壁を削り始めてしまいました。
 次の瞬間、いきなり場面は変わっていました。空母は町の中まで入り込んでいます。縮尺の違いもおかまいなしに、通りを走っているのです。路上駐車を避け、前を行くスクーターに汽笛を鳴らしながら……。
 こんなムチャクチャな状況でも、甲板上の僕はちっとも不思議に思わず、平然とこんな事を考えていました。そろそろ降りるバス停だな、と。
 さて、初夢はどんなストーリーになるんだろう。
     00年01月01日
 母が新しい車を買いました。古い車とは、これでお別れです。
 最後の記念に、ちょっと変わった頼み事をしました。トランクに入り、そのまましばらく走ってもらったのです。普段はなかなか試す事の出来ない、貴重な経験でした。
 カーブなどは意外と平気です。それよりも、加速や減速の方がけっこうきつく、そのたびに体が転がりそうになりました。それを防ぐには、横を向いて足を後ろに折り、腕は前に突っ張るのが良いようです。また、上から突き出しているヒンジにつかまるのも良いでしょう。機会があれば試してみてください。
 さて、新しい車ですが、これには残念ながらトランクがないんです。でも小さい分、ひょっとしたらもう一つの挑戦が出来るかもしれません。その挑戦とは、天井に張り付いたまま走ってもらう事。……でも、さすがにこれは母も承知してくれないだろうなあ。
     00年01月11日
 テントパビリオンで紹介しているサイクリング記録「風にまかせて」、そこに登場する自転車仲間のブラックが、正月にホームページを開きました。また、イエローとブルーの兄弟も、冬休みの間に台湾を走り、その様子を早速自分達のページで紹介しています。
 こっちもうかうかしてられないな。そういうわけで前回、中央広場やパビリオン入り口の模様替えを行ってみたわけですが、いかがでしょうか。
 「カウンターも付ければ?」、ブラックは言いますが、それはちょっと考えものです。彼のページをのぞいてみると、わずか一週間でもう3ケタ! これではますます、こっちは恥ずかしくてカウンターなど付けられないよ。
 あちこちのページを回り、掲示板に書き込みをしたり、相互リンクをお願いしたりと、アクセス数アップのためには、そういった営業活動が必要なんですね。そうは分かっていても、やはりそういうのは苦手で……。
 せいいっぱいのところで、今回新たにリンクページを新設しました。相互リンクしてくださる方、お待ちしてます。
     00年01月21日
 こないだ、無料の体験乗馬を試してみました。モンゴルでは少々駆けた事があるものの、国内では初めての体験です。
 やはりいろいろな面で違いがありますね。まず、日本のウマはかなり大きい。乗るためにまず、踏み台を用意してもらいました。そして乗馬法もまったく違います。しかしインストラクターがていねいに教えてくれ、並足から早足までを楽しむ事が出来ました。そうなると、いつか駆足まで楽しんでみたい気もします。
 ちなみに、モンゴルでの乗馬がどんなものだったかをお話しましょう。
 「右手にこれ(ムチ)を持て。左手にこれ(手綱)を持て。チョッと言えば進む」と、説明はこれだけ。それでもチョッと言うだけでウマはちゃんと進み始め、ムチと手綱でピッチもコントロールも思いのままでした。難しい理屈など抜きで、やってみればなんとかなるものです。
 しかし、駆け始めてからふと気付きました。そういえば止め方をまだ聞いていなかったと。
     00年02月01日
 僕がカウンターを付けないのは、面倒だという事もありますが、なんといっても、来訪者の少なさを知られたくないというのが大きな理由です。
 ところが先月始め、プロバイダから以下のようなデータが送られてきました。
  12月の転送量計  63,956,377 bytes
   ヒット数  5,977回
  AIRnetドメインからのアクセスを除いた転送量  63,699,127bytes
   ヒット数  5,932回
 信じられずに再確認をお願いしたのですが、間違いはないとの事。それでも、突然のアクセス数アップの理由が思い当たらないので釈然としません。
 しかし、最近話題となった事件から、ふとこんな事を考えました。誰かが不正アクセスを試みているんじゃないだろうかと。……これは自意識過剰ですね。僕のページは、たとえ書き換えられたところでたいした影響はありません。残念ながら。
 さて、気になる1月のアクセス数は?
     00年02月11日
 明石の天文科学館で開かれた、特別観望会に参加しました。
 ここは書斎パビリオンの長篇児童小説「星の弦」にも登場する施設で、子どもの頃からよく通いました。けれど震災後に設置された新型望遠鏡を見るのは、この時が初めてです。
 コンピューター制御のフォーク架台に載せられたカセグレン反射式の鏡筒は、口径400ミリの焦点距離2400ミリ! もうアイピースをのぞく前から、興奮してはしゃいでしまいました。
 たまには、こんなふうにはしゃいでみてもいいですよね。
 こないだ雪の積もった朝には、雪かきと称してつい路上でスコップを振り回してしまいました。そういえば高校の頃、「デッキブラシの孫悟空」という異名を取ったっけ。
 そんな調子は、大人になっても変わりません。以前発掘のバイトをしていた頃、僕は毎朝結氷した池でひとしきり遊んでから作業にかかっていたのですが、そのため現場ではこう呼ばれていたようです。「氷を投げる男」と。
     00年02月21日
 スペースシャトル・エンデバー、結局見られませんでした。今回のミッションの性格上軌道がかなり低いし、明るく見えると期待していたのですが……。関西は時間や軌道、それに天候にも恵まれませんでした。
 ところで、モンゴルでは人工衛星を今でもスプートニクと呼びます。シャトルだろうがひまわりだろうが、なんでもスプートニク。もっとも日本にも、バグでもワームでも虫と呼んでしまうというような、おおざっぱ面がありますが。
 そういえば、モンゴルではこんなカン違いもありました。
 バス停に止まっているバスを見た僕は、離れた所から大声でたずねました。「どこ行き?」すると乗客の何人かが答えます。「飛ぶ!」「飛ぶ!」
 「ニセフ!」飛ぶという動詞ですが、この場合は「ニセフオンゴツニーボーダル」飛行場の略だったようです。しかしその時の僕には、空へ駆け上がるネコバスが思い浮かぶばかり……。
 乗るのをためらううちに走り出したバスは、飛び上がる事もなく普通に路上を遠去かって行きました。
 しかし見てみたかったなぁ。モンゴルの空飛ぶスプートニクバス。
     00年03月01日
 内モンゴル以来のライバル、バードに誘われ、神戸から高知までサイクリングに出かけてきました。
 高速船で明石海峡を渡り、淡路島を南下して、鳴門海峡は自転車を梱包してバスで渡り、そして徳島を抜け、室戸岬を回って高知へ行き、フェリーで大阪へ戻るというコース。
 五日間とゆっくりペースの日程、しかも以前に走っているコースという事で、出発前は甘く考えていました。
 しかし、その行程は思いがけなく障害の多いものとなりました。
 まず、初日は非常識なほどの強風。三日目には雪が。まさか春先の四国で雪に遭うとは。見る間に周囲は白く変わり、僕らはすっかりこごえました。そして最終日は、フェリーを降りるなり通勤ラッシュの市街地を抜ける羽目に。
 けれども同行のバードにとっては、僕の存在そのものが障害だったかも……。今にして思うとそんな気もします。遅れる、はぐれる、寄り道したがる。そして勝手に危ない目に遭う。
 よそ見していた僕はうっかり道をはずれ、気付いた時には石段を乗り越えていました。さいわい転倒もせず無傷ですんだのですが、ニガ笑いでふり向くと、バードはあっけにとられて立ちつくしていました。
 やっぱり僕は、独りで走る方が向いてるようです。
     00年03月14日
 この前、くじら座μ(ミュー)の接食という天文現象を観測しました。
 接食というのは、動いてゆく月の縁が星をかすめて見える現象の事です。月は地球に近いため、観測地によって見える位置がかなり違ってくるので、星と月の縁とが重なって見える場所は非常に限られています。
 今回は幸運にも、僕の住む神戸がちょうどそのライン上でした。ここより北では星は月に隠されてしまい、南では離れた所を通ってしまうわけです。
 月の暗い縁を転がるように、小さな星がゆっくりと移動してゆきます。その時、星は何度も明滅を繰り返します。月の縁の凹凸が、時おり星を隠すためです。星は山なみに隠され、やがて谷間に現れ……。月面という遠い世界が、この時ばかりはとても身近に感じられました。
 接食という地味な天文現象が、これほど臨場感にあふれた迫力のあるものだとは、知りませんでした。
     00年03月21日
 週末、姫路まで企画駅弁を買いに行きました。この駅弁は、かつて当駅で売られていた、日本初の幕の内駅弁を再現したものだそうです。
 二段重ねのなかなか豪華なものでした。これで800円はお買い得!
 じつを言うと、その前回の発売日にも買いに行ったのですが、神戸の自宅から自転車で向かったところ3時間半もかかってしまい、着いた時には売り切れでした。
 駅弁を買うなら、やはり列車で出かけるに限りますね。
 一度買いそびれた事で、買えた時の嬉しさは格別でした。
     00年04月01日
 小学生時代の友達、仲良しグループだった一人が、先日結婚しました。
 子どもの頃の友達とひさしぶりに会うというのは、なんだか不思議な感じです。あい変わらずあだ名で呼び合いながらも、どことなくぎこちない思いがするのは、居慣れない場のためでしょうか。
 おたがいに変わっていないつもりでいても、もう水遊びなど出来ようはずはないのだと、この時にしてはっきり思い知らされたような気がします。
 当時は一緒になって理科室を水びたしにするようなバカをやってたそのひとも、今は立派に俳人として活躍を始めています。
 たとえ大人にはなっても、違う分野に進んでいても、これからもおたがい、良い形で影響し合える存在でありたいものです。……今の僕ではあまりに力不足かな。
  寿ぎも硬い笑顔の四月馬鹿   シンイチ
     00年04月11日
 こないだ、旅先で知り合った友人達に会いに行きました。
 翌日はドライブがてら、姫路の北にある雪彦山(せっぴこさん)へ。
 ふもとから見上げると、その山は岩肌を見せてけわしくそびえています。眺めているうち、衝動的に登ってみたくなりました。ちょっとだけ、行けるとこまで行ってみようという事で、意見はまとまりました。
 ところが、ひとたび進み始めると、どうにも引き返せなくなるのが僕なのです。しかもまずい事に、この日のメンバーは誰もがそんな性格の持ち主。止める者のいないまま、僕らは勢いでとうとう頂上まで行ってしまいました。
 普段着に手ぶらでやって来た僕らの事を、ほかの登山者はどう思っただろう……。
 後で知ったのですが、この山は散歩気分などもってのほか、前もって登山届けを出さなければならなかったようです。
     00年04月21日
 韓国に働きに出ているモンゴルの友人から、メールが届きました。
 Sain baina uu, Shinichi?
 じつはこれ、英語ではなく、モンゴル語の発音をアルファベットで表記したものなのです。サインバイノー シンイチ、つまりシンイチ元気か? と。
 はっきり言って、読みにくいなあ。でもモンゴル語のフォントなんてないし、こうするしかないんです。
 いっその事英語で書けば……、いや、こんな書き方でも、英語よりはモンゴル語の方が僕には通じると、その友人は判断したのでしょう。
 そんなわけで、僕も同じく、英字表記のモンゴル語で返事を書きました。
 「やあ、元気? eメールありがとう」
 (あれ、eメールってモンゴル語でなんて言うんだろう。しょうがない、ここだけは英語で)
 「それじゃ、また。ホームページも見てくれよ」
 (うーん、ホームページのモンゴル語も分からん。これもまた英語だな)
 モンゴル語にたびたび英語が混じり、僕の返事はさらに読みにくいものになってしまったようです。
     00年05月01日
 金縛りに遭ってしまいました。学生の頃以来、十数年ぶりです。
 苦しいながらも、少々懐かしい気もしました。
 それにしても、最近気楽に過ごしているつもりでも、やはり多少はストレス感じているのかも。
 とはいえ、以前はずいぶん長時間苦しめられたものですが、今回は力まかせに起き上がるとすぐ解けました。
 うん、さすが筋力がついただけの事はある。
 って、こういった事には、筋力なんて関係ないのかな。
     00年05月11日
 中学生の友人が、自分で集めた駅弁の包装紙を何枚か持って来ました。子どもの頃から駅弁包装紙の収集を続け、今や2000枚以上を保有している僕に、どうやら対抗意識を燃やし始めたようです。
 今はまだ数枚程度だけど、僕も当時はその程度だったわけだし、もしかしたら20年後くらいには、手強いライバルになっているかもしれません。
 聞けばこないだは、神戸から天王寺まで、わざわざ出かけてきたそうです。駅弁だけを目当てに。
 頼もしいと思う反面、今からそんなにハマッて大丈夫かと、少し不安な気もします。
 最近は、受験勉強の合い間にホームページの作成を始めました。自分で撮ったり友達同士交換した鉄道写真のコレクションを、ネット上で紹介したいという事で。
 まさかそのうち、駅弁包装紙も紹介したいなんて言い出すんじゃないだろうか……。
     00年05月21日
 あるページの掲示板で、中編小説の連載をさせてもらっていました。毎週二回、水曜と土曜の夜に、一章ずつ書き込みするという形で。一ケ月ほど連載は続き、好評のうち先月末に終了しました。
 こういった形で作品を発表するのは、僕としては初めての事でした。すぐに感想が書き加えられるのは嬉しいものです。緊張もしますが、読み手の反応というのは、書き手にとって本当に良い刺激になります。
 もともとその小説は、その掲示板管理者の提案で書いた物でした。
 そこはあるテレビ番組のファンページなのですが、その番組出演者を登場人物とした、番外編の創作ストーリーを求められたわけです。
 言ってみれば内輪ウケねらいの物語にすぎないのですが、同好の仲間同士で意見交換するという、そんなささやかな楽しみ方もインターネットにはあるのだなと気付きました。
 ただ、広く浅い僕としては、どこにマトを絞って掘り下げるかが、難しいところですが。
     00年06月01日
 最近、ビデオレンタル店をよく利用します。以前に見た映画を見返してみると、新たな発見というのが意外とあるものです。当時は気付かなかったけど、今にして思うと……、といったような発見が。
 ドイツのヴェンダース監督の作品に、視覚障害者の脳に直接電気的刺激を加えて映像を見せるという、近未来のSFともいえるものがあります。
 映画の後半、いよいよ実験が始まります。別人が映像を見た際の電気的刺激を取り出し、それを解析して視覚障害者に送るのです。
 そしてついに浮かんだその映像、窓辺に座る女性の姿は、鮮やかな青と黄色の衣装……。そう、まるでフェルメールの絵そのもの! 最近の大ブームがあったからこそ、気付く事の出来た発見でした。
 数年前にも、驚くような発見がありました。
 リメイクされたスターウォーズの旧三部作を見たのですが、イウォークと呼ばれる森の住民達が、なんとモンゴル語をしゃべっていたのです。公開当時高校生だった僕には、ワケの分からない不思議な言葉としか聞こえなかったけど……。
 そういえば去年のエピソード1でも、姫がモンゴル中世時代の盛装をしていました。
 しかしそれ以外にも、将来になって気付く発見が、何か隠れているのかもしれません。
     00年06月11日
 「五、四、三、二、一、zero」そんな秒読みで、国産ロケットは打ち上げられます。最後のところで、僕はどうも力が抜けてしまう。案の定、最近は失敗続きですね。月面探査の「セレーネ計画」も見直されるとか。
 なぜ日本では、0だけをzeroと英語読みするのでしょう。日本語で零とは読まずに。小さい頃から不思議でした。今でも、0120をゼロいちにいゼロと聞かされるたびに、つい苦笑してしまいます。
 その点、NHKはそれなりに気をつかっているようです。
 しかし、最近別の面で疑問が浮かんできました。
 韓国経済についての番組を見ていた時の事です。各財閥の名が出てきたのですが、「大宇」は「デウ」、「三星」は「サムスン」と読むのに、「現代」だけは「ヒュンダイ」でなく「げんだい」と日本語読みするのです。何度も繰り返されるとひどく不自然で、何か意味でもあるのかとかんぐってしまいます。
 そういえば、人名も統一されていませんね。
 ある日のニュースで、「金正日と江沢民」は、「キムジョンイルとこうたくみん」でした。ある国の人名は現地語読み、別の国の人名は日本語読みと、この統一性のなさは何なのでしょう。
 地名となると、もっと分かりません。同じ国の中でもまちまちなのだから。
 たとえば「上海」は「シャンハイ」なのに、「大連」は「ターリェン」ではなく「だいれん」なのはなぜ?
 さらにすごいのが「台北」。「タイペイ」と現地読みするでもなく、かといって「だいほく」と日本語読みするでもなく、「タイほく」と半分ずつ読むんですよね。
 ああ日本語ってムズカシイ。
     00年06月23日
 前回に続き、今回もまたフシギな日本語の話です。
 毎晩のように野球をやっているようで、いつもニュースで流れますが、各球団のうち、なぜ読売だけを「巨人」と呼ぶのでしょう。もちろん、ジャイアンツを和訳しているというのは分かります。しかしたとえば、広島カープを「鯉」などと呼ぶのは聞いた事がなく、球団名の和訳はあくまで読売の場合だけです。
 しかも、アクセントが独特です。普通に「きょじん」ではなく、「きょじん」と頭にアクセントを置くのが、どうも気になります。
 ただこのアクセントの理由については、父の意見で納得しました。
 戦時中、読売ジャイアンツを読売巨人と呼んでいた頃の名残りだろうというのです。なるほど、これなら頭のアクセントが自然ですね。
 それでも疑問は残ります。同時代には阪神猛虎と呼んでいたそうなのに、その猛虎という名の方は、どうして今に残っていないのでしょう。
 それについても父は言いました。野球を見てれば分かる事だと。
 (阪神ファンの方、ゴメンナサイ)
     00年07月01日
 僕は心理ゲームのたぐいが大好きで、ネット上でも診断系ページをよく楽しみます。性格診断や精神年令など、それに動物占いから回転寿司占いといったものまで。
 あまり本気にしてないものの、なるほどとうなずける部分もけっこうあるので、ついついハマッてしまいます。
 ところが、以前試したある診断では、意外な結果に首をかしげてしまいました。
 それは一人旅の向き不向きを診断するものだったのですが、なんと僕は、一人旅はおろか、旅そのものが向いていないらしいのです。
 もしもそれが本当だとすれば、僕のこれまでの人生は、間違いだったとでもいうのでしょうか。
 ……なあんて間に受けたりしないで、そういう場合はしょせんゲームと割り切るのが僕ですが。
 そして、これからも気の向くままに、一人旅を存分に楽しむつもりでいます。
     00年07月15日
 見事でしたね、16日の皆既月食は。これでもう、今世紀に思い残す事は何もない、という気にさえなった夜でした。
 最初は、独りきりでしみじみ月を眺めるつもりでいたのですが、突然押しかけてきた中学生達と一緒になって、結局は騒ぎながらの観測となってしまいました。
 それでいながらも、なんとなく感傷的な気分になったのは、およそ20年ぶりに神戸で見る月食だったからでしょうか。
 小学校高学年の頃にも、僕は神戸に住んでいました。
 転校生だった当時の僕には、クラスに好きな女の子がいました。
 放課後一緒に帰りたいな、名字でなく名前で呼びたいな、家に遊びに行けたらな、と、当時はすべてその子の事だけで日々を過ごしていたようなものです。
 そんなふうに日々が過ぎ、ふと気付けばそれらの望みは叶い、そして月食の夜、その子も含めた仲間達と一緒に、僕は月を仰いでいました。
 ……そう、書斎パビリオンの長篇、「星」の三部作は、じつは……。
 ところで、今回の月食の夜には、もう一つの感慨もありました。この中学生達もいつかは、この夜の事を懐かしく思い出す時がくるのだろうな、といった感慨が。
     00年07月21日
 暑い日々が続いていますね。ちょうど去年の今頃には、こんな炎天下を自転車で走り続けていたのかと、自分でも信じられない思いがします。
 ところで、もう二ヶ月以上も前の事になりますが、あの日本一周から帰って半年、ようやく新しい仕事にありつきました。
 出張の多い仕事なので、どこかへ出かけるのが好きな僕は、けっこう楽しんでいます。
 また、屋外での仕事というのも嬉しいですね。
 現場はたいてい山の中です。そこに足場を組み、やぐらを立て……。(なんの仕事か見当つきます?)とにかく、見晴らしが良くて楽しいですよ。僕は高い所も大好きなので。
 なんとかと煙は高い所が好き、などと言いますが……。
 しかし、良い事ばかりとはいかないものです。
 外での仕事となれば、雨の中での作業もありえます。僕はとうとう、ひどい夏カゼをひいてしまいました。
 そういえば、夏カゼはなんとかがひく、とも言いますね。
     00年08月05日
 前回に続き、今回もまた仕事先での話です。
 東京などでは、近年カラスに攻撃される人が増えているそうですが、僕は出張先でよく鳥達の世話になっています。
 たとえば福井の方へ行った時には、トビにきれいな羽根を一本もらいました。僕の指先からひじまで届くような、大きく立派な羽根です。
 また和歌山の方では、ヒヨドリにおやつを分けてもらった事があります。
 山道のある場所に、ヤマモモの実がたくさん落ちていました。つぶれた実の甘い匂いが、辺りに満ちていました。ところが見上げると、その木は崖の上にあって、とても届きそうにありません。
 それでも僕はあきらめきれずに、しばらく木立を見上げていました。
 するとやがて、ヒヨドリが数羽連れ立ってやって来ました。そしてヤマモモの実をついばみ始めます。実をいくつもこぼしながら。僕は大喜びで、その落ちたばかりの新鮮な実を拾い集めました。
 ……でも、後でなんとなくむなしい思いにかられたのは、どうしてなんでしょう。
     00年08月11日
 うちは昔から引っ越しが多かったため、古い物がほとんど残っていません。ところが、一方で妙な物が残っていたりするものなのです。
 いつから使っているのか、僕には思い出せないほど使い込んだ皿が、今も数枚残っています。大きめの真っ白な皿で、裏には”Toyotoki”と製造元が書かれています。
 東洋陶器、ToToは、便器メーカーとして有名ですね。以前は食器なども作っていたのかと、意外な気がしました。
 しかし、便器メーカーの食器で食事をするというのも……。
 うちでは時々、その皿でカレーを食べます。
     00年08月25日
 今回もまた古い物の話です。
 僕が今サブカメラとして使っているのは、父が若い頃に買ったものです。59年製らしいのですが、それでも親子二代で大切に使ってきた事もあり、40年以上たった今でもきれいに写ります。
 以前、ある博物館の昭和中期の暮らしを紹介した展示の中に、同型のカメラがあるのを見た時には驚きました。また先月にはテレビの鑑定番組でも見かけたのですが、当時6000円だったのが今は多少プレミアがつき、25000円ほどになっているとか。
 そういった価値の方はともかく、シンプルで使いやすいので重宝しています。
 ハーフサイズなので倍の枚数撮れて経済的、また小型なので気軽にどこへも持ち歩けるし、何よりメカニカルシャッターのため長時間でもバルブを使えるので、天体写真の撮影にはもってこいです。
 こないだの皆既月食もこのカメラで撮影しました。そしてフィルムをひさしぶりに現像に出すと……、なんと、沖縄の頃の写真がありました。カメラはともかく、中の写真までが知らないうちに年代物に……? 一本のフィルムで48枚とか72枚とか撮れるとなると、こんな事もよくあるんです。
 そんなわけで、2年前のしし座流星群の写真が今頃になって仕上がったので、テントパビリオン「四つの標」に追加しておきました。よく写っているので、ぜひ見てください。
     00年09月01日
 先月の終わり、あるイベント列車に乗りました。戦後の復興期に誕生し、山陽新幹線の開通によって廃止された、「はと」という特急のリバイバル運転です。
 郷愁や旅愁といったものに浸るのが好きな僕は、古き良き時代の在来線特急の復活を喜び、なんとか切符を入手してこのツアーに参加しました。
 ところが実際には、感傷とはまったく無縁のにぎやかなツアーでした。もっともそんな騒ぎの中で、僕もいつしかはしゃいでいたのですが。
 僕の感傷など、しょせんはその程度のものです。
 中でもつい熱くなってしまったのは、車内で行われた列車部品のオークションでした。何しろ、オークションなど始めての経験だったので。
 並んだ部品はどれもマニアックであまり関心が持てなかったのですが、ただ一つだけ、強く心を引かれる物がありました。寝台車の尾灯、テールランプです。
 遠去かる夜汽車の赤い灯火……、ほら、旅情をかき立てられると思いませんか? そう、僕は列車のこういう面が好きなんです。
 ただしオークションが始まれば、そんな感傷などすっかり忘れて大声張り上げていましたが。やはり、僕の感傷など結局はこんなもの。
 最後には一騎討ちの勝負となりながらも、強気と余裕を演じて見事初陣を飾る事が出来ました。ああ、なんかやみつきになりそう。オークションって、カードゲームのような楽しさがありますね。
 さて、頭を冷やして、帰宅後さっそくその尾灯を部屋に飾りました。その赤い色は旅情を誘い……、となるはずが、そこには大きな誤算がありました。
 夜汽車の尾灯も、一つきりではまるで火災報知器だ。
 感傷も実際はこんなもの、です。
     00年09月11日
 以前、NHKは韓国企業の「現代」グループだけを「げんだい」と日本語読みしていて不自然だと書きました。
 ところが、最近になってそれはあらためられたようです。先月のあるニュースでは、「ヒョンデ」と現地発音で読んでいました。アルファベットでHYUNDAIとつづるので「ヒュンダイ」と読むのかと思っていたら、「ヒョンデ」と読むんですね。僕も今回初めて知りました。
 とにかく、感心な事です。
 ところがその一方で、まだまだ不思議な面もあるもので……。
 BSでモンゴルを取り上げた番組を見ていたのですが、出てくる女性の名前がどうも聞き慣れないのです。オコンチメグ、オコンツェツェグ、など。オユンチメグ、オユンツェツェグ、という名前なら、当地にありふれているのですが。
 まさか、走り書きのメモか何かで、ユをコに読み間違えたんじゃないだろうなあ……。
     00年09月22日
 シドニーオリンピック、なかなか盛況だったようですね。スポーツ観戦にはまったく興味のない僕は、自転車競技をちょっと見た程度でしたが。
 それでも、開会式くらいは見ましたよ。出張先の、和歌山県の片田舎で。
 そして、これまでのオリンピックが開かれた当時の事を、それぞれ思い返していました。いつだって、4年後には自分がどこで何をしているかなんて、まったく予想がつかなかったなあ、と。
 前回の96年アトランタオリンピックの頃、フリーターだった僕はモンゴルに滞在中でした。その前の92年バルセロナの頃は、まだ会社員で新潟に住んでいたし、88年ソウルオリンピックの頃は、大学生で大分にいました。
 84年ロスの頃は、高校生で千葉に住み、80年のモスクワ当時は中学生で埼玉に、76年モントリオール当時は小学生で神戸にいました。
 それ以前になるともうオリンピックの記憶はないけれど、72年ミュンヘンの頃には幼稚園児で東京に住み、68年メキシコ当時には、1才の僕は横浜にいました。
 さて、次回のアテネオリンピック開催の時、僕はいったいどこで何をしているだろう。……やはり想像つくはずありません。
     00年10月01日
 一昨年は内モンゴルツーリング、去年は日本一周と、毎年夏には「燃えて」いるのですが、今年は仕事についてしまった事もあり、どこへ行く事も出来ません。
 それならばと、今年は別の形で「燃えて」みる事にしました。ある地理雑誌の主催する、地理コンテストを受けてみたのです。
 体を張るにしても、頭を使うにしても、とにかく何かに挑戦しなければ。そんなわけで、今年の夏はずっと、世界地理の勉強に「燃えて」いました。
 そして先月半ば、試験は終わりました。先週発表された結果の方は、予想通りだったとだけ言っておくとして、今回は試験中のハプニングについて書きます。
 僕は去年の日本一周の時以来、緊急連絡用としてPHSを持ち歩いています。こちらからの発信用なので受信する事などめったになく、だから「試験中は電話の電源を切っておくように」という注意も聞き流していました。
 しかし、そういう時に限って……。
 静まりかえった試験会場に、電話は鳴り響きました。しかも、オリジナル曲の耳慣れない着メロが。
 「燃えて」たはずの僕は、その瞬間すっかり「浮いて」いました。
     00年10月14日

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